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長崎のシシ舞いには角(つの)がある。 [気になるエトセトラ]

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 東北地方で行われているシシ踊り、あるいはシシ舞いClick!の本来的な意味は、山で獲れたシシ(鹿)やアオジシ(ニホンカモシカ)、イノシシなどシシ神(まれびと/まろうど)の魂を鎮めて山へと送り返し、次の年も獲物がたくさん獲れる豊猟であることを祈り願う祭りであり儀式だった。ちょうど、アイヌ民族におけるイヨマンテ(多彩な動物に宿るカムイの魂送り)に近い、原日本の姿をとどめる貴重な祭祀だ。
 だが、農耕が生産基盤の多くを占めるようになってくると、山ノ神からもたらされたシシ神(獲物)たちの魂を鎮め、その再生を願う祭祀は、人間界の死者の魂を鎮めて「成仏」を願う儀式へと変節していく。現在、東北地方や北関東で行われているシシ舞いの多くが、仏教の概念である「盆」の時期に実施され、死者の魂を「あの世」へと送り返す儀式に衣替えしているのは象徴的な現象だ。
 また、山ノ神からのめぐみに感謝し、生命の再生を願って魂を送り返す祭祀が、疫病の防止や病魔退散の儀式へと転化している地域も多い。以前にご紹介した、江古田氷川社Click!に合祀されている御嶽社のシシ舞いも、そのような一例なのだろう。関東から南東北では、シシ(シカ・ニホンカモシカ・イノシシなど)の頭(かしら)が、おそらく江戸期以降に中国ないしは朝鮮半島からもたらされた、インドライオンを起源とするシシ(獅子)と習合してしまい、本来の顔貌を喪失してしまったとみられる。また、中国では「悪魔祓い」を本義とする獅子の性格も同時に“輸入”され、各地のシシ舞い(シシ踊り)の意味づけとして、後世にあと追いで被せられた可能性が高い。
 シシ踊り(シシ舞い)の顔が、大陸の獅子を模倣するようになるにつれ、頭に生えていた角(つの)も落ちてなくなり、江古田のシシ舞いの頭にはすでにツノが生えていない。ところが、同じく落合地域に隣接する椎名町駅前の長崎神社Click!(江戸期までは長崎氷川明神社)のシシ舞いには、いまでも一部のシシ頭に角が残っているのだ。それに気づいたのは、長崎町内を練り歩くシシ舞いの写真を眺めていたときだった。
 長崎のシシ舞いは、伝承では「元禄時代」すなわち江戸時代の初期からはじまったといわれているが、詳細な経緯は不明だ。江戸期からの行事だとすれば、他の地域で行われていた同様の祭祀を長崎村へ取り入れたことになる。だが、江古田村がそうであったように、もともとは江古田氷川社の祭礼ではなく、別の地域に奉られていた御嶽社の行事が、ある時期から御嶽社の江古田氷川社への合祀(属社化)とともに、江古田氷川社で行われるようになったケースを考慮すれば、長崎地域でもそれ以前から別の場所(湧水源のある粟島社Click!という説がある)で行われていたシシ舞いを、元禄期から長崎氷川社で実施するようになった……と想定することもできる。
 一連のシシ舞いが、中国や朝鮮半島からの影響を受けていない、古くからある日本本来のシシ舞いあるいはシシ踊りの形態を色濃く残していることを見れば、そのような想定をしても、あながちピント外れではないだろう。毎年、長崎神社(長崎氷川社)で行われるシシ舞いも、大陸系のシシ舞いとは縁遠い所作・舞踊をしており、東北地方に伝わる原日本のシシ舞いに近似したかたちを残している。
 さて、長崎のシシ舞いは毎年、5月の第2日曜日に開催されるが、シシが舞うエリアは「モガリ」と呼ばれている。「モガリ」は、もちろん「殯(もがり)」のことであり、死者の魂を鎮めその再生を願って、「死者の国」へと送り返す儀式をつかさどる場所であり、山の獲物(シシ神)あるいは人間の死者を送り返す東北のシシ舞い、あるいはシシ踊りへと直結する祭儀用語であることはいうまでもない。
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 長崎のシシ舞いにはいくつかの踊り(舞い)があるが、その中から「花舞」と呼ばれる舞踊を見てみよう。ちなみに、「花」とはボタンのことであり、中国(唐)獅子の影響が色濃く見られるけれど、「悪霊を美しい花笠におびき寄せて焼却する」という、やはり東北における古くからの習わしを踏襲しているのかもしれない。1996年(平成8)に豊島区立郷土資料館が開催した、「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」図録から引用してみよう。
  
 花舞 花めぐりともいう。ぼたん畑のまわりを三匹の獅子がうかれて巡り舞う。人物に例えると、大夫獅子と中獅子が男、女獅子が女。大夫獅子と中獅子が女獅子を奪いあう様が演じられる。女獅子がぼたん畑のなかで神かくし(花と花の間へ隠れる)にあったため二匹の獅子が探しまわる。ついに若い方の雄獅子(中獅子)が女獅子をみつけて自分のものとする。大夫獅子はその様を見て嫉妬し中獅子を叱りだまし、とうとう女獅子を横取りする。御獅子が狂い、じゃれあい、あきらめるといった所作が演じられる。一時間はたっぷりかかる。大夫獅子は最初から最後まで踊り続けるため、20歳前後の体力がなければ踊りきれない。
  
 このように、舞踊の内容がシシ舞いの“意味”(目的)として「無病息災・悪疫退散」あるいは「五穀豊穣」とは、あまり関係のない筋立て(「五穀豊穣」には結びつけただろうか?)であることがわかる。むしろ、将来にわたり子孫繁栄(豊猟)を願い、シシ神(シカ・ニホンカモシカ・イノシシなど)の魂を山へと送り返す、東北各地に残るシシ舞いと通じる信仰心や、“物語”を包括したような内容となっている。
 3匹で踊られる長崎のシシ舞い(昭和初期に中獅子がもう1匹加わり、現在は4匹になっている)だが、この中で角(つの)が落ちずに残っているのが中獅子とよばれる獅子頭だ。その角をよく観察すると、まるで野生のウシかヤギのようにねじれているのがわかる。ニホンカモシカ(アオジシ)は、「カモシカ」と呼ばれているがウシ科の動物であり、角がねじれているめずらしい個体が、かつてどこかに存在したものだろうか。アオジシは、国の特別天然記念物に指定される以前、その肉を食べた人々の話によれば、牛肉に似ているが風味があっさりしていてしつこくなく、非常に美味だったという。
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 また、近年に加わった中獅子の1匹は、目が吊り上がった異形の顔をしている。東北のシシ(鹿)踊りの頭は、たいがい目が吊り上がったシシ神らしい怖ろしい表情をしているが、あえてそれに倣った頭(かしら)を造ったものだろうか。大正期か昭和初期に、東北のシシ(鹿)踊りと長崎のシシ(獅子)舞いの共通性に気づいたどなたかが、東北のシシ(鹿)頭に近いデザインのものを奉納したものだろうか。4匹めの獅子の出現理由は不明だが、そんなことを奥深く民俗学的に想像してみるのも面白い。
 最後に余談だが、長崎村には大鍛冶(タタラ)に直結する「火男(ひょっとこ)踊り」Click!が伝承されているのに気がついた。長崎の富士塚(古墳の伝承がある)にからめて残る踊りだが、近くには谷端川Click!千川上水Click!の水源のひとつだった粟島社の湧水池があり、砂鉄が堆積しそうな川筋と、タタラのカンナ流しに適しそうな丘陵地帯が展開している。同書より、引きつづき引用してみよう。
  
 (長崎の)冨士塚は、都内数十箇にある塚のうち、保存状態が特に優れているところから、昭和五十四年(1979年)五月、国の重要有形民俗文化財に指定されましたが、その陰に、(本橋)新太郎を中心とする冨士塚保存会の並々ならぬ努力があったことは言うまでもないことです。(中略) 新太郎亡き後、その子・本橋勇が代表となって『冨士元囃子』を存続させ、現在に至っていますが、父親以上に祭囃子に情熱を燃やし、今も町内の小・中学生、高校生等に稽古をつけています。/『冨士元囃子連中』には、祭囃子の他に色物といって「獅子舞」「火男(ひょっとこ)踊り」「大黒舞」などの余技があります。(カッコ内引用者註)
  
 なお、「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」図録は、「富士塚」Click!のウかんむりをワかんむりにし、「冨士塚」という表記で統一している。
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 「月三講社」Click!の碑が林立している長崎富士だが、椎名町に誕生した富士講Click!の月三講社の講祖である三平忠兵衛(のちに改名して三平信忠)は、下落合の薬王院に眠っている。ここでいう椎名町とは、現在の西武池袋線・椎名町駅のことではなく、江戸期に下落合村から長崎村にかけて清戸道Click!(目白通り)沿いに拓けていた椎名町Click!のことだ。

◆写真上:長崎獅子舞いのうち、1時間ほど舞踊がつづく「花舞」。
◆写真中上は、奥州市のシシ(鹿)踊り。は、一関市のシシ(鹿)踊り。は、1909年(明治42)に撮影された長崎獅子舞の記念写真で右から左へ大夫獅子、女獅子、中獅子。いまだ3匹の時代で、4匹めの目が吊り上がった中獅子は登場していない。
◆写真中下:角が落ちずに残る、中獅子を写した3葉。
◆写真下は、月三講社の碑が林立する長崎富士塚。は、「冨士元囃子連中」に関連して踊られる火男(ひょっとこ)踊り。下左は、1996年(平成8)に発行された「長崎村物語―江戸近郊農村の伝承文化―」展の図録(豊島区立郷土資料館)。下右は、粟島社から東南東へ1,000mのところにあった湧水池のひとつで、祥雲寺坂下(現・池袋3丁目)の“洗い場”。落合地域と同様に、長崎地域周辺にはこのような湧水源となる野菜洗い場が随所にあった。

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