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織田一磨の「武蔵野風景」。(3) [気になるエトセトラ]

神田川桜並木.JPG
 織田一麿Click!は、椿山(目白山)Click!や久世山など江戸川橋周辺が好きだったものか、明治末から大正期にかけて見られた東京近郊の「武蔵野風景」Click!として、盛んに描きとめている。この記事では、当時は東京市電の終点でもあった江戸川橋に近い、大正期の目白坂Click!下や大洗堰Click!など江戸川Click!(1966年より神田川で呼称統一)流域の風景をご紹介したい。なお織田一磨は、大正期になって江戸川周辺の「武蔵野」感は失われつつあるとしている。
 まず、1916年(大正5)に制作された『小石川関口の雪景』から観ていこう。この情景は、左手に舟着き場のある江戸川が描かれ、川沿いに建ち並んだ家々を描いている。雪景色なので、斜面の樹々も隠れる白一色の風景だったせいか背景はほとんど描かれていない。神田上水と江戸川の分岐近くに設置された大洗堰(現在の大滝橋あたり)の少し下流だが、同作について書いた織田一磨『武蔵野の記録』(洸林堂書房/1944年)所収のキャプションを引用してみよう。
  
 小石川関口の大瀧下流の風景だ。こゝには水車の精米工場があつて、大瀧の水を利用してゐたが、現在はどうしたか知らない。(中略) この図も東京風景の材料である。然しこれは選外としたもので、素描としては面白いが版画に直しても、版画としては面白くないと考へたのだ。甚だ尤もに考へで、これは正に版画には向かない。/版画の下図は精密に写生したものは向かないので、荒く心覚位のものが最もよいのだ。
  
 大洗堰のすぐ下流にあった精米工場の水車は、明治末に伊藤晴雨が『関口水車』として描いている。左手の川面に描かれている舟着き場が、江戸川に拓かれた水運の終点だ。ここから上流は大八車による陸運が主体で、外濠の神田川をさかのぼってきた物資は飯田橋の揚場町で降ろされ、より小さな舟で江戸川のここ終点まで運ばれている。さらに上流へは、江戸期からつづく大洗堰があって舟では通行できなかった。また、江戸川の青物市場に集められた落合や上高田、練馬などの近郊野菜類は、ここから舟に載せられて神田などの市場へと運ばれた。
 織田一磨は、おそらく家々が川筋ぎりぎりまで建っていた江戸川の右岸、つまり南側の川沿いの小道から下流を向いて描いたものだろう。
織田一磨「小石川関口の雪景」1916.jpg
小石川関口付近.JPG
伊藤晴雨「関口水車」(明治末).jpg
神田上水大洗堰1935.jpg
大洗堰跡.JPG
 つづいて、1917年(大正6)に描かれた織田一麿の『目白坂下』を見てみよう。この目白坂Click!は、今日のバスが通う新・目白坂ではなく、江戸川橋から椿山(目白山)の山頂へと斜めに上る、目白不動Click!が建立されていた旧・目白坂のことだ。同作のキャプションから、さっそく引用してみよう。
  
 これも絶好の記録画である。小石川の目白坂下には江戸時代さながらの倉作りの民家があつた。それに深い下水の溝渠が在つた。この溝は地下に埋められてゐるが、この溝のある風景は江戸時代の俤である。/東京風景版画集にも目白坂下は一枚加へてあるが、図はこの図とは反対の方面で、江戸川亭といふものが無く溝は地上に露出させてあつた昔の東京は、これが為に随所に小河岸的風景を現出して、街に趣味が多かつた。
  
 織田一麿は「下水の溝渠」と書いているが、この流れは弦巻川(金川)Click!が江戸川(現・神田川)へと注ぐ一筋のことで下水ではない。現在は暗渠化され、目白坂下のその上を首都高の5号池袋線が走っている。
 画面は、江戸川への合流地点も近い弦巻川の一筋沿いに通う小道から南を向いて、目白坂へと上る位置に架けられた小橋を描いている。橋を右手(西側)へ渡れば、椿山へと上る急坂がつづき、坂の途中からは目白不動がある新長谷寺の伽藍や樹林が望めただろう。もちろん、大正初期のころは坂道が舗装されておらず、雨が降ると坂の上り下りはたいへんだったにちがいない。
 つづいて、1917年(大正6)にスケッチされた織田一磨『江戸川石切橋附近』を見てみよう。江戸川の護岸工事がスタートする直前に描かれたもので、この工事により江戸川沿いのサクラ並木やヤナギが、すべて伐採されることになる。江戸期からつづいていた、舟に乗ってサクラを愛でる「江戸川の花見」は消滅するが、その後、江戸川橋から上流の旧・神田上水沿いにサクラ並木がが植えられ、現在は江戸川橋から駒塚橋、面影橋などをへて、下落合も近い高戸橋までが花見の名所となっている。
 同作に関する織田一磨のキャプションを、引用してみよう、
  
 江戸川の護岸工事が始まるといふので、其前に廃滅の誌趣とでもいふのか、荒廃、爛熟の境地を写生に遺したいと思つて、可成精密な素描を作つた。/崩潰しやうとする石垣に、雑草が茂り合つた趣き、民家の柳が水面にたれ下つた調子、すべて旧文化の崩れやうとする姿に似て、最も心に感じ易い美観。これを写生するのが目的でこの素描は出来る限りの骨を折つたものだ。(中略) 記録といふ目的が相当に豊富だつたために、素描のもつ自由、奔放といふ点が失はれてゐる。芸術としては、牛込見附の方に素晴らしい味覚がある。/記録としては此図なぞ絶好のもので、それ以上にはなれないし、それなら写真でもいゝといふことになつてしまふ。
  
織田一磨「目白坂下」1917.jpg
目白坂下付近.jpg
織田一磨「江戸川石切橋附近」1917.jpg
古川橋から石切橋.JPG
 画面は、石切橋を下流から描いたもので、昼すぎの強い陽光が右手(南側)から射している。当時の石切橋は、江戸川橋から数えて下流へ3つめの橋だったが、現在は華水橋ができたために4つめの橋となっている。
 大正前期の江戸川沿いには、江戸友禅Click!江戸小紋Click!の染め工房が集中しており、川向こうには洗い張りの干し場がいくつか見えている。これらの工房は、江戸川の護岸工事がスタートすると立ち退きを迫られ、さらに上流の早稲田や落合地域へと移転してくることになる。現在の石切橋界隈はコンクリートで覆われ、大曲(おおまがり)をへて舩河原橋のある外濠の出口までは、両岸をオフィスビルや高速道路に覆われているが、織田一磨が同作を写生した当時は、江戸有数だったサクラの名所の名残りや風情が、いまだに色濃く残っていたのだろう。
 最後のスケッチは、その石切橋を上流から眺めた画面だ。上記の『江戸川石切橋附近』とは逆に、上流から下流を向いて描かれている。1917年(大正6)に描かれた『江戸川河岸』というタイトルで、おそらく前作と同時期のスケッチだろう。ここにも、左手(北岸)に洗い張りの干し場が描かれ、いままさに作業をはじめようとする職人がかがみこんで、大きな樽から染め布をとり出そうとしている様子が見える。
 同作について、織田一磨のキャプションを再び引いてみよう。
  
 江戸川に香る廃滅する誌趣を写さんと志したものだ。川の左岸にあるのは洗ひ張りやさんの仕事場で、伸子に張られた呉服物が何枚か干してある。/石垣の端には柳が枝をたれて、河の水は今よりも清く、量も多く流れてゐる。すべて眺め尽きることのない河岸風景の一枚である。当時は護岸工事も出来てゐないし、橋梁もまだ旧態を存してゐた。/この下流へ行けば大曲までは桜の並木があつて、春は燈火をつけ、土手には青草が茂つてゐて、摘草もできたものだ。現在は桜は枯死し土手はコンクリートに代つて、殺風景ととふか、近代化といふか、とにかく破壊した風景を観せられる。都会の人は、よくも貴重な、自己周辺の美を惜し気もなく放棄するものだと思はせる。
  
 石切橋から約650mほどで、大曲と呼ばれる江戸川の大きな屈曲部分にさしかかり、そのまま江戸川(現・神田川)の流れは一気に千代田城Click!の外濠へと流入することになる。
織田一磨「江戸川河岸」1917.jpg
江戸川橋1935.jpg
江戸川橋から華水橋.JPG
江戸川橋1918.jpg
 織田一磨は、明治期に写生した「武蔵野」らしい風景が展開する江戸川橋周辺を、大正期に再び訪れてスケッチを繰り返しているわけだが、作品が掲載された『武蔵野の記録』は1944年(昭和19)に出版されている。敗戦も間近なこの時期、神田川沿いには防火帯36号江戸川線Click!による建物疎開Click!が実施され、画趣も風情もなにもない、赤土がむき出しの惨憺たる風景になり果てていただろう。同書の紙質もまた、1冊の本にもかかわらず粗末で多種多様な用紙が使われており、物資不足がきわめて深刻な時代だった。
                                 <了>

◆写真上:旧・神田上水沿いのサクラ並木で、対岸に見えているのは関口芭蕉庵Click!
◆写真中上からへ、1916年(大正5)に描かれた織田一磨『小石川関口の雪景』、小石川の関口付近の現状、明治末に伊藤晴雨が精米工場の大水車を描いた『関口水車』、1935年(昭和10)に撮影された神田上水と江戸川の分岐点に江戸期から設置されつづけた大洗堰、大洗堰があった新しい大滝橋あたりの現状。
◆写真中下からへ、1917年(大正6)制作の織田一磨『目白坂下』、手前に弦巻川の一筋が流れていた目白坂下の現状、同年制作の織田一磨『江戸川石切橋附近』、古河橋から石切橋を眺めた現状で正面左岸に見える凸版印刷本社ビルの先が大曲。
◆写真下からへ、1917年(大正6)制作の織田一磨『江戸川河岸』、1935年(昭和10)に撮影された江戸川橋、江戸川橋から下流の華水橋を眺めた現状、1918年(大正7)の1/10,000地形図に描画場所を記入したもの。

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織田一磨の「武蔵野風景」。(2) [気になるエトセトラ]

織田一磨「目白台からみた久世山」1917.jpg
 江戸期には、現在の関口の丘(関口台=椿山Click!)のことを「目白山」と呼称する本が書かれている。葛飾北斎Click!大江戸(おえど)Click!郊外を描いた『山満多山(山また山)』Click!もそのひとつだが、これは目白坂の中腹にあった新長谷寺Click!目白不動堂Click!が建立される以前から、そう呼ばれていた可能性が高い。室町末か江戸最初期に、足利から目白山へ勧請された不動尊だから「目白不動」と名づけられたのだろう。
 織田一磨Click!の作品には、1917年(大正6)に制作された『目白台からみた久世山』というのがある。(冒頭写真) ここでいう「目白台」とは、現在の地名(住所)としての目白台ではなく、通称「目白山」すなわち椿山(関口台)の中腹あたりから眺めた、音羽の谷をはさんで東向かいにある久世山(現・小日向2丁目の丘)のことだ。織田一磨は、東京帝大病院分院から江戸川橋北詰めの音羽町に出られる目白坂を下ってきて、その中腹あたりの畑地でこの風景モチーフを見つけている。
 ここでいう目白坂とは、現在のバス道路となっている目白通りつづきの新・目白坂ではなく、江戸川橋の北詰めから椿山を上り、椿山荘の横へと出られる旧・目白坂のことだ。その坂の途中にあった、新長谷寺の境内に目白不動堂が建っていた。画面の手前には、おそらく目白坂の中腹あたりなのだろう、椿山の斜面に開墾された畑地が描かれ、その向こうには江戸川橋から護国寺へと向かう道路(現・音羽通り)沿いに建ち並んだ、家々の屋根が見下ろすようにとらえられている。画面の左寄りに、満開のサクラ(開花期の遅くて長いヤマザクラか?)で丘全体がぼんやりと霞んでいるのが久世山だ。
 『目白台からみた久世山』について、織田一磨の解説を1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された『武蔵野の記録』Click!から引用してみよう。
  
 帝大病院分院から音羽町に下る坂がある。あの坂の南方は畑地と林であつた。現在は住宅で空地は無くなつたが、当時は畑地だつた。其の一角から久世山一帯を眺望すると、春は桜花が見事だつた。この図は春の曇り日で、桜も盛りだし樹々の若芽も出て、春らしい気分が流れてゐる。/水彩画としては失敗の作で、今まで公開したこともないが、風景の変遷を物語る資料としては棄てたものでもないから、写真版として紹介することにした。写実流に描くと絵として面白みが乏しくなつて、失敗が多いが、一方記録といふ方面からみる時は、写実が一番好ましいので、両立させるといふことは容易な業ではないと思ふ。これが素描の場合だとそれほど困難でもない。
  
 現在、護国寺へと向かう音羽通りに面した小日向2丁目の丘は、住宅でギッシリ埋めつくされて昔日の風情は皆無だが、こちらでもご紹介している1929年(昭和4)1月にピストル強盗事件Click!が起きたころ、堀口大学邸や浜口雄幸邸が建ってい時代の同所は、いまだ宅地開発前の久世山の面影を色濃く残していただろう。
 音羽の谷をはさんで久世山とは対向する西側の椿山は、明治期に山形有朋邸が建設され、そのあとも藤田邸の庭園から椿山荘の庭園へと推移するなかで、さすがに畑地は消滅して住宅街となったものの、昔日の“目白山”の面影をよく残している。現在の様子を織田一磨が見たら、「武蔵野」の面影が残る場所として、再びペンをにぎるだろうか。
椿山(明治中期).jpg
椿山1.JPG
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 織田一麿のスケッチに、まったく同じタイトル『目白台からみた久世山』というペン画が残されている。1917年(大正6)ごろと同時期の作品で、こちらは手前で畑仕事をするふたりの農夫がとらえられている。その他の構図は、冒頭の水彩画『目白台からみた久世山』とほぼ同じだ。やはり春の情景なのか、久世山にはサクラとみられる白い帯状の樹木が、丘全体を取り巻くように描かれている。ということは、農夫たちが収穫しているのはなんらかの麦種であり、麦秋の情景ということになるだろうか。
 久世山並びの東の丘上(現・小日向1丁目)あたりには、モダンな住宅が建設されはじめているようで、すでに宅地開発は終わっている。このスケッチや、冒頭の『目白台からみた久世山』の1年後の、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図を参照すると、久世山はほとんど未開で手つかずのままだが、大日坂の東側にはだいぶ住宅が建ちはじめているのがわかる。同書から、久世山の様子を引用してみよう。
  
 小日向台町から江戸川の電車終点の方へ下りる道には可成広い高台の原がある。人呼んで久世山といふ。昔江戸時代に久世大和守といふ人の屋敷が在つた跡だといふが、現今は荒れて建物も何もなく高原をなしてゐるにすぎない。この久世山から南西の方角を見渡すと、牛込、早稲田から新宿の方が一望のうちに見晴らせる。頗る眺望の好い場所なので夏は夕涼みの人が沢山集まつて来る。/久世山には欅の老樹が四五本、断崖に枝をたれてゐる。この原の横に道路があつて、大日如来の御堂が建つてゐる。御堂は江戸時代からのもので、真黒にぬられた古い感じは画趣が有る。久世山からこの御堂の屋根を越して、牛込の赤城町あたりの台地を眺めた図は東京の高台風景として、決して悪くない。
  
織田一麿.jpg 織田一麿「武蔵野の記録」1944.jpg

織田一磨「目白台からみた久世山」(スケッチ)1917.jpg
目白崖線眺望19230921.jpg
目白坂.JPG
 このスケッチが、1917年(大正6)ごろに制作された『久世山の眺望』として、同書に収録されている。文中の「江戸川」とは、大洗堰Click!から下流の外濠に出る直前に架かる舩河原橋Click!までの現・神田川で、「電車終点」は当時の江戸川橋電停のことだ。「大日如来」は、大日坂の入口近くにある妙足院大日堂で、そのあたりから西へゆるやかにカーブする急坂を上ると、久世山の上には草原の拡がっていた様子が記録されている。
 『久世山の眺望』の画面には、バッケ(崖地)の下へ急に落ちこむ大日坂が手前に描かれており、ふたりの人物が座って話しているのが、久世山の草原の南端にあたる位置だ。遠景は、画家が解説しているとおり赤城町から神楽坂のある方面なのだろう。それから33年後、久世山とは反対の西側にある、目白崖線の椿山(江戸川公園の中腹)から早稲田方面を眺望して描いた作品に、1950年(昭和25)ごろ制作された吉岡憲の『江戸川暮色』Click!がある。33年の間に、早稲田方面がどのような変化をとげていたものか、織田一磨のスケッチが同書に収録されていないのが残念だ。
  
 先年、スミスといふ飛行機乗りが来た時に、久世山から空の演技を見物したこともあつた。青山や九段で花火の揚る晩なんぞは、子供連れの町の人で、時ならぬ賑ひを呈すこともある。事実、久世山から眺めやる夜の街は美くしい。赤や黄色や青く変化する仁丹の広告塔。活動写真館前のアーク塔。市電の終点から点線をなしてつらなる数多い電燈の光。それ等を背後に受けた影絵のやうな民家。細長い銭湯の煙突から静かに吐き出される白い煙。総べては平和な夜の街。
  
 織田一磨が記憶する「スミス」とは、このスケッチが描かれた前年、1916年(大正5)に来日して日本各地で興行した曲芸飛行士のアート・スミスのことだ。
織田一磨「久世山の眺望」1917.jpg
久世山大日坂.jpg
妙足院大日堂.JPG
久世山1918.jpg
 「平和な夜の街」と遠い想い出を綴る、『武蔵野の記録』(1944年)が出版された翌年、1945年(昭和20)の春、すでに宅地開発がされていた久世山を含む小日向地域の丘陵一帯は、B29の大編隊による山手空襲Click!の絨毯爆撃によりほぼ壊滅した。
                                <つづく>

◆写真上:1917年(大正6)に制作された織田一磨『目白台からみた久世山』。
◆写真中上は、明治末に撮影された久世山側から見た目白山(椿山)の北側。の3葉は、現在の椿山荘の庭園内で見られる武蔵野の面影。
◆写真中下は、織田一磨()と1944年(昭和19)出版の織田一磨『武蔵野の記録』(洸林堂書房/)。中上は、1917年(大正6)ごろにスケッチされた織田一磨『目白台からみた久世山』。中下は、1923年(大正12)9月21日に目白台から撮影された喜久井町から早稲田南町のある高台方面。は、現在の目白坂で画面左手が新長谷寺(目白不動)跡。
◆写真下は、1917年(大正6)ごろ描かれた織田一磨のスケッチ『久世山の眺望』。は、久世山の大日坂(上)とその入り口にある妙足院大日堂(下)。は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図にみる椿山(目白山)と久世山周辺。

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織田一磨の「武蔵野風景」。(1) [気になるエトセトラ]

織田一麿「中野村風景」1908.jpg
 明治末から昭和初期にかけ、織田一磨Click!は落合地域とその周辺域をスケッチしながら、ずいぶんあちこちを歩きまわっている。彼は市街地(東京15区内Click!)の芝で生まれ麻布で育ったため、それらの地域(山手線の西側エリア)は「武蔵野」Click!として認識されており、ことさら「武蔵野」Click!らしい風景を求めて逍遥している。
 織田一磨の著作、1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された『武蔵野の記録―自然科学と藝術―』には、明治末から描きためられ画家の手もとに保存されていた落合地域をはじめ、周辺地域の風景画やスケッチが掲載されている。先に落合地域はご紹介Click!ずみなので、今度は近接地域の風景作品に目を向けてみよう。
 同書のカラーグラビアで、巻頭に掲載されているのは1908年(明治41)12月ごろに制作された『中野村風景』だ。織田一磨は、どんよりとした曇天の風景がことさら好みだったようで、作品の大半は曇りの日に描かれている。中央線・中野駅と青梅街道にはさまれた田園地帯を描いているが、同書のキャプションより引用してみよう。
  
 寒い日の曇り日で、写生してゐても足や手が痛くなつて、とてもゐられないので、運動をしてはまた筆を執り、暫くするとまた運動して身体が温暖になると筆を持つといふ調子に苦労を重ねてやつと三時間位で描いた。場所は中野駅から南へ今の市電の通つてゐる方角へ行つて、小高い丘の上から、西北方を写生した図で、当時中野村には駅の附近から人家は全くなく、青梅街道=市電の通=の両側に人家は並んでゐた。図中左方の森は人家のある街道筋に当る。/畑地に緑色した作物は、ムギの若芽だと思ふ。今にも雪にでもなりさうな空から、夕方近い黄色の光線がもれ出るあたりは、冬らしい感じである。
  
 おそらく画家は、中野駅南口を出て南南東へ向かう道を南下し、中野村上町ないしは天神祠(現・中野区中央5丁目)あたりから描いているとみられる。ただし、向いている方角は「西北」ではなく「西南西」ではないだろうか。青梅街道沿いに並ぶ人家が、画面左手の森に沿った向こう側だとすれば、この地域で青梅街道はほぼまっすぐに西進しているので、やや南を向かなければ同街道の並木は視界にとらえられないはずだ。
 つづいて、1942年(昭和17)に描かれた『江古田附近』という挿画がある。この江古田が、中野区江古田(えごた)Click!なのか、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の江古田(えこだ)Click!駅(練馬区)なのかは不明だが、彼は雑司ヶ谷に住んでいたころ、池袋を起点に武蔵野鉄道沿いをスケッチしてまわるのが好きだったようなので、画面は同線の江古田駅の近くではないかと思われる。このあたり、織田一磨は地名にはかなり無頓着で、風景作品につけられるタイトルは近くの駅名をかぶせる傾向が多々みられる。
 右から左へと、なだらかに下る斜面に建てられた住宅や農家をとらえているが、著者の解説がないので描画位置は不明だ。描かれた1942年(昭和17)現在、このような風景は江古田駅南側の随所で見られただろう。
中野村1897.jpg
中野氷川社.JPG
織田一麿「江古田附近」1942.jpg
武蔵大学キャンパス.JPG
 次に、同じく武蔵野鉄道の池袋駅からひとつめにあった上屋敷(あがりやしき)駅の近くを描いた、1918年(大正7)制作の『目白附近あがりやしき』がある。これも同書の挿画の1枚であり、絵についての解説はない。ここでいう「目白」とは、明らかに山手線・目白駅Click!からとられており、当時の周辺地名にいまだ「目白」は存在していない。目白駅周辺の地名が、雑司ヶ谷旭出や高田町などから「目白町」に変更されるのは、東京35区制Click!がスタートして豊島区が成立した1932年(昭和7)以降のことだ。
 大きなケヤキとみられる屋敷林が描かれた画面は、上屋敷のどのあたりかは不明だが、この時期の作品としては三岸好太郎Click!『狐塚風景』Click!や、俣野第四郎Click!による『陽春池袋付近』の情景と重なることになる。
 『武蔵野の記録』より、大正末から昭和初期の様子を引用してみよう。
  
 武蔵野は当分人々の脳裏から離れ去つて、郊外散策はギンブラに振替られてしまつた。郊外がどんなになつたのか、行つてみたいとも思はず、そんな時間があれば市街へ散策した。尤も井ノ頭とか村山とかへは、若い人は散歩したらしいが、これはハイキングではなくランデブーと称するものゝ由でドライブと似た形態であるといふ。
  
 大正期の落合地域は、周囲に住む画家や作家たちの散策先として、またハイキングを楽しむ人々が押しかけていたので、織田一磨の「市街地へ散策した」は一般的な傾向ではなく、自身の経験のことを書いているのだろう。
 下落合に目白文化村Click!近衛町Click!アビラ村(芸術村)Click!などが計画・販売されはじめると、空気や水が良質な田園地帯での「文化生活」を夢見た市街地の人々が、ハイキングがてら落合地域を散策するようになる。特に下落合の西側に接する葛ヶ谷Click!(のち西落合)地域は、東京府による風致地区に指定されていたため耕地整理や開発が進まず、武蔵野の面影を色濃く残していたエリアだった。ハイカーが落としたタバコの火の不始末から、あわや下落合の西坂・徳川邸Click!が焼けそうになった火災事件Click!も、大正期が終わったばかりのころに発生している。
江古田駅1944.jpg
江古田西洋館.JPG
織田一麿「目白附近あがりやしき」1918.jpg
上屋敷公園.JPG
 さて、織田一磨が池袋を描いた挿画も同書に収録されている。1914年(大正3)と早い時期のスケッチで、タイトルは『池袋附近』だ。この「池袋」も駅名からとったとみられ、洋風の建造物が描かれている。1914年(大正3)の当時、池袋駅周辺の洋風建築といえば豊島師範学校か、成蹊中学校・成蹊実務学校ぐらいだろうか。立教大学は、いまだキャンパス敷地が確保されているだけで未建設のままだ。
 描かれているモチーフは、洋風に建てられた施設などの門柱に見えるが、当時存在した建物の写真類を参照しても、どこを描いたのかが不明だ。池袋駅周辺で、この門柱(?)あるいはモニュメントを憶えている方がおられれば、ご教示いただきたい。
 このころの写生の様子を、同書より引用してみよう。
  
 第一次、雑司ケ谷時代は、相も変らず貧乏生活で、ほとんど極端に近い有様ではあつたが、写生に出る事はすこしもへらさずに、前述のやうな郊外へは度々行つた。新宿とか角筈、十二社、中野大宮、池袋、長崎、大塚、西ケ原、早稲田等は、写生の対象とするのに良かつたので、テクテクと行つた。(中略) 植物園の方面とか殊に、田端なんぞは、水田が多く台地の森と、寺院や民家を背景にして、写生をしたり、道灌山から千住方面を遠望して描いた。この辺も全く変り果て、近頃ではどこを写生したのか、さつぱり判然として来ない。それほど関係が薄くなつてしまつた。追憶するにしても、何か手掛りが残つてゐないと張合がぬけてしまつて、どうにもならない。それには、高田の馬場辺とか、目白とか、江戸川公園の辺なんぞは、まだ何か目標になるものが遺されてゐる。池袋や田端や、大塚附近とか、中野、高円寺となると更に困ることになる。
  
 「植物園」は、織田一磨が住んでいた雑司ヶ谷にも近い小石川植物園のことだ。
 その雑司ヶ谷鬼子母神の表参道を描いた、1919年(大正8)の挿画も掲載されている。『雑司ヶ谷鬼子母神参道』の画面は、参道の途中から北を向いて写生した構図で、右手には江戸期からつづく水茶屋の1軒が描かれている。参道には積雪があるようで、描かれた人物の姿などから同作もまた冬季のスケッチだろう。明治末に撮影された鬼子母神参道の写真と比較すると、大正期の半ばでもほとんど風景に変化のないことがわかる。
織田一麿「池袋附近」1914.jpg
池袋駅西口.JPG
織田一磨「雑司ヶ谷鬼子母神並木」1919.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神参道(明治末).jpg
雑司ヶ谷鬼子母神参道.JPG
 織田一磨は、丘や谷間が入り組む起伏のある武蔵野風景が好きだったのか、目白崖線沿いの風景もよくモチーフに選んでは描いている。次回は目白崖線の東端、目白不動堂Click!が建立されていた江戸期の通称では目白山=椿山Click!(現・関口/目白台界隈)と、音羽の谷間をはさんだ向かい側の久世山(現・小日向2丁目)の風景作品をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:1908年(明治41)に制作された織田一磨『中野村風景』。
◆写真中上からへ、1897年(明治30)の1/10,000地形図にみる中野駅南側の『中野村風景』想定の描画位置、武蔵野の面影を残す中野氷川社、1942年(昭和17)制作の織田一磨『江古田附近』、江古田の武蔵大学キャンパスに再現された武蔵野の湧水。
◆写真中下からへ、『江古田附近』から2年後の1944年(昭和19)に撮影された江古田駅周辺、武蔵野らしい屋敷林に囲まれた江古田の西洋館、1918年(昭和大正7)制作の織田一磨『目白附近あがりやしき』、当時の面影をかろうじて残す上り屋敷公園。
◆写真下からへ、1914年(大正3)制作の織田一磨『池袋附近』、現在の池袋駅西口で左手の一帯が豊島師範学校跡、1919年(大正8)制作の織田一磨『雑司ヶ谷鬼子母神参道』、明治末に撮影された水茶屋が残る同参道、現在の参道。
池袋1936.jpg

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寄宿舎制度の改革で生まれた学習院昭和寮。 [気になる下落合]

第四寮.JPG
 学習院Click!は、1923年(大正12)になると寄宿舎制度の大幅な改革を行なっている。従来は、学習院の広い敷地内に建設された6棟の寮(1909年竣工)へ、全学生を収容する全寮制のシステムを導入していた。久留正道が設計した寮棟は、1部屋に4人の学生を収容でき1階が勉強室に、2階が寝室に使用されていた。
 学習院を全寮制にしたのは、学生に学習から日常生活まで、軍隊と同様の集団的規律を重視した院長・乃木希典Click!の意向だったといわれている。だが、大正期に入ると学生の家庭事情や社会環境の変化にともない、乃木式Click!の全寮制ではなく希望入寮制への要望が高まってきた。そこで、学習院は1923年(大正12)に寄宿舎制度の大幅な改革を実施し、希望する学生のみが入寮できる仕組みに変更している。
 また、入寮する生徒や学生を中等科と高等科に分け、12歳から18歳までの中等科生徒は、学習院キャンパス内にある既存の寮6棟へ、18歳から21歳までの大学進学をひかえた高等科の学生は、学外へ新たな「青年寮」を建設して入寮希望者のみを収容することにした。学習院では、下落合の近衛町Click!にあった帝室林野局の土地2,730坪(近衛町42・43号敷地Click!)を買収し、新寮建設のプロジェクトを立ち上げて、1926年(昭和元)12月に新寮建設の着工をしている。
 こうして新たに建設されたのが、学外では初となる1928年(昭和3)3月末に竣工した、下落合406番地(のち下落合1丁目406番地/現・下落合2丁目)の学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)だ。施工は安藤組が行ない、設計はかつては内匠寮工務部建築課に勤務していた権藤要吉といわれていたが、今世紀に入ってからの最新研究では、同工務部の技師・森泰治の仕事だと推定(『皇室建築』/2006年)されている。
 当初は「青年寮」と呼ばれた新寮の制度は、イギリスのイートン校をモデルにしたといわれているが、入寮する学生全員には個別の部屋が与えられ、寮の運営に関する学生の自治と自立的な生活が求められた。また、同時に華族を中心とした上流階級の、社交や礼儀を学ぶことが重要視されていたという。建物のデザインは、オレンジのスペイン瓦にスタッコ仕上げの外壁、上部がアーチ状の窓に三角の屋根がついた煙突と、米国におけるスパニッシュ様式の建築の意匠を採用したものだ。
 学習院昭和寮Click!本館Click!については、これまで内部の様子Click!エピソードClick!、あるいは多種多様な物語Click!を取りあげているが、今回は宮内庁の宮内公文書館に残された「工事仕様書」、あるいは添付の設計図(青焼き)をベースに書いてみたい。おもに、日立目白クラブClick!時代になってからも出入りや写真撮影が許されなかった、南側の寮棟についてご紹介したい。貴重な資料をお送りいただいたのは、同寮に植える樹木注文書の記事でもお世話になった、アーキビストの筒井弥生様Click!だ。
 本館の南側に建っていた寮4棟は、本館と同じ地下1階と地上2階の都合3階建ての建築だが、たとえば東寄りにあった第一寮と第二寮は斜面に建設されているため、地下1階には寮室の窓がしつらえてあり、外から見ると地上3階建てに見えた。また、寮棟は同一の規格ではなく、すべて異なる設計デザインで建設されているため、第一寮から第四寮まで各寮ごとに外観が異なっていた。共通点といえば、1階および南を向いた地下1階の窓が角窓、2階が上部にアーチのついた窓、階段部分が縦長の細いアーチ窓、そして屋上の十字模様がうがたれた胸壁(パラペット)ぐらいだろうか。
宮内公文書館資料01.JPEG 宮内公文書館資料02.JPEG
学習院昭和寮(電線).JPEG
学習院昭和寮(ガス管).JPEG
学習院昭和寮(本館地下).JPEG
 筒井様からお送りいただいた、同寮の平面図(電気・ガスの引きこみ図など)を参照すると、たとえば傾斜地に建てられ地下1階が地上に露出していた第一寮には、地下に寮室が3部屋と広間、物置きなどが設けられており、また第二寮の地下1階には、寮室が3部屋に暖房・温水用の汽罐室(ボイラー室)が設置されていた。
 各寮の1階は近似しており、玄関を入ると右手に物置きがあり、さらに右奥には洗面所と便所が設置されていた。また、玄関の左手には雑用を引き受ける小使室が置かれている。フロアの中央には広間があり、その周囲には5~6室の寮室に入るドアが面していた。2階の寮室や広間も、1階とほぼ同一の造りをしていたが、2階には5~6室の寮室と広間のほか、学生たちが集える談話室や浴室が設置されていた。
 寮舎の建物は平均336坪の広さで、第一寮が14室、第二寮・三寮・四寮が各12室の計50室、つまり50人の学生たちを収容できるように設計されていた。寮生Click!の部屋は、広さが14m2ほどの洋間ワンルームで、学習室と寝室を兼ねていた。各寮室の家具調度は、病院のようにカーテンで仕切れるベッドをはじめ、物入れ、備えつけの本棚、机、レザー張りのイスなどが用意されており、学生は身のまわりの荷物だけそろえれば、すぐに入寮することができた。
 この寮室に置かれたベッドのカーテンについて、宮内公文書館の資料では布地の見本がついた注文書が保存されている。宮内公文書に保存された、「内匠寮昭和三年工事録」から当該部分を引用してみよう。
第二寮.JPG
第三寮.JPG
学習院昭和寮(本館階段).JPG
学習院昭和寮本館応接室.JPG
学習院昭和寮本館会議室.JPG
学習院昭和寮(寮棟).JPEG
学習院昭和寮(舎監棟).JPEG
  
 目白学習院青年寮各室寝台脇仕切幕新調取付註文書
 一、仕切幕 高サ曲尺六尺九寸五分/巾曲尺八尺押入竪框ヨリ窓迄 二十二個所
 一、同    〃 / 〃 九尺ヨリ九尺二寸 二十八個所
 現場熟覧見本裂参照
 右仕様
 一、竣功日限  三月末日
 一、請負  一式
 一、裂地  見本通リ藍色梨地織綿鈍子 (以下略)
  
 「二十二個所」と「二十八個所」で、全50寮室のベッドまわりが藍色の仕切幕(カーテン)で統一されていたのがわかる。また、同資料にはレザー張りイスのデザイン図面も収録されており、これも家具専門店に発注されていたのだろう。
 本館の図面に加え、本館の右手(西側)に建設された舎監棟平面図も残されている。1階の玄関を入ると、左手が応接室になっており、右手の階段下には便所と洗面所が設置されている。廊下をまっすぐ奥に進むと、左手が広い居間とテラス、突き当たりが台所となり、居間つづきで建物の南西角が老人室となっている。
 2階に上がると、書斎と寝室が2部屋(おそらく子どもがいればどちらかが子ども部屋)が設置されている。当時の舎監は、寮と同じ敷地内に一家で暮らすケースが多かったため、建物内の様子は一般の住宅と変わらない。舎監棟は、本館や寮棟と同じくRC造りで、建坪158坪の2階建てスパニッシュ様式の西洋館だ。ただし、内部の部屋は玄関のエントランスと応接室のみが洋風で、あとは日本間という構成だった。
 学習院昭和寮Click!は、食堂や社交室、図書室(読書室)、売店、談話室、浴場などを備えた本館に加え、第一寮から第四寮までゆとりのある贅沢な寮棟から構成されていた。4つの寮棟の設計をあえて同一にしなかったのは、それぞれ入寮する学生たちの自治や自立、特色など独自性を重視したものだろう。同寮は、イギリスの寄宿舎制度にならったものだが、寮棟の外観は大正後半から日本で流行していた、米国のスパニッシュ住宅の様式を取り入れ、随所にアールデコ調のデザインを採用している。
宮内公文書館資料03.JPEG 宮内公文書館資料04.JPEG
学習院昭和寮(寮室イス).JPEG
学習院昭和寮(テニスコート).JPEG
学習院昭和寮(鉄網塀).JPEG
 同資料には、第三寮のさらに西側にあった2面のテニスコートの平面図や、南側の崖地の淵に設置された長さ36mにわたる「鉄網塀」=金網柵の設計図までが収録されている。第一寮のすぐ南側までは、昭和寮を囲むコンクリート塀が設置されていたが、第二寮から西側は武蔵野の原生樹林におおわれた急傾斜のバッケ(崖地)Click!がむき出しのままであり、やんちゃな寮生が転がり落ちるのを懸念したものだろう。「鉄網塀」はすべてペンキで重ね塗りされていたようなのが、何色のペンキだったかまでは記録されていない。

◆写真上:ヒマラヤスギやスダジイ、ケヤキなどに囲まれた学習院昭和寮の第四寮。
◆写真中上は、宮内公文書館に保存された同寮工事仕様書の一部。は、上から同寮の電力線・電燈線Click!引きこみ図、ガス管引きこみ図、本館地下1階の平面図。宮内公文書館の資料類の写真は、いずれも筒井弥生様の提供による。
◆写真中下は、上から学習院昭和寮の第二寮と第三寮。は、上から同寮本館の階段と2階の応接室と会議室。は、上から同寮の平面図と舎監棟の平面図。
◆写真下は、同寮の寝台脇仕切幕(カーテン)の注文書と見本。は、同寮で使用されたレザー張りイスのデザイン。は、テニスコート平面図と鉄網塀の仕様図。北が下のテニスコート図面で、左に描かれている建物はいちばん西側に位置する第三寮だが、青焼きではテニスコートの面積が赤ペンで上下に修正されている。

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樹木の注文書が残る学習院昭和寮。 [気になる下落合]

学習院昭和寮南から.JPG
 現代ではめずらしくなってしまったが、戦前の住環境では家屋を建てる際に、庭や建物、敷地を取り巻く樹木を注文するのがあたりまえだった。こちらでも何度かご紹介しているが、落合地域が住宅地として拓けつつあった当時、周辺には家を建てる工務店Click!とともに大樹をあつかう植木店Click!や、花壇に植える花々の種子や球根を取りあつかう種苗店Click!があちこちで開店していた。
 現代の都市部では、住宅敷地のギリギリまで家を建てるケースが多いため、大きな樹々を植える庭や生け垣の余地が失われ、せいぜい花壇か緑の棚、鉢植えなどのガーデニングを楽しむぐらいしか余裕がなくなってしまった。特に住宅街におけるビル状のマンションや、最近増えはじめた老人施設Click!の場合は、庭や樹木スペースさえ惜しみ敷地内にあるすべての緑を伐採して、利益の最大化を当てこみ建設するケースがほとんどなので、都市部における緑地減少と温暖化が進む深刻な課題となっている。
 さて、同じようなビル状の建物でも、戦前の場合はどうだったのだろうか? 下落合でいうと、たとえば学習院Click!が下落合406番地(のち下落合1丁目406番地/現・下落合2丁目)に建設した、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)のケースを見てみよう。近衛町Click!の南端にあたる学習院昭和寮Click!の敷地に、本館と舎監棟が各1棟、学生寮4棟が建設されるのと同時に、学習院が膨大な量の樹木を植木業者に発注した資料が残されている。宮内庁の宮内公文書館で保存されている、貴重な資料を調査してお送りくださったのは、下落合にお住まいのアーキビスト・筒井弥生様だ。
 筒井様からお送りいただいた、宮内公文書館の保存文書「内匠寮昭和三年工事録・二〇/学習院ノ部・二」の画像から、まず昭和寮が竣工する直前の1928年(昭和3)3月23日に注文された樹木類を参照してみよう。
  
 学習院青年寮新築ニ付庭苑植栽用樹木購入注文書
 椎樹(シイ) 高弐間半内外/幹廻リ八寸内外/葉張五尺  四拾本
 八ツ手(ヤツデ) 高五尺/葉張四尺/五六本立  参拾本
 八ツ手(ヤツデ) 高四尺/葉張四尺/四五本立  参拾本
 青木(アオキ) 高四尺以上/葉張三尺  四拾本
 一、前記樹木購入候ニ付根巻枝吊養生ノ上青年寮構内指定ノケ所ヘ納入ノ事
 一、期間申付ヨリ一週間ノ事
                          (カッコ内引用者註)
  
 この段階で、注文先の植木業者は昭和寮の敷地面積に対して、植木の本数がやや少ないと感じただろうか。あるいは、いろいろ事前に問い合わせをもらっていたのに、「しめて注文はこれだけ?」と多少ガッカリしたかもしれない。
 東京土地住宅Click!が売りだした近衛町の敷地(第42・43号Click!)には、武蔵野に特有の既存樹木が数多く繁っていたので、建物の周囲だけ整地したあと、それら武蔵野の原生樹木の一部を活用するのかとも考えただろうか。既存の樹木は、おもに南側のバッケ(崖地)Click!に生えている原生林が、ほぼ手つかずのまま残されていたので、植木業者がそう悲観的に考えたとすれば無理もないだろう。
学習院昭和寮第4寮.JPG
学習院昭和寮第4寮跡.JPG
学習院昭和寮竹藪.jpg
学習院昭和寮竹藪跡.JPG
学習院昭和寮全景1932.jpg
 だが、3月23日付けの注文書は、まだほんの序の口だったのだ。つづいて、5日後の3月28日に出された追加注文書には、多彩な樹木リストが記載されていた。宮内公文書館に保存されている同資料から、再び引用してみよう。
  
 学習院青年寮新築ニ付庭苑植栽用樹木購入注文書
 ヒマラヤシーダー(ヒマラヤスギ)
  高二間-三間/葉張八尺内外/幹廻リ七寸-一尺  拾本
 カウヤマキ(コウヤマキ)
  高二間半内外/葉張七尺内外/幹廻リ八寸-一尺二寸  五本
 タウヒ(トウヒ) 高二間内外/葉張六尺内外/幹廻リ六寸内外  五本
 イテフ(イチョウ) 高三間半/葉張七尺内外/幹廻リ一尺内外  五本
 カナメ 高二間内外/葉張六尺内外/幹廻リ六寸内外  拾本
 ハンテンボク(ユリノキ) 高二間半内外/葉張七尺内外/幹廻リ九寸内外 参本
 ヂンチャウゲ(ジンチョウゲ) 高三尺内外/葉張四尺内外  拾本
 仝 (ジンチョウゲ) 高二尺五寸内外/葉張三尺内外  五本
 サザンクワ(サザンカ) 高六尺内外/葉張三尺内外/幹廻リ三寸内外  五本
 ツバキ 高八尺内外/葉張四尺内外/幹廻リ四寸内外  五本
 モクセイ 高六尺内外/葉張五尺内外/幹廻リ一尺内外  参本
 シヒ(シイ) 高三間内外/葉張六尺内外/幹廻リ一尺内外  四拾本
 モチ 高二間半内外/葉張七尺内外/幹廻リ一尺内外  弐本
 八ツ手(ヤツデ) 高五尺/葉張四尺/五六本立  参拾株
 仝 (ヤツデ) 高四尺/葉張四尺/四五本立  参拾株
 青木(アオキ) 高四尺以上/葉張三尺  四拾株
 一、前記樹木購入候ニ付根巻枝吊養生ノ上青年寮構内指定ノケ所ヘ納入ノ事
 一、期間申付ヨリ拾日間ノ事
                          (カッコ内引用者註)
  
宮内公文書館資料1.JPEG 宮内公文書館資料2.JPEG
宮内公文書館資料3.JPEG 学習院昭和寮スダジイ.JPG
学習院昭和寮サクラ1.jpg
学習院昭和寮サクラ2.JPG
 さすがに、これだけの種類の樹木と本数をそろえるのはたいへんだと判断したのか、前の注文書が納期まで「一週間」としたのに対し、今回の注文書は納品リードタイムを「拾日間(10日間)」と長めに設定している。
 このリストに掲載された樹木が、戦争をへて92年後の今日までどの程度残っていたのかは、伐採されてしまったのでもはや詳しく調べようがないが、かなりの本数の樹木がそのまま保存され、手入れが繰り返されていたとみられる。
 また、筒井弥生様も指摘されるように、上記の注文リストにサクラの木が存在しない。敷地南側のテニスコート脇、バッケ(崖地)の淵に生え、毎年みごとな花を咲かせていたサクラの巨木は、学習院昭和寮が建設されるはるか以前から繁っていた原生のものだろう。花弁がピンクがかった白だったので、ヤマザクラかオオシマザクラ、あるいは老樹となったエドヒガンザクラだったものだろうか。幹の太さからすると、樹齢は百年以上がたっていたのではないだろうか。そのサクラの巨木も、マンション建設のために惜し気もなく伐り倒されてしまった。
 周辺住民のみなさんは、「目白が丘幼稚園周辺の交通安全・環境を守る会」(代表:早尾毅様)を結成して、長期にわたり緑の保存を訴えてきたが、学習院昭和寮(日立目白クラブ)から西へ500mほどのところにある下落合のタヌキの森Click!と同様、大きく育った樹木や樹齢100年を超える古木は一顧だにされず伐採されつづけている。
宮内公文書館資料4.JPEG 宮内公文書館資料5.JPEG
宮内公文書館資料6.JPEG 宮内公文書館資料7.JPEG
学習院昭和寮南接道.JPG
 宮内公文書館に保存された同資料類には、「永久保存」という朱印があちこちに押されているが、かんじんの中身に記録された樹木類の大半は「永久保存」どころか、2018年から進むマンション建設のために、なんのためらいもなく90年余でさっさと伐り倒されている。唯一、正門や北側の塀沿いに残された樹木も、マンションへクルマが出入りする利便性を考え、道路の拡幅のために昭和寮時代からの塀を撤去し、ほとんどの樹々が伐採される計画だという。これだけ温暖化が大きな課題となり、緑地・樹林の保全が地球規模で叫ばれている中、もはや「どうかしてる」……としかいいようがない建設計画だ。

◆写真上:工事前に南側から眺めた、昭和寮のテニスコートがあった丘。右手にみえる老樹が、昭和寮の建設前から繁っていたとみられるサクラ。
◆写真中上は、学習院昭和寮の第4寮(上)と解体された現状(下)。は、昭和寮敷地の西側に接する竹藪が美しかった坂道(上)と工事中の現状(下)。は、1932年(昭和7)に航空機から撮影された学習院昭和寮の全景。
◆写真中下は、宮内公文書館に保存された資料「内匠寮昭和三年工事録・二〇/学習院ノ部・二」。(提供:筒井弥生様) 中左は、同上。中右は、昭和寮に生えるスダジイの巨木。1928年(昭和3)3月23日の注文書の「椎樹」か、3月28日の「シヒ」の1本とみられる。は、2葉ともテニスコートに繁っていたサクラの老樹。
◆写真下は、「内匠寮昭和三年工事録・二〇/学習院ノ部・二」より。(提供:筒井弥生様) は、昭和寮の本館北側の塀沿いに繁る樹木類。マンションへのクルマ出入りを容易化するため、接道の拡幅工事でほとんどすべてが伐採される予定だ。

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中井英夫が開いた「薔薇の宴」。 [気になる下落合]

世田谷羽根木の自邸1988頃.jpg
 下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んだ小説家・中井英夫Click!は、家の周囲や庭先にさまざまな植物を育てていた。その中で、もっとも好きで数が多かったのは、多彩なバラの花々だったろう。そのバラが満開を迎える初夏、中井英夫は「薔薇の宴」と称するパーティーを毎年開いては、友人・知人たちを招待していた。もちろん、「薔薇の宴」は下落合でも開かれていただろう。
 中井英夫Click!が、市ヶ谷台町から下落合へ転居してきたのは1958年(昭和33)、ちょうど角川書店で歌誌「短歌」の編集長を引き受けていたころのことだ。それまでにも、彼は日本短歌社の歌誌「短歌研究」や「日本短歌」の編集長をつとめている。そして、1967年(昭和42)に下落合からすぐ南側の新宿区柏木(現・北新宿)、そして中野へと転居していくが、1969年(昭和44)に杉並区永福町へ移るころから、中井英夫ならでは視点でとらえた現代短歌史を構想していたようだ。
 それは、1971年(昭和46)に『黒衣の短歌史』(潮出版社)として結実するが、下落合で「短歌」の編集長をしていたころの“歌壇”の雰囲気を、たとえば次のように表現している。1988年(昭和63)に三一書房から出版された『中井英夫作品集/別巻』に収録の、『黒衣の短歌史』から引用してみよう。
  
 たとえ岸上大作がどれほど悲痛な思いで自殺したにしろ、その作品がすでにこの“臭い”に毒されている以上、次のような評判作もお世辞にも賞めることはできない。
 意思表示せまりこえなきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ
 装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている
 血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする
 すでに加藤周一が『現代短歌に関する私見』の中で、「P・Xから出てくるG・Iたちという文句は、おでん屋から出てくる書生たちという文句より少しも近代的ではない」といましめたのは昭和二十四年のことだというのに、進歩的なことを歌いさえすれば自分も進歩派の仲間入りをしたと思いこむ錯覚はまだ続いているらしい。といって私は塚本(邦雄)のエピゴーネンに徹する須永朝彦より福島泰樹『バリケード六十六年二月』をはるかに高く評価するのだが。(カッコ内引用者註)
  
 拙サイトの記事にも登場している岸上大作Click!と、下落合にも住んでいた福島泰樹Click!のふたりが登場しているが、岸上大作は1960年(昭和35)10月に『意思表示』を発表したあと、わずか2ヶ月後の12月にはすでに自裁しているので、「進歩派の仲間入り」をしたなどと自覚するヒマもなかったのではないだろうか。
 中井英夫は、常に“歌壇”に眼を向けていたが、下落合の自邸の庭へ“花壇”を造ることにも熱中していた。特に、バラの栽培には造詣が深く、毎年5月ごろになると多種多様なバラが庭先で花を咲かせていたようだ。
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 下落合4丁目2123番地の家は、西側に隣接する池添邸Click!の敷地内にあり、その周囲に拡がる広い庭もまた池添家からの借地だった。その庭に、中井英夫はバラを中心にさまざまな植物を植え、育てていたようだ。それは、1960年(昭和35)に作成された「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)の下落合エリアで、中井英夫邸が「中井」という苗字が採取されずに、「植物園」として記載されていることでも明らかだ。同地図の調査員は、あまりにも多くの花々が咲き乱れる中井邸の庭や花壇を垣間見て、個人邸ではなく植物園と勘ちがいしたのだろう。あるいは、中井英夫自身が「〇〇植物園」と書いたプレートを、冗談半分にどこかへ架けていたのかもしれない。
 中井英夫が、もっとも早くバラについて表現した詩は、わたしの知るかぎり1946年(昭和21)7月8日に創作された『凍えた花々』ではないだろうか。この詩は、彼の日記に書きとめられたもので、1983年(昭和58)に立風書房から出版された『黒鳥館戦後日記』の、「1946年7月8日」の項に掲載されている。1989年(昭和64)に三一書房から出版された、『中井英夫作品集/Ⅶ』より引用してみよう。
  
 凍えた花々
 地球のあちこちに/ともかくもばらはもえてゐた
 つぼみはつぎつぎ瞳をみひらき/相ついで香ひの産声をあげた
 地球のあちこちに/ともかくもばらは生きてゐた/ともかくも空気を吸つてゐた
 その日/地球にふたゝび氷河は流れ/いつさいの花を固く封じたそのとき
 香ひ立つばらも生きながら凍つたそのとき/花と空気は絶縁し/…………
 あの残虐な氷河時代にも/しかし花はほろびなかつた
 凍りはしながら毅然としてゐた。/…………
  
 中井英夫の下落合時代は、創作に加え多彩な活動を行なっている。有馬頼義や松本清張Click!らとともに「影の会」の世話人を引き受けたり、1961年(昭和36)に角川書店を退社するとグラフィックデザインの会社を友人と起ち上げたり、小学館の百科事典づくりにも参画している。1964年(昭和39)には、塔晶夫の名で『虚無への供物』(講談社)を出版し、同時に『青髯公の城』(未発表)も執筆している。
下落合邸の庭1965頃.jpg
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 ところが、翌1967年(昭和42)になると突然、新宿にあるコンピュータ専門学校へと通いだし、百科事典とコンピュータとの連携の可能性に熱中しはじめている。当時のコンピュータ専門学校で教えられていたのは、機械語やCOBOL、FORTRANによるプログラミングだったろう。2年後に誕生するUNIXさえ、存在しなかった時代だ。
 同時期に、朝日新聞の文芸欄で埴谷雄高Click!から『虚無への供物』が高く評価され、中井英夫の作品は一躍脚光を浴びることになった。そして、1969年(昭和44)には三一書房から『中井英夫作品集』(旧版)が出版されている。この作品集の装丁を手がけたのが音楽家の武満徹で、以降、武満は「薔薇の宴」の常連になっていく。
 「薔薇の宴」に招かれたのは、どのような人々だったのだろうか? 東京帝大時代の友人には吉行淳之介がおり、戦後すぐのころから原民喜やいいだ・もも、三島由紀夫Click!、荒正人らと交流している。また、短歌関連では馬場あき子や寺山修司Click!、塚本邦雄、中城ふみ子らとは懇意であり、ほかにも渋澤龍彦なども招かれていたようだ。
 ここに、貴重な写真が残っている。中井英夫が、1988年(昭和63)に出版された『中井英夫作品集/別巻』(三一書房)のアルバムに収録する予定でいた写真類だが、どうしても見つからず行方不明になっていたものだ。それが、翌1989年(昭和64)の春になってようやく発見され、「編集のしおり」の全ページをつぶして掲載された。
 写っている「薔薇の宴」は、1981年(昭和56)5月23日に世田谷区羽根木の自邸で開かれたものだが、下落合のバラ園で行われた「薔薇の宴」もこのような雰囲気の中で開かれ、同じような顔ぶれが参集していた可能性が高い。
 同作品集のアルバムとは異なり、用紙が粗末で印刷が粗いため鮮明でないのが残念だが、写真には吉行淳之介や渋澤龍彦、松村禎三、武満徹、出口裕弘、巖谷國士らの姿が見える。その周囲には、中井英夫が丹精こめて育てたバラが満開だ。
中井英夫作品集1964(旧).jpg 中井英夫作品集別巻1988.jpg
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薔薇の宴2.jpg
 『中井英夫作品集/別巻』には著者自身が選んだアルバムが掲載されているが、1960年代後半に撮影されたとみられる庭先の記念写真が1枚収録されている。時期的に見て背後に写る鬱蒼とした庭が、下落合4丁目2123番地の自邸の様子である可能性が高い。

◆写真上:1988年(昭和63)撮影の、羽根木の庭でもバラに囲まれてご満悦の中井英夫。
◆写真中上は、短歌誌の編集長時代に撮影された1958年(昭和33)ごろの記念写真。右から左へ寺山修司、前登志夫、春日井建、中井英夫、塚本邦雄。は、1964年(昭和39)に開かれた『虚無への供物』出版記念パーティーの様子。右から左へ中井英夫、渋澤龍彦、三島由紀夫、寺山修司。は、同時の撮影で右から左へ、下落合1丁目286番地(現・下落合2丁目)の権兵衛坂Click!中腹にあり『虚無への供物』では最後に「牟礼田の家」のモデルになった邸に住む十返千鶴子Click!、木々高太郎、生方たつゑ。
◆写真中下は、1965年(昭和40)すぎごろ下落合の中井邸で撮影されたとみられる記念写真。右から左へ、斎藤慎爾、左時枝、中井英夫、河野裕美子。は、下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)の中井邸跡の現状。左側の家々が草木に覆われていた中井邸の敷地で、奥に見えるのは当時のままの古い池添邸の塀。は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)に「植物園」と記載された中井邸。
◆写真下は、1964年(昭和39)に武満徹の装丁で出版された旧版の『中井英夫作品集』(三一書房/)と、1988年(昭和63)に新たに出版された『中井英夫作品集/別巻』(同/)。は、世田谷区羽根木の自邸における「薔薇の宴」。右から左へ中井英夫、吉行淳之介、武満徹。は、同時期の撮影で渋澤龍彦(右)と中井英夫。

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智恵子は古墳の丘上に立ったか。 [気になるエトセトラ]

大井林町1号墳倍墳?.JPG
 以前、品川大明神社(牛頭天王社)Click!にからめて、大森海岸のバッケ(崖地)Click!近くに密集する古墳群をご紹介したことがあった。やはり、江戸期まで「屍家」Click!などの禁忌的な「いわく」の伝承Click!があったものか、山内家をはじめ土佐藩の墓所にされていた鮫洲の丘(現・大井公園)と、その周辺域に拡がる古墳群だ。
 特に、大井公園を中心に土佐藩の墓域だった鮫洲駅西側の丘陵と、大井町駅にいたる起伏の多い丘陵地は、皇国史観Click!の戦前ではなく、戦後に科学的な視野のもとに詳しい調査がなされているので貴重だ。この一帯を調査したのは、学習院Click!の発掘調査チームを率いた徳川義宣Click!(よしのぶ)だった。下落合の北隣り、目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住んでいた徳川義宣については、こちらでも何度か過去にご紹介Click!している。だから、戦前の妙な史観やフィルターで視界が歪んではおらず、その科学的な発掘データや報告書は貴重で信ぴょう性が高い。
 さて、鮫洲駅の北側に拡がる丘陵地帯から見ていこう。古墳時代から、東海道線や京浜急行が敷設される明治期まで、この丘の下にはすぐに海岸線が迫っていた。いまでは埋め立てが沖まで進んでいるが、明治後期(1904年ごろ)に作成された地形図を見ても、古墳期とあまり変わっていないとみられる海岸線のかたちを確認することができる。地勢は、江戸湾(東京湾)に面した浜辺から、西へ100m前後の比較的平坦な土地がつづき、いきなり17mを超える崖や丘陵が立ち上がっている。現在は、宅地開発でずいぶん急斜面が修正されているが、明治期までは海から眺めると、まるで屏風が立ちはだかるような風情に、崖や急斜面が見えたのではないか。
 JR大井町駅から京急・鮫洲駅にかけての丘陵は、おもに大森海岸を中心とした別荘地や療養地として早くから拓けている。こちらでも、1933年(昭和8)に下落合へ転居する予定だった高田町雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)の戸田家Click!(のち徳川家敷地Click!)が、おそらく家族に病人でも出たのか大井町へ転居先を変えている事例をご紹介Click!している。大井町は、明治期をすぎると宅地開発が急速に進み、発掘が可能な古墳はごく一部に限られていった。一帯の発掘調査が行われた時期は、すでに古墳であることが判明していたエリアが戦後すぐのころ、また調査の報告書や紀要のタイムスタンプを見ると、京浜工業地帯の衰退とともに再開発が進んだ1980~1990年代ごろが多かったようだ。
 品川歴史館でも、「品川区内の古墳についてはあまり知られていない状況」と書いており、先の徳川義宣チームの発掘を除き、現代的な調査はこれからが本番というニュアンスだ。2006年(平成18)に雄山閣から出版された『東京の古墳を考える』(品川区立品川歴史館編)所収の、内田勇樹「品川の古墳」から引用してみよう。
  
 品川区内の古墳についてでありますが、大井林町一・二号墳と呼ばれる古墳と仙台坂一・二号墳、それと大井金子山古墳群、南品川横穴墓が現在調査され確認されているものです。/図1の古墳分布図をご覧下さい。6は大井林町二号墳と呼ばれている古墳です。4は、墳丘などは確認されていないのですが、大井林町一号墳と呼ばれております。そこから、二五〇メートル北側の2,3とあるのが仙台坂一、二号墳です。そのさらに北側の7が南品川横穴墓です。/この辺一体(ママ:帯)に古墳が集まっていますが、図の左下側の大井四丁目に8があります。そこには大井金子山横穴古墳群が位置しております。(図版略)
  
大井町鮫洲1909頃.jpg
大井町鮫洲国土地理院.jpg
大井林町2号墳学習院徳川チーム測量.jpg
 上記の文章からもうかがわれるように、早くから別荘地や住宅の建設が進んだため、墳丘が壊されて埴輪片や副葬品などが露出している古墳が多かった。したがって、これらの古墳はたまたま発掘調査が可能だった地点の記録であり、著者は「古墳が集まってい」ると表現しているが、地域全体の“面”としては捉えられていないので、これらは大井町地域のほんの一部の遺構を垣間見せているにすぎないのではないか?……という点に留意する必要があるだろう。
 上に挙げられている古墳で、徳川義宣チームが戦後間もない1949年(昭和24)に発掘調査を行ったのは、大井林町333番地の斜面に築造された大井林町2号墳だ。墳丘はかなり破壊されており、徳川チームは50m前後の前方後円墳だったと規定している。(ただし最新の見方では、古墳の軸線がややずれているとされる) 同チームは、墳丘の周辺から散乱した埴輪片を採集している。
 また、大井林町248番地の伊達家邸内にあった、大井林町1号墳も徳川チームが調査しているが、その様子は品川大明神社の記事で詳しく取りあげているのでそちらを参照されたい。大井林町1号墳も、やはり墳丘が崩された残滓が残されており推定50m前後の前方後円墳だとされている。また、同古墳があった位置に隣接して、大井町公園内に直径10m前後の小さな前方後円墳状または円墳状の残滓(大井町公園内古墳)がかろうじて残されているが、大井林町1号墳の倍墳だろうか?
 大井林町1号墳から北へ古墳群の北北西へ230mほど、大井林町から北へ250mほどのところには、仙台坂1号・2号墳の2基が築造されていた。この2基は直径が数十メートル規模の円墳状をしており、埴輪片や周濠までが確認されている。
大井林町1号墳.JPG
大井公園内古墳.JPG
大井林町2号墳付近.JPG
南品川横穴墓付近.JPG
 次に、大井4丁目の斜面から発見された大井金子山横穴墓群と、ゼームズ坂のすぐ西側の崖地にある南品川横穴墓について、同書より引用してみよう。
  
 図8~11に大井金子山横穴墓があります。大田区との境に位置する所で、品川区から大田区側にかけて多くの横穴墓が密集している地帯で、その一部をなしていると考えられます。/横穴墓は図8にもあるように三基調査されまして、一号墳から成人骨が五個体、未成人骨が一個体、小児骨が二個体と刀子と鉄鏃が検出されています。二号墳からは遺物はとくに検出されず、三号墳からは人骨などが確認されております。構築の時期は七世紀頃と報告されています。/図7の南品川横穴墓はゼームズ坂を上った所にある印刷会社の建設工事中に発見されたもので、人骨と鉄製の釧片が出土しており、七世紀後半と考えられています。(図版略)
  
 上記にも書かれているが、東京地方で横穴式古墳がいっせいに構築されはじめるのは7世紀の後半から世紀末までが中心であり、これまで何度かここでも書いてきたように、下落合横穴古墳群Click!が古い時代の調査(1960年代前半)で8世紀(奈良時代)とされたままなのが、いまひとつ納得できないテーマとして残っている。出土した直刀Click!などを観察しても、古墳時代の墳墓簡易化が進んだ7世紀後半、あるいはせいぜい8世紀初頭までの古墳時代末期とするのが妥当ではないだろうか?
 さて、大井町から鮫洲にいたる古墳跡をたどって現地を散策してきたが、南品川横穴墓がうがたれていた斜面のゼームズ坂といえば、雑司ヶ谷や目白で青春時代Click!をすごした長沼智恵子Click!(高村智恵子)が、息を引きとったゼームズ坂病院が思い浮ぶ。同病院は、ゼームズ坂から西へやや入った上り坂の途中にあったのだが、現在はマンションや住宅が立ち並んでいて昔日の面影はまったくない。病院跡には、高村光太郎Click!の詩「レモン哀歌」の碑が建立されており、碑前にはレモンがいくつも供えられていた。
高村光太郎「智恵子の首」1916頃.jpg
南品川ゼームズ坂病院1935.jpg
ゼームズ坂病院跡.JPG
高村光太郎レモン哀歌碑.jpg
 わたしは、高村光太郎の感傷的な『智恵子抄』や映画(東宝1957年/松竹1967年)などで有名になった、統合失調症を発症した高村夫人としての智恵子よりも、下宿先の子どもであり文展に入選して有頂天になっている夏目利政Click!を叱りつけたり、雑司ヶ谷や目白界隈を精力的に散策しながら、次々とタブローを仕上げて太平洋画会の展覧会へ出品し、青鞜に参加して「新しい女」を生きようとしていた洋画家・長沼智恵子のほうに惹かれるので、この界隈の風景作品(後藤富郎Click!によれば『鬼子母神境内』や『弦巻川』というタイトルの作品が確認できる)が見つかったら、ぜひ紹介してみたいテーマだ。

◆写真上:大井林町2号墳(旧・伊達家屋敷)の跡に建設された大井公園に残る、同前方後円墳の倍墳のひとつかもしれない大井公園内古墳。
◆写真中上は、1909年(明治42)ごろに作成された大井町から鮫洲地域の地形図。は、同地域で発掘調査が可能だった古墳群。は、1949年(昭和24)に学習院の徳川義宣チームが発掘調査を実施した大井林町1号墳の実測図。
◆写真中下は、大井林町1号墳跡の現状(上)と、同古墳に隣接していたとみられる大井公園内古墳(下)。は、大井林町2号墳があった付近のバッケ(崖地)斜面。は、ゼームズ坂沿いの南品川横穴墓が発見された付近の住宅。
◆写真下は、1916年(大正5)に制作された高村光太郎『智恵子の首』。は、智恵子が死去した南品川ゼームズ坂病院(上)と同病院跡の現状(下)。は、病院跡に建てられた「レモン哀歌」碑に供えられているレモン。

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落合周辺の風景『絵本江戸土産』。(下) [気になるエトセトラ]

水神社.JPG
 姿見橋(面影橋)から、川沿いに東へ850mほど歩くと、椿山の山麓に関口芭蕉庵Click!がある。神田上水の護岸補修工事に、1677年(延宝5)から1680年(延宝8)までの4年間にわたり、普請の差配として参画したといわれる松尾甚七郎(芭蕉)が滞在した、目白下の庵があったとされる地点だ。広重の画面では、やや下流に架けられていた駒塚橋の右岸から神田上水の上流を見て描いている。なお、現在の駒塚橋は水神社のほぼ下に設置されているが、江戸期の架橋位置は現在よりも100mほど下流だった。
 右手に描かれた山が椿山Click!(目白山)で、その中腹に見えている茅葺きの建物が芭蕉庵だ。当時は水神別当とされていたようで、管理は胸衝坂(胸突坂)をはさんだ水神社(すいじんしゃ=椿山八幡社)が行なっていたようだ。駒塚橋のすぐ下流には大洗堰Click!が設置されており、その手前で神田上水は分岐し、北側の浄水は開渠Click!から暗渠で水戸徳川家上屋敷(後楽園)へと通じ、南側の流れは大洗堰から江戸川Click!と名前を変えて、舩河原橋Click!から千代田城の外濠へと注いでいた。
 広重は「広野」と書いているが、画面の左手に拡がっているのは早稲田田圃、すなわち広大な水田地帯だ。室町期の以前、このあたりには不忍池Click!お玉が池Click!と同様に、奥東京湾の名残りとみられる大きな白鳥池Click!が形成されていた。江戸川橋周辺では、住宅地を掘るとすぐに水が湧くといわれ、昔日の白鳥池の名残りがいまだに残っているようだ。早稲田田圃は、そのような水田に最適な湿地帯を造成し、広大な水田地帯を開拓したものだ。遠景に意味のない源氏雲を描くこともなく、全体的にスッキリした画面になっていて高い記録性を感じる作品だ。
  
 関口上水端芭蕉庵椿山 関口といふはこの書前の編に画したる井の頭の池より東都へひく上水の別れ口にて 一は上水に入りて余水は江戸川へ落る 本字堰口に作るべし させる風景の地ならずといへども水に望み広野に望みて 只管閑雅の地なるにより 俳諧者流この菴を作り会合して風流を遊ぶ
  
関口芭蕉庵.jpg
関口芭蕉庵芭蕉堂.JPG
関口芭蕉庵湧水池.JPG
 椿山(目白山)の東側に通う目白坂沿い、山腹にあった新長谷寺(戦後に廃寺)の境内Click!には、室町末期ないしは江戸最初期に下国の足利から勧請された、不動尊を奉る目白不動堂があった。「鉄の馬」Click!を埋めたという伝承がいまに伝わる、目白=鋼Click!やタタラ製鉄とのゆかりが深いとみられる土地柄だ。広重は、目白坂の坂上(現在の関口台町小学校あたり)から、東南の方角を向いて描いている。
 月や夜ザクラが描かれているようなので、暖かな春の黄昏どきだろうか。陽が落ちているにもかかわらず、境内には参詣者や茶屋娘の姿が見える。当時は、相当なにぎわいだったのだろう。左手に見えている大きめな堂が新長谷寺の本堂で、右下に少しだけのぞいている屋根が目白不動堂だろうか。茶屋の簾屋根ごしに見えている遠景は、小日向村や中里村、あるいは牛込水道町の林だろう。
 現在の目白不動は、ここに描かれた新長谷寺の廃寺にともない、戦後になると椿山(目白山)を離れ、西北西へおよそ1.4kmほど離れたところにある金乗院へと移転している。江戸期の当時は、あまりにも有名で広く知られていたせいか、画面に添えられた解説文も簡潔でしごくそっけない。下目黒の目黒不動(滝泉寺)と比べられているが、椿山の中腹とはいえ目白不動堂は標高20mはゆうに超えていただろう。
  
 目白不動は 目黒とかわりて高き丘にあり 眺望もつともよし
  
目白不動.jpg
目白不動跡.JPG
目白不動金乗院.JPG
 さて最後に、『絵本江戸土産』に収録された落合地域の西側にある、新井村の新井薬師(梅照院)Click!を観てみよう。手前から奥へとつづく道は、上高田村から分岐する「新井薬師道」と呼ばれた参道筋だ。参道は途中で南西にカーブして曲がり、梅照院境内の門前へと出ることができた。
 参道の両側には、料理屋(栗飯が名物だった)や茶屋が軒を連ね、ひときわ大きな茅葺き屋根が新井薬師の本堂だ。参道の方角からだと、本堂はやや左向きになっており、右手に見えているのは明治期になって新井薬師遊園Click!(現・新井薬師公園)となる森で、その向こう側(左手の奥)が北野天神の鬱蒼とした森だろう。
 ここで留意したいのは、江戸期の当時は修験者の修行場として使われ、1914年(大正3)以降は郊外遊園地として拓ける新井薬師遊園が、小高い丘状に描かれていることだ。現在はほぼ平地となり、公園の北側に数十メートルほどのわずかな膨らみを残すだけとなっているエリアだが、少なくとも幕末までは画面に描かれたような丘陵が存在していた可能性がある。その丘陵を崩したのが、大正初期の新井薬師遊園が造成されたときなのか、あるいは昭和初期に新井薬師公園に改変されたときなのかは不明だが、北西へと下る斜面に築造された古墳の墳丘をうかがわせる広重の表現となっている。
 江戸が大江戸へと拡大する中で、目白不動も多くの参詣者を集めたのだろうが、新井薬師もまた市街地からの参詣客でにぎわうようになっていたらしい。
  
 新井薬師 雑司谷の先なり この薬師尊霊験新にして 眼病を守護し給ふにより 都下より詣人多し 尤八日十二日を縁日として 老若士女歩行を運ぶ 就中一軒の茶房ありて 種々の食物を商ふ
  
 安藤広重・二代広重の『絵本江戸土産』は、大江戸観光の土産物として売られていたパンフレット、あるいは記念絵図集のようなものだが、その目的のせいでどこか軽んじられているものか、江戸期の資料として引用されることが少ないようだ。また、江戸市民へ向けた作品ではなく、観光客ないしは一時滞在の人々向けなので、あまり「地元の資料」として重要視されない倣いがあるのかもしれない。確かに、『絵本江戸土産』は浮世絵の風景画などに比べ色彩が少なくて淡く、地味で安上がりな装丁となっている。
新井薬師.jpg
新井薬師北側.JPG
新井薬師公園.JPG
新井薬師北野天神.JPG
 だが、同書に限らず江戸土産用に刷られた本は、同じ名所を描くにしても、ふだん浮世絵などで見慣れた視点ではない、別角度から写生している新鮮な構図だったり、浮世絵にはない意外な風景を写生している可能性があるので、貴重な資料にはちがいない。広重一派に限らず、同様の土産本で落合地域の描写を見つけたら、改めてご紹介したい。
                                  <了>

◆写真上:関口芭蕉庵の西側、胸衝坂(胸突坂)沿いにある水神社(椿山八幡社)。
◆写真中:それぞれ、が広重『絵本江戸土産』の画面で、が現在の同じ場所を写した風景。関口芭蕉庵の現状は、が芭蕉堂で、が庭の湧水を利用して造られた瓢箪池。目白不動は、が不動堂があった目白坂の新長谷寺跡で、が現在の目白不動が安置されている金乗院。新井薬師では、が新井薬師本堂を裏側から眺めたところ、は新井薬師公園に残る丘陵の跡、が斜面下にある北野天神社。

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落合周辺の風景『絵本江戸土産』。(上) [気になるエトセトラ]

甘泉園滝.JPG
 下落合の藤稲荷を描いた、1864(元治元)出版の安藤広重・二代広重『絵本江戸土産』Click!(金幸堂)について、少し前に記事にして書いた。今回は、落合地域の周辺で登場している江戸期の名所を、それぞれ現在の様子とともにご紹介したい。
 まず、落合地域の南東側にあたる戸塚地域では、高田馬場(たかたのばば)と高田富士(たかたふじ)が取りあげられている。高田馬場は、広重の有名な『名所江戸百景』Click!をはじめ、いくつかの浮世絵にも登場しているが、『絵本江戸土産』の構図は馬場の南側から北東を向いて描いたもので、浮世絵にはつきものの富士山が含まれていない。人々が往来する手前の街道は、下戸塚村から源兵衛村へと抜ける今日の早稲田通りに相当する道筋だ。この画面の構図は、長谷川雪旦が描く『江戸名所図会』巻之四「天権之部」に所収の挿画と、ほぼ同じ視点から描かれている。
 現在でも、高田馬場跡Click!は乗馬の周回路がそのまま道路になってけっこうクッキリ残っているが、馬場の北側は住宅地に、南側は早稲田通りに削られているとみられる。現状の写真は、高田馬場の北側エリアを写したもので、広重の画面でいうと左手の奥に見える戸塚村の村落があるあたりで、そのさらに北側の下り斜面には清水徳川家の下屋敷がある。同画に添えられた一文は、以下のとおり。
  
 高田馬場 穴八幡の傍にあり この所にて弓馬の稽古あり また神事の流鏑馬を興行せらるをあり 東西へ六丁南北三十余間 むかし頼朝卿隅田川より この地に至り勢揃ありしといひ伝ふ
  
高田馬場.jpg
高田馬場跡.JPG
 水稲荷社の境内にあった富塚古墳Click!の上に築かれた、大江戸(おえど)Click!の富士塚第1号である高田富士Click!は、高田八幡社(穴八幡社)Click!側から眺めたところだ。崖上にあるのは、手前が法輪寺で奥が宝泉寺Click!だろう。画面奥の左手に見えている山は三島山で、当時は清水徳川家の下屋敷だった現・甘泉園公園のあたりだ。この風景の背後のバッケ(崖地)下には神田上水が流れ、下戸塚村の田圃が拡がっていた。
 現在の水稲荷社は、甘泉園公園の西側に移転し、高田富士の山頂に木花咲耶姫を奉っていた祠と頂上部の溶岩は、甘泉園公園の南東側に移されている。また、水稲荷社の本殿裏には、富塚古墳の解体時に出土した玄室や羨道の石材(房州石Click!)が、そのまま集められて不規則に展示されている。
  
 高田富士山 同所宝泉寺水稲荷の境内にありて餘の富士と等しからず 六月十八日まで参詣せしめ 麦藁の蛇等を売る茶店を出し諸商人出きて数日の間賑ひまされり
  
高田富士.jpg
高田富士頂上.JPG
 高田八幡社(穴八幡社)は、階段(きざはし)を上ってくぐる光寮門(隨神門)が描かれている。光寮門は、境内の内側から西を向いて描かれており、本殿(左手)へと向かう参道には春のせいかサクラが満開だ。この風景は現在でもほとんど変わらないが、光寮門の向こう側に見える松の古木は、早稲田通りの拡張工事とともに伐られてしまった。
 画面の左手に、見下ろすように描かれている街並みは、牛込馬場下町や牛込早稲田町、あるいは早稲田村に散在する小大名や旗本などの抱え屋敷の屋根群だ。尾張徳川家の下屋敷がある戸山ヶ原は、画面の右手に展開しており、穴八幡の高台からは東海道五十三次の琵琶湖に見立てた、金川(カニ川)Click!の流れを利用して造成した大池(御泉水)がよく見えただろう。
  
 穴八幡は尾州侯戸山の御館の傍にあり 此あたり植木屋多く四季の花物絶ゆることなし
  
穴八幡.jpg
穴八幡社.JPG
 幕府練兵場の高田馬場の北側には、神田上水(室町期なので平川)が流れる太田道灌Click!由来の「山吹の里」と呼ばれた地域があった。そこに架かる橋を広重は他の作品と同様、頑固に「姿見橋」と書きつづけている。また、神田上水の北側にある南蔵院Click!の境内を横切る灌漑用水の橋を、「面影橋(俤橋)」と一貫して規定している。広重に倣うなら、用水の埋め立てとともに面影橋はなくなり、姿見橋が残っていることになるのだが、なぜか現在では神田川(旧・神田上水)に架かる橋名が「面影橋」となっている。
 たとえば幕府の普請奉行が命じて、1791年(寛政3)に完成した『上水記』や、同じく延宝年間から制作がスタートしている同奉行所の『御府内往還其外沿革図書』には、神田上水に架かる橋は「面影橋」と採取されているが、派遣された地域に疎い役人が「姿見橋」と「面影橋」を取りちがえて採取している可能性を否定できない。確かに、川面まで距離のある高橋(たかばし)からは「姿見」しかできないが、川面に近い用水の小橋からは「面影」を確認することができるからだ。
 画面の姿見橋は雪景色で、『名所江戸百景』の構図よりも視点が低いが、広重は北側にある面影橋を描くことも忘れていない。雪景のせいか、無意味な源氏雲がないのも好もしい画面だ。また、キャプションにも現場で取材したとみられる一文を載せている。
  
 山吹の里姿見橋 山吹の里は太田道灌の故事によつて号くとぞ 姿見はむかしこの橋の左右に池あり その水淀みて流れず故に行人この橋にて姿を摸し見たるよりの名なりといふ
  
姿見橋(面影橋).jpg
面影橋神田川.JPG
 姿見橋(面影橋)から北へ進み、目白崖線の宿坂を上ると雑司ヶ谷鬼子母神Click!表参道Click!に出る。そのまま四ツ家(四ツ谷)の西へカーブする参道を歩けば、ほどなく鬼子母神へたどり着ける。広重の画面では、鬼子母神(法明寺別当大行院)と北側の法明寺がセットになって描かれている。画面の右下に幟が林立するのが鬼子母神の境内で、左手に描かれた大伽藍の並んでいるのが法明寺Click!だ。
 雑司ヶ谷鬼子母神の境内には、当時から料理屋(スズメのやき鳥が有名だった)や茶屋、駄菓子屋などが見世を開いていたが、数年前から「上川口屋」Click!に加え、おせん団子(羽二重団子)と煎茶で休憩できる茶屋「大黒屋」が開店している。雑司ヶ谷鬼子母神の名物だったおせん団子と、縁台を並べた江戸期の茶店を復活させたものだ。
  ▼
 雑司ヶ谷鬼子母神法明寺 この神出現の地は護国寺より坤にあたり 清土といへる所の叢に小さき祠ありて始めその処に祀れりとぞ この神霊験新なる中に稚児を守り給ふ 故に乳なき婦人こゝに祈りてことごとく霊応あり 毎年十月会式のとき殊に賑ふ 別当大行院これを護持す
  
雑司ヶ谷.jpg
雑司ヶ谷法明寺.JPG
雑司ヶ谷鬼子母神.JPG
 鬼子母神から法明寺まで、田畑の中を松並木のある参道が描かれているが、この道筋は周囲を住宅街や東京音楽大学Click!のキャンパスに囲まれてはいるが、現代でもほぼそのまま残っている。ただし、法明寺の本堂は1923年(大正12)の関東大震災で倒壊したため、画面の位置より数十メートルほど左側(西側)に移って再建されている。
                               <つづく>

◆写真上:清水徳川家の下屋敷だった、三島山(現・甘泉園公園)の庭に造られた小滝。
◆写真中・下:それぞれ、が広重『絵本江戸土産』の画面で、が現在の同じ場所を写した風景。面影橋の写真では、橋の北詰め(向こう側)に山吹の里の石碑がある。また、雑司ヶ谷鬼子母神の写真では、が法明寺本堂でが鬼子母神境内のおせん団子。

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「レコード演奏家」という趣味と概念。 [気になる音]

自由学園明日館講堂.JPG
 あけまして、おめでとうございます。本年も「落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)」サイトを旧年同様、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 2020年最初の記事は、落合地域やその周辺域とも、はたまた江戸東京地方ともまったく関係のないテーマなので、音楽とその再生に興味のない方はパスしてください。

  
 たまに、コンサートへ出かけることがある。音響の専門家が設計し、倍音(ハーモニック)や残響(リバヴレーション)が考慮されたコンサートホールでの演奏もあれば、落合地域やその周辺にある施設を利用した音楽会のときもある。同じ音楽家が演奏しても、ホールや施設によってサウンドが千差万別に聴こえ、またスタジオ録音のレコード(音楽記録媒体またはデータ=CDやネット音源)とも大きく異なるのは周知のとおりだ。
 落合地域や周辺の施設を使って演奏されるのは、必然的にクラシックないしは後期ロマン派以降の現代音楽が多い。確かに教会や講堂でJAZZやロックを演奏したら、もともとがライブ空間(音が反射しやすく残響過多の空間)なので、聴くにたえないひどいサウンドになるだろう。近くの高田馬場や新宿、中野などにはJAZZ専門のライブハウスがいくつかあるのだが、若いころに比べて出かける機会がグンと減ってしまった。
 わたしは、音響技術が高度に発達していく真っただ中を生きてきたので、「生演奏」が素晴らしく「レコード演奏」が生演奏の代用である「イミテーション音楽」……だとは、もはや考えていない戦後の世代だ。むしろ、音響がメチャクチャでひどい劇場やコンサートホール、ライブハウスで生演奏を聴くくらいなら、技術的に完成度の高いレコード演奏のほうがはるかにマシだと考えている。
 ちょっと例を挙げるなら、F.L.ライトClick!の弟子だった遠藤新Click!設計の自由学園明日館Click!講堂で演奏される小編成のクラシックは、どうせダメな音響(超ライブ空間だと想定していた)だろうと思って出かけたにもかかわらず、ピアノやハープが想定以上にいいサウンド(予想外にデッド=残響音の少ない空間だった)を響かせていたが(もっとも、イス鳴りや床鳴りが耳ざわりで酷いw)、すでに解体されてしまった国際聖母病院Click!チャペルClick!は、残響がモワモワこもるダメな空間ケースの代表だった。もっとも、このふたつの事例に限らず、重要文化財や登録有形文化財などの建物内を、音響効果のために勝手に改造するわけにもいかないだろう。
 気のきいた音響監督がいれば、ライブすぎる室内には柔らかめのパーティションやマットレス、たれ幕、カーテンなどを運びこんで残響を殺すだろうし、デッドな空間にはサウンドが反射しやすい音響板やなにかしら固い板状のものを用意して演奏に備えるだろう。ただし、おカネが余分にかかるので、録音プロジェクトでもない限りは、なかなかそこまで手がまわらないのが現状だ。
 生演奏のみが音楽本来のサウンドで、各種レコードによる演奏がその代用品とは考えないという“論理”には、もちろん大きな前提が存在する。音楽家が演奏する空間(屋内・屋外を問わず)によって、得られるサウンドの良し悪しが多種多様なのと同様に、レコードを演奏する装置やリスニング環境(空間)によってもまた、得られるサウンドは千差万別だ。ホールや劇場で奏でられる生演奏が、音楽のデフォルトとはならないように、とある家庭のリスニングルームで鳴らされているサウンドが「標準」にならないのと同じなのだ。そこには、生演奏にしろレコード演奏にしろ、リスナーのサウンドに対する好みや音楽に対する趣味が、要するにサウンドへの好き嫌いが大きく影響してくる。
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 もっとも、ここでいうレコード演奏とは、ヘッドホンを介してPCやiPod、タブレット、スマホなどの貧弱なデバイスにダウンロードした音楽を聴くことではない。また、TVに接続されたAVアンプや大小スピーカーの多チャンネルで、四方八方からとどく不自然でわざとらしい音(いわゆるサラウンド)を聴くことでもない。音楽の再生のみを目的としたオーディオ装置Click!を介して、空気をふるわせながらCDやダウンロードした音楽データ(ネット音源)を聴くレコード演奏のことだ。すなわち、個々人のサウンドに対する好き嫌いや音楽の趣味が前提となるにせよ、できるだけコンサートの大ホールや小ホール、ライブハウスなどで音楽を楽しむように、それなりに質のいいオーディオ装置類をそろえ、部屋の模様を音楽演奏に適するよう整えることをさしている。
 音楽を奏でるオーディオ装置は、この60年間に星の数ほどの製品が発売されているので、家庭で聴く音楽は個々人が用意する装置によっても、またその組み合わせによっても、それぞれまったく異なっている。たとえ、同一機種ばかりのオーディオシステムを揃えたとしても、その人の音の嗜好を前提としたチューニングによって、かなり異なるサウンドが聴こえているはずだし、なによりも個々人の部屋の設計や仕様・意匠、置かれた家具調度の配置、装飾品の有無などがそれぞれ異なることにより、スピーカーから出るサウンドはひとつとして同じものは存在しない。畳の部屋にイギリスのオートグラフ(TANNOY)を置いてクラシックを聴く作家もいれば、コンクリート打ちっぱなしの地下室に米国のA5モニター(ALTEC)を設置してJAZZを鳴らす音楽評論家だっている。だから、家庭で音楽を聴く趣味をもつ人がいたら、その人数ぶんだけ異なるサウンドが響いているということだ。この面白さの中に、自身のオリジナリティを強く反映させた音楽を楽しむ、オーディオファイルの趣味性やダイナミズムがあるのだろう。
 「レコード演奏家」という言葉を発明したのは、オーディオ評論家の菅野沖彦Click!だ。2017年(平成29)の秋に、久しぶりに買った「Stereo Sound」誌について記事を書いたが、その1年後、一昨年(2018年)の秋に萱野沖彦は亡くなった。彼はもともとクラシックやJAZZを得意とする録音技師(レコード制作家)で、優れた録音作品を数多く残しており、そのディスクはサウンドチェック用として日本はもちろん、世界各地で使われている。彼は録音再生の忠実性(いわゆる「原音再生」論)は、現実の家庭内における音響空間には実現しえないと説いている。2005年(平成17)にステレオサウンド社から出版された、菅野沖彦『レコード演奏家論』から少し引用してみよう。
  
 論理性に基づく録音と再生音の同一性は再生空間が無響空間である以外に成り立たないのである。そして、無響室は残念ながら快適な居住空間とはほど遠く、異常で不自然な空間であることは万人が認めるところ。音楽を楽しむどころか、一時間もいたら気が変になるだろう。したがって、時空の隔たった録音再生音響の物理的忠実性は、論理的にも現実的にも成り立たないことが明白なのだ。/さらに、これに関わるオーディオ機器の性能の格差や個体の問題は大きい。特にスピーカーが大きな問題であることはよくご存じの通りである。今後も、この現実についての論理的、技術的、そして学術的な解決はあり得ないであろう。伝達関数「1」は不可能なのである。
  
 したがって、個々の家庭における音楽再生は、個々人が選ぶ好みのオーディオ装置と、個々人が好む音楽を楽しむ環境=部屋の仕様や意匠によって千差万別であり、そこに音楽のジャンルはなんにせよ好みのサウンドを響かせるのは、個々人の趣味嗜好が大きく反映されるわけだから、それを前提にレコード(CDやダウンロードしたネット音源)をかける(演奏する)オーディオファイルは、「レコード演奏家」と呼ぶのがふさわしい……というのが菅野沖彦の論旨だ。
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 なるほど……と思う。カメラ好きが、同じ機種のデジカメを使って撮影するのが同じ被写体でないのはもちろんだが、同一の被写体を撮影したとしてもプロのカメラマンとアマチュアカメラマン、それに写真撮影が好きな素人とでは、撮影する画面や画質、構図、さまざまな機能やテクニック、表現を駆使した技術面でも大きく異なるのは自明のことだ。機械はあまり使わないが、絵画の表現も同様だろう。画家によって、好みの道具(筆・ナイフ・ブラシなど)や好みの絵の具は大きくちがう。レコードの再生にも、人によって道具のちがいやサウンドの「色彩」や響きのちがいが顕著だ。
 1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された、菅野沖彦『音の素描―オーディオ評論集―』の中から少し引用してみよう。
  
 音への感覚も、多分に、この味覚と共通するものがあるわけで、美しい音というものは、常に音そのものと受け手の感覚の間に複雑なコミュニケーションをくり返しながら評価されていく場合が多い。もちろん、初めからうまいもの、初めから美しい音もあるけれど、そればかりがすべてではない。(中略) 物理学では音を空気の波動(疎密波)と定義する。もちろん、この定義はあくまで正しい。しかし、特に音楽の世界において、音を考える時には、それでは不十分だし、多くの大切なものを見落してしまうのである。私たちにとって大切なことは、音として聴こえるか否かということ。音として感じるかどうかということであって、その概念は、あくまで、私たち人間の聴覚と脳の問題なのである。音は、それを聴く人がいなければ何の意味をも持たない。受信器がなければ、飛び交う電波の存在は無に等しいのと同じようなものである。
  
 確かに音楽を再生して聴くという行為は、うまいもんClick!を味わう舌に似ていると思う。もともとデフォルトとなる味覚基盤(多分に国や地方・地域の好みや伝統的な“舌”に強く左右されるだろう)が形成されていなければ、そもそもなにを食べても「美味い」と感じてしまう野放図な味オンチの舌か、なにを食べても「こんなものか」としか感じられない不感症の舌しか生まれない。そこには、相対的に判断し、味わい、受け止め、感動する基準となる舌が「国籍不明」あるいは「地方・地域籍不明」で不在なのだ。
 音楽を愛し多く聴きこんできた人が、オーディオ装置を通して奏でるサウンドは、その響かせる環境を問わずおしなべて軸足がしっかりしており、リアルかつ美しくて、説得力がある。換言すれば、どこか普遍化をたゆまず追求してきた“美”、料理で言えば普遍的な美味(うま)さが、そのサウンドを通じてにじみ出ている……ということなのだろう。
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 そんな経験を多くしてきたわたしも、オーディオ装置には少なからず気を配ってきたつもりなのだが、ここ数年で大きめな装置が家族から「これジャマ、あれも、ジャマ!」といわれ、処分せざるをえなくなった。現在は、一時期の4分の1ほどの面積ですむ装置で聴いているけれど、それでも工夫と努力をすれば、それなりに美しい(わたしなりの)サウンドを響かせることは可能だ。それだけ、現代のオーディオ装置の質や品位は高い。最後に、わたしのオーディオの“師”だった菅野先生のご冥福をお祈りしたい。

◆写真上:舞台上に大小のハープが並ぶ、遠藤新が設計した自由学園明日館講堂。
◆写真中上は、2005年(平成17)出版の菅野沖彦『レコード演奏家論』(ステレオサウンド社)と同年撮影の著者。は、菅野沖彦のリスニングルームの一部。スピーカーはユニットを自由に組み合わせられるJBLのOlympusやマッキントッシュXRT20、CDプレーヤーにはマッキントッシュMCD1000+MDA1000やスチューダA730、プリ・パワーアンプ類にはアキュフェーズやマッキントッシュなどが並んでいる。JBLの上に架けられている絵は、“タッタ叔父ちゃん”こと菅野圭介Click!の作品だろうか?
◆写真中下は、英国のタンノイ「オートグラフ」。は、作家・五味康祐の練馬にあった自宅のリスニングルームで日本間にオートグラフが置かれている。
◆写真下は、米国のアルテック「A5」でJAZZ喫茶でも頻繁に見かけた。は、JAZZ評論家・岩崎千明のリスニングルームに置かれたアルテック「620Aモニター」。よく見ると、JBLの「パラゴン」の上に「620A」が置かれているのがビックリだ。反響音を減殺するために、カーテンを部屋じゅうに張りめぐらしているようだ。TANNOYとALTECの製品写真は、いずれも「Stereo Sound」創刊50周年記念号No.200より。

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