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カラーで観る佐伯祐三「上落合の橋の附近」。 [気になる下落合]

上落合の橋の附近.jpg
 「制作メモ」Click!によれば、佐伯祐三Click!が1926年(大正15)9月26日に制作した、「上落合の橋の附近」(20号)Click!とみられる作品のカラー画像を入手した。1927年(昭和2)の6月17日から30日まで、上野の日本美術協会で開催された1930年協会第2回展Click!で、記念に発行された出品作のカラー絵はがきの画面だ。
 描画ポイントは、以前に特定していた場所とあまり変わらないが、初めて観察するカラー画面でモノクロ画面ではわからなかった新たな発見がいくつかある。まず、左側の地形が大きく落ちこんでいることが判明した。樹木のアカマツも、幹の途中から下が隠れて見えなくなっている。したがって、ここには深めな溝があると考えるのが自然だろうか。画面の風景から考えるなら、この溝は上流からつづく妙正寺川の流れで、佐伯が描いている地点が特に大きく北へ蛇行している流筋だったことに改めて気づく。
 この蛇行する妙正寺川の流れは、南からほぼ真北に向いていた流れが、画面の右手すなわち北側で東南方向へと急角度で折り返し、再び東へ流れを向けたあと、少しゆるやかなもうひとつの蛇行を繰り返すという流域を形成している。以前に想定した描画ポイントは、この北へ突きでた半島のように蛇行する川筋の内側(上落合側)に設定したが、左手に深い溝のような地形があることを考慮すれば、蛇行する川筋の内側ではなく、すぐ外側(下落合側)の位置から西を向いて描いたものだと規定することができるだろう。
 そして、ここもまた妙正寺川の直線整流化へ向けた工事中の場所だったことが、翌1927年(昭和2)に陸軍士官学校の演習で作成された「1/8,000落合町地形図」Click!からもうかがえる。蛇行する川筋を修正するには、直線整流化の計画線に沿った分水流の掘削が不可欠となる。分水流を掘削して、川の水を逃がさなければ、蛇行する川筋を埋め立てることができないからだ。先の「陸軍士官学校演習地図」には、この蛇行を避けて東西につづく分水流が描きこまれているので、佐伯が同作を描いたころには、すでに掘削工事ははじまっていただろう。当該の分水流工事は、画面の左手枠外で開始されていたにちがいない。
 また、もうひとつ判明したのは描かれた橋が木製の橋脚をもつ木橋であり、その橋のたもと(東詰め)には橋名を記念したらしい石碑が建立されていることだ。このような形状の石材に、橋名と竣工年を彫刻して建てるのが当時の“慣習”だったらしく、同じ仕様の記念碑は1924年(大正13)に架橋された、上落合と上戸塚を結ぶ久保前橋のたもとに現存している。もっとも、久保前橋の記念碑は不安定さをなくしてかたちを整えるため、右手上方へ斜めに突きでた部分が削りとられているようだ。
 画面に描かれた記念碑には、いまだ「昭和橋」とは刻まれていなかっただろう。佐伯祐三は、1926年(大正15)9月に同作を描いているのであり、新元号が「昭和」になるなどまだ誰も知らなかった時点だ。したがって、この橋にどのような名称がつけられていたのか、さまざまな資料や地図を当たってみたが、「〇〇橋」のまま残念ながら不明のままだ。架橋されてから、それほど年数がたっていなかったとみられる「〇〇橋」だが、「上落合の橋の附近」からわずか3ヶ月後には元号が「昭和」と改まり、架橋から間もない同橋名を落合町の誰かが「昭和橋にしよう」といいだして変更されたとみられる。
上落合の橋の附近描きこみ.jpg
昭和橋1936.jpg
昭和橋01.JPG
昭和橋02.JPG
 当初の橋名がなんだったのか、佐伯祐三は確認して知っていたはずだ。だが、できて間もない時期に橋名が変更されているとみられ、その後「昭和橋」が定着・浸透してしまったために、おそらく現在では旧・橋名をご存じの方はいないのだろう。
 陽光は、明らかに南側と思われる左手の上空から射しており、雲が多めな空模様をしている。東京中央気象台の記録によれば、同年9月26日(日)は曇りとなっているが、下落合では昼近くに薄日が射していたようだ。下落合の描画場所と、当時の東京中央気象台があった一ツ橋とは6.5km以上も離れているので、当日の天候はかなり異なっていただろう。いつか、岸田劉生Click!日記Click!にある天気や「代々木風景」を例に、東京市街地と郊外との気象差Click!について書いたことがあるが、現代でも下落合が雨なのにわずか4.7km離れた飯田橋では薄日が射していたという経験を、わたし自身も何度かしている。
 画面を観ると、右手に向かって少しずつ地形が上がっており、緩傾斜がつづいていそうなことがわかる。また、描かれているのが妙正寺川に架かる橋であるにもかかわらず、下落合の目白崖線がどこにも見えない点にも留意したい。現在でも、右手へはダラダラ坂が十三間通り(新目白通り)Click!までつづいており、目白崖線の急斜面はその先(北側)からはじまっている。しかし、佐伯祐三がイーゼルをすえているのは緩斜面ではなく、もっと低い妙正寺川の川端に近い位置なのが、「〇〇橋」とほぼ同じ視線の高さなのを見るとわかる。すなわち、下落合1179番地あたりの妙正寺川の脇に佐伯はイーゼルを立てて制作している。
上落合の橋の附近記念碑.jpg
昭和橋03.JPG
久保前橋記念碑1924.jpg
 佐伯祐三が「上落合の橋の附近」を描いている地点は、ちょうど下落合1147番地の佐々木久二邸Click!の南端、のちに湧水を利用した「落合プール」Click!が造られるあたりの低地であり、画家の位置からは佐々木邸の広い庭と、少し高台にある大きな西洋館群が見えていただろう。また、佐々木邸の東隣りは、やはり庭先に広い庭園をもち大屋敷をかまえる、同地番の外山秋作邸Click!が望めただろうか。
 外山邸の庭先には、瀟洒なアトリエClick!が建設されていて、1930年協会と近しい外山卯三郎Click!が仕事場にしていたので、佐伯は外山卯三郎Click!を訪問したついでに、「上落合の橋の附近」のあたりに画因をおぼえイーゼルをすえているのかもしれない。ちなみに、フランスで死去した佐伯祐三の遺作一式が日本へ到着したとき、この妙正寺川の近くにある外山卯三郎アトリエにすべて集められ、しばらく保管されていた。
 さて、画面に描かれた建築物をできるだけ特定してみよう。まず、「制作メモ」の画題にもなっている描かれた妙正寺川の橋は、先述したようにいまだ「昭和橋」とは名づけられていなかっただろう。だが、なんらかの橋名が決められ、東詰めに記念碑が建立されたのは確実だと思われる。その「〇〇橋」の西詰めに見えている2階建ての家は不明だが、その右手のアカマツの枝の向こう側に見えている大きな屋敷は、おそらく下落合1808番地の山川邸だとみられる。その手前には、石神邸が建つはずだが、この時期にはまだ未建設なのか見えない。以前の記事をご記憶の方なら、日米戦がはじまる直前の1940年(昭和15)に、下落合679番地(のち680番地)の高良武久Click!がこの場所に、森田療法の高良興生院Click!を建設していることに気がつくだろう。
 いちばん右端に描かれている赤い屋根の家(手前)は、下落合1184番地ないしは1188番地に建つ家だが住民名は不明だ。その向こう側、遠めに見えている同じ意匠に見える赤い屋根の家々は、浜井邸をはじめとする下落合1867番地ないしは1820番地に建つ住宅群だろう。そのさらに奥にチラリと見えているのは、下落合1820番地にある大屋敷の篠原邸だろうか。中央に見えている家々は、妙正寺川の整流化工事が進むにつれて整理され、改めて埋め立てた旧・川筋の敷地も含めた宅地の再開発が行われている。
陸軍士官学校演習地図1927.jpg
昭和橋1929.jpg
昭和橋1947.jpg
 佐伯祐三が、なぜこの風景を描いたのかは不明だが、先述のように外山卯三郎を訪ねて同邸のアトリエがある南庭から垣間見たか、外山から妙正寺川の整流化工事に備えた分水流の掘削工事についてあらかじめ聞いていたか、または散歩していて偶然に見つけたモチーフなのかはハッキリしない。だが、「上落合の橋の附近」は9月26日の日曜日に制作されているので、付近に大勢の工事人夫たちのいない休日をねらって制作しているような気もする。

◆写真上:1926年(大正15)9月26日(日)に制作されたとみられる、佐伯祐三の『上落合の橋の附近』。同年作成の「下落合事情明細図」では、妙正寺川の両岸ともに上落合のエリアだが、大正末か昭和初期に下落合エリアへ編入されている。
◆写真中上は、同画面に描かれているモチーフの特定。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。は、「〇〇橋」跡の現状と現在のコンクリート製の昭和橋。
◆写真中下は、「〇〇橋」の橋脚や記念碑の拡大。は、新たに建立された半ば埋もれた昭和橋の記念碑。は、1924年(大正13)の竣工記念に建立された久保前橋の記念碑で、現在では向かって右側の石板が整形されていると思われる。
◆写真下は、1927年(昭和2)作成の「陸軍士官学校演習地図」に描きこまれた妙正寺川分水流の掘削工事。は、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」の昭和橋界隈。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる整流化工事後の昭和橋界隈。
おまけ
佐伯祐三が、「上落合の橋の附近」でイーゼルを立てたあたりの現状。3棟つづくマンションが視界をさえぎり、昭和橋方面は見通せなくなっている。
昭和橋04.JPG

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