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貸家が空きだらけの東京郊外1922。 [気になる下落合]

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 1923年(大正12)に関東大震災Click!が起きる直前、東京の郊外域では目白文化村Click!洗足田園都市Click!などの開発がスタートしているにもかかわらず、空気がきれいで自然が残る健康的な郊外の田園地帯に住みたいという東京市民の人気は、目に見えて下落していたようだ。なぜなら、郊外移住のブームにのって地主や貸家業者が次々と住宅や貸家を建てたのはいいけれど、交通が便利で買い物も至便だった東京市街地よりも家賃が高額という、おかしな現象が起きてしまったからだ。
 郊外地主が強気なのは、世をあげての田園都市への移住ブームや、自然に囲まれた文化住宅へのあこがれがしばらく継続すると判断していたからだろう。落合地域でいえば、1922年(大正11)には東京土地住宅Click!近衛町Click!箱根土地Click!の目白文化村の開発がはじまり、追いかけて東京土地住宅によるアビラ村(芸術村)Click!建設計画が発表されていた。また、上野では平和記念東京博覧会Click!が開催され、最新の文化住宅Click!(モデルハウス)14棟が展示されて人気が高かった。
 したがって、郊外地主や貸家業者たちは、東京郊外への移住者は増えこそすれ、決して減ることはないと考えていたにちがいない。郊外に次々と建つ貸家も、最新の文化住宅を模したようなデザインの住宅が多かった。ところが、1922年(大正11)の時点では、郊外に建設された住宅街に軒並み空き家が目立つようになる。
 先年の1920年(大正9)から同年にかけ、東京市街の外周域には膨大な戸数の住宅が建設されている。1922年(大正11)8月28日発行の東京朝日新聞によれば、この2年間で特に貸家が増えた地域としては、鉄道駅でいうと大井町・大森・鈴ヶ森・蒲田方面で5,000戸、大崎・五反田・目黒で4,000戸、渋谷周辺では1,000戸、目白・雑司ヶ谷・池袋・大久保・中野では、それらを上まわる万単位の住宅が建設された。だが、すぐに埋まると思っていた貸家は、なかなか借り手がつかず空き家の状態がつづくことになる。
 それも当然で、市街地の借家に比べて家賃が高いのはもちろん、生活をするうえでのインフラが未整備だったり、買い物に出かける商店街が遠かったり、通勤には時間がかかったりと、ほとんどメリットが見いだせなくなっていたからだ。一度郊外に転居した人々が、家賃の高さとあまりの不便さに市街地へ逆もどりしてしまい、郊外に建てられた貸家は空き家だらけになっていった。当時の様子を、先述の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 一度住うと誰も懲り懲り/日毎に殖えて行く郡部の空家
 焦り出した貸家業/敷金を減じたり家賃を下げたり
 一両年この方の住宅払底で近郊近在に雨後の筍のやうに族生した貸家がこの頃各方面に空家になつたり、建てたまゝ塞がらぬのがだいぶ見受けられるやうになつた、(中略) それ等が一時「兎も角も住へさへ出来れば可い」といふ要求が盛んだつた頃は汽車電車の便も瓦斯水道や買物などの不便もお構ひなしと云つた風だつたのが、さて住んで見るとその日その日の暮らしが迚(とて)も堪へられない程不都合を感じ出したのと、俄造りの住心地の悪い上に第一家賃が滅法に高いといふのが原因で一度借りた人もまた便利な所へ移転するやうになる、一方には不景気で失業したり収入が減つたりする関係で比較的安い方面を探して引越して行くのが多い、こんな次第でこの頃は家主も大分焦り出して来て例へば敷金六箇月と吹いたのを三箇月に譲歩するとか進んだ気持の人は自発的に家賃を引下げて借家人を引きとめるといふことになつて来た、
  
 家賃が高くて生活も不便なら、誰も住みたいと思わないのがふつうだろう。
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 家主が焦るのは、現代と同じく税金事情からだ。家を新築すれば、毎年、東京府からは家屋税が請求されるし、地元自治体からは町税または村税が課せられる。加えて地主なら土地税が、借地なら地主から地代が請求されてくる。しかも、空き家状態がつづくと建物が傷むし、そのメンテナンス費もバカにならない。敷金や家賃を大幅に下げても、空き家にしておくよりは誰かに入居してもらったほうがマシで被害が少ないのだ。
 人が住まないと、住宅は急速に劣化して傷み、しまいには倒壊してしまうのはいまも昔も変わらない。換気をしないで、戸や窓を閉めきりにして空気の対流がなくなると、湿気がこもって木材の劣化が早まるようだ。人がいないので、室内の掃除や建物の手入れがなされず、そのまま急速に傷みが進行してしまう。また、雨漏りや吹きこみなども放置されるため、家屋全体の劣化が加速するのだろう。
 この40年間で、下落合でもそのような事例をいくつか見てきたけれど、おそらく大正当時の借家は安普請で、空き家になってからはアッという間に傷みが進んで、さらに輪をかけて借り手がつかなくなるという悪循環に陥っていた家屋も数多くありそうだ。つづけて、東京朝日新聞の記事を引用してみよう。
  
 『家賃と云つても甚だしい人は畳一畳二円四五十銭の割で私共さへ驚く位な取り方をした人もあり、特別安い古家で一畳一円二十銭見当のものであつた、こんな具合で需要者が漸漸(だんだん)減つて来ればこれまで不当に頑張つた(ママ)ゐた貸家業者も値下げすることは已むを得ないことであると同時に打算的に見ても迚もこのまゝで行けるものでないことは当然です』といふ 何しろ万事便利な市内より郊外の方が家賃の高いといふ現状が永続するとはうけとれない
  
 1922年(大正11)の当時、畳1畳が2円50銭というと、米価をベースに今日の価格に換算すれば約3,850円ということになる。つまり、8畳ひと間の広さの部屋を借りようとすると、約30,780円の家賃がかかることになる。今日のワンルームマンションなどの賃料に比べれば安いが、当時は貸室や貸家の値段がおしなべて廉価で、記事にも中古住宅だと1畳で1円20銭つまり8畳ひと間で約14,770円と半額以下の物件もあったと書いているので、いかに郊外住宅の強気な賃料設定かがわかるだろう。
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洗足田園都市1930.jpg
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 しかも、一家が住む家ともなると4~5部屋があたりまえの貸家なので、強気の郊外賃料だとたちどころに高額となり、東京市内なら場所によっては中古住宅が2軒借りられるほどの値段だった。また、この記事は木造家屋の貸家のみを指標にしているが、当時、郊外にもポツポツ見られはじめたコンクリート造りのモダンなアパートメントだと、さらに高い賃料を請求されたかもしれない。
 さて、落合町の住宅事情はどのようなものだったのだろうか。少しあとの時代の記録になるが、1930年(昭和5)の時点で土壁の茅葺き農家はすでに25棟に急減しているとみられる。残りの住宅4,817戸は、洋館和館を問わず近代的な造りをしていたと思われるが、このうちの多くが借家あるいはアパートメントだったのだろう。
 ◆1930年(昭和5)現在の落合町建物棟数
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 当時の住宅事情について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「建物」から、一部を引用してみよう。
  
 町の大部分は将来共に住宅地として運命付けられている事は、地理的関係に於ても人事的経済関係より見ても明瞭とするが、従来住宅様式にも建築敷地の区割等にも何等の制限を行ふ処がなかつた為に、単に所有権に基くまゝ自由に建築され、土地は毫も合理的に利用せられざる乱設となつた、併しながら都市計画以降道路系統の定まるに伴れ総じて建物は新建築と変り農村特有の茅葺は正屋として漸く影を失はれて来た。
  
目白アパート(大正末).jpg
西神田アパート.jpg
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 これら空き家だらけだった郊外の住宅が、一気に住民で埋まるのは1923年(大正12)9月1日の関東大震災以降のことだ。被害が大きかった稠密な東京市街地を逃れ、人々が郊外エリアに安全・安心を求めて大量に転居し、さながら“民族大移動”のような光景を現出することになる。郊外の地主や貸家業者にしてみれば、大地震のナマズ様々だったかもしれない。

◆写真上:大正期に多かった、フランス風出窓で洋間の応接室が付属する住宅。
◆写真中上は、1922年(大正11)8月28日発行の東京朝日新聞の記事。は、大正時代から流行りの日本家屋で唯一の洋間だった応接間。(新宿歴史博物館展示より)
◆写真中下は、赤土山から撮影した下落合の振り子坂Click!沿いに建つモダンな佐久間邸Click!(下落合1731番地)などの家々。は、1930年(昭和5)に撮影された洗足田園都市の住宅地。は、上落合624番地に建てられたアパートメント「静修園」。
◆写真下は、大正期に撮影された目白に建つ女性専用に造られたアパートメント集会室。は、大正期から市街地には数多く見られたアパートメント建築。は、わたしが子どものころにはいまだ郊外地域に数多く残っていた平家建てのコンパクトな住宅。

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