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文学座アトリエの杉村春子。 [気になるエトセトラ]

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 わたしは長い間、勘ちがいをしていた。新宿区信濃町にある文学座のアトリエは、空襲からも焼け残った戦前から建つ大きな西洋館を、戦後になって内部を改築したものとばかり思っていた。近くにはカルピスClick!三島海雲邸Click!もあり、てっきり戦前からの近代建築だと思いこんでいた。でも、防空の目的から重要施設が黒く塗りつぶされた戦中の空中写真を参照していて、信濃町の北側にこの建物がないことに気がついた。
 戦前は、同所には和館とみられる大きな屋敷が建っていて、山手大空襲Click!により周囲の屋敷林ともども全焼している。現在の信濃町9~10番地のほぼ全体を占めるほどの広さで、誰の屋敷だったのかは不明だが、その広い敷地の北寄り、ちょうど母家があったあたりに、現在の文学座アトリエは建っていることになる。
 文学座アトリエは、同劇団のサイトによれば竣工が1950年(昭和25)で、伊藤義次の設計だそうだ。英国のチューダー様式を採用した意匠で、完成当時から「アトリエの会」の上演場所として利用されている。また、附属演劇研究所の発表会の舞台としても利用されていて、同研究所の研究生が卒業する際にはここで学んだ成果を表現するのだろう。おそらく連れ合いも、ここで発表会(舞台)をやっているにちがいない。
 文学座附属演劇研究所による卒業発表会のときに制作された冊子を見ると、この信濃町にある文学座アトリエで演技の学習や演劇の講義、舞台の練習などを行なっていた様子がとらえられている。卒業発表会のパンフレットは、学校でいえば卒業アルバムに相当するもので、同期に卒業した研究生全員のプロフィールとともに、集合写真やアトリエでの稽古、講師や先輩たちによる講義の様子などが掲載されている。
 連れ合いの卒業時には、36名の研究生がいたことがわかるが、現在の文学座附属研究所の研究生の募集人数は30名なので、当時は研究所への入学希望者がかなり多かったのだろう。あのころでいえば、東京芸大の人気学科を超える“狭き門”だったらしい。男女の比率は、男子が18名で女子が18名のちょうど半々で、中でも演劇の伝統Click!からか早大の劇研などの演劇グループや、文学部演劇科の学生が多かったと聞いている。
 これらの卒業生たちは、俳優や声優になったり、演劇の演出家や劇団の主催者など、現在でも演劇にかかわる仕事をしている人たちが多い。連れ合いのように、とりあえず演劇から離れ、まったくちがう方向へ進んでいった卒業生のほうが、むしろめずらしいのかもしれない。同期の仲間から、ときどき連絡があるようだが男子の卒業生は演劇人が多く、女子の場合はまったくちがう生活を送っている方が多いのは時代のせいもあるのだろう。
 また、卒業発表会の冊子には、同研究所で演劇を教えていた講師陣による寄せ書きが掲載されており、卒業生へたむけたひと言が手書きの文字で掲載されている。たとえば、以下のようなコメントだ。1975年(昭和50)に発行された「第十四期卒業発表会」(文学座附属研究所)から、その一部を引用してみよう。
  
 あれっ! もう卒業なの? 何もしないうちに終っちゃったね。まあ、残んなくても、街で会ったら、飲みましょう:楠本章介/あなた方の芝居観るの、ホント、勉強になるわ! アーラいやだ、私なんか鼻たれ小僧もいいとこよ、何年、やっても……。どう遊ぶかよ。遊んでる時が恐いのよ!:田代信子/う~ん……そうねえ、あん時のことは……今言う江戸弁は、曲がりなりにもよくやるけど、東京弁というのは難しいもんですよ。皆、なかなかうまくやった。実は僕、驚いてますよ。:龍岡普/才能の乏しい人は粘ること!……あの人を見よ!:藤原新平/早くうまくなってオレみたいな役者になれよ!:小林勝也/精一杯自分を出しなさいネ:南一恵/日常の色々な音をつかまえること 生きたセリフのいえる役者になれ:横田昌久(順不同:以下略)
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 演劇の世界はただ観るばかりで、その内情はほとんどまったく知らないが、まるで進路が決まった高校生を送りだす熱血教師のような言葉が並んでいて熱い。
 なんらかの表現や成果物を求められる仕事には、必ず才能の有無が常に問われてくることになる。それは、別に他者に問われるばかりでなく、自分自身への問いかけも折々何度でも発生してくるだろう。また、それは一生の仕事になるかならないか、人生を賭けてもいいのかどうか、どれぐらいつづければ仕事に自信がつくのか……、別に演劇に限らず、なんらかの専門分野で仕事をする人間なら、誰しも自問自答を繰り返すことになる。
 同じく講師のひとりだったと思われる、先年84歳で他界した演出家の岩村久雄は、冒頭に『雑感』と題してこんなことを書いている。同冊子より、つづけ引用してみよう。
  
 何年か続けて卒業生に送る言葉を書いてきたが今思いつくことがすべて何年か前に書いたような気がして筆がうまく運ばない。しかし、そう沢山のことを言っているわけではなく、芝居のむづかしさを、時には、俳優としての才能のない者は直ちに止めて転業せよとすすめたり、努力すれば何とかなるだろう等とわけしりだてにいっているにすぎないのだ。自分に才能あり、という幻想を抱きながら泥沼にづるづる(ママ)とのめりこんで行く悲劇を自覚せよと書いた年に何人かの生徒が自分にはそういう才能があるかどうか打割って話して欲しいと言われて困ったことを覚えている。あの時、しかし何と答えようと、決してその人達は止めることなく続けているだろう。
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 「自分には才能がなく、向かない世界かもしれない」と、早めに見切りをつけて転身した連れ合いのようなケースもあれば、せっかく文学座の演劇研究所を卒業したのだからと、演劇の世界をあきらめきれずに現在でも地道につづけている方もいるのだろう。好きで飛びこんだ世界なのだから、本人がとても満足しているならそれはそれでいいのではないかと思う。上記の文章で、「才能があるかどうか」を訊ねた卒業生がいたようだが、それはどこかで自分自身が見きわめることであって、あえて他者に訊くことではないだろう。
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 好きな演劇の世界にいる仲間ということで、なんとなく講師と研究生たちの和気あいあいとした雰囲気が伝わってくるが、アトリエにひときわ緊張が走る時間もあった。アトリエの裏に住んでいる杉村春子Click!が、演技指導で姿を見せるときだ。まず、アトリエ内を隅々まで掃除してきれいにし整理整頓しておかないと、汚れているところを見つけたら最後プイッと母家へ帰ってしまうので、まるで研究生たちは昔の「姑」のチェックを待つ「嫁」のような心境だったのではないだろうか。いかにも、歳をとった杉村春子Click!は佐々木すみ江と同様、ちょっと意地悪な「姑」役がピッタリ似合いそうだが……。w
 まあ、文学座の実質上のボスなのでしかたがないのだろうけれど、母家へ呼びにいくのは研究生たちが順番で(いやいや?w)かわりばんこに担当していたようだ。そして、彼女はそのときどきで多種多様な役どころを演じて見せると、アトリエから再び母家へ泰然ともどっていったらしい。要するに、細かな演技の指導や技術の講釈をするよりも、最初は見よう見マネでおぼえろという教育方針だったのだろう。
 杉村春子が若い子たちに向け、あまり教育熱心でなかったのには理由がある。彼女には、せっかく建設したアトリエで自由に稽古をすることができず、文学座の研究生たちに半ば“占領”されていまった……というような意識が強くあったのではないか。つまり、文学座の俳優たちが舞台稽古のため、いつでも自由に使えてこそ劇団のアトリエとしての意味があるのに、いつも駆けだしで右も左もわからないような若い子たちが占有して、自分の思うように稽古ができないという不満がくすぶっていたのだろう。
 2002年(平成14)に日本図書センターから出版された杉村春子『舞台女優』Click!では、こんな不満をチラッともらしている。
  
 それでもしばらく、私が芝居をすれば、古いの何のといわれ、いやな思いをしましたが、私がそれまで生きてきたのは芝居がしたかったからで、文学座のアトリエは私にとっては何にもかえ難いところでした。このアトリエで一つの芝居をはじめからああでもない、こうでもないとつくり上げることができます。その魅力です。/しかし、それもなかなか自由にはできませんでした。アトリエが若い人たちの道場のようになることは大いに結構なことでしたが、私たち古くからいる者はアトリエの椅子一脚でさえ、どれを使ってよいかわからなくて寂しい思いをした時もありました。
  
 どうやら、自分たちが稽古に使いたいのに、いついっても「若い人たちの道場」化してて、思いどおりにならないことにちょっとスネていたようなのだ。杉村春子のような女性が一度スネると、機嫌が直るまでに少し時間がかかりそうだけれど、「私のかけがえのないアトリエを汚さないでちょうだいな、ここは芝居が生まれるとても神聖なところなのよ」という、彼女の思いもなんとなくわかるような気がする。
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 文学座には、同劇団を応援する“友の会”のような「文学座パートナーズ倶楽部」というのがある。研究所を卒業した連れ合いは、当然この倶楽部に入っていると思いきや、劇団民藝を応援する「民藝の仲間」になってたりする。ご近所に住んでいた白石珠江さんClick!つながりで、民藝の芝居のほうが好きらしいのだが、これって慶應を卒業したOGが稲門会に入っているような、妙な具合なんじゃないだろうか。両劇団とも、ここ数年の新型コロナウィルス感染症禍ではリモート舞台へ積極的に取り組んでおり、生き残りを賭けて必死だ。

◆写真上:信濃町の文学座アトリエで、裏には生前の杉村春子が住んでいた。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大きな和館とみられる屋敷があった現・文学座敷地の一画。は、1963年(昭和38)の空中写真にみる文学座アトリエ。は、1975年(昭和50)撮影のちょうど連れ合いが研究生として通っていたころの同アトリエで、西側にはテニスコートが見えている。
◆写真中下は、1974年(昭和49)撮影の文学座への入口あたり。は、「第十四期卒業発表会」に寄せられた講師陣のコメント。は、1975年(昭和50)に卒業した第14期生の集合写真(意図的にぼかしている)で、現在でもTVや映画で目にする方もいる。
◆写真下は、同発表会に掲載された講師陣コメント。中左は、「第十四期卒業発表会」の冊子表紙。中右は、なにかの仕事で取り寄せた写真入りの文学座「演技者名簿」。は、1994年(平成6)上演の文学座『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で舞台上の杉村春子。

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