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古墳の盗掘がそのまま伝承されたタタリ譚。 [気になるエトセトラ]

熊野神社古墳.JPG
 これまで、古墳の周辺で語り継がれる屍家(シイヤ・シンヤ)伝説Click!に象徴的な禁忌伝承Click!や、古い墓域Click!への立ち入りをためらわせる妖怪譚Click!、あるいは村からどこかへ出かけていき短期間で裕福になった長者伝説Click!など、この地域の周辺に伝わる説話を記事にしてきた。そのような禁忌やエピソードが語り継がれてきたエリアには、大小の古墳群Click!を想起させる痕跡が残されていたことも、併せてご紹介している。
 中でも長者伝説Click!に関しては、農民あるいは町人がある日“一夜にして”と表現するほどの短期間で大金持ちになるような、どこか「宝さがし」を連想させる物語Click!が付随しているケースも多く、古墳に埋葬された副葬品を盗掘し、それら装飾品の貴金属や宝玉を売りとばすことによって、にわかに大金を得たかのような経緯を連想させる。事実、近世には古墳の盗掘が全国各地で盛んに行われていた。
 また、このような盗掘で出土する錆びた鉄刀や鉄剣は江戸期の研ぎ師Click!「御魂研處」Click!のもとへと流れ、目白(鋼)Click!が酸化した錆を粉末状にして、研磨の仕上げにおける最終工程の平地や刃の磨き粉などに用いられている。
 大型の古墳に穴をうがち、玄室に副葬されている“お宝”を盗みだす……というような直截的な物語ではなく、「呪い」や「祟り」あるいは「長者」の繁栄とその悲惨な末路、ときに怖ろしい妖怪譚というように、墳墓の盗掘そのものを直接的に伝承するのではなく、盗掘をそのまま語るとのちの障りを気にしてか別の物語にスライドさせて、婉曲に語り継がれてきた要素が強いのではないかと思われる。
 ところが、めずらしく古墳盗掘に関する直接的な伝承が、大阪地域で語り継がれているのを見つけた。しかも、盗掘した人物は、古墳の玄室から巡査に引きずり出されたあと、すぐに倒れて死亡している。おそらく、明治末か大正初期のころの“事件”だとみられるが、地元の新聞や郷土資料にも確かな記録が残されているようなので、事実、そのような出来事があったのだろう。人々は、この事件を古墳の被葬者による「祟り」あるいは「呪い」として、印象的に記憶したようだ。
 また、昔からマムシがいるから危険なので立ち入らないようにと、地域の子どもたちは教えられて育ったらしい。いまの子どもたちに、「呪い」や「祟り」「妖怪」では説得力がなく抑止力にならないため、ことさらマムシの巣窟だとして禁忌エリアにしていたのかもしれない。その古墳は、子どもたちの通学路がある四辻に面しており、周囲はほとんど田畑しかない見通しのいい環境だった。古墳に立ち入る人を見かけたことはなく、ときおり町内会の役員たちが掃除をするぐらいだった。
 だが、その見通しのいい四辻では、大きな交通事故が頻繁に起きる地点としても有名だった。それを不思議に思い、作家が同級生の90歳ほどにもなる祖母に訊ねると、思いもかけず古墳の盗掘事件の昔話が飛びだした。2013年(平成25)に竹書房から出版された『実話怪談FKB饗宴』収録の、田辺青蛙(せいあ)『四辻』から、同級生の祖母の話を引用してみよう。ちなみに、彼女は生まれ育った大阪のとある地域にある「K古墳」としており、具体的な古墳名は明らかにしていないが、地元の方が読めばすぐに「あそこだ」とわかるのだろう。
  
 あの古墳は誰のお墓か、あんまりハッキリしないんやけどねえ。あたしが子供の頃古墳に墓泥棒が入って、荒らしたんよ。/勾玉かなんか出てくると思ったんやろうね。あっこ、あんなに見通しええのに昔から人が入らんし、今もそうやろ。/学者さんも最近はどうか知らんけど、当時はろくに調べにも来てへんかったみたいやし。古墳の脇腹ん所に石棺があるやろ。/(中略) 重たかったやろうに、鍬やらモッコやら持って夜中に一人で入って古墳中を掘り返したんやわ。/でも結局何も出て来なかったらしいんやけどね。/変なんが、朝になって誰が呼んだか分からんけど、巡査が来て声をかけても墓泥棒は夢中で泥まみれになって古墳掘りを続けてたんやて。/そいで、巡査さんが怒って着物を引っ張って古墳から引きずり出したんよ。したらねえ、どうしたわけか急に仰向けになって全身を強張らせて黒い泡ぶくぶくぅっと吹き出して突然墓泥棒は亡くなってしまったんだわ。/墓泥棒のひっくり返った姿を見た人もおってね、黒豆みたいな艶がかった泡が顔にべったりついて気持ちわるかったって話してたんをいまだに覚えとるよ。
  
熊野神社古墳玄室.JPG
野毛大塚古墳1.JPG
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 四国か中国地方の方言が、わずかに混じるような同級生の祖母の話しぶりだが、この「K古墳」のあるのは大阪でも兵庫寄りの地域だろうか。ちなみに、著者の田辺青蛙の先祖は備前長船の刀鍛冶ということなので、現在の岡山県ということになる。
 彼女は、友人の祖母の話に「うっそ~」というような表情をしたものか、老婆は「図書館にある郷土資料や古新聞を調べてみ」と不満そうな表情を浮かべながらいった。著者も“ウラ取り”のために、さっそく地元の図書館へ出かけている。すると、すぐに郷土資料に古墳盗掘の記録が見つかり、老婆の話したことは事実だったことが判明している。
 ただし、墓泥棒が巡査に引きずりだされた直後、口から黒い泡を吹いて死亡したのは、古墳を暴かれたことによる被葬者の「祟り」や「呪い」などではなく、暗闇から強い日光の下に晒されて「てんかん」の発作が起き、呼吸困難で急に心停止して死亡したのかもしれず、泡が黒く見えたのは掘り返していた土が口辺に付着したからではないか……との想定も成立する。ただし、それ以外の事実関係はすべて友人の祖母が話した内容のとおりだった。
 同書の証言より、つづけて引用してみよう。
  
 墓泥棒の話が載っていたのは、郷土史家が集めた話が二~三十話程載っている薄い黄緑色をした表紙の本だった。/古い本なのか紙の端が焼けて黄ばんでいた。用心してページを捲らないとホッチキスで留められた綴じ目から紙が落ちてしまいそうだった。/中には当時の新聞記事からの抜粋と、古墳についての謂れが二十行程の文章に纏めて書かれていた。/ふと、文章を追ううちにそのページのノンブル横辺りに、鉛筆書きの歪な字で薄く「やばいで」と一言落書きを見つけた。/図書館の資料に酷いことをする人もいるもんだと思って、落書きにそっと消しゴムをかけようかと思ったがやめた。/もしかすると、本当に何かの警告かもしれないと感じたからだ。
  
 「やばいで」と落書きされたその古い資料は、館内閲覧のみの資料だったが、ほかにも何冊か気になる郷土資料が見つかったので、著者はまとめて借りだしている。
 彼女が高校生のころ、おそらく1990年代半ばすぎのころのことで、図書館で借りた資料類を自転車の買い物かごに入れて自宅めざしてペダルをこいだ。すると、K古墳のある見通しのいい四辻にかかったところで、危うくバイクと衝突しそうになるのだが、バイクの存在にまったく気がつかなかった……という怪(あやかし)の展開になる。
芝丸山古墳.JPG
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 つまり、彼女はバイクのエンジン音も聞こえなかったし、バイクの存在自体にも気づかず、いま自分が調べている古墳の前で危うく自転車ごとバイクに轢かれそうになったということは……と、ここで気味の悪い怪談めいた体験に遭遇するというわけだ。K古墳と交通事故の因縁話はともあれ、現在は最寄りの駅前に高層マンションも建ち並びはじめたが、古墳の周辺は未開発のまま当時と変わらない風情だという結末で終わっている。
 古墳の盗掘が、明治末か大正初期ごろの“新しい”エピソードだったので、妖怪譚や他の「呪い」話(現代らしく交通事故の頻発地点としては語られているが)に転化せず、ほぼ事実関係がそのままの「怪談」として、地域でこの100年ほど語り継がれてきためずらしいケースだろう。これが江戸期以前に起きた事件だったりすると、そのまま「話すと呪われる」「伝えると祟られる」という心理的ストッパーが働き、別の怪しげな狐狸妖怪譚や幽霊譚に転化しながら伝承された可能性が高い。
 さて、最後に余談をひとつ。昨年(2021年)、同じ大阪府の堺市にある大山古墳(大仙陵古墳)で、周壕(濠)の周域において発掘調査が行われた。そこで、明らかに切れ目のない横一線の刷毛目(ヨコハケメ)がついた円筒埴輪が出土し、精細な記録映像も公開されている。横一線のハケメが見られる円筒埴輪は、これまで5世紀後半から6世紀初頭までに造られた円筒埴輪(東京国立博物館規定)の特徴だと分類されていたはずだ。
 「仁徳天皇」は399年(?)に死去したとされており、明らかに被葬者は「仁徳天皇」などではないだろう。「世界遺産」にも登録されたことだし、巨大な大山古墳に眠る被葬者はどこの勢力のいったい誰なのか、この先ぜひ羨道や玄室の科学的な調査も行ってほしい。もちろん、同時にAMS法も加えた最先端の年代測定も実施したい。
 皇国史観Click!の学者サンたちは、「仁徳天皇」を懐かしんだ5世紀半ば以降の人々が、古墳の周囲へ同時代に一般化した円筒埴輪を並べて「追善供養」祭祀を開催して奉じたなどと、今度は記紀の「千子二運」にならい、まさか朝鮮半島からの仏教伝来を前世紀まで遡らせたりとか、横一線の刷毛目の技法は4世紀末にはすでにあったとか、これまで積み上げてきた人文科学的な学術の成果を「なかったこと」「見なかったこと」にはしないよね。 
亀甲山古墳.JPG
上野摺鉢山古墳.JPG
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 ぜひ、周辺に展開する上石津ミサンザイ古墳やニサンザイ古墳、百舌鳥陵古墳など同族および関連する陪墳群とみられる大小の古墳についても、薩長政府の教部省が「なんとなく」テキトーに規定した、自国の歴史を歪曲して自ら貶めるデタラメ古代史を排し、科学的(21世紀の現代考古学的)な発掘調査Click!が的確かつ精確に進むことを期待したい。

◆写真上:東京府中市の西府町の熊野神社境内にある、日本最大規模の上円下方墳Click!
◆写真中上は、熊野神社上円下方墳で復元された羨道から玄室への入口。は、円筒埴輪が復元されてズラリと並ぶ世田谷区の野毛大塚古墳Click!
◆写真中下は、東京タワー下の芝増上寺境内とその周辺域に陪墳群13基余を従えていた、前方部の先を道路に断ち切られている巨大な芝丸山古墳Click!は、世田谷の等々力渓谷に造られた等々力3号墳の玄室への入口である羨門。は、同じく尾山台の狐塚古墳Click!後円部の墳頂から付近の住宅街を見下ろしたところ。
◆写真下は、大田区の田園調布にあるカメラに収まり切れない大きな亀甲山古墳Click!は、台東区の上野公園内に墳丘を削られながら唯一残された上野摺鉢山古墳Click!は、大阪の堺市にある大山古墳(大仙陵古墳)の調査で出土したヨコハケメの入る円筒埴輪。

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