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曾宮一念と鶴田吾郎の「どんたくの会」教科書。 [気になる下落合]

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 下落合623番地の曾宮一念アトリエClick!では、アトリエ竣工Click!直後から絵画を趣味にする人たちを対象に、画塾の第1次「どんたくの会」Click!が開講していた。講師は同アトリエの曾宮一念Click!と、当時は目白通り沿いの下落合645番地の借家に住んでいた鶴田吾郎Click!だった。発案・企画したのは鶴田吾郎で、「どんたくの会」Click!の名称は曾宮一念が付けたが、生徒募集には当初10人ほどが参集している。
 「どんたくの会」は、1921年(大正10)から途中で1923年(昭和12)の関東大震災Click!をはさみ、中村彝Click!が死去する1924年(大正13)ごろまでつづいたといわれるが、曾宮一念の『半世紀の素描』(1982年)では2年半としているので、開講3年になるかならないうちに閉じてしまったのだろう。毎週の日曜日、正午から午後5時までの5時間にわたる授業で、月に4~5回ほど開講された当時の月謝は、教材や材料費は別にして5円だった。
 曾宮一念のアトリエを教室にしたが、素描の授業は鶴田吾郎が教え、油彩画の授業は曾宮一念が担当している。当時、ふたりの画家は今村繁三Click!の援助だけでは食べられず、また作品もほとんど売れないので、定収入を得るためにはじめた画塾だった。だが、関東大震災で下落合645番地の借家が傾き、家族ともども住めなくなった鶴田吾郎は、下落合436番地の夏目利政Click!に相談して下落合804番地Click!にアトリエを設計・建設してもらっている。おそらく、中村彝の死からその事後処理、そしてアトリエ建設の多忙さが重なって、鶴田吾郎は「どんたくの会」まで手がまわらなくなったのだろう。
 「どんたくの会」に通ってきた生徒は、落合地域と周辺域の住民たちがほとんどだったろうが、遠くて通えない生徒たちのため、あるいは全国の絵画を趣味にしたい人たちに向け、講義録をまとめたような洋画の「教科書」を作成している。1925年(大正14)に弘文社から出版された、鶴田吾郎・曾宮一念『油絵・水彩画・素描の描き方』がそれだ。全体構成は、「素描」と「水彩画」、「油絵」の3章に大きく分かれているが、それぞれの絵画の特徴や画道具の解説など、実技を意識したかなり具体的な編集方針を採用している。第1次「どんたくの会」の集大成として、ふたりで編集し出版したものだろう。
 少し横道へそれるが、大正時代も中期になると絵画を趣味にする美術ファンが急増し、展覧会へ作品を観賞しにいくだけでなく、自分でも水彩や油彩を問わずに描いてみようとする人々を対象に、さまざまな技術本やノウハウ本、解説本、教材などが出版されている。わたしの手もとにあるのは、1917年(大正6)に書店アルスから出版された山本鼎Click!『油絵ノ描キカタ』をはじめ、三宅克己Click!『水彩画の描き方』(アルス/1917年)、石井柏亭『我が水彩』(日本美術学院/1916年)、後藤工志『水絵の技法』(アルス/1926)など、同様の書籍が美術系の出版社から次々に刊行されていった。
 鶴田と曾宮の『油絵・水彩画・素描の描き方』では、「素描」ではデッサンの意義にはじまり、木炭画、石膏写生、素描技巧、垂鉛と測棒、明暗法と立体、明暗の強弱、線画、定着、素描と材料……とかなり実践的だ。ところどころにイラストが描かれ、道具の種類や使い方が詳しく解説されている。当時は、西洋画(特に油彩画)の材料がかなり高価で、家計に余裕のある人々が楽しむ趣味だったが、ありあわせのモノや画道具の自作など、できるだけおカネをかけないで絵を楽しむ方法も紹介している。
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 中でも読みごたえがあるのは、やはりボリュームがもっとも厚い「油絵」の章なのだが、具体的な画道具や技法のこと細かな解説や使い方のほかに、西洋の油彩画の歴史や国内における同画の歴史など、趣味としての油絵制作に直接関係のない項目まで記述している点だ。また、同章は後半にいくにしたがって、絵画制作の教科書というよりも洋画界の最新動向や、絵画をめぐるエッセイ(世間話)のような内容になっていくので、西洋画の勉強をスタートさせたい初心者向けというよりも、曾宮一念と鶴田吾郎の美術や絵画に対する考え方(思想)を紹介する読み物としての面白さが加わってくる。
 おそらく、文章表現の技術に関しては、のちにエッセイ類を数多く出版している曾宮一念Click!のほうが優れていたと思われるが、明らかに海外を放浪した経験のある鶴田吾郎が執筆したとみられる箇所も散見される。絵画展覧会を「技術と思想の競技場」と規定する、同書の「展覧会の絵」から少し引用してみよう。
  
 展覧会は芸術作品の発表場所であつて、互に芸術家の技術や思想の競技場にも見られますが、また一般公衆の前に開展するのでありますからそこに純不純の世間的価値を上下することがあつて、芸術家なるものが互に誹謗しあふ弊害も生じ一時的名声を求めんが為に純芸術家の立場を離れて様々な対世間的技巧をするといふことも伴なつてきます。また或る団体が他の意見を異にせる団体に対して、政策上に於て一も二もなく之れを一蹴し去るといふが如きこともありますが、是等は決して純正芸術家としてとるべきことではなく、要するに展覧会なるものが次第に興行化されて来た為であつて、其の興行なるものに携はる一部の計画家が斯かる態度をとることがたまたま生じるので、夫れが誇大されて美術界の不評の種ともなるのであります。
  
 おそらく、上記の文章は二科も文展/帝展も春陽会も、独立美術協会も一水会も、まったく画家の属する集団にはとらわれず、派を超えて多くの画家たちと交流をしつづけていた曾宮一念Click!が書いたものではないかとみられる。
 これが、もし鶴田吾郎が書いた文章であるならば、彼はわずか15年後にはまったく正反対の生き方(絵画制作のしかた)、すなわち軍人と見まごうような服装をしながら戦地を駆けまわり、政府による軍国思想によって統制された美術に同調し、戦争画Click!を描かない画家たちに対して「一も二もなく之れを一蹴し去るが如きこと」をしたことになり、深刻な主体性の自己撞着に陥ってしまうからだ。
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 「展覧会の絵」につづいて、同書の巻末近くには「洋画家と洋行」というエッセイが掲載されている。ちなみに、この時点で曾宮一念は洋行経験がないので、文章を書いているのは海外を放浪した鶴田吾郎ではないかと思われる。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 日本の自然は美しいが難しいといふことは洋行して帰つたものに多く出る言葉であります。自然の示すところの色彩は何れかと言へば暗く、複雑にして快明を欠き渋く且つ対色上の美しい効果を多く示してをりません、習慣となれば左程にも感じないのでありますが海外より一歩日本の土を踏むと全体に墨色の多量に含むでゐることを先ず直感します。また日本人の衣服などに於ても外国人と正反対に部分的にて美しい色を表しても全体として大きく眺めた場合、殆んど対色上の美しさや、肉体を包むところの服装の線などが決して画的興味を起させるに甚だ貧しいのであります、むしろ支那人の服装の方がはるかに線などの表れが自然であり絵画的ではないかと思はれます。/小さな例ではあるが右のやうな絵画制作の画因が万事対象より受ける感興が弱い為に、をのずと外国で勉強してゐねよりも感激が薄らぐ故に技量が劣つてくるやうに見えるのでありませう、
  
 これは、当時の洋行した画家が抱く一般的な感想なのだろう。当時の洋画家は、日本にもどってくるとみんなくすんだ色あいに見え、思うように油絵の具が載らないし、フォルムも把握しにくいように思うのだろうが、それは西洋で開発された油絵の具の色彩感から日本の風景を見るからであって、やがて帰国した画家たちはその齟齬や乖離した感覚を埋めようと、あれこれ研究し腐心することになるようだ。
 たとえば、ここ江戸東京地方の伝統的な色彩感覚Click!は周囲の風景に見あうよう、中間色(いま風にいえばパステルカラー調)に美感や美意識を見いだし数百年の時間をかけて発達Click!させたのであり、油絵の具の鮮やかで艶やかな色彩から見れば曖昧模糊として捉えどころがないような、多彩な色を灰をまぶしたハケで薄っすらと掃いたような、シブくて淡い(はかなげな)色あいをしているものが多いが、昔の人たちはそれらの色彩が「日本の自然」や「街の風景」にはよく似あい、無理なく溶けこんで美しいと考えたからだろう。江戸東京では、この美意識がいまでもガンコに受け継がれ生きつづけているが……。
 そこへ明治・大正期を通じて、西洋の風景に適合するよう開発された油絵の具を持ちこんだわけだから、違和感を感じるのはむしろ当然だったにちがいない。ましてや、パリの街角から当時の日本へもどってくれば、艶やかで鮮やかな油絵の具に見あう風景などどこにもないじゃないか……と感じても、なんら不思議ではなかっただろう。
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 わたしは不勉強なので知らないが、洋行した画家がたとえばフランスで風景を描くときに使用した絵の具の種類と、帰国してから風景を描くときに使用した絵の具の種類を詳細に比較すると、特徴的な面白い結果が得られるのではないかと想像している。すでにそのような研究をされている方がいるのかもしれないが、空や木々の緑、地面の土の色ひとつとってみても、フランスと日本では絵の具の混合がかなり異なっているのではないだろうか。

◆写真上:下落合623番地に建っていた、曾宮一念アトリエ跡(右手の駐車場)。
◆写真中上は、1925年(大正14)出版の鶴田吾郎・曾宮一念『油絵・水彩画・素描の描き方』(弘文社/)とその奥付()。は、1917年(大正6)出版の山本鼎『油絵ノ描キカタ』(アルス/)とその奥付()。は、1921年(大正10)からの第1次「どんたくの会」と1931年(昭和6)からの第2次「どんたくの会」が開かれた曾宮一念アトリエの内部。
◆写真中下:いずれも『油絵・水彩画・素描の描き方』収録の作品で鶴田吾郎『松山』()、曾宮一念『アネモネ』(1925年/)、鶴田吾郎『土を掘る人』()。
◆写真下は、庭に立つ曾宮一念と下落合のアトリエ(提供:江崎晴城様Click!)。は、1931年(昭和6)ごろに撮影された第2次「どんたくの会」の曾宮一念(右端)。

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ついにはデパートのようになった公設市場。 [気になる下落合]

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 落合地域には、公設と思われる市場が大正末から昭和初期にかけて2ヶ所確認できる。ひとつは、大正末には開業していた中井駅前に近い下落合市場Click!、もうひとつが月見岡八幡社Click!(旧境内)の向かいにあった上落合市場Click!だ。ただし、上落合市場のほうは何度か移転しているように思われる。公設市場の設計仕様でいえば、いずれも第二号あるいは第三号に類する木造建築だったらしく、山手空襲Click!であえなく焼失している。
 公設市場が、第一次世界大戦後に起きた米騒動に起因しているのは以前の記事Click!でも取り上げたが、関東大震災Click!をはさみ新たな公設市場の設置が東京各地で盛んになった。特に、全滅に近い被害を受けた東京市の市営市場は、震災後に耐震防火の設計がもっとも重視され、鉄筋コンクリート仕様の燃えにくい市営市場が急増していく。公設市場の設置当初の様子を、1930年(昭和5)に興文堂書院から出版された、復興調査協会『帝都復興史』第参巻の「公設市場」から引用してみよう。
  
 (公設市場の)創立当時は其の規模も小さく設備も不完全なるを免れず、且つ其の商品も白米、雑穀、味噌、醤油、牛豚肉、鮮魚、野菜、薪炭の八種類に過ぎなかつた為め、一般市民に利用されなかつたが、漸次その設備を改善すると共に販売品を安価に供給するため当局は種々研究を重ねたる結果、一般小売商に比して優良品を比較的安価に提供し得るに至つた為め、従来小売商人の暴利に苦しめられつゝあつた一般市民の公設市場利用熱は漸次高まり震災当時に於ては創設当時よりも市場数増加せるのみならず、各市場の取扱品目は著しく増加し、市民特に中産階級以下の日常生活に欠く可らざるものとして発展しつゝあつた。(カッコ内引用者註)
  
 ところが、市街地の公設市場はいまだ木造が多く、関東大震災によって大半が焼失している。震災当時は、市街地(東京15区Click!)に設置された東京市設市場が11ヶ所、近郊の郡部に設置された東京府設市場が31ヶ所あったが、このうち市街地および近郊の15ヶ所の市場が、大震災による大火災で商品在庫も含めて全焼している。
 関東大震災の以前に企画されていた市場の設計図案によれば、鉄筋コンクリート造りの市場建築モデルである「第一号」が存在していたが、建設費に手間やコストがかかるためか、いまだ数が少なかったのだろう。実際に建てられた市場は、木造平家建ての設計図モデル「第二号」か、あるいは壁のない吹き抜けの木造建築だった設計図モデル「第三号」が多かったとみられる。落合地域に大正末から昭和初期にかけて建設された公設市場は、この「第二号」あるいは「第三号」の設計図がベースとなって建設されているのだろう。
 鉄筋コンクリート造りによる公設市場(設計図第一号)の図面を見ると、正面の間口(8間半)は広めの道路に面していることが建設の前提で、残りの壁面(3面)はほかの建設敷地に隣接していることが条件とされている。建物の構造は地上2階に地下1階で、地下は市場内に出店している店舗の商品を備蓄・保管する倉庫として活用できるようになっている。各売店からは、専用階段を利用して地下倉庫へ下りることができた。
 鉄筋コンクリートの公設市場について、売店部分の室内仕様を見てみよう。1922年(大正11)に内務省社会局から発行された、『公設市場設計図及説明』から引用しよう。
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 天井高前方ニ於テ十一尺五寸後方ニ於テ十尺トス 階段ノ外ニ必要アレハ床ニ上ゲ蓋ヲシテ商品ノ上下ニ便ス、陳列段ハ階段反上ゲ蓋ヲ考慮シテ本設計ニ依レルモ(ノ)ハ単ニ一例ヲ示スニ過ギズシテ売品ノ種類、性質ニ応ジ出店人ニ於テ任意設計スルヲ可トス、例ヘハ肉店、魚店ノ類ハ図面ノ如ク床上七尺迄ヲ硝子張、夫ヨリ上部梁迄ヲ金網張リトシテ蠅ヲ防ギ出札所ニ於ケルカ如ク切符売場及売品受渡口ヲ設クルカ如シ/売台甲板ハ幅一尺五寸高三尺三寸木製ニシテ一端ヲ出入ノ通路トス、冬期ニ於テ下部ニ暖房用放熱器ヲ装置スルコトヲ得、夜間ニ於テ甲板上部ニ自在戸ヲ立テ昼間ハ間仕切壁ニ沿ヒテ畳ミ置クヲ得シム、尚店内適宜ノ位置ニ洗浄用給水栓及運搬シ得ル金属製屑鑵ヲ備フルモノトス(カッコ内引用者註)
  
 2階の売店スペースは、市場の店舗数が増えたときのための予備室、あるいは市場の事務室として利用できるようになっている。売店の解説には上水道しか書かれていないが、各店には端に掘られた下水溝(排水溝)が設置されており、通風換気は各売店ごとに換気口を装備し、通路上部の天井両側には換気窓がうがたれて、常に外気が取りこめる設計となっていた。また、従業員や顧客用のトイレは浄化槽を備えた水洗式を採用し、「大」用の個室が4室、小便器が5個それぞれ設置されていた。
 鉄筋コンクリート造りの市場(第一号)は、1922年(大正11)の時点で建設費が坪単価280円と見積もられており、建物だけで72,240円の予算が必要だった。それに加え、商品の陳列棚や送風機、浄化装置、照明、水道(工事)などの設備や機器に別途費用が発生した。これに対して、木造による公設市場の設計図(モデル第二号)は建設費が坪単価160円で12,460円、木造吹き抜けの市場(モデル第三号)なら建設費が坪単価140円で13,500円ほどだった。第二号の木造市場より第三号の建設費が高いのは、想定されている敷地面積が第三号のほうが18.5坪ほどよけいに広いためだ。
 こうして、東京市内や東京府の郡部には次々と公設市場が開業していったが、関東大震災以降は鉄筋コンクリート造りによる建物が急増していくことになる。特に街道沿いには、内務省社会局による『公設市場設計図及説明』の設計図にまったくとらわれない、おシャレなデザインをした大型の公設市場が次々と建設されていく。
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 下落合の近隣でいえば目白駅前に開業した、まるで古城のようなデザインをしていた目白市場Click!、長崎バス通り(目白バス通り)に開業していた、戦後の名曲喫茶のような意匠の長崎市場Click!、そして公設市場というよりもむしろデパートのように大型化した、目白通り沿いの「椎名町百貨店」Click!(開設当初は「椎名町市場」だった?)と、鉄筋コンクリート造りの公設市場は年々大型化していった。
 公設市場内で扱う商品も、大正期の「白米、雑穀、味噌、醤油、牛豚肉、鮮魚、野菜、薪炭の八種類」どころではなく、デパートや今日の大型スーパーマーケットと同様に、食品から日用雑貨までありとあらゆる商品を取りそろえた販売構成になっていく。中には、目白駅前にあったオシャレな目白市場のように買い物ついでや通勤通学客を見こんだ、川村学園Click!の経営による女学生の喫茶店Click!までが出現するようになっていった。
 昭和初期の様子を、復興調査協会『帝都復興史』第参巻から引用してみよう。
  
 而して其の販売品目も創設の当初は米穀其他八種目に限定されてゐるが、発展に伴れて漸次増加され、日用品の外荒物類、麺類、罐詰等の準日用品をも販売し、更に金物類、洋品、雑貨、庶民階級向の呉服類等にも及んで広く販売されるに至つた 即ち震災後に於ける公設市場一般の販売品目は、白米、雑穀、乾物、野菜、漬物、佃煮、罐詰、鮮魚、干盬魚、牛豚其他の肉類、和洋酒、清涼飲料水、洋品雑貨、味噌、醤油、麺類、砂糖、菓子、パン類、茶、陶器、荒物、金物、傘、履物、薪炭の二十七種類に拡張され、市民の生活必需品は大部分市場に於て整へ得られるに至つた。
  
 つまり、当初は米価をはじめ、生活には欠かせない食品や燃料の急激な値上がり対策として、必要最小限の商品8種に限定して安価に販売していた公設市場が、昭和期に入るとまるでデパートかスーパーのような大型店舗へと衣がえし、必ずしも生活弱者だけではなく一般市民までターゲットに入れた、大規模な流通機関にまで発展してしまったのだ。
 これでは、周囲の店舗や商店街はたまったものではないだろう。公設市場が、いつの間にか強力な競合相手として立ちはだかったことになる。東京じゅうの商店街から、東京市や東京府へ抗議が殺到したと考えても、あながちピント外れではないだろう。
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 椎名町に設置された大型の市場が、地図上から「公設市場」の記号がいつのまにか消え、なぜ「椎名町百貨店」という私設のような名称になっているのか、なぜ1930年代には公設市場が次々と姿を消していったのか、そこに地元商店街との激しい軋轢を感じるのだ。

◆写真上:長崎町の目白通り沿いにあった、「椎名町百貨店」跡の現状。
◆写真中上上左は、1922年(大正11)発行の『公設市場設計図及説明』(内務省社会局)。上右は、1930年(昭和5)出版の復興調査協会『帝都復興史』第参巻(興文堂書院)。は、鉄筋コンクリート建築の「公設市場第一号」設計図面。
◆写真中下は、「公設市場第一号」の設計図面。は、木造の「公設市場第二号」の設計図面。は、壁がなく吹き抜けの「公設市場第三号」の設計図面。
◆写真下は、ダット乗合自動車の終点折返し場の東側に建っていた1935年(昭和10)ごろの目白駅前のオシャレな「目白市場」。は、目白通り沿いに建っていたもはや市場というよりはデパートに見える1933年(昭和8)撮影の「椎名町百貨店」。は、まるで戦後の名曲喫茶のような意匠に見える1940年(昭和15)ごろ撮影の長崎バス通りに開業していた「長崎市場」。(「目白市場」と「長崎市場」は小川薫アルバムClick!より)

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資料によく登場する江戸川アパートメント。 [気になるエトセトラ]

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 拙ブログで何度か登場しているアパートに、牛込区新小川町10番地(現・新宿区新小川町6番地)に建っていた同潤会江戸川アパートメントClick!がある。大田洋子Click!が、改造社にいた黒瀬忠夫Click!と同棲をはじめたのも同アパートだったし、その黒瀬が社交ダンス教室を開いていた金山平三アトリエClick!から、金山平三Click!が知人の山内義雄が障子を貼りかえたと聞いて、さっそく下落合からビリビリ破りに出かけたのも同アパートだ。
 高田町四ッ谷(四ツ家)344番地(現・高田1丁目)に住んでいた安部磯雄Click!が、晩年に暮らしていたのも江戸川アパートメントだった。そのほか、同アパートには正宗白鳥や見坊豪紀、鈴木東民、なだいなだ、原弘、前尾繁三郎、増村保造、雲井浪子、坪内ミキ子など多種多様な職業の人々が住んでいた。江戸川アパートメントが竣工したのは1934年(昭和9)と、同潤会アパートの中でも新しい建築だが、竣工直後の様子を当時は津久戸小学校の生徒だった、ロシア・ソ連史家の庄野新が記録している。
 1982年(昭和57)に新宿区教育委員会が発行された『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編―』収録の、庄野新『思い出の「牛込生活史」』から引用してみよう。
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 (江戸川アパートメントは)今の高級マンションのハシリかと思うが、たしか四階建ての大きく立派な建物で、ピンクの外装がひどくモダンであった。われわれ小学生を引きつけたのは、そこに備えつけられていた自動押ボタン式エレベーターで、これを自由に操作するのが実に面白く、そしてスリルさえあった。学校が終ると友だち数人と語らって、数日ここにかよいつめた。管理人などいるのかいないのか、われわれが入りこんでも一度もとがめられなかった。ところがある日、エレベーターが途中で止まってドアがあかないのである。一瞬顔が引きつって、友だちとあれこれボタンを押した。やっとドアがあいて外に出られたときは本当にホッとしたものだ。その間、時間にして数分にすぎないと思うが、正直いって生きた心地はなかった。以来、自動エレベーター熱は一挙にさめてしまった。(カッコ内引用者註)
  
 庄野少年たちがエレベーターで遊んだのは、おそらく地上4階建ての2号棟だったのだろう。ほかに、1号棟は地上6階地下1階(一部は塔状になって地上11階地下1階になっていた)という仕様だった。鉄筋コンクリート仕様の同潤会アパートは、関東大震災Click!の火災による被害が甚大だったため、不燃住宅の建設ニーズから1926年(大正15)より1934年(昭和9)まで、東京市内に14ヶ所と横浜市内に2ヶ所が建設されている。
 同潤会アパートについては、詳細な書籍や資料がふんだんにあるのでそちらを参照してほしいが、当時としては圧倒的にモダンでオシャレな集合住宅だった。生活インフラとして、電気・ガス・水道・ダストシュート・水洗便所は基本で、大規模なアパートによってはエレベーターや共同浴場、食堂、洗濯室、音楽室、サンルーム、談話室、理髪店、社交場、売店などが完備していた。江戸川アパートメントは、同潤会アパートの中でも大規模なもので、1934年(昭和9)の竣工から2001年(平成13)の解体まで、実に70年近くも使われつづけた。
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 江戸川アパートメントは、北側の1号棟と南側の2号棟に分かれており、棟の間にはかなり広い中庭が設置されていた。家族向けの広めの部屋が多かったが、1号棟の5階と6階は独身者向けで4.5~6畳サイズのワンルーム仕様が多かった。庄野新の想い出にあった自動エレベーターをはじめ、共同浴場、食堂、理髪店、社交室などを備え、中庭には子どもたちの遊具がいくつか造られて、コミュニティスペースも充実していた。江戸川Click!(1966年より上流の旧・神田上水+江戸川+下流の外濠を統一して神田川)の大曲りの近くなので、同河川の名前をとって江戸川アパートメントと名づけられている。
 面白いのは、今日のマンションとはまったく発想が逆で、上階にいくほど単身者向けの安い部屋が多く、低い階に広めで豪華な部屋が多かったことだ。つまり、しごくあたりまえだが低層階のほうが短時間でスムーズに外部との出入りができ、また関東大震災の記憶が生々しかった当時としては、火災や地震など万が一のときにすぐ避難できる安全・安心が担保されているところに大きな価値があったのだろう。大震災の経験をまったく忘れた現在、集合住宅はハシゴ車さえとどかない高層になるほどリスクが高く、大地震が多い東京の価値観が逆立ちしていると思うのは、わたしだけではないだろう。
 江戸川アパートメントは戦災からも焼け残ったが、1947年(昭和22)6月17日に山田風太郎が、同アパートに住んでいた同業の水谷準を訪ねている。この日、近くにある超満員の後楽園球場では早慶戦が開かれており、山田風太郎の日記から引用してみよう。
  
 新小川町江戸川アパートにゆく。巨大なるアパート大いに感心す。無数の窓より無数の洗濯物ブラ下がる。このアパートの住人のみにて一町会作りて猶余あるべし。ここに安部磯雄翁も住めりとか。その一棟の一三四号室の水谷準氏、部屋をたたく。廊下のつき当り、網戸に小さき鈴つき、この内側に扉あり。鈴の音ききて準氏出で、入れと言う。四畳半に絨毯敷き、ピアノ、洋服、箪笥、電蓄、ラジオ、書棚etcギッシリ並べ、窓際の空間に机、椅子三個ばかりあり。水谷氏、ピースを喫しつつラジオの早慶戦聞きあるところなりき。「妻も後楽園にゆきてお茶も出せぬ」という。
  
 山田風太郎は、早慶戦の立役者であり早大野球部の創立者だった安部磯雄Click!が、同アパートにいるのを知っていたので、早慶戦についても触れているのだろう。
 水谷準が住んでいた「一三四号室」は、1号棟の3階4号室ということだろうか。おそらく、独身者向けの部屋を借りて夫婦で住んでいたとみられるが、住宅不足が深刻だった敗戦当時、家族5人で1号棟6階の6畳サイズのワンルームに住んでいた例もあるので、当時としてはめずらしくない光景だったろう。また、表参道の青山アパートも同様だが、戦後まで残っていた同潤会アパートは人気が高く、狭い部屋で数人が共同生活する例も多かった。
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 少し前から、日本経済新聞の「私の履歴書」に、ソニーミュージックエンタープライズの社長だった丸山茂雄がエッセイを書いている。江戸川アパートメントには、祖父の早大教授で国会議員の社会主義者だった安部磯雄と、日本医科大学教授で丸山ワクチンを研究開発した父親の丸山千里とともに住んでいた。丸山茂雄は「やわらかい社会主義者」と表現しているが、安部磯雄は別のフロアに住んでおり、戦後に社会党内閣が発足したとき、片山哲首相が江戸川アパートメントまで報告にきていたのを憶えている。
 戦後の江戸川アパートメントについて、2022年7月2日に発行された日本経済新聞の丸山茂雄「私の履歴書―住人も暮らしぶりも多彩―」から引用してみよう。
  
 コンクリート建築の江戸川アパートは焼けずに無事だった。住んでいるのは世帯主が40代半ばより上という家庭がほとんどで、戦争には行っていない。200世帯以上が暮らしていたと思うが、「あの家はお父さんが戦死して大変」といった話は聞かなかった。あのころの日本では特殊な環境だったと思う。(中略) 住人たちの職業は文学者にイラストレーター、いまでいうフリーランサーと多彩。私くらいの世代だと、子供のころは近所の悪友とチャンバラ遊び、いたずらをして親に叱られて、なんていう話が定番だが、このアパートにそういう雰囲気はなかった。/やがてあちこちに団地ができ、50年代の終わりになると「団地族」という言葉がマスコミで使われるようになった。60年代版の国民生活白書にこの言葉の解説が載った。/過度な競争意識に包まれやすいのが団地族のひとつの特質だったろうか。あの家が洗濯機を買った、テレビを買った、あそこの子供がどこそこの学校に入った、うちも負けられない……と。しかし、丸山家に関して言えば、競争心とは無縁だった。
  
 おそらく、戦前からの住民も多かったのだろう、いわゆる戦後の「団地族」とは趣きが異なる人々が、江戸川アパートメントで暮らしていた。丸山家は同アパートの3階に住んでいたようだが、同エッセイを読むかぎり北側の1号棟か南側の2号棟かは不明だ。
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 飯田橋駅近くに勤務していたとき、深夜まで残業したあとは下落合までたまに徒歩で帰宅することがあったので、目白通りへ抜けるために江戸川アパートメントの前を何度か通過しているはずだが、夜更けで暗かったせいか印象が薄い。2003年には建て替えられているので、頻繁に徒歩帰宅Click!をするようになったころには、すでに存在しなかった。

◆写真上:江戸川アパートメント跡へ2003年(平成15)に建設されたアトラス江戸川アパートメント(右手)で、正面に見えているのは凸版印刷の本社ビル。
◆写真中上は、1934年(昭和9)ごろに作成された同潤会江戸川アパートメントの完成予想図。は、解体直前に撮影された江戸川アパートメント。は、1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた竣工2年後の江戸川アパートメント。
◆写真中下からへ、戦災から焼け残った1947年(昭和22)撮影の江戸川アパートメント、1979年(昭和54)の同アパート、1984年(昭和59)の同アパート。
◆写真下:2022年7月3日発行の日本経済新聞に連載された丸山茂雄「私の履歴書」。

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『下落合の向こう』のもっと向こうに。 [気になる下落合]

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 1990年代の半ば(おそらく1995年ごろ)、わたしは笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』(文藝春秋)を単行本で買って読んでいる。確か、その中に短編『下落合の向こう』が収録されていたような気がするが、記憶がさだかではない。その内容も、物語性とは対極にあるような表現と展開だったので、ほとんどすべて忘れ去っていた。さて、きょうはちょっと厄介な『下落合の向こう』について。
 札幌大学教授の山崎眞紀子は、笙野頼子について「<物語>とは世間一般の共通認識に支えられて成立しているひとつの解釈と言っていいだろう。この物語に違和感を覚え、その物語を構成している言葉に対して全身にアレルギー反応を起こしている最先端の作家が笙野頼子である」(「女性作家シリーズ第21巻」/角川書店)と書いた。いってみれば、コード進行もモードも否定した予定不調和のフリーJAZZか、現代音楽風にいえば譜面のないインプロヴィゼーション・ミュージックというところだろう。
 だが、一聴難解そうに感じるこれらの音楽だが、そういう音であり、そういうメロディ(?)ラインなのだと素直に受けとり、先入観なく耳をすませば、いや耳を素直に馴らしていけば、これまで味わったことのない音楽美や思いがけない新鮮なサウンドに出逢えるかもしれない。それは、貴重な時間をつぶして賭ける一種のギャンブルなのかもしれないし、また退屈な時間を埋めるスリリングな初体験なのかもしれない。いずれにせよ、小さな冒険であるのはまちがいないだろう。
 笙野頼子は<物語>の破壊者であり、出現・存在するだけで意味のある協和音やモードを拒否したOrnette ColemanでありCecil Taylorだと考えれば、それほどとっつきにくくはないだろうか。少なくとも日本語で書かれている文章表現を、そのまま素直に受けとって味わえば、<物語>世界とはまったく異なる解体された<非物語>世界が拓け、しかも手垢にまみれていないなんらかの美や感動が得られるかもしれない……とは、アタマで理性的に予測できる桃源郷の可能性ではあっても、そこに多少なりとも物語性が付随していてくれないと、わたしとしては楽しめそうもないので憂鬱な気分に陥ることになる。
 それはもちろん、自意識過剰なほどに内向的な個が紡ぎだす極限の、あるいは研ぎすまされた感性や認識にもとづく物語性を拒否した表現には、そうそう容易には同化・同調して受け入れることができない壁があるからだ。あまりにも極端に描かれる個の世界は、他者にしてみれば「アレルギー反応」の温床(アレルゲン)となり得るだろうし、著者の表現世界と同化・同調し感動できたという人間がいるとすれば、それはおそらく著者自身にほかならないのが、笙野頼子が描きつづけている極北の世界だろう。
 わたしは、彼女の感性的な認識世界と、それにいたる過程や道筋を100分の1ほども理解できないが、『下落合の向こう』が書かれた1990年代の下落合の情景は、きのうのことのように記憶へ鮮明に刻まれている。当時の笙野頼子は、西武新宿線のおそらくは都立家政駅の付近に住んでおり、オートロックが付いた集合住宅で“引きこもり”の生活をしていた。それがある日、電車に乗って高田馬場駅まで出かけることになり、その乗車中の情景を描いたのが『下落合の向こう』だ。ちなみに、彼女もわたしと同じく「新井薬師前」駅を、常に「新井薬師」駅Click!と呼んで平然としている。
 中年女性である「私」は、「電車を巡るシステム」全体が人々の共同幻想であり、実際は猛スピードで走らされていることに気がつく。電車の立てる音は、巨大なザリガニがハサミをふり立てて伴走し、その鎧のような殻同士がぶつかりあう音なのだというのを発見してしまうのだ。乗客は、全員が必死で電車のスピードに見あう速度で走らされている。そんな電車の車窓から眺めた様子を、1999年(平成11)に角川書店から出版された『女性作家シリーズ第21巻』所収の『下落合の向こう』より引用してみよう。
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 すると、時に電車の外見がふっと消えた後に、人肉で出来た蛇のような塊が疾走しているのが判る場合がある。マラソンの集団をもっと極端にしたようなものが踏切の向こうを、また鉄橋の上を、走っているのだ。迫力のありすぎる電車ごっこ。しかもその電車ごっこに綱はなく乗客は足のどこかから触手を出して、それをお互いに絡めあって、全員、必死で走っているのだった。つまり足の強いものは他人の体重まで背負わされており、また足の弱いものは手足をふらふらさせ道の上を傷だらけで引っ張られて行くのである。物凄い速度で動く人肉の塊。口からよだれを流し腰から排泄物を滴らせる。その上、その臭いに引かれて音を立てるザリガニが集まってくるのだ。
  
 乗客たちは電車に乗っているふりをしていたが、実は猛スピードで走らされているので、和綴じ本をめくって謡(うたい)Click!の練習をしている婦人が、「……るぅがぁすぅみぃ…ぁなぁびぃきぃにぃけぇりぃ…いぃさぁかぁたぁのぉお」と、おそらく『羽衣』の地謡をさらうのを翻訳すると、「もういやだわ ばかやろお ぜいぜい」とつぶやいている。
 やがて「新井薬師」駅で、駐車場のクルマの下からザリガニの触角を発見するのだが、乗りこんできた7人の美少女高校生たちに気をとられ見逃してしまう。彼女たちは、みんな小さな顔で整った同じ顔立ちをしており、どの鞄にもキーホルダーが下がっていたが、「私」は森永チョコの九官鳥キーホルダーはどうやって手に入れたのか気になる。
 女子高生の、ブローがゆきとどいた完全な髪が跳ねあげられたとき、髪の間に焼き魚が料理用の金串ごと刺さっているのを「私」は目撃した。女子高生たちの母親ほどの年齢だった「私」は、彼女たちは赤ん坊のころから現在まで育てられたのではなく、どこかの地下室で人工的に製造されたものだろうと推測する。そんな彼女たちを観察しているとき、女子高生のひとりが「下落合の向こう」といった。
 「猫を人間だと確信出来る生活」をしていた「私」は、世の中は最初から地獄のようなところだったので、人形になってしまえば楽だと考えていたが、現実は黴だらけの塊のようになっていた。そのとき、女子高生が「そこじゃん、そこ」といい、彼女たちのひとりが「私」の膝上にバウンドしながら座った。そこで、大人はザリガニといっしょに走らされているのに、女子高生たちは電車に乗れるのだと初めて認識する。「あ、もうすぐ」という女子高生の視線を追うと、団子屋の看板の向こうにある低層マンションの2階のベランダに、人形の首が並んでいるのが見えた。
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 ここでふっと、『下落合の向こう』を離れて現実にもどるけれどw、わたしはこのズラリと並んだ人形の首にはハッキリとした記憶がある。西武新宿線が山手線ガードClick!のカーブに近づき、スピードを落とすとともに右手のビル=東京美容専門学校(下落合1丁目2番地)のベランダに、授業で使わなくなった廃棄物なのか、あるいは紫外線消毒のための天日干しなのか、人形の首だけがズラリとならんでいた。(現在でも窓越しに並んでいる)
 そんなものを見せられた笙野頼子、いや「私」は、もう妄想に羽が生えて際限なくふくらんでいく。下落合について、彼女の妄想の一部を同書より引用してみよう。
  
 下落合は本当に下落合なのだろうか。一度も下落合で降りた事がない。中井や新井薬師をいくら通過しても恐くないのに……。/――私って下落合の向こうが気になるのよねえ。/下落合の向こう――上落合、中落合、西落合、何度も通り過ぎながら私は何も知らない。ただ中落合という言葉で魚の中落ちと血合いを想像しただけだ。血合いと中落ち――隠れていたもの、切り取られ俎から滑り出しそうな、魚の体の一部。それも俎に載る程に小さい鰹のもの。そんな中落ちと血合いに陰影と人口を提供する、中落合というあの不明瞭な名前。――頭の中では魚の真ん中にあったものがどんどん広がって町に変わる。ところがその中落合からある日いきなり、中という言葉が抉り取られる。そしてその傷口に下という言葉がずるずると擦り寄る。或いはホトトギスの子のように中を蹴落として下はそこに座り、魚を食い続ける。
  
 笙野頼子の感性は、非常に鋭い。「私は何も知らない」で、妄想の限りを尽くした表現だったのかもしれないが、期せずして彼女の妄想は過去の事実(史的物語)に照らし合わせると、実にリアルで正しいことになってしまう。
 もともとそんな地名など存在せず、役所の机上で安易に決められた「不明瞭な名前」の「中落合」は、「下という言葉がずるずると擦り寄る」どころか、1965年(昭和40)までは「下」落合そのものだったのだ。著者は「中井」駅についても言及しているが、現在の「中井」と表記される地域もまた下落合という地名だった。住民のほとんどが反対Click!する中、押しつけられたのが「中落合」と「中井」という地名だったわけだ。
 女性作家でいえば、東京へやってきたばかりの矢田津世子Click!は中落合2丁目ではなく、下落合3丁目の目白会館文化アパートClick!に住んでいたのであり、吉屋信子Click!林芙美子Click!は中井2丁目ではなく、下落合4丁目に住んでいたのだ。笙野頼子が、感覚的に「不明瞭な名前」であり気持ちが悪く感じたとすれば、無理やり地名を変えられた下落合(中落合・中井を含む)の住民たちは、もっと気持ちが悪かっただろう。
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 「私」は初めて下落合駅で降りて、「緑色の橋」(西ノ橋だろうか)をわたって「観光ホテル」(ホテル山楽だろうか)の前へ歩いていくと、背後で「バリ」っと音がして下落合駅が消えてしまった。いつの間にか、「私」は「東京にしては土の匂いの濃いそのあたり」を走っているが、そのうち身体ごとゴロゴロ転がっていく。「下落合の向こう」に入りこんだ「私」は、おカネを入れると透明な球形のカプセルが出てくる自動販売機(ガチャポンだろうか)が、実は「人喰い鶏」であり、カプセルはこれから産む卵であることを想像し、「下落合の向こう」へスリップしたまま、おそらく「下落合の向こう」のもっと向こうにある迷宮へ入りこんでしまい、唐突なエンディングを迎える。
 わたしも、常日ごろから感じているように、落合地域は底が知れない、迷宮なのだ。

◆写真上:マネキンの首がズラリと並ぶ様子は、女子高生でなくとも不気味に感じた。
◆写真中上上左は、1999年(平成11)出版の『下落合の向こう』が収録された『女性作家シリーズ第21巻』(角川書店)。上右は、1994年(平成6)出版の笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』(文藝春秋)。は、笙野頼子が妄想をふくらませた「新井薬師」駅(新井薬師前駅)の近くにある東亜学園の夏服()と笙野頼子()。は、いまでも西武新宿線沿いの東京美容専門学校の窓に並ぶマネキンの首。
◆写真中下:ザリガニの音をたてながら、電車は中井駅からやがて下落合駅へと着く。
◆写真下:下落合を出た電車は、ほどなく山手線ガードの最終カーブへと差しかかる。は、廃止された高田馬場1号踏み切りClick!脇に建つ東京美容専門学校(左手)。

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公楽キネマや洛西館には弁士が何人いた? [気になる下落合]

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 大正初期に誕生した日本活動写真株式会社(略して「日活」)と、それを追いかけて国際活映株式会社(略して「国活」)、演劇界を席巻していた「松竹」、そしておもに米国映画を配給する「大正活映株式会社(略して「大活」→のち「松竹」に吸収)などが群雄割拠していた大正期、これらの映画会社からは大量の無声映画が生産されていた。
 当時の映画は、そのほとんどが芝居(歌舞伎)や新派の舞台をフィルムに写しただけのような作品が多く、出演する俳優たちも映画俳優というよりは舞台俳優がほとんどで、新しいメディアである映画独自の世界をいまだ形成できずにいた。映画の草創期は、欧米でもまったく同様に舞台劇をフィルムに写したような作品が多かったが、それでは満足できない表現者たちがあちこちで出現してくる。
 特にヨーロッパでは、演劇舞台の代用品ではない映画ならではの表現が追求され、その流れが観客のニーズともマッチしていたため、映画だからこそ表現できる独自の物語(シナリオ)の制作へと向かっていった。出演俳優たちも、舞台俳優ではなく映画会社が養成した映画俳優が次々と登場し、舞台劇をしのぐような演劇集団として成長していった。
 でも、日本では芝居人気や役者の知名度が高かったせいか、なかなか映画オリジナルの作品群が生まれず、相変わらず「芝居映画」や「新派映画」が作られつづけていた。ただし、あとから映画へ進出してきた松竹は、映画に登場する女性を歌舞伎の女形(おやま)Click!ではなく、女優を育てて起用するという手法を採用している。この手法は大成功を収め、人気女優が出演するだけで映画館は超満員となり、松竹蒲田の女優たちは映画ファンの人気をさらっていった。それを見た日活も、従来の女形(おやま)が活躍する京都撮影所の芝居路線を排し、映画専門の女優の育成に注力しはじめている。
 松竹は、さらに競合相手の日活を引き離すために小山内薫Click!を顧問に迎え、芝居や新派とは異なるモダンな新劇ふうの映画作品を生みだしていった。大活もまた、それを追いかけて「映画は初めから映画劇の形式で」を合言葉に、次々とモダンな作品を制作している。大正期も後半に入り、日本ではようやく旧演劇の表現とは縁を切って、純粋な映画のためのシナリオや表現が追求されるようになっていった。
 当時の映画はサイレント(無声)映画で、日本で初めてトーキー(発声)映画が一般に公開されるのは、1931年(昭和6)に制作された松竹蒲田の『マダムと女房』(監督・五所平之助)とされているが、松竹では実験的に小山内薫による『黎明』が、すでに1927年(昭和2)にトーキー作品として制作されていたといわれる。だが、技術的な課題から実験的作品にとどまり、劇場で公開されることはなかった。
 無声映画は、いわゆる「活動弁士(活弁)」による台詞や解説によって観られるか、あるいは今日の外国映画のように字幕付きで観賞されるのが普通だった。豪華な映画館では、弁士が何人もいて映画俳優ごとに入れ替わったり、楽団ピットが用意されてBGMを流したりしている。わたしは知らなかったのだが、映画が芝居や新派の焼き直しではなく、映画独自の物語や表現を獲得するにつれ、「活動弁士(活弁)」という職業がなくなり映画の「説明者」と名のるようになったそうだ。
 説明者というと、まるで映画解説者の淀川長治Click!のような映画評論家をイメージしてしまうが、モダンな映画は弁士ではなく説明者がスクリーン横で、ストーリーを解説したり台詞をしゃべったりするようになった。その様子を、雑司ヶ谷で育ったシナリオライターであり映画評論家の森岩雄Click!が、1978年(昭和53)に青蛙房から出版された「シリーズ大正っ子」の1冊、『大正・雑司ヶ谷』に書いているので引用してみよう。
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 日本物の場合は「旧派」(芝居=歌舞伎のこと)にしても「新派」にしても台詞、声色、鳴物入りの賑やかさで、スクリーンに舞台の幻想を再現させるために、「弁士」が何人も居て役柄を一つ一つ受け持って行くやり方と、西洋物の場合は字幕によって説明されて行くので、その翻訳を日本語で行なう「弁士」と二つの役割があった。前者の方では浅草の土屋松濤という弁士が最も有名であった。土屋松濤は自分一人で何役もこなすことの出来る弁士であったが、賑やかしのために「楽屋総出」で舞台を勤めたものであった。しかし、このやり方は日本映画が映画劇の形式に代ると共にいつの間にか消えてしまい、西洋映画の「弁士」のやり方のみが残るようになった。そして「弁士」と言わず「説明者」と名乗るようになった。東京で、浅草では生駒雷遊、山の手では徳川夢声が、説明者の両横綱と称されていた。(カッコ内引用者註)
  
 説明者には、やはり得意分野があって喜劇や文芸物、活劇・時代劇といったジャンルごとに、担当の説明者も交代していたようだ。また、噺家のように上映される映画の前半を若い説明者が前座として、後半をベテランの説明者が担当していた。人気の高い説明者はギャラもよく、競合する映画館同士で引き抜き合戦もめずらしくなかった。
 ちょっと横道へそれるが、青蛙房から出版された「シリーズ大正っ子」が、本来の江戸東京地方の町場感覚を反映していて面白い。別の地方の方々は、よく江戸東京地方に昔から住んでいる人間のことを「江戸っ子」などと表現するが、もちろん地元ではこんな漠然とした出自が不明な表現はしない。「シリーズ大正っ子」がタイトル化しているように、「下谷っ子」「築地っ子」「本郷っ子」(森岩雄は雑司ヶ谷っ子)というように、各地域の街ごとに「っ子」を付けて呼ぶ。(同シリーズではほかに根岸、日本橋、渋谷、銀座、吉原、三輪などの町っ子の話がシリーズ出版されている)
 江戸東京は、他の都市に比べるとかなり広いので、各街ごとに言語(母語)や風俗文化、生活習慣、食文化、美意識、氏神、果てはアイデンティティまでが少なからず異なっている。「神田っ子」と「銀座っ子」、「日本橋っ子」と「深川っ子」がかなりちがうように、どの街の住人にもそれなりの特色があるので一緒くたにはできないのだ。だから、「オレは江戸っ子だ」などというのは、いったいどこの地域のどのような特色や文化を受け継いだ人物なのか、まったく正体が不明ということになる。
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 さて、上落合に開業していた公楽キネマClick!や、目白バス通り(長崎バス通り)Click!の入口近くに開業していた洛西館Click!(のち目白松竹館Click!)には、どのような弁士(説明者)たちが活躍していたのだろうか。両館で発行されたパンフレットClick!には、上映映画の解説と出演俳優だけで弁士(説明者)たちの名前は掲載されていない。
 だが、無声映画を字幕だけで観るよりは、出演者たちの喜怒哀楽をややオーバー気味に表現する弁士(説明者)の声が聞こえたほうが、当時の映画ファンや大衆には受けたのだろう。欧米の映画館には弁士(説明者)は存在せず、落語家や講談師など噺芸人の下地があった日本ならではの、独自に発達した映画興行の方法論なのだろう。
 公楽キネマや洛西館(目白松竹館)では、時代劇や現代劇などジャンルを問わずに上映されていたので、そのたびに弁士(説明者)も交代していたのだろう。また、観客に人気の弁士(説明者)もいて、映画とは別に弁士ファンといったものも存在したのだろうか。さらに、今日の声優のような、たとえば坂妻(ばんつま)Click!にはあの弁士というように、それぞれ専任のアテレコのような仕事をする弁士も出現していたのかもしれない。
 大正期の古い映画表現が廃れ、新しい映画の出現について同書より引用しよう。
  
 (前略)日本映画の形も変化して行くと共に、内容も次第に移り変わり、題材もいつまでも歌舞伎劇や新派劇の焼き直しでは済まされなくなり、新しい題材と新しい俳優を大衆は要望することになった。大正十五年、日本の旧派映画の代表的俳優であった尾上松之助がこの世を去ったことは、その意味では象徴的な出来事であった。もうこの頃は大衆は尾上松之助の英雄主義的な主題は喜ばず、坂東妻三郎や大河内伝次郎のニヒリズム的な物語の映画化を歓迎するように変わって来ていた。
  
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 映画が、芝居や新派の舞台の焼き直しから、映画独自のシナリオや表現に移行しても、弁士(説明者)はいなくならなかった。さらに、トーキー映画が出現したあとも、しばらくの間は彼らの仕事は継続していた。しかし、1935年(昭和10)をすぎるころからトーキー映画が一般的になり、シナリオや俳優の演技も無声映画時代よりははるかにリアルかつ複雑になるにつれ、弁士(説明者)はそろってお払い箱となり、映画館からは軒並み姿を消していった。

◆写真上:早稲田通りに面した、上落合521番地の公楽キネマ跡(右手)の現状。
◆写真中上は、大正末に近接する火の見櫓から月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!が撮影した公楽キネマ。は、大正末の正月に撮影された目白バス通り(長崎バス通り)に面した洛西館(のち目白松竹館)。は、洛西館(目白松竹館)跡の現状。
◆写真中下は、公楽キネマのパンフレット()と目白松竹館のパンフレット()。は、公楽キネマの映画パンフレット見開き。は、目白松竹館の同見開き。
◆写真下は、弁士(説明者)を代表する生駒雷遊()と徳川夢声()。中左は、1978年(昭和43)出版の森岩雄『大正・雑司ヶ谷』(青蛙房)。中右は、「シリーズ大正っ子」の広告。は、1931年(昭和6)公開のトーキー映画『マダムと女房』(五所平之助/松竹)。

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佐伯祐三『下落合風景画集』の第8版ができた。 [気になる下落合]

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 2007年(平成19)6月に、初めて『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』(私家版)の初版Click!をリリースしてから、すでに15年の歳月が流れた。その間、新しい作品画像を入手したり、佐伯の時代に近い写真や資料が手に入ると、そのたびに改訂して第2版Click!第4版Click!第6版Click!……と版を重ねてきた。
 最後に改訂したのは2015年(平成27)1月の第7版で、すでに7年が経過している。そこで、この7年間に集まった佐伯祐三Click!連作「下落合風景」Click!の新たな作品や、従来はモノクロ掲載だった作品画面を撮影できたカラー写真に差しかえたり、新たな資料を加えたりして2022年版(第8版)を制作してみた。今回は、従来の正方形だったページをタテ長の長方形にして、より図録や画集らしいレイアウトしてみた。これも地元をはじめ、みなさまの温かいご支援やご協力のおかげで、そのお心づかいに深く感謝している。
 掲載した「下落合風景」はおよそ53点で、下落合が描かれていない作品が1点(『踏切』Click!)、描画場所がいまだ特定できていない作品が1点(『堂(絵馬堂)』Click!)を加えて55点だ。また、曾宮一念アトリエClick!の東隣りに住んでいた、浅川秀次邸Click!の塀を描いたとみられる『浅川ヘイ』Click!と、『セメントの坪(ヘイ)』Click!の下に描かれていたとみられる佐伯自身の「アトリエ風景」Click!はあえて含めなかったが、東京美術学校の門前に開店していた沸雲堂Click!浅尾丁策Click!が所有していた、佐伯アトリエの『便所風景』Click!(戦後は行方不明)は画面が存在しないものの、佐伯ならではの視線を感じる作品なので、旧・アトリエClick!の便所の扉写真とともに含めることにした。
 こうして、下落合における佐伯の足跡をたどってくると、「制作メモ」Click!に書かれた30数点のタイトルだけが「下落合風景」でないのは明らかだが、その制作期間もまた2年近くにおよんでいることがわかる。1926年(大正15)9月1日に行われた、佐伯アトリエにおける東京朝日新聞記者(「アサヒグラフ」担当)との会見Click!で、カメラマンが撮影した佐伯一家の背後には、すでに曾宮一念アトリエの前に口を開けた諏訪谷Click!の斜面に建つ家Click!とコンクリート塀を描いた、従来から『セメントの坪(ヘイ)』Click!と呼称している画面が確認できるので、少なくとも連作「下落合風景」は1926年(大正15)の8月以前からスタートしていたのが歴然としている。また、そのキャンバスの下に描かれていたとみられる、佐伯祐三アトリエの北に面した採光窓らしい画面を入れれば、さらに以前から下落合の風景に取り組んでいたとも想定できる。
 そして、1927年(昭和2)6月17日に1930年協会Click!の第2回展が開催される直前、1926年(大正15)の秋から『八島さんの前通り』Click!(当時は東京府の補助45号線計画道路に指定)で宅地の整地作業Click!が進んでいた納三治邸Click!が、翌年の竣工直前か竣工後に描かれたとみられる『八島さんの前通り(北から)』Click!の画面から、佐伯は1927年(昭和2)の少なくとも5~6月まで、連作「下落合風景」を描きつづけていたことになる。これまで何度か書いてきたが、同シリーズが『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』に収録した、わずか50点余どころではないことが想定できるのだ。
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 改めて、佐伯祐三の『下落合風景画集』を編集していて感じたのだが、タイトルを『下落合工事中・造成中・開発中風景画集1926~1927』とでもしたほうが、よほど適切のような気がしてくる。佐伯が「下落合風景」に選び好んで描く場所のほとんどが、当時はまさにそろいもそろって工事中・造成中・開発中の殺伐とした地点ばかりだからだ。したがって、下落合の中・西部にかけての画面が中心で、山手線の目白駅や高田馬場駅に近い住宅街として落ち着きを見せはじめていた、そして大きな屋敷や西洋館が多く建ち並んでいた下落合の東部は、ほとんどタブローにしていない。当時、下落合東部のお屋敷街を好んで描いたとみられる、下落合584番地のアトリエClick!にいた二瓶等Click!の連作「下落合風景」Click!とは、まさに対照的なモチーフ選びだ。
 また、下落合をはじめ周辺地域に建っていたレンガ造りや石造り、コンクリート造りのビルや商店、住宅を佐伯はことごとく避けて描いている。よく「下落合の風景に飽きたらず、パリの硬質な街角の風景を描きたくなり再び渡仏した」と説明されるが、また本人も再渡仏の理由のひとつとして周囲に語っていたようだが、それでは連作「下落合風景」を描いていた上記の姿勢(テーマ)とは大きく矛盾する。
 佐伯は、米子夫人Click!実家Click!がある新橋駅近くの土橋Click!へ出かけると、レンガ造りのガードClick!をモチーフに制作したりしているが、下落合ではそのような風景モチーフをほとんど選ばず、あえて工事中・造成中・開発中の、作業員が見えないだけで常に槌音が響いているようなエリアばかりに足を運んでいるのだ。むしろ、工事音が聞こえるから、それに惹かれるように描く場所を決めていった……とさえ思えてくる。佐伯本人が、周囲に語っていた再渡仏の「理由」とは別に、なんらかの明確な目的意識をもちながら、これら「下落合風景」のモチーフは選ばれているように感じる。
 パリの街角を描く佐伯祐三の視座(テーマ性)とは、明らかに異なる眼差しによる強い画因が存在していたと考えた方が、むしろ自然であり理解しやすいだろう。「滞仏が長期間におよび一度帰国したけれど、しかたがないので心ならずも地元の下落合風景に取り組んで描いていた」のでは説明がつかない、残された作品の画面と佐伯の足どりが透けて見えてくる。そこには、あえて工事中・造成中・開発中の、つまり整然としていない下落合の風景ばかり選んで描く、もうひとつ別の佐伯の視座(テーマ性)を強く感じるのだ。
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 掘りおこされた土、耕地整理が済んで草いきれが漂う雑草だらけの造成地、どこかで響く「よいとまけ」Click!の声と振動、次々と運びこまれる築垣や縁石用の大谷石、砂利や資材を運ぶトロッコの軌道、地鎮祭が終わったばかりの御幣がゆれる赤土の地面、荒玉水道Click!の水道管を埋設するため道路端に積まれた土砂の山、下水の側溝を固めるために積まれたセメントの樽、棟上げ式がすんだばかりで骨組みだけの西洋館、ペンキやクレオソートClick!が強く匂う入居者を待つばかりの新築住宅……、そんな情景が繰りひろげられている下落合の中・西部を、佐伯祐三は丹念に歩きながらモチーフをひろって描いている。
 大正末から昭和初期にかけ、東京の郊外ならどこでも観られた風景で、特に下落合の情景がめずらしかったわけではない。めずらしさの観点からいえば、目黒の洗足田園都市Click!とほぼ同時期に開発がスタートした目白文化村Click!近衛町Click!など、従来の日本の住宅街とはかなり異質な街並みの存在だが、佐伯は目白文化村のほぼ外周域を描くだけで、近衛町にいたっては近よりすらしていない。そして、山手線の駅に近づくほどに「下落合風景」の制作画面が急減する傾向は、なにを意味しているのだろう。
 素直に解釈すれば、東京郊外に展開する開発途上の光景を、下落合という自身のアトリエがある地元に代表させて(プレパラート化して)、ことに工事中・造成中・開発中の雑然として落ち着かない、ことさらキタナイ風景をわざわざ選んで足をはこび描いていったということになるが、佐伯はそこになにを感じて、どのような通底するテーマの経糸を設定し、またどのような“美”の解釈を見出していたというのだろうか。
 風でヒラヒラと手拭いが揺れる、アトリエの『便所風景』を描く佐伯祐三のことだから、凡人にはうかがい知れない彼ならではの“画家の眼”が、その感性とともに存在していたのであろうことはまちがいないのだろうが、パリでも下落合でも雑然としたキタナイ風景に惹かれ突き動かされる眼差しや美意識は、いったいなにに由来するものなのだろうか。新しい作品が見つかるたびに、そんな疑問が繰り返し湧きあがってくるのだ。
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 『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』第8版は、PDFファイルにも落としているので、ご希望があれば3.6MBほどの容量なのでメールに添付してお送りすることが可能だ。PDF画集をご希望の方は、メールでご一報いただければさっそくお送りしたいと思う。

◆写真上:拙い『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』第8版の表紙と表4。
◆写真下:それぞれ、44ページある本文ページの部分拡大。

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下落合の板碑から鎌倉時代を想像する。 [気になる下落合]

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 落合地域に残る板碑は、新宿区内のほかの地域に比べて相対的に多い。新宿区の板碑保存を見わたすと、信濃町駅も近い南元町の一行院を中心とした一帯と、下落合の薬王院Click!を中心とした落合地域が目立つ。しかし、東京全域を見まわして比較すると、新宿区は相対的に板碑の残存率が低い。これは、江戸期から牛込地域や四谷地域の市街地化が進んでいたため、開発に不要な板碑は廃棄されるか、地震や火災などの混乱で失われるか、あるいは寺々など移転で移動されてしまったケースが多いようだ。
 現在でも、たとえば新宿区立中央図書館の移転にともない、落合地域で発掘された1基の板碑は、同図書館の移転先である大久保地域へ持ち出されてしまったのだろう。この板碑とは、下落合3丁目12番地(現・中落合3丁目)の目白文化村Click!で見つかった、暦応三年(1340年)八月日の年紀が入る室町時代の最初期のものだ。
 落合地域でもっとも古い板碑は、薬王院に収蔵されている徳治二年(1307年)十二月九日の年紀が入るもので、北条時宗の子で第10代執権に就任した北条師時の時代だ。モンゴルの元軍と朝鮮の高麗軍の連合軍が、九州へ侵攻してきたいわゆる「元寇」の悪夢や、鎌倉大地震による大混乱からようやく国内が落ち着きをとりもどしつつあったころ、下落合に拓けた村落で板碑が建立されたことになる。
 薬王院には、落合地域の各所に建立されていた板碑が、上記の鎌倉期に建立された徳治年間のものも含め、計8基が保存されている。年紀が確認できるものとしては、北関東の足利尊氏Click!が活躍する室町最初期にあたる建武五年(1338年)の板碑、足利義詮が子の足利義満に将軍職を譲った貞治六年(1367年)の板碑、足利義満が北山文化を形成する永徳元年(1381年)六月十一日の板碑、そして足利義政による東山文化が栄える宝徳四年(1452年)七月四日の板碑の5基だ。残りの3基は、より古い時代のものなのか表面が摩耗していたり、年紀の部分が欠損して時代を特定できない板碑だ。
 また、西落合1丁目の自性院Click!にはめずらしい板碑が残っている。私年号である「福徳」の入った、1490年(延徳2)の建立とみられるものだ。同板碑について、1976年(昭和51)刊行の『新宿区文化財総合調査報告書(二)』(新宿区教育委員会)から引用してみよう。
  
 最新のものは西落合自性院の福徳私年号板碑で、延徳二年(一四九〇)と推定されているものである。/<新宿区には>紀年銘の有る板碑の絶対数が少いため、造立時期の変遷をたどることができないが、全体の約半数が鎌倉末から南北朝前半にかけて集中していることは、ある程度時代の傾向を知ることができるであろう。(<>内引用者註)
  
 「福徳」は、関東地方を中心に東日本全域で使われた室町時代の私年号で、1489年(延徳元)を福徳元年とする史料と1490年(延徳2)を福徳元年とする史料が混在している。
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 以前から記事に書いているように、井上哲学堂Click!がある和田山Click!の南側には鎌倉期の遺構が見つかり、和田山および「和田」や「大和田」の地名が残る周辺には、鎌倉幕府の和田氏Click!に関するなんらかのいわれがあったとみられ、下落合の七曲坂Click!の坂下から出土した鎌倉期の板碑とともに、同坂の頼朝伝説は後世の付会が加わっていそうなものの、どこかで関連している可能性がありそうだ。
 石橋山の戦で敗れた源頼朝は、真鶴経由で房総半島へと上陸し、江戸地域を横断して大まわりをしながら鎌倉をめざしている。その途中で、和田氏が布陣したのが和田山ではないかというリアルな推測が、地元の伝承とともに成立する。「和田義盛の館があった」あるいは「敗走した和田氏の残党が棲みついた」とする、和田山周辺に残る別の伝説が史実に照らして不自然なことは、以前の記事にも書いたとおりだ。
 だが、同じ「和田」の地名がついた和田戸(山)地域(戸山ヶ原Click!の東側)にも、「和田戸氏」の館があり源頼朝が休息したという江戸期の伝承(金子直德Click!『和佳場の小図絵』Click!)が残っているが、そもそも鎌倉幕府に「和田戸氏」という氏族や御家人は存在しないし、『吾妻鏡(東鑑)』にも登場していない。ひょっとすると奥州戦役のときに、鎌倉幕府軍が戸山ヶ原あたりで休憩したいわれでもあり、そのときに和田氏と関連するなんらかのエピソードが記憶されたものだろうか。
 いつの時代かは不明だが、落合地域の西隣りにある和田山と和田戸(山)を混同し、また時代も前後してしまって混淆が生じた誤伝ではないだろうか。ただし、「和田」という地名Click!が戸山ヶ原のエリアにまで及んでいるのは留意する必要があるだろう。戸山ヶ原を通過する鎌倉街道の先(北側)から、鎌倉支道が分岐して和田山方面へと向かうのは事実なので、鎌倉街道および鎌倉支道の開拓など、「和田」に関するなんらかのいわれが、かたちを変えて伝えられているのかもしれない。
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 先述のように、下落合の七曲坂Click!の坂下、すなわち下落合(字)本村Click!の東側で発見された板碑は、薬王院に保存されている1307年(徳治2)の鎌倉期年号が刻まれたものだ。(冒頭写真の右側) 年代はかなり異なるが、七曲坂には1180年(治承4)ごろの逸話とされる源頼朝伝説が、江戸時代の寛政年間まで伝わっていたことが記録されている。金子直德『和佳場の小図絵』から、原文をそのまま引用してみよう。
  
 七曲り坂
 (源頼朝が)昔鼠山に陣を取し時、奥州勢の来らん時の心得にや此坂にて兵の数をはかりし事ありとも、いかにも覚束なき説なり後人糺給へ(カッコ内引用者註)
  
 鼠山Click!は、七曲坂Click!を北へ上った突きあたりにある地名だが、1180年(治承4)というと頼朝が伊豆で挙兵した年であり、石橋山の戦で破れ安房から江戸を大まわりして、10月に鎌倉入りした年でもある。つまり、和田山の和田氏布陣の伝承とまったく同じ時期の出来事として、七曲坂の頼朝伝説は語られていたことになる。
 七曲坂は、頼朝自身が開拓を命じたかどうかは「覚束」のない話で後世の付会臭がするが、七曲坂の構造は鎌倉で数多く造られた切り通しの工法と同じ構造をしている。鎌倉街道や鎌倉支道を含め、鎌倉幕府によるなんらかの開発譚が江戸期まで伝わり、鎌倉支道(雑司ヶ谷道Click!)と鎌倉支道(清戸道Click!)とを結ぶ切り通し坂として語られつづけてきた可能性がありそうだ。坂下で発見された鎌倉期の板碑も含め、目白崖線に通う最古クラスの坂道のひとつと考えてもまちがいないのではないか。
 そんな古い伝説や由緒が語られる七曲坂を、全的に打(ぶ)ち壊そうとする計画が、いまだ廃棄されずに進行中だ。少子高齢化や人口減にともない、クルマの台数が減少Click!しているにもかかわらず、いまだ戦後すぐのころに立案された道路をそのまま継承する補助73号線計画Click!だ。(ドライバーやクルマの減少および減少予測は、国土交通省などの最新統計データに詳しい) 西池袋からつづく同線は、上屋敷公園をつぶし目白3丁目から4丁目を斜めに突っ切る道幅が十三間道路以上の25m、下落合を縦断する道幅は20m(入口と出口は23m)で、七曲坂をすべて破壊して十三間通り(新目白通り)Click!へと貫通する計画だ。
もっとも、政権に都合がいいよう基礎データを改竄・捏造する腐敗が、同省が発表する統計データに浸透していなければの話だが……。旧・ソ連などの官僚テクノクラートが創作した、全体主義国家のデッチ上げデータをマネしてんじゃねえぞ!(失礼)
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 この時代遅れな道路計画で、目白や下落合の閑静な風情や景観はおろか、鎌倉時代に由来する切り通し坂の史蹟まで破壊されてはたまったものではない。新宿区の資料では、ちゃっかり新築した下落合図書館を避け、下落合中学校の校庭の30~40%ほどを提供し、氷川明神は本殿を削られそうな図面が引かれている。七曲坂筋の両側に建つ住宅やマンションは、ことごとく立ち退くことが前提となっている高度経済成長期を髣髴とさせるような時代錯誤の計画へ、少し気の早い気もするがいまから反対の意思表示をしておく。

◆写真上:鎌倉期から室町期まで、8基の板碑が保存された薬王院。
◆写真中上は、薬王院に保存された徳治二年(1307年)の年紀が入る板碑()と、建武五年(1338年)の年紀が刻まれた板碑()。中左は、目白文化村の第一文化村にあった暦応三年(1340年)の板碑。中右は、薬王院の貞治六年(1367年)の年紀が入る板碑。は、薬王院収蔵の永徳元年(1381年)年紀の板碑()と宝徳四年(1452年)年紀の板碑()。
◆写真中下は、2基とも薬王院が保存する年紀不詳の板碑。中左は、薬王院収蔵の年紀不詳の板碑。中右は、私年号「福徳元年」の入る自性院に保存された1490年(延徳2)の板碑。は、1938年(昭和13)に撮影された自性院の本堂。
◆写真下は、1955年(昭和33)撮影の七曲坂。は、七曲坂に設置された1690年(元禄3)の年紀入り庚申塚。は、2016年(平成28)の「新宿区都市施設等都市計画図」。

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「江戸へいってくら」「東京へいってくら」。 [気になるエトセトラ]

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 江戸初期に、大川(隅田川)の砂洲を埋め立てて造成した佃島Click!の住民は、佃の渡しClick!に乗って川向こうの明石町や築地に出かけていくことを、「江戸へいく」といっていた。もともと徳川家康に招かれて、30戸ほどの漁民が大坂(阪)から江戸へやってきて住みついたのが佃島なので、当時は大川の西からこっちが江戸で東側は下総国だったわけだから、感覚的に「江戸へいく」でも自然でおかしくはなかっただろう。
 ところが、江戸後期の大江戸(おえど)時代、すなわち朱引き墨引きが大きく拡大して、大川の東側に拡がる本所や深川、向島、亀井戸(亀戸)などの地域が江戸市中に編入されたあとも、「江戸へいく」という表現は変わらなかった。時代が明治になり京橋区佃島になってからも、佃島の住民は西側の対岸へわたることを「東京へいく」と称していた。
 あくまでも、徳川家康に招かれて江戸にやってきたという彼らの自負心と、川中の島であるがゆえに住民の間で形成されたとみられる閉鎖的なミクロコスモス(ムラ社会)のような意識から、佃の渡しやポンポン蒸気に曳かれた渡船、のちに佃大橋をわたって明石町や築地側へいくことを、現代までつづく「東京へいってくら」(「東京へいってくるわ」を略した東京弁下町方言の男言葉)と表現しつづけてきたのだろう。そのような自負心や優越感が、室町期の江戸城下からつづく江戸地付きの漁民たちとの間で齟齬やイザコザを起こし、訴訟沙汰にまで発展した記録Click!がいまに伝えられている。
 佃島の自負心は、最近までつづく徳川家への白魚Click!献上という“年中行事”にも表れていた。1994年(平成6)に岩波書店から出版されたジョルダン・サンド/森まゆみ『佃に渡しががあった』より、佃島住民へのインタビューの一部を引用してみよう。
  
 今でも徳川さんには白魚を毎年、届けてるんだ。天皇家の方は昭和天皇が生物学をやってたでしょう、この白魚はどこでとれるのか、と聞かれてチョン。いま、佃島でとれるわけないやね。まァもともとオレらが献上してたのは徳川様なんだから、いいんだけどね。
  
 「チョン」は、東京方言で「不要」「お払い箱」「用済み」「クビ」などの意味だ。
 さて、この「江戸へいってくら」、明治以降は「東京へいってくら」という表現は、佃島とは反対側にあたる江戸近郊の西北部でもつかわれただろうと想像していたが、驚いたことに、つい最近まで「江戸へいってくら」「東京へいってくら」がつかわれていた地域が、落合地域の西隣りにあたる旧・野方町(中野区)に残っていたのを知った。
 江戸後期、すなわち大江戸時代の朱引き墨引きは大きく拡大し、下落合村や上落合村、葛ヶ谷村、長崎村、柏木村、角筈村、代々木村、渋谷村などは、かろうじて朱引き内側の御府内(江戸市中)、つまり南北の江戸町奉行所の管轄内となったが、上高田村や新井村、中野村、片山村、江古田村などは朱引きに接する外側のエリアであり、江戸勘定奉行所の出役(代官)か関東取締出役(八州廻り)の管轄だった。
 1989年(平成元)に中野区教育委員会から出版された、『口承文芸調査報告書/続 中野の昔話・伝説・世間話』から引用してみよう。
  
 「きょうはどちらへ」、「きょうは江戸」
 中野駅を中野停車場といった。ともかく電車に乗れば、まあ仮りに、駅の近所で人に会うでしょ、知り合いの人に。「きょうはどちらへ」って、こう言うわね。そうすんとね、年寄りは、「うん、きょうは江戸」。われわれ若い、子どもだとか若者は、「うん、きょうは東京」って。電車乗って、どっか行くと、東京。年寄りは「きょうは江戸」。だいたいがまあ、新宿から先は江戸だよ。
  
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 西隣りの中野区で上記のような地理感覚、つまり「新宿から先」の四谷区から向こっかわへ、つまり江戸東京の(城)下町Click!東京15区Click!エリアへ出かけることを、「江戸へいく」「東京へいく」と表現していたとすれば、落合地域でもまったく同様の感覚だったのではないか?……という想像が働いていた。ましてや、中野地域は早くから甲武鉄道、のちに中央線が敷設されていたにもかかわらず、そのような表現が近年まで残っていたとすれば、昭和初期までは最寄り駅が山手線の目白駅か高田馬場駅しかなかった落合地域でもまた、「江戸へいく」「東京へいく」といういい方が、かなりあとの時代までつかわれていたのではないかと想定したからだ。
 だが、地元の資料にいろいろ当たってみても、そのようなエピソードは記録されておらず、落合地域が江戸東京の城下町に対して、地理的にどのような意識を抱いていたのかがつかめていない。ただ、「彰義隊」になりすまして商家や農家へ強盗に入った江古田村の半グレ息子Click!たちが、上落合村の村人たちに袋叩きにあって打ち殺された(東京方言では「ぶちころされた」「ぶっころされた」)あるいは捕縛されたとき、町奉行所から取り調べのために同心たちが出張ってきた際、わざわざ八丁堀からきたのかどうかを気にしているので、やはり市街地に対して江戸近郊という意識が強かったのだろうと想定していた。
 ところが最近、それが中野地域や落合地域どころではなく、東京15区=大江戸の旧・市街地でも、「江戸へいってくら」「東京へいってくら」がつかわれていたのを知った。自分の住む地域を、「江戸」とも「東京」ともとらえていなかった住民は、赤坂や麻布、牛込、小石川あたりの、(城)下町の中でも「山手」「乃手」と呼ばれた一帯に住む人々だ。彼らは、山や森におおわれた乃手は江戸東京の「街中」ではなく、江戸東京は商業が発達し水道網が普及していた繁華街ととらえていたフシが見られる。また、明治になってからも、たとえば小泉八雲Click!の「東京の赤坂には紀伊国坂があった」の出だしで有名な『貉(むじな)』で描かれるように、赤坂の谷間は人もめったに往来しない寂しい場所だった。
 記録したのは永井荷風Click!で、1994年(平成6)に岩波書店から出版された永井荷風『荷風全集』第17巻収録の、『井戸の水』から引用してみよう。
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 江戸のむかし、上水は京橋、日本橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れていたばかりで、辺鄙な山の手では、たとえば四谷また関口あたり上水の通路になっている処でも、濫(みだり)にこれを使うことはできなかった。それ故、おれは水道の水で産湯をつかった男だと言えば江戸でも最(もっとも)繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ッ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といえば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでいるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったそうである。)
  
 永井荷風は、山手の年寄りから「江戸へ行ってくる」というエピソードを聞いているとみられるが、明らかに神田上水Click!玉川上水Click!による水道網Click!がいきわたった街場=繁華街=江戸東京ととらえていたのがわかる。面白いのは、中野区あたりでは「新宿から先」、すなわち山手線の内側(四谷大木戸が目安か?)あたりからが江戸東京ととらえていたのに対し、(城)下町の乃手ではさらに範囲を狭めて、中でも水道が普及している江戸前期からつづく繁華な(城)下町が「江戸」だととらえられていることだ。
 この伝でいけば、芝や虎ノ門、市ヶ谷、本郷などではどうだったのかが気になるが、おしなべて千代田城Click!の西から北にかけて形成された乃手の住民たちが、(城)下町の全体からみると繁華な商業地(おもに千代田城の南東から北東にかけてある街々)のことを「江戸(東京)」と表現していたように思われる。永井荷風も書いているように、神田明神社Click!山王権現社Click!の氏子町の、さらに外側に拡がる地域で「江戸へいく」、明治前期あたりまでは「東京へいく」という表現が用いられていたのではないか。
 ちなみに、明治以降は京橋エリアと規定された佃島の住民たちは、神田明神社でも山王権現社でもなく、大坂(阪)から同島に分祀した住吉社の氏子町だった。また、江戸期の佃島には水道が引かれず、大川の中洲で良質な清水が湧きでる井戸水を活用していたが、最近は井戸水に海水が混じりしょっぱくなってしまったと、丸久の主人から聞いている。
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 うちの親父が、盛んに「東京へいってくら」といっていたのは、先祖代々の故郷Click!を離れて、仕事の関係から相模湾の海街Click!に住んでいたころだ。本人にしてみれば、「東京へいってくら」は非常に忸怩たる思いがこめられていたのかもしれないが、わたしはそんなこととは露知らず、東京のお土産を期待したものだが、買ってくる土産物が江戸期からつづくどうしようもない玩具Click!ばかりで、ガッカリしたことはすでに書いたとおりだ。

◆写真上:佃島から築地や明石町方面へ、「江戸東京にいく」架け橋の佃大橋。
◆写真中上は、佃堀ごしに眺めた佃島住吉社の本殿裏。は、1994年(平成6)に岩波書店から出版されたジョルダン・サンド/森まゆみ『佃に渡しががあった』()と、同年に岩波書店から刊行された永井荷風『荷風全集』第7巻()。は、『佃に渡しがあった』に掲載の尾崎一郎が撮影したポンポン蒸気に曳かれる佃の渡船。見えている対岸が佃島で、わたしも親に連れられ本場の佃煮を買うために渡船には乗っている。
◆写真中下は、佃堀から佃小橋ごしに石川島方面を眺めたところ。は、1929年(昭和4)に撮影された中央線・中野駅。戦後しばらくの間まで、中野から電車で新宿方面に出ることを「東京へいく」といっていた。は、明治初期に撮影された千代田城外濠の北にあたる牛込御門(牛込見附)で現在の中央線・飯田橋駅あたり。
◆写真下は、小日向にあった黒田小学校Click!の跡地で発掘された神田上水の開渠跡。は、経年や地震ではビクともしなかった水道管の幹線である万年石樋()と、明治以降の金属製による水道管よりも耐久性が高く漏水率も低いといわれる、江戸の船大工が総がかりで製造した木材の伸縮を抑えた水道管の支線木樋()。は、ビルの工事などで地下から出現する木樋の水道支管と、流水を汲む枡(ます)。これを地下水を汲みあげる井桁を組んだ「井戸」と勘ちがいした、江戸が舞台の大ウソ時代劇ばかりだ。(時代考証がいい加減な、京都にある時代劇のセットあたりで撮影されているものだろうか?) 乃手では「井戸端会議」だったが、町場では「水道(すいど)端会議」だろう。このような水道網が、大江戸の(城)下町の地下には縦横に張りめぐらされていた。世界最大の都市だったにもかかわらず、井戸が主体のヨーロッパ諸国のように、街人口の大半が死滅してしまう伝染病・感染症禍を最小限に食い止められたのは、常に流れる衛生的な水道網の普及によるところが大きいともいわれる。

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伊藤千代子がことぞかなしき。 [気になる下落合]

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 歌人で国文学者の土屋文明は、これまで二度ほど拙ブログの記事に登場している。最初は、諏訪高等女学校の記念写真で清水多嘉示Click!平林たい子Click!とともに写る土屋文明Click!であり、二度めは佐伯祐三Click!の田端駅周辺での足取りを追いかけた記事で、芥川龍之介Click!との交友における土屋文明Click!だった。
 1922年(大正11)3月、諏訪高等女学校の卒業式で撮影された記念写真が残っている。上段の右にいるのが、同年4月より松本高等女学校の校長に就任する予定の土屋文明で、上段の左側にいるのがもうすぐ下落合の中村彝Click!のもとへ立ち寄り、『下落合風景』Click!を制作することになる美術教師の清水多嘉示Click!だ。そして、清水多嘉示のすぐ前にいる少女こそが伊藤千代子だ。
 土屋文明は、1924年(大正13)に長野の木曽中学校校長を辞して(赴任を拒否したとする資料もある)、東京帝大を卒業して以来再び東京へやってきて、小石川区上富坂13番地のいろは館に宿泊しながら法政大学文学部講師の職を見つけている。この間、伊藤左千夫忌や正岡子規忌、長塚節忌、山本信一忌などの歌会に参加したり、短歌誌「アララギ」への寄稿をつづけ平福百穂や岡麗、斎藤茂吉Click!芥川龍之介Click!、武藤善友、菊池寛Click!らと交流している。そして、1925年(大正14)10月ごろ、芥川龍之介の紹介で田端500番地に転居し、当時は足利で暮らしていた妻と子どもを呼びよせている。
 翌1926年(大正15)7月、土屋一家は下落合1501番地の落合第一府営住宅Click!へと転居してくる。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」には、落合第一府営住宅の「二十」号に「土ヤ」の名前が採取されている。郵便のあて名は、番地を書かなくても「落合府営住宅1-20号」でとどいただろう。当時の府営住宅Click!は、自邸を建設するための積立資金制度がメインだったので、20号に自邸を立てた家主が都合で転居して貸家にしていたか、あるいは自邸を手放したあとに土屋文明一家が入居していると思われる。
 さて、1922年(大正11)3月に諏訪高等女学校を卒業した伊藤千代子は、故郷の諏訪で一時的に代用教員をつとめ、つづいて仙台の尚絅女学校英文予科で学んだあと、1925年(大正14)に20歳で東京女子大学の英語専攻部へ編入している。このとき、田端あるいは下落合にいた恩師の土屋文明を訪ねたかどうかは不明だが、諏訪高女時代に白樺派や大正デモクラシーの雰囲気を身にまとった教師の彼から、強いインパクトを受けたのはまちがいないだろう。土屋は、同女学校で英語と国語、それに修身を教える教師だったが、伊藤千代子が英文科あるいは英語の道へ進んだのを見ても、多大な影響を受けたとみられる。
 土屋文明の思想性について、1961年(昭和36)に南雲堂出版から刊行された近藤芳美『土屋文明―近代短歌・人と作品―』が、端的に表現しているので引用してみよう。
  
 思想の形成期は大正初年、一次大戦と重なるデモクラシーおよびヒューマニズムの移入の時である。その世代の知識階級の大半と同じように、彼の「思想」の骨格をなすものは自由主義的ヒューマニズムともいうべきものであったのだろう。「白樺」の青年文学者らと共通する清潔な理想主義が彼の文学と人生の考え方のどこかにはある筈といえよう。彼の世代の一人、芥川竜之介はその思想の限界に立った時に自殺しなければならなかった。「新思潮」の旧同人久米正雄らは懶惰な遊民リベラリストとして堕落して行った。茂吉は熱狂的な戦争歌人となり、中村憲吉は東洋閑寂の世界にこもる趣味詩人となった。その中で、土屋文明だけがなお、自己の「思想」の限界を知りながら、時代と、時代に生きる人間の苦しみとを執拗に歌いつづけていたのは何によるものなのであろう。
  
 土屋文明が、青春時代に身にまとった自身の思想性と、世の中の矛盾に対するその「限界」を十分知りつつ、歌作をつづけていた動機がなんであるにせよ、「アララギ」に寄せられた批判に対しては、斎藤茂吉のように嫌悪感や憎悪をむき出しにして感情的に罵倒することもなく、ほとんど沈黙したまますごしている。
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 一方、東京女子大学へ進んだ伊藤千代子は、土屋文明から学んだ「自由主義的ヒューマニズム」では、当時の社会矛盾や課題がまったく解決できないことを痛感していく。その「限界」を飛び越えるために、彼女は左翼運動に身を投じることになった。東京女子大へ入学したその年、彼女はふたりの友人を誘って社会科学研究会をつくり、『空想から科学へ』や『資本論』を読みはじめている。彼女がめざした「変革」とは、現代ではあたりまえな主権在民(当時の女性には選挙権さえなかった)と社会的平等の実現だった。
 土屋文明から影響を受けた伊藤千代子がめざしたのは、今日から見れば自由主義的民主主義思想ととらえることが可能だろうが、治安維持法に反対して腐敗した政党政治を否定し、軍国色が強まりはじめた昭和初期の流れへ主体的に抵抗するには、左翼活動の道しか残されていなかったところに彼女の悲劇があるのだろう。
 1928年(昭和3)の「三・一五事件」Click!の朝、伊藤千代子は滝野川の路上で特高Click!に逮捕され、のちに築地署で小林多喜二Click!を虐殺する毛利基Click!警部の凄惨な拷問を受けることになった。収監された市ヶ谷刑務所は、特に食事が粗末でひどかったらしく、彼女は拷問によるダメージに加え徐々に身体を壊し衰弱していく。それでも、気丈な手紙を家族あてに書いて出しながら、保釈されて活動にもどれる日を待ち望んでいたとみられる。
 同年8月、伊藤千代子は獄中で意識不明の重体となり病院へ移送されている。この病院は、のちに今野大力Click!がやはり重体になって送られた、陸軍軍医学校Click!の下部組織化していた済生会病院Click!ではないだろうか。市ヶ谷刑務所の刑死者慰霊碑から戸山ヶ原Click!の同病院までは直線距離で800mほどの距離だが、そこでは満足な治療を受けられなかったという証言が残っている。特高の取り調べの夢でもみるのか、「嫌だ、知らない」と叫んだり、「先生(土屋文明)のところへ行きたい」とうわごとでつぶやいたりしている。同年9月24日、伊藤千代子は釈放されないまま急性肺炎になり、24歳で死亡している。
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 三・一五事件Click!は、マスコミにはいっさい伏せられていたため、土屋文明は教え子の死をしばらくは知らなかった。1928年(昭和3)ごろの土屋文明は、下落合でどのようなことを思い暮していたのだろうか。近藤芳美の『土屋文明』から引用してみよう。
  
 (『往還集』の)作品の中に、その現実直視の歌い方に関わらず、しだいにペシミズムの影が濃くなって来ている事に気付く。それを暗い時代の到来の予感と結びつけて考えることは出来ないだろうか。相次ぐ思想弾圧の日、文壇は大正の末年から昭和のはじめにかけてほとんどプロレタリア文学の一色におおわれていた。その時代の中で「あやまたず一世を終へる」と歌い、その願いを「いやし(卑し)」と知ってつぶやく一人の言葉が、土屋文明の作品に今保ちつづられている姿勢であり、さらに彼の生涯の文学をつらぬく抜きがたい性格だといえない事はない。ひそかなペシミズムは、保身の思いと共に常に影のようにまつわりながら戦争に至る後々の作品につづいて行くのである。(カッコ内引用者註)
  
 土屋文明が、教え子の伊藤千代子の死を知ったのがいつなのかはハッキリしないが、少なくとも1935年(昭和10)には「亡父七年」と「四十六歳」につづき「某日某学園にて」を歌っているので、それ以前に知っていたのはまちがいないだろう。当時、土屋文明は斎藤茂吉から『アララギ』を任され責任編集者になっていた。
 1942年(昭和17)に創元社から出版された土屋文明『六月風』収録の、「某日某学園にて」から全6首を引用してみよう。
 語らへば眼かがやく処女等に思ひいづ 諏訪女学校にありし頃のこと
 清き世をこひねがひつつひたすらなる 処女等の中に今日はもの言ふ
 芝生あり林あり白き校舎あり 清き世ねがふ少女あれこそ
 まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに
 こころざしつつたふれし少女よ 新しき光の中におきておもはむ
 高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき
 土屋は、日中戦争が激しさを増した1937年(昭和12)ごろ、歌集『小安集』の中で「時代の終に生れあひたりと 繰りかへしいく人かに話しつ」と歌ったが、それは「時代の終」などではなく国家の滅亡という、未曽有の危機を迎える「亡国」の予兆にすぎなかった。
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 土屋文明が、田端から下落合の落合第一府営住宅20号へ転居してくるのとほぼ同時期に、落合町葛ヶ谷482番地(現・西落合3丁目)へやはり諏訪高等女学校時代の教え子のひとりだった平林タイ(平林たい子Click!)が引っ越してくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合1501番地の、第一府営住宅内にあった土屋文明邸跡の現状(左手)。
◆写真中上は、1909年(明治42)ごろに撮影された記念写真で後列の右端が土屋文明、手前の杖を手にした人物が伊藤左千夫で後列の左端が斎藤茂吉。は、1924年(大正13)に撮影された諏訪高等女学校の卒業写真で、清水多嘉示の前に伊藤千代子がいる。は、土屋文明()と東京女子大学に入学したころの伊藤千代子()。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる落合第一府営住宅の土屋文明邸(地図中では「土ヤ」)。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる土屋邸。は、土屋文明()と東京女子大4年生の伊藤千代子()。
◆写真下上左は、1942年(昭和17)に出版された土屋文明『六月風』(創元社)。上右は、1961年(昭和36)に出版された近藤芳美『土屋文明―近代短歌・人と作品―』(南雲堂出版)。は、戦時中の疎開先だった群馬県吾妻郡原町川戸の土屋文明。

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昭和初期に撮影された目白通りの2景。 [気になる下落合]

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 昭和初期に、目白通りを撮影した写真が2葉残っている。1枚は1932年(昭和7)に撮影され、同年に出版された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)のグラビア掲載のもの、もう1枚は1933年(昭和8)3月に撮影され、1973年(昭和48)に三交社から出版された芳賀善次郎『新宿の散歩道―その歴史を訪ねて―』に掲載されたものだ。
 まず、1932年(昭和7)撮影の『落合町誌』に掲載された街角写真から見ていこう。この撮影位置の特定は、案外たやすい。なぜなら、画面左手にとらえられた幟看板の「栄寿司」だが、現在でも営業中の店舗だからだ。(冒頭写真) もっとも、現在の栄寿司さんは目白通りの拡幅工事にともない、通りから20mほど南へ引っこんだ子安地蔵通りで営業しており、目白通りには面していない。目白通りは、右手(北側)へ向けてゆるくカーブしており、おそらくカメラマンは子安地蔵通りの出口あたり、すなわち下落合607番地(現・下落合4丁目)の路上あたりから西を向いて撮影したものだろう。
 「栄寿司」の幟の下に、電柱に貼られた医院の看板が見えている。「〇川醫院」と書かれているが、これは撮影場所からいって旧・箱根土地本社Click!南側の第一文化村Click!で開業していた、下落合1340番地の古川医院だろう。医師の古川浩は、内科・小児科が専門だった。そのほかに、「〇川」と名のったとみられる医院は1932年(昭和7)現在で下落合に2軒あるが、古川医院と同じ内科・小児科が専門だった下落合1794番地の平川直医院、および下落合1846番地で開業していた耳鼻咽喉科の満川友尚医院は、いずれも中井駅近くの医者だったので、目白通りからはだいぶ離れている。
 現代と比べれば、驚くほど狭い目白通りだが、簡易舗装された路上をダット乗合自動車Click!(のち東環乗合自動車Click!)が走っており、目白文化村方面から目白駅Click!へと向かう路線バスだ。両側に並ぶ電燈線や電力線Click!の柱、電信電話線を架けた電信柱Click!が、基盤がゆるい土の地面なので思いおもいの方角に傾いているのが面白い。佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景』シリーズClick!の電柱が、あちこちに傾いているのは絵筆が走った誇張でないことがわかる。同じ路上には、おそらくさまざまな商店の御用聞きClick!だろうか、自転車の乗った人物が3人ほどとらえられている。
 写真の解像度が低く商店の看板が読みづらいが、栄寿司の手前の店は看板に細かな文字がタテに書かれており、蒲団寝具店かなにかだろうか。栄寿司の向かいにある店舗は、看板が「大石園」と読めるのでお茶屋だろうか。その1軒奥には、小さな子どもが集まっているので、おそらく駄菓子屋Click!か菓子屋だろう。商店は入れ替わりが激しいので参考にはならないが、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!(「下落合及長崎一部案内図」Click!)によれば、この位置にあるのは「大黒屋菓子店」ということになる。
 同地図によれば、その手前が畳店とタバコ屋で奥が「小島商店」と記録されている。小島商店のある位置には、「塗料」と書かれた幟看板が下がっているが(ダット乗合自動車の右上)、ペンキやニス、クレオソートClick!など住宅用の塗料をあつかう店だったものだろうか。ちなみに「栄寿司」も「大石園」も、いまだ開業していないのか「出前地図」や「下落合事情明細図」(1926年)には採録されていない。
 興味深いのは、ダット乗合自動車Click!の屋根から突きでているように見えている、なんらかの工事用重機ないしは建機のようなモノだ。この位置から見た目白通りは、右へカーブしていくので、ひょっとすると路上の整備工事用の重機なのかもしれない。あるいは、新たに電力・電燈柱か電信柱を建てる設置工事に用いられていた建機だろうか。昭和初期ともなれば、建設工事用のさまざまな重機や建機が海外から輸入されており、東京電燈Click!が導入した電柱設置用のクレーンないしは掘削機かもしれない。
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 画面の左手前にとらえられた、街灯のデザインが面白い。これとよく似た街灯をモチーフにして、1916年(大正5)に下落合464番地へアトリエを建てたばかりの中村彝Click!は、同年に『新宿郊外』を制作している。ひょっとすると、中村彝も当時の目白通り沿いの街灯のひとつを描いているのかもしれない。裸電球が吊るされただけの、足もとが明るくなるとはとても思えない街灯だが、当時はモダンなデザインだったのだろう。ちなみに、目白文化村に設置された街灯Click!は、電球を白い球体状のガラスフードの中に収納したもので、目白通り沿いの街灯とは意匠が異なっていた。この仕様だと電球自体に直接雨風が当たらず、寿命も延びたのではないだろうか。
 さて、1933年(昭和8)3月に撮影された、『新宿の散歩道』収録の写真を見てみよう。この写真は、著者の芳賀善次郎が地元の住民から譲られたものだろうか、改正道路(山手通り)と目白通りとの交差点付近というキャプションが添えられている。もちろん、現在では目白通りの拡幅工事と山手通りの交差点工事で消えてしまった商店街だ。前掲写真の撮影位置から、西へ300mほど進んだ目白通りの路上で、同様に通りを西に向いて撮影している。また、以前ご紹介した1932年(昭和7)撮影の、長崎バス通りの出口にあたる商店街Click!の位置から、逆に東へやはり300mほどのところにあたる目白通りの情景だ。
 商店街の店舗は入れ替わりが頻繁なので、「出前地図」(1925年)や「下落合事情明細図」(1926年)を参照しても個々の店舗を特定するのは非常にむずかしいが、この中で目印になりそうなのが道路右手の、当時は長崎南町2丁目1904番地(現・目白5丁目)あたりに開業していた「畳表上敷」の看板をかかげる「姥貝(奥?)畳店」だろうか。同地図類によれば右側手前の店は「伊藤井戸掘りポンプ店」で、左奥のショーウィンドウがある店は看板の文字が読みとれず、さらに左奥の店には「氷」の幟に軒下にはオーニングが設置されているので氷店Click!だろうか。その先に見える町家の壁面には、カタカナの文字で薬名(〇タニン?)のような看板(薬局か?)が見えるが、写真の粒子が粗すぎて読みとれない。
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 左手の手前には、自然光をアピールした東京電気Click!マツダ電球Click!看板があるので、電気店あるいは日用品を扱う雑貨屋だろうか。1926年(大正15)現在では、ここは「三好野蕎麦店」となっているが、カメラマンは下落合2丁目645番地(現・中落合2丁目)の路上にいることになる。左手(南側)へ入る路地をはさんだ店舗は、明らかに新刊本と古書を扱う書店で、幟と看板には書店名が書かれているがすべてを読みとれない。「〇南堂書店」と判読できるのだが、1文字目がハレーションで不明だ。
 その向こう側に、「パロット」と書かれたシャレた看板が目にとまる。どうやらミミズクのかたちをした看板のようで、昭和初期に大ブームとなった鳥や鳥かごを売る小鳥屋だろうか。通りの右手に並ぶ大正期の面影を残した長崎側の商店に対し、左手の下落合側の商店のほうがモダンに感じるのは、建設されて間もないからだろう。この一画は、大正末まで「福室醤油醸造所」の大きな建屋があったところで、左側に並ぶ醸造所跡に建った「火保図」(1938年)によれば6軒の商店は、みんな新しい昭和建築ばかりだ。
 さて、路上のトンビClick!を着て歩く人物(チンドン屋さんか?)の向こうに、この地域では当時としては大きな3~4階建てほどありそうなビルディングが見えている。これは、長崎南町2丁目1952番地(現・南長崎1丁目)にあった公設市場(設置当初は「椎名町市場」だろうか?)で、のちに「椎名町百貨店」と呼ばれていた建物だ。以前、わたしが路線バスの停留所「椎名町百花店前」(ママ)という誤植から、「椎名町百花園」という遊園地があったのではないかと誤って想定していた場所だ。正式なバス停の名称は「椎名町百貨店前」Click!で、大きなビルの中にはさまざまなテナントが入居していた。
 この公設市場は、1940年(昭和15)ごろには財団法人市場協会または私設の経営に移行したものか、地図から公設市場の記号が消えている。市場のビルは、コンクリートとレンガで造られていたとみられ、1945年(昭和20)5月17日に米軍のF13Click!によって撮影された空中写真では、同年4月13日夜半の空襲で内部は丸焼けだったろうが、建物はなんとかかたちをとどめているのが確認できる。戦後、いち早く解体されたものか、1947年(昭和22)の空中写真にはすでに建物は存在していない。
 これら建物の位置関係から、カメラマンの背後左手には2年前に拓かれた聖母坂が、3年前に西へ移設された下落合駅Click!方面へ通じており、また背後右手には長崎の天祖社から長崎不動堂、さらに長崎氷川社Click!へと抜けられる参道筋の道が北へとつづいていた。そして、美術や『下落合風景』に興味のある方ならもうお気づきだろうか。
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 東京電気のマツダ電球看板と「〇南堂書店」の間にある路地を入れば、八島知邸Click!の前へと通じる「八島さんの前通り」Click!、すなわち大正時代は「西坂通り」と呼ばれていた三間道路へと抜けることができた。5年前の1928年(昭和3)、フランスで死去した佐伯祐三のアトリエClick!のごく近くに展開していた、1933年(昭和8)3月現在の目白通り風景だ。

◆写真上:1932年(昭和7)に撮影された、子安地蔵通りの出口あたりの目白通り。
◆写真中上は、『落合町誌』(1932年)に掲載された写真の全景。は、拡幅されたので撮影ポイントが道路上になってしまうためGoogleのStreet Viewを活用した撮影場所の現状。は、1916年(大正5)制作の中村彝『新宿郊外』に描かれた街灯。
◆写真中下は、1933年(昭和8)に撮影された目白通りと山手通りの交差点あたりに開店していた商店街。は、GoogleのStreet Viewにみる撮影場所の現状。は、商店街の奥にとらえられた大きなコンクリート建築の椎名町百貨店の拡大。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる椎名町百貨店。は、1945年(昭和20)5月17日に撮影された同百貨店。周囲の木造住宅がほぼ全焼しているのに対し、内部は丸焼けだったと思われるが同百貨店の建物はかたちをとどめている。は、小川薫様のアルバムClick!からの1935年(昭和10)前後に撮影された1葉。長崎バス通りの出口にあった、ダット乗合自動車発着場に詰める整備技士たちをとらえた写真だとみられるが、背後に写っているビルが同発着所から東へ140mほどのところに建っていた椎名町百貨店ではないか。
おまけ
 1936年(昭和11)の空中写真で、カメラマンの撮影ポイントを規定してみた。ただし、すでに目白通りは拡幅され、通り沿いの商店街は南北に後退しているので、撮影ポイントは道路の中央寄りになってしまう。この空中写真から、椎名町百貨店が第三文化村に建っていた目白会館文化アパートClick!よりも、ひとまわり大きな建物だったことがわかる。
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