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織田一磨の「武蔵野風景」。(2) [気になるエトセトラ]

織田一磨「目白台からみた久世山」1917.jpg
 江戸期には、現在の関口の丘(関口台=椿山Click!)のことを「目白山」と呼称する本が書かれている。葛飾北斎Click!大江戸(おえど)Click!郊外を描いた『山満多山(山また山)』Click!もそのひとつだが、これは目白坂の中腹にあった新長谷寺Click!目白不動堂Click!が建立される以前から、そう呼ばれていた可能性が高い。室町末か江戸最初期に、足利から目白山へ勧請された不動尊だから「目白不動」と名づけられたのだろう。
 織田一磨Click!の作品には、1917年(大正6)に制作された『目白台からみた久世山』というのがある。(冒頭写真) ここでいう「目白台」とは、現在の地名(住所)としての目白台ではなく、通称「目白山」すなわち椿山(関口台)の中腹あたりから眺めた、音羽の谷をはさんで東向かいにある久世山(現・小日向2丁目の丘)のことだ。織田一磨は、東京帝大病院分院から江戸川橋北詰めの音羽町に出られる目白坂を下ってきて、その中腹あたりの畑地でこの風景モチーフを見つけている。
 ここでいう目白坂とは、現在のバス道路となっている目白通りつづきの新・目白坂ではなく、江戸川橋の北詰めから椿山を上り、椿山荘の横へと出られる旧・目白坂のことだ。その坂の途中にあった、新長谷寺の境内に目白不動堂が建っていた。画面の手前には、おそらく目白坂の中腹あたりなのだろう、椿山の斜面に開墾された畑地が描かれ、その向こうには江戸川橋から護国寺へと向かう道路(現・音羽通り)沿いに建ち並んだ、家々の屋根が見下ろすようにとらえられている。画面の左寄りに、満開のサクラ(開花期の遅くて長いヤマザクラか?)で丘全体がぼんやりと霞んでいるのが久世山だ。
 『目白台からみた久世山』について、織田一磨の解説を1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された『武蔵野の記録』Click!から引用してみよう。
  
 帝大病院分院から音羽町に下る坂がある。あの坂の南方は畑地と林であつた。現在は住宅で空地は無くなつたが、当時は畑地だつた。其の一角から久世山一帯を眺望すると、春は桜花が見事だつた。この図は春の曇り日で、桜も盛りだし樹々の若芽も出て、春らしい気分が流れてゐる。/水彩画としては失敗の作で、今まで公開したこともないが、風景の変遷を物語る資料としては棄てたものでもないから、写真版として紹介することにした。写実流に描くと絵として面白みが乏しくなつて、失敗が多いが、一方記録といふ方面からみる時は、写実が一番好ましいので、両立させるといふことは容易な業ではないと思ふ。これが素描の場合だとそれほど困難でもない。
  
 現在、護国寺へと向かう音羽通りに面した小日向2丁目の丘は、住宅でギッシリ埋めつくされて昔日の風情は皆無だが、こちらでもご紹介している1929年(昭和4)1月にピストル強盗事件Click!が起きたころ、堀口大学邸や浜口雄幸邸が建ってい時代の同所は、いまだ宅地開発前の久世山の面影を色濃く残していただろう。
 音羽の谷をはさんで久世山とは対向する西側の椿山は、明治期に山形有朋邸が建設され、そのあとも藤田邸の庭園から椿山荘の庭園へと推移するなかで、さすがに畑地は消滅して住宅街となったものの、昔日の“目白山”の面影をよく残している。現在の様子を織田一磨が見たら、「武蔵野」の面影が残る場所として、再びペンをにぎるだろうか。
椿山(明治中期).jpg
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 織田一麿のスケッチに、まったく同じタイトル『目白台からみた久世山』というペン画が残されている。1917年(大正6)ごろと同時期の作品で、こちらは手前で畑仕事をするふたりの農夫がとらえられている。その他の構図は、冒頭の水彩画『目白台からみた久世山』とほぼ同じだ。やはり春の情景なのか、久世山にはサクラとみられる白い帯状の樹木が、丘全体を取り巻くように描かれている。ということは、農夫たちが収穫しているのはなんらかの麦種であり、麦秋の情景ということになるだろうか。
 久世山並びの東の丘上(現・小日向1丁目)あたりには、モダンな住宅が建設されはじめているようで、すでに宅地開発は終わっている。このスケッチや、冒頭の『目白台からみた久世山』の1年後の、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図を参照すると、久世山はほとんど未開で手つかずのままだが、大日坂の東側にはだいぶ住宅が建ちはじめているのがわかる。同書から、久世山の様子を引用してみよう。
  
 小日向台町から江戸川の電車終点の方へ下りる道には可成広い高台の原がある。人呼んで久世山といふ。昔江戸時代に久世大和守といふ人の屋敷が在つた跡だといふが、現今は荒れて建物も何もなく高原をなしてゐるにすぎない。この久世山から南西の方角を見渡すと、牛込、早稲田から新宿の方が一望のうちに見晴らせる。頗る眺望の好い場所なので夏は夕涼みの人が沢山集まつて来る。/久世山には欅の老樹が四五本、断崖に枝をたれてゐる。この原の横に道路があつて、大日如来の御堂が建つてゐる。御堂は江戸時代からのもので、真黒にぬられた古い感じは画趣が有る。久世山からこの御堂の屋根を越して、牛込の赤城町あたりの台地を眺めた図は東京の高台風景として、決して悪くない。
  
織田一麿.jpg 織田一麿「武蔵野の記録」1944.jpg

織田一磨「目白台からみた久世山」(スケッチ)1917.jpg
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目白坂.JPG
 このスケッチが、1917年(大正6)ごろに制作された『久世山の眺望』として、同書に収録されている。文中の「江戸川」とは、大洗堰Click!から下流の外濠に出る直前に架かる舩河原橋Click!までの現・神田川で、「電車終点」は当時の江戸川橋電停のことだ。「大日如来」は、大日坂の入口近くにある妙足院大日堂で、そのあたりから西へゆるやかにカーブする急坂を上ると、久世山の上には草原の拡がっていた様子が記録されている。
 『久世山の眺望』の画面には、バッケ(崖地)の下へ急に落ちこむ大日坂が手前に描かれており、ふたりの人物が座って話しているのが、久世山の草原の南端にあたる位置だ。遠景は、画家が解説しているとおり赤城町から神楽坂のある方面なのだろう。それから33年後、久世山とは反対の西側にある、目白崖線の椿山(江戸川公園の中腹)から早稲田方面を眺望して描いた作品に、1950年(昭和25)ごろ制作された吉岡憲の『江戸川暮色』Click!がある。33年の間に、早稲田方面がどのような変化をとげていたものか、織田一磨のスケッチが同書に収録されていないのが残念だ。
  
 先年、スミスといふ飛行機乗りが来た時に、久世山から空の演技を見物したこともあつた。青山や九段で花火の揚る晩なんぞは、子供連れの町の人で、時ならぬ賑ひを呈すこともある。事実、久世山から眺めやる夜の街は美くしい。赤や黄色や青く変化する仁丹の広告塔。活動写真館前のアーク塔。市電の終点から点線をなしてつらなる数多い電燈の光。それ等を背後に受けた影絵のやうな民家。細長い銭湯の煙突から静かに吐き出される白い煙。総べては平和な夜の街。
  
 織田一磨が記憶する「スミス」とは、このスケッチが描かれた前年、1916年(大正5)に来日して日本各地で興行した曲芸飛行士のアート・スミスのことだ。
織田一磨「久世山の眺望」1917.jpg
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 「平和な夜の街」と遠い想い出を綴る、『武蔵野の記録』(1944年)が出版された翌年、1945年(昭和20)の春、すでに宅地開発がされていた久世山を含む小日向地域の丘陵一帯は、B29の大編隊による山手空襲Click!の絨毯爆撃によりほぼ壊滅した。
                                <つづく>

◆写真上:1917年(大正6)に制作された織田一磨『目白台からみた久世山』。
◆写真中上は、明治末に撮影された久世山側から見た目白山(椿山)の北側。の3葉は、現在の椿山荘の庭園内で見られる武蔵野の面影。
◆写真中下は、織田一磨()と1944年(昭和19)出版の織田一磨『武蔵野の記録』(洸林堂書房/)。中上は、1917年(大正6)ごろにスケッチされた織田一磨『目白台からみた久世山』。中下は、1923年(大正12)9月21日に目白台から撮影された喜久井町から早稲田南町のある高台方面。は、現在の目白坂で画面左手が新長谷寺(目白不動)跡。
◆写真下は、1917年(大正6)ごろ描かれた織田一磨のスケッチ『久世山の眺望』。は、久世山の大日坂(上)とその入り口にある妙足院大日堂(下)。は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図にみる椿山(目白山)と久世山周辺。

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