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片多徳郎の下落合時代1929~1933年。 [気になる下落合]

片多徳郎「秋果図」1929.jpg
 下落合732番地(のち下落合2丁目734番地/現・下落合4丁目)のアトリエで暮らしていた片多徳郎Click!は、アルコール依存症が悪化していたとはいえ、多彩な作品群を描いている。片多が駒込妙義坂下町から、下落合へ転居してきたのは1929年(昭和4)のことだ。それから自殺する前年、1933年(昭和8)までの4年間を下落合ですごし、北隣りの長崎東町1丁目1377番地(旧・長崎町1377番地)へ転居してまもなく、翌1934年(昭和9)4月に名古屋にある寺の境内で自裁している。
 下落合時代の作品を概観すると、従来と同様に風景画や肖像画、静物画と幅広いモチーフをタブローに仕上げており、特に制作意欲の衰えは感じられない。むしろ、多彩な表現に挑戦しつづけている様子がうかがわれ、画面からは積極的な意志さえ感じとれるほどだ。中には、明らかに注文で描いた『木下博士像』(1929年)のような、いわゆる“売り絵”の作品も見られるが、裏返せば美術界では相変わらず注文が舞いこむほどの人気画家だった様子がうかがえる。
 片多徳郎Click!アトリエの前から、道をそのまま西へ50mほど進んだ斜向かい、下落合623番地には曾宮一念アトリエClick!が建っていた。帝展鑑査員であり、第一美術協会の創立会員である片多徳郎と、二科の曾宮一念Click!とでは画会も表現も、活動シーンもかなり異なっていたが、ふたりは気があったらしく気軽に親しく交流している。1938年(昭和13)に座右宝刊行会から出版された曾宮一念『いはの群れ』Click!から、転居してきた片多徳郎について書きとめた文章があるので、引用してみよう。
  
 片多氏は私の入学の翌年美術学校を卒業されたからその頃はたゞ顔を見かけたといふに過ぎない、蒼白い小柄な飾気の無い学生であつた。(中略) 或る雑誌に「酔中自像」といふひどく恐ろしい顔をしたのが載つてゐたことがある。それが私をコワガラせてゐたものらしい。片多氏も小心者といふ点ではこの私にも劣らぬことを後に知つた。その頃片多氏は赤十字病院から退院後で柚子や百合根の小品をかきはじめてゐた、私もその年病後久しぶりで花の画をかきはじめてゐたのを片多氏は見に来てくれ、そしてほめてくれた。
  
 曾宮一念は、1930年(昭和5)に散歩の途中で「片多徳郎」の表札を見つけ、怖るおそる訪ねている。前年の帝展に出品された、片多の『秋果図』が気になっていたので思いきって訪問したものだ。このときから、ふたりの交流がはじまっている。
 先日、pinkichさんからお贈りいただいた片多徳郎の稀少な画集、1935年(昭和10)に古今堂から出版された岡田三郎助/大隅為三・編『片多徳郎傑作画集』には、下落合時代の4年間に描かれたと想定できる作品画像が20点ほど掲載されている。曾宮が惹かれた『秋果図』(1929年)はカラー版で収録されており、下落合へ転居早々に描かれたとみられるカキとザクロの果実がモチーフとなっている。
 同画集の中で目を惹くのは、下落合の名産だった「落合柿」Click!をはじめ、いまでも落合地域で老木をよく見かけるザクロやユズなど果実類、郊外野菜など洗い場Click!で洗浄される蔬菜類Click!をモチーフにした静物画、当時の「東京拾二題」Click!などの名所に挙げられ西坂・徳川邸Click!静観園Click!でも有名だったボタンの花Click!を描いた画面、そして、やはり付近の武蔵野の風情を写しとったとみられる風景画だろうか。片多徳郎は『秋果図』がよほど気に入っていたものか、同じくザクロとその枝をモチーフにした『秋果一枝』(1932年)も、下落合時代に仕上げている。
片多徳郎「ゆづと柿」1929.jpg
落合柿干し柿づくり.JPG
片多徳郎「牡丹」1930.jpg
 当時の片多徳郎の様子を、曾宮一念の同書より引用してみよう。
  
 「秋果図」の前三四年は見てゐないが此の静物画は地味円熟の技巧の下に今迄よりも一層内面的な気持の盛上げをするやうになつた第一の作品ではあるまいか、片多氏の画はゑのぐを何回も重ね、潤ひのある層が画面の特徴である。此の「秋果図」では幾回かの甚だ計画的に薄く塗られて寸分のすきも無く金と朱と紅と焼土の線とが画面を緊張させてゐた。氏自身も会心の作であつたらしい。/元気でゐたかと思ふと又入院してゐる、実は病院内での適宜な束縛が却つて制作を生んでゐたさうである。一時は全く酒を絶つてゐたが又いつか飲み出してゐた、「あまり飲むなよ」といへばさびしい顔をして弱音をはかれるには更に何も言へなかつた。
  
 片多徳郎は、曾宮が訪ねるとたいがい酒を飲みながら制作していたようで、このあたりは1936年(昭和11)に片多徳郎が住んでいたアトリエの向かい、下落合2丁目604番地(現・下落合4丁目)に転居してくる帝展の牧野虎雄Click!とそっくりだ。牧野虎雄もまた、曾宮が訪ねるとしじゅう酒を飲みながらキャンバスに向かっていた。
 『片多徳郎傑作画集』には、下落合時代に描いたとみられる風景画に1929年(昭和4)制作の『秋林半晴』と、1931年(昭和6)制作の『若葉片丘』が掲載されている。いずれも武蔵野の丘陵や、そこに繁る樹木を描いたものだが、昭和初期の下落合でこのような風景モチーフを見つけるには、下落合の西部、あるいは葛ヶ谷(現・西落合)の方面まで歩かなければ発見できなかったろう。下落合Click!の東部(現・下落合)や中部(現・中落合)には、すでに多くの住宅が建ち並んでおり、これらの作品画面に描かれたような、住宅が1軒も見えない樹木や草原が拡がる風景は、当時の地図類からもまた空中写真からも、落合地域の西部にかろうじて残されていた風景だからだ。
片多徳郎傑作画集1935.jpg 片多徳郎「醉中自画像」1928.jpg
片多徳郎「秋林半晴」1929.jpg
片多徳郎「若葉片丘」1931.jpg
 下落合時代の作品には、さまざまな表現や技巧を試みた痕跡が見られる。いわゆる帝展派が描きそうな、アカデミックでかっちりとまとまった無難な静物画(売り絵か?)から、まるで1930年協会Click!のフォーヴィスムに影響された画家たちのような荒々しく暴れるタッチの画面まで、多彩な表現の試行錯誤が繰り返されていたとみられる。
 1933年(昭和8)の初夏、下落合から北隣りの長崎東町へと転居してまもなく、片多徳郎は下落合の曾宮一念をわざわざ訪ね、アトリエへ遊びにくるよう誘っている。そのときの様子を、曾宮一念の同書から再び引用してみよう。
  
 この年の初夏長崎町に画室を借り中出三也氏をモデルとして五十号位をかいてゐた時垣根ごしに良いご機嫌で誘つてくれたので一しよに見に行つた。私の見た時は半成とのことであつたが私には立派に完成して見えた、明るい銀灰色の地に中出氏の顔が赤く體(セビロ服)が鼠と赭と黒の線で恰も針金をコンガラカシた如く交錯してゐた、いつもの肖像や旧作婦女舞踊図を考へて此の中出氏像を見たら驚く程の変り方であつた、(中略) 此の古典派の先輩は暫く写実的完成にのみ没頭していたが此の頃になつてより、本質的な絵画の欲望が強く起きそれにフオウブの理解に歩を入れて来たものと思はれる。/然し此の秋は期待にそむいて此の画は出品されなかつた。帝展といふものの氏の立場が躊躇させてしまつたかと思はれるがもしあれを発表しても決して年寄の冷水とは世間は言はずに十分よき成長として迎へたらうと信ずる。
  
 ここに書かれている中出三也Click!をモデルにした肖像画とは、北九州市立美術館に収蔵されている『N(中出氏)の肖像』(1934年)のことだ。中出三也は、このサイトでも甲斐仁代Click!の連れ合いとしてたびたび登場しているが、この時期は上高田422番地のアトリエClick!にふたりで暮らしていたはずだ。同じような筆運びは、下落合時代の裸婦を描いた『無衣仰臥』(1930年)でも垣間見られる。下落合で試みた、多種多様な表現への挑戦が長崎東町へ転居してから実ったかたちだが、同作が展覧会へ出品されることはなかった。
片多徳郎「秋果一枝」1932.jpg
片多徳郎「白牡丹」1933.jpg
片多徳郎「無衣仰臥」1930.jpg
片多徳郎「N氏像」1934.jpg
 『N(中出氏)の肖像』について、曾宮一念は1933年(昭和8)の初夏に観たときが、もっとも「頂点」の表現であり、翌年まで手を入れたのちの画面は耀きや面影が失われてしまったようだと書いている。そして、「かくの如き純粋派的希望と説明的完成との二方面は長い間氏の芸術的煩悶であつたらしい」と結んでいる。曾宮には修正したあとの画面が、「説明的」で旧来の絵画的な「完成」をめざしすぎたものと映っていたようだ。

◆写真上:下落合で見なれた巣実を描く、1929年(昭和4)制作の片多徳郎『秋果図』。
◆写真中上は、1929年(昭和4)制作の片多徳郎『ゆづと柿』。は、いまでもつづく「落合柿」の干し柿づくり。は、1930年(昭和5)制作の同『牡丹』。
◆写真中下上左は、1935年(昭和10)に古今堂から出版された『片多徳郎傑作画集』の表紙。上右は、曾宮一念が怖がった1928年(昭和3)に描かれた片多徳郎『酔中自画像』。は、下落合時代の1929年(昭和4)に制作された風景画で同『秋林半晴』。は、同じく下落合時代の1931年(昭和6)に制作された同『若葉片丘』。
◆写真下は、1932年(昭和7)制作の片多徳郎『秋果一枝』。中上は、1933年(昭和8)に描かれた同『白牡丹』。中下は、1930年(昭和5)に制作された同『無衣仰臥』。両作は既存の画面に比べ、質的にかなり異なる表現をしている。は、画集に収録されていない1933~34年(昭和8~9)にかけて長崎東町のアトリエで制作された同『N(中出氏)の肖像』。まるで、別の画家が描いたような画面表現になっている。

読んだ!(18)  コメント(34) 
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読んだ! 18

コメント 34

ChinchikoPapa

Q.ジョーンズの作品群は、音楽ビジネスの成功者ではあっても、その音楽自体に「いいな」と感じた作品は、きわめて少ないことに気づきます。おそらく、ベーシックな部分で音楽の「肌」が合わないのでしょうね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 14:22) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>@ミックさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 14:23) 

ChinchikoPapa

「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>鉄腕原子さん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 14:23) 

ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>ありささん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 14:24) 

ChinchikoPapa

店舗の割引券はもらっても、たいがい忘れて使いませんが、東北のブランド米をもらうと、なぜか嬉しいですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>takaさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 14:28) 

ChinchikoPapa

なんだか、日曜日のめぐってくるのが早いですね。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ネオ・アッキーさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 14:30) 

ChinchikoPapa

紅茶を飲む習慣はほとんどないです。たいがい、コーヒーか緑茶を選んでしまいますね。ただ紅茶が中心の国、たとえばロシアなどでしゅんしゅんたぎるサモワールで入れてくれた紅茶とかは、確かに上質で美味しく感じますが、そういう地域はたいがいコーヒーが怖ろしくマズくて閉口してしまいます。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kiyokiyoさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 14:40) 

kiyokiyo

ChinchikoPapaさん
こんにちは!
そうなんですね~
コーヒーが怖ろしく不味い国なんてあるんですかぁ^^
私たちの国ではコーヒー、緑茶、紅茶など、み~んな美味しいですから幸せですね。
僕もコーヒーに凝った時期があったんですよ。
その時に揃えた、コーヒーサイホンやコーヒーミル( 手動式 )にアルコールランプ、今は何処にあるのでしょう?^^
何だか、コーヒーが飲みたくなってしまいました^^
by kiyokiyo (2020-02-02 15:11) 

ChinchikoPapa

生きている以上、さまざまな人生の選択肢シーンが訪れますけれど、ふだんの言動とそのときの選択に変化があったとして、それが非常にプライベートなものであれば、別に周囲からどうのこうの言われる筋合いのものではありませんね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>いっぷくさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 18:19) 

ChinchikoPapa

kiyokiyoさん、コメントをありがとうございます。
やはり、その国や地域で飲まれてきた「お茶」の歴史の長さやこだわりと、その美味しさとは比例しているように感じます。くだんの国は、ホタルやレストラン、鉄道、喫茶店を問わずコーヒーのマズさに閉口しました。しかたがないので紅茶を飲んでましたが、やっぱり身体がシャキッとしないんですよね。
手動のコーヒーミルやサイホンは、とても趣があっていい香りが漂い、コーヒー好きにはかけがえのないアイテムですね。わたしは横着して、電動の小型ミルに紙フィルターの、できるだけ早く飲める手抜き手順で淹れています。
by ChinchikoPapa (2020-02-02 18:29) 

ChinchikoPapa

「ホタル」なんて変換をしてますね。もちろん、「ホテル」でした。(汗)
by ChinchikoPapa (2020-02-02 20:49) 

ChinchikoPapa

野田とか佐倉とか、房州は昔から醸造文化が盛んな土地柄ですが、メジャーな醸造所以外にも地域ならではの隠れ銘酒がありそうです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>skekhtehuacsoさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 20:55) 

ChinchikoPapa

大磯のエリザベス・サンダース・ホームは、2月1日からスタートしたんですね。きょうあたり、創立72周年の記念行事が行われているかもしれません。そろそろ、寒ザクラの蕾がほころびはじめました。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>kazgさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 21:03) 

ChinchikoPapa

落ち着いたパブに入って、本場のアイリッシュ・ウヰスキーを飲んでみたいです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>八犬伝さん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 21:29) 

ChinchikoPapa

料理や飲み物の器は、劇場や映画館の座り心地にも似て非常に重要なテーマですね。それらに食器が合っていないと、かんじんの美味しさがかなり割り引かれてしまいます。最近、色のついたカップでコーヒーを出す喫茶店が増えてるようですが、せっかくの美しくて深みのあるコーヒー色が台無しです。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ぼんぼちぼちぼちさん
by ChinchikoPapa (2020-02-02 23:45) 

ChinchikoPapa

児童向けの人形劇に、「責任をともなう自主性」ならともかく、哲学・思想的な意味での「主体性」をかぶせても、難しくて理解できないのではないでしょうか。セクトのお兄ちゃんは、梅本克己でも愛読してたものでしょうか。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>サボテンさん
by ChinchikoPapa (2020-02-03 10:00) 

ChinchikoPapa

長距離バスで京都に着くと、早朝のため駅以外の場所でお店を探すのに苦労した憶えがありました。冬だと歩きまわるのがつらくて、手っ取り早く駅で朝食を済ませることになるのですが……。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ryo1216さん
by ChinchikoPapa (2020-02-03 10:06) 

ChinchikoPapa

そろそろ、あちこちで早春の花が咲きだしましたね。それを眺めながらの散策は楽しいのですが、花粉の季節でもあります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>hirometaiさん
by ChinchikoPapa (2020-02-03 10:08) 

ChinchikoPapa

1974年に出版されれた喜多條忠『神田川』(新書館)を読んでいたので、『高田馬場アンダーグラウンド』はその記述と随所で重なって面白いですね。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2020-02-03 19:15) 

ChinchikoPapa

うちの裏庭に上の子が小さな畑を作っているのですが、2月になってなにやら芽が出はじめています。いったい、なんの野菜を植えたのやら、あまり手入れがされている様子には見えません。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>ハマコウさん
by ChinchikoPapa (2020-02-03 19:17) 

ChinchikoPapa

脂ののった寒ブリが、刺身に焼き物にうまい季節ですね。魚屋さんで半身を捌いてもらうだけで、相当食べでがあります。「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>マルコメさん
by ChinchikoPapa (2020-02-04 10:51) 

Marigreen

アルコール依存症であったというのに、優れた絵を描いていますね。何度見ても飽きないというか、何度も見たくなるというか。芸術家というのは、半分狂気に憑かれているもかもしれませんね。
最近昔読んだドフトエスキーの『白痴』を再読していると、主人公のみでなく、登場人物皆気違いだらけ。実に馬鹿馬鹿しかったです。
片多さんは自裁したとのことですが、どういう方法で自裁したのでしょうか?

by Marigreen (2020-02-04 14:40) 

ChinchikoPapa

Marigreenさん、コメントをありがとうございます。
確かに、片多徳郎の画面は何度観ても飽きない……というのは、至言だと思います。画家の画集には、一度観ればたくさんというものもありますが、片多徳郎は初期のころはともかく、のちの作品は繰り返し観ていても飽きがきません。戦前のカラー印刷やモノクロ印刷ですので、これが現在のカラー印刷だったら、そして実際の画面を観たらさらに惹かれるのでしょうね。曾宮一念も書いてますが、絵の具を何度も重ね塗りして表現するマチエールの美しさは、なかなか写真では感じとれません。
片多徳郎は、寺院の墓地に入りこんで縊死しています。
by ChinchikoPapa (2020-02-04 16:28) 

pinkich

papaさん 片多徳郎の記事をありがとうございました。画集から落合地域との関係を分析してみせるあたり流石だなと思います。画集のはじめの方に画集に掲載された絵の所有者が明記されており、時代を感じます。所有者=片多徳郎のパトロンと考えられるわけで、大分出身の政治家などが多いようです。
by pinkich (2020-02-06 10:56) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
所有者からたどって、片多徳郎のパトロンを調査されたのですね。満谷国四郎や佐伯祐三なども、出身地での頒布会を通じた応援については記事に書きましたけれど、やはり地元の支援というのは経済基盤が安定しない画家にとっては、非常にありがたかったのではないかと思います。
次回は、いただいた新聞記事などをもとに、画家の長男である片多草吉(新聞記事では草吉と三吉の年齢が逆になっています)の証言などもまじえ、片多徳郎が自死にいたるその後について書いてみたいと思っています。
by ChinchikoPapa (2020-02-06 13:15) 

pinkich

papaさん
ありがとうございます。片多徳郎の画風は曽宮一念からの影響もあり、落合時代に大きく変貌しているようです。簡潔でスケールの大きな絵を目指していたようで昭和4年の日記にもそのような記述があります。ただ、晩年に近づくほど体力と気力の消耗やアル中の悪影響のため、生気のない作品が多く見受けられます。
片多徳郎の記事の予告ありがとうございます。訃報の記事の横に新撰組の生き残りの隊員の記事があり、近藤勇は実は弱かったなどと証言しているところが面白いですww。
by pinkich (2020-02-06 15:30) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、重ねてコメントをありがとうございます。
当時、曾宮一念は“先生”として会津八一に絵を教え(1929年)、確執の多かった彩子夫人と正式に離婚(1930年)し、二科会員に推挙されアトリエで第2次「どんたくの会」を主宰し(1931年)、里見勝蔵から独立美術協会へ強く勧誘され第1回個展の開催(1933~34年)と、その生涯の中でも大きな動きのあった時期に重なりますね。画風も変わりはじめた時期ですので、片多徳郎も曾宮の推移する表現に大きな刺激を受けたのではないかと想像できますね。
そうなのです、いただいた新聞記事の周辺記事が面白くて、いろいろ想像しながら読んでしまいます。ww
by ChinchikoPapa (2020-02-06 16:39) 

pinkich

いつも楽しみに拝見しております。papaさん のこの記事のおかげで、片多徳郎の落合時代の作品群が特定され、片多徳郎の作品がより身近に感じることができました。『秋果図』『秋果一枝』と落合柿、好んで描いた牡丹と静観園、『秋林半晴』と西落合の葛が谷との関係があったわけですね。
片多徳郎は落合地域の産物や風景をしっかりとキャンバスに描きとめていたわけで、落合地域を描いた画家の1人として記憶されていいのではないかと思います。ありがとうございました。
by pinkich (2020-02-08 07:35) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
そういっていただけると書いた甲斐があってとても嬉しく、また恐縮です。もうひとつの記事のほうも、なんとか年度末までに書きたいと思っています。
ひとつ気づいたのですが、風景画の『若葉片丘』(掲載画面の下の作品です)に見える左手の「丘」の地形に、人工的な臭いを感じます。なだらかな斜面がつづく一帯に突然、角度が異なる取って付けたような土盛り=“ふくらみ”が描かれていますね。大きな樹木が生えていますので、長い間そのままの状態だったと思われます。葛ヶ谷(西落合)の丘陵地に、昭和初期まで数多く存在していた「〇〇塚」のひとつでしょうか。
by ChinchikoPapa (2020-02-08 10:35) 

pinkich

papaさん 若葉片丘に描かれた人工的な丘は、西落合に散在していた古墳群かもしれませんね。絶筆の油彩に学習院大の昭和寮が僅かに描きこまれているといったご指摘といい、papaさんしかできない貴重なご意見だと思います。こういった片多徳郎関連の新発見は、本当は片多徳郎の作品を多く収蔵している大分あたりの美術館の学芸員に知ってほしいものです。しかしながら、グーグル検索などで『片多徳郎』で検索しても、papaさんの記事がなかなかヒットしませんので、知ってほしい人に伝わるのか心許ないです。SONETの検索機能は特殊すぎ?
by pinkich (2020-02-09 10:24) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
葛ヶ谷(西落合)に点在していた古塚は、昭和期に入って行われた耕地整理で、あらかた消滅してしまいましたけれど、名称と位置だけは記録されてます。「丸塚」「四ツ塚」(4つの古塚が集合して築かれていたという記録があります)「馬塚」「塚田の塚」など、おそらく小型の古墳群が散在していたエリアだと思うのですが、残念ながら写真が1枚も残っていないんですよね。
『若葉片丘』から5年後に撮られた1936年の空中写真では、すでに宅地造成や整地がかなり進んでいますので、写真の粗さとともに微妙な地面の膨らみを確認することが困難なのです。

by ChinchikoPapa (2020-02-09 20:00) 

pinkich

papaさん 片多徳郎と萬鉄五郎は東京美術学校明治40年に卒業した同期で、卒業後も親交があったようです。しかし、画家としての歩みなどは正反対であったようです。片多徳郎は画集の冒頭の岡田三郎助の文章にもあるとおり、美校を優秀な成績で卒業し、在校中から文展に入選し、作品が宮内省に買い上げとなるなど早くから注目され、文展で二度特選となり、審査員となり、いわばエリート街道を邁進します。ところが、萬鉄五郎は、美校ではたびたび問題を起こし、卒業制作では黒田清輝がら嫌った黒を使ったフォーブ風の作品を学校に提出、ビリから2番目で卒業後は、作品がおそらくほとんど売れず、故郷や療養先でひたすら独創的な作品を描き続けます。ところが、今日的な評価はご存知のとおり、萬鉄五郎は日本におけるフォープやキューブの先駆者として高く評価され、美校の卒業制作『裸体美人』は重要文化財となっています。かたや片多徳郎は生前ほど評価されていないようです。不思議なものです。
by pinkich (2020-02-23 12:11) 

pinkich

papaさん 大分の美術館の図録をあらためて読み返すと、画家のことば→昭和4年6月の日記に豊島園に自分のアトリエを建てるために不動産屋に会ったことが記されております。落合の自宅は採光が悪かったとのご子息の証言もありますので、採光のよいアトリエが欲しかったのでしょうね。画家のことばの最後にスケッチブックに記された遺書めいたものもあります。すでに生きている意味がない、家族ともうまくいかないといった内容ですが、自裁の理由は単純なものではなく、いろいろなことが重なった結果かと思われます。
by pinkich (2020-05-06 06:16) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
萬鉄五郎はメエトル黒田の下で、ずいぶん表現しづらかったのではないかと思いますね。それでも卒制の自画像は、かなり妥協的に旧表現(印象派)のアカデミズムへ、歩み寄っている気がしないでもないですが……。
今日の東京藝大の評価も正反対のようで、藝大美術館に収蔵されている片多徳郎作品は、素描がわずかに1点のみですが、萬鉄五郎は自画像や風景画の洋画から日本画まで、5点も収集されています。後期印象派からアブストラクトまでを包括し、現代表現まで直結する日本の重要な洋画家として、この70年間ほどで評価が正反対になってしまった所以でしょうね。
下落合の片多アトリエは、おそらく北側の道路(曾宮一念アトリエからつづく道路)に接していたのではなく、いまも残る細い路地を入った2軒目あたりではないかと想定しています。以前に書いた記事の冒頭写真に掲載した、現在は北の接道にアパートが建っている、その裏あたりの敷地ですね。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2020-02-26

片多徳郎が、北向きの部屋を画室として使用していたとすれば、北隣りの家が近接していたため、かなり採光の抜けが悪かったのではないかと思います。
昭和初期、豊島園に惹かれたのは同園の南側、あたり一面が田園風景の中にポツンと開発された、城南田園住宅地の風情が気に入った可能性もありそうです。豊島園は1926年(大正15)に開園していますが、少しして城南田園住宅地が評判となり、大きな話題を集めていますので、片多徳郎は同住宅地を見学しに出かけ、その静かなたたずまいと落ち着いた家並みが気に入った可能性もありそうです。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2014-11-10
城南田園住宅地は、いまでも閑静な高級住宅街となっていますね。
by ChinchikoPapa (2020-05-06 11:00) 

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