岡田首相と竹嶌中尉の二二六事件。(上) [気になる下落合]
以前、二二六事件Click!で首相官邸を脱出した岡田啓介首相Click!が、福田耕秘書官の手引きで下落合1146番地(のち下落合1丁目1146番地)の佐々木久二邸Click!に避難した記事を書いた。また、蹶起した将校のひとり、陸軍豊橋教導学校歩兵学生隊付きの竹嶌継夫中尉の実家が上落合514番地(のち上落合1丁目512番地)にあり、佐々木邸と竹嶌邸との間は直線距離でわずか600mしか離れていなかったことも記事にしている。
今回は、このふたりが二二六事件の勃発から、2月29日午後3時の戒厳司令部による「事件終結」宣言まで、なにをしていたのかに焦点を当て、新たな資料も加えながらドキュメント風にたどってみたい。もっとも、二二六事件関連の書籍は世の中に山ほど流通しているので、事件の概要や主要な流れはそれらを参考にしていただくことにして、あくまでも同じ落合地域に深く関連したふたりの人物の動向を追いかけてみたい。
まず、静岡県の興津にある「坐漁荘」にいた西園寺公望への襲撃が中止となり、勤務先の豊橋教導学校から東京へともどった竹嶋中尉は、第1師団歩兵第1連隊の栗原安秀中尉や林八郎少尉、池田俊彦少尉、そして同じ豊橋教導学校の同僚だった対馬勝雄中尉らと合流し、2月26日の午前5時に首相官邸の襲撃へ加わっている。そして、蹶起部隊が岡田首相とまちがえて義弟の松尾伝蔵予備役大佐を殺害したあと、そのまま首相官邸を占拠した。このとき、官邸警護の警官4名が射殺されている。
同日の午後3時、上奏準備のために香田大尉や磯部浅一(元・陸軍一等主計)、村中孝次(元・陸軍大尉)らが陸軍大臣官邸に集合するが、この中に竹嶌中尉の姿はなさそうだ。午後3時30分に「陸軍大臣ヨリ」が告示され、蹶起将校たちへ同調するかのような文面が山下泰文少将によって読みあげられるが、将校たちは午前11時ごろに近衛師団に通達された同文面を、「真意」と「行動」の微妙な用語のちがいはともかく、すでに内容は知っていたとみられる。今日では、のちに戒厳司令官に任命される皇道派に同情的な香椎浩平中将と、山下少将の合作文ではないかと疑われている。そのとき、陸相官邸に竹嶌中尉がいたかどうかは曖昧だが、いたとしてもすぐに占拠中の首相官邸へもどっているのだろう。
このあとの、さまざまな交渉の場でもそうだが竹嶌中尉の影が薄いのは、首相官邸において栗原中尉たち主導将校たちのアシストにまわっていたのと、皇道派の思想には少なからずシンパサイズしていたものの、もともと彼は穏和な性格だったとみられ、のちの裁判記録や手紙類などを参照すると、このような武力行使には必ずしも全面的に賛同しているとは思えず、累がおよぶからと妻は離縁したが家族へうしろ髪を引かれる思いで蹶起に参加していった様子が垣間見える。むしろ、豊橋教導学校で同僚の対馬勝雄中尉のほうが、よほど事件への強固な意志による積極的な参画姿勢を感じとれる。また、竹嶋中尉が目立った行動をしていないのは、豊橋が勤務先だったせいで東京の最新事情には疎かったせいもあるのかもしれない。2月26日午後7時、東京には戦時警備令が発令された。
栗原中尉が指揮する、竹嶌中尉たちを含む歩兵第一連隊の300名以上の下士官兵が首相官邸を襲撃したとき、銃声を聞いた岡田首相はとりあえず大浴場に逃れた。義弟の松尾伝蔵予備役大佐が撃たれるのを遠い窓ごしに確認すると、大浴場から洗面所へ移動している。このとき、日本間玄関の裏にある非常口から非常用の脱出トンネルへ向かわなかったのは、廊下を頻繁に将兵が往来していたためのようだ。
首相官邸の脱出トンネルについて、岡田啓介は次のように書いている。1977年(昭和52)に毎日新聞社から出版された、『岡田啓介回顧録』から引用してみよう。
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すでに首相官邸には庭の裏手から崖下へ抜ける道が出来ていた。五・一五事件で犬養毅首相が殺されたあと、なにかの際に役に立つだろうというので、つくったものらしい。崖っぷちのずっと手前から土をくり抜いて、段々の道になっており、そこを降りて行くと土のかぶさった門がある。土がかぶさった門と思ったのは実は小さいトンネルだったんだが……そこを通ってフロリダとかいうダンスホールの裏に出る。山王方面へ抜ける近道になっていたわけだ。話によると、永田町の官邸には秘密の通路があるとのうわさも世間にはあったそうだが、たぶんこの道のことだろう。
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だが、こういうときのためにせっかく用意されたひそかな脱出トンネルも、首相官邸の敷地内を300名以上の将校や下士官兵がかためる中では利用できず、岡田首相はやむなく女中部屋へ逃れて押入れに隠れることになった。
ところが、兵士たちの一隊が女中部屋にきて押入れの中まで点検し、岡田首相と目を合わせ存在を確認しているにもかかわらず、兵士たちはそのことを上官には報告していない。すでに岡田首相(と誤認した松尾伝蔵)を殺害したあとなので、襲撃を怖れた年寄りが隠れていると勘ちがいしたのだと長い間いわれていたが、のちに兵士たちは押入れの人物を岡田首相と認識していたことが、土肥竹次郎らの証言で明らかになっている。なぜ、岡田首相が健在なのを兵士たちが報告しなかったのかは不明だが、この残虐なテロ行為がまちがっているのを、彼らはどこかで本能的に感じていたのかもしれない。
また、同日には首相官邸の職員保護や貴重品管理の名目で、憲兵隊が官邸にやってきていたが、午後2時ごろ小坂慶助憲兵曹長が押入れの岡田首相を発見し、急いで福田秘書官に連絡を入れている。この夜、福田秘書官と迫水久常秘書官、それに憲兵隊の小坂曹長らとともに、弔問客に化けた岡田首相の救出作戦が練られている。
翌2月27日の午前1時30分、首相が「殺害された」ため後藤文夫が臨時首相代理となって、岡田内閣は総辞職している。午前3時50分、東京には戒厳令が公布され、つづいて午前6時には九段下にある軍人会館Click!(のち九段会館)に戒厳司令部が設置された。軍人会館は、つい1年3ヶ月前に竹嶌中尉が結婚式を挙げ、披露宴を開いた場所だった。戒厳令と同時に、のちに陸軍中野学校Click!を設立する陸軍憲兵隊特高課長の福本亀治Click!が中心となって、事件関係者や関連施設の電話盗聴がスタートする。
それ以前から、憲兵隊では皇道派の中心とみられる真崎甚三郎および荒木貞夫(以上陸軍大将)や、シンパとみられる山下泰文(少将)ら軍人たち、思想的な中心人物とみられる北一輝Click!や西田税など自宅の電話盗聴は行なわれていたが、事件を機に首相官邸をはじめ、陸相官邸、山王ホテル、料亭幸楽、外務省、憲兵隊本部、参謀本部、宮内省、東京朝日新聞社、米国大使館、ドイツ大使館、皇道派に好意的な池田成彬Click!邸および徳川義親Click!邸などが盗聴の対象となった。2月27日の午前10時、西田税から首相官邸に電話が入り、北一輝の「霊告」を伝えている。
このとき、竹嶌中尉は首相官邸にいて、西田税からの電話をとった磯部(元・陸軍一等主計)から、その内容を栗原中尉らとともに聞いているだろう。同日の午後2時、竹嶌中尉は蹶起に参加した他の将校たち(ただし栗原中尉と林少尉を除く)とともに陸相官邸に集合し、皇道派の中心人物だった真崎大将および荒木大将と会見している。だが、このとき真崎や荒木の反応は曖昧かつ消極的で煮えきらず、竹嶌中尉たちは少なからず失望して、蹶起の先ゆきに大きな不安を抱きはじめたのではないだろうか。
同日の午後1時27分、岡田首相は弔問客のひとりに化けて車寄せにつけた佐々木久二のクルマに乗り、首相官邸からの脱出している。このあとの経緯は、以前の記事Click!に書いたとおりだ。弔問に訪れていた佐々木久二は、首相の脱出に自身のクルマが使われたことを知らず、運転手とともに行方不明なのに憤慨しながら下落合へ帰宅している。
一方、松尾伝蔵の遺体に付き添い、首相官邸に残った迫水秘書官は、遺体を第五高女Click!近くの角筈1丁目875番地(現・新宿歌舞伎町1丁目)にある岡田邸に運ぶ手はずを整えていた。納棺の際、弔問客に松尾の顔を見られれば、すぐに岡田首相ではないとわかってしまうので細心の注意が払われた。夕方の出棺には、蹶起部隊が首相官邸から帝国議会議事堂Click!のあたりまで整列して、岡田首相(松尾伝蔵)の遺体を見送ったという。この隊列の中には、もちろん竹嶌中尉もいて運ばれる遺体に敬礼をしていただろう。
同日の午後4時、岡田首相は福田秘書官の馴染みがあった本郷区蓬莱町23番地(現・向丘2丁目)の真浄寺(住職・寺田慧眼)にいったん落ち着き、そこから電話で宮内省に参内の打診をするが、まだ待つようにといわれ岡田首相は途方に暮れている。辞表なら、誰かにとどけさせれば済むだろうと、閣僚たちのつれない応対だった。また、脱出をサポートした小坂憲兵曹長たちにも、憲兵隊から情報が漏れるのを怖れて居場所を知らせていないため、周囲には頼みの護衛がひとりもおらず、首相と福田秘書官、それに佐々木久二の運転手の3人だけが真浄寺に取り残されたようなかたちになった。
夕暮れが迫り、門前に停めてあったクルマが目立つようになったので、とりあえず“憲政の神様”といわれ軍部を一貫して批判しつづけた尾崎行雄(咢堂)Click!の長女・清香Click!の嫁ぎ先で、運転手の勤務先でもある下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸へ向かうことにした。佐々木邸の幅の狭い正門(冒頭写真)へクルマが入ると、岡田首相と福田秘書官は驚愕する佐々木家の人々に迎えられた。ラジオや新聞では、すでに岡田首相や高橋是清蔵相、斎藤実内相などが蹶起部隊に殺害されたことを盛んに報道していたからだ。
佐々木邸に着いてからも、福田秘書官は宮内省やそこに集う閣僚らに連絡を取りつづけたが、同省からは「参内は待ってくれ」の一点ばりだった。岡田首相のあとを追い、蹶起部隊が宮内省へ押し寄せてくるのを、閣僚たちが怖れていたからだといわれている。
2月28日の午前0時すぎから、戒厳司令部の福本亀治Click!ら盗聴チームは、おもだった施設や関連者宅の盗聴を開始している。盗聴の録音盤で有名になった、歩兵第3連隊の高橋丑太郎中尉から、料亭幸楽を占拠している部下の上村盛満軍曹に対する、35分間の説得電話は午前1時15分に傍受されている。すでに蹶起した青年将校や部隊は、「行動部隊」から「蹶起部隊」、「騒擾部隊」、そして「反乱部隊」へと呼称が変わろうとしていた。
<つづく>
◆写真上:岡田首相が官邸を脱出したあと、都内を転々としながらクルマでようやくたどり着いた、下落合3丁目1146番地の佐々木久二邸正門。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)6月に処刑された相沢三郎(元・中佐)の遺骨を手に上落合の落合火葬場を出る遺族。永田鉄山軍務局長を斬殺した「相沢事件」は、二二六事件の引き金になったといわれている。中は、二二六事件後に憲兵隊が周囲を警戒する首相官邸。下は、首相官邸を襲撃した指揮官・栗原安秀(左)と竹嶌継夫(右)。
◆写真中下:上は、岡田首相が隠れた女中部屋の押入れ。中は、1950年(昭和25)に毎日新聞社が出版した『岡田啓介回顧録』(左)と、2003年(平成15)に河出書房新社が刊行した『図説/2・26事件』(右)。下は、岡田啓介(左)と佐々木久二(右)。
◆写真下:上は、昭和初期に撮影された佐々木久二邸の母家。中は、ちょうど事件が起きた1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる佐々木久二邸。下は、佐々木久二邸跡の現状で敷地の大半が十三間通りClick!(新目白通り)の下になっている。