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自由学園で行われた美術授業。 [気になるエトセトラ]

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 以前、目白通りに面した下落合437番地の目白中学校Click!で行われていた、美術教師・清水七太郎Click!による美術活動をご紹介Click!したことがある。もともと、落合地域では大正の最初期から画家たちがアトリエを建てはじめ、“芸術村”のような雰囲気が醸成されていたが、高田町の雑司ヶ谷Click!にも多くの画家たちが居住していた。
 自由学園Click!でも、美術や彫刻・工芸の分野には力を入れ、早くから展覧会を開催するなど、独自の教育方針を採用していた。特に美術の教師には、現役の画家たちを3名もそろえるなど、一般の女学校では見られない特色のあるカリキュラムとなっていた。1921年(大正10)の開校時、同学園の美術教師として最初に迎えられたのは、「自由画教育」の提唱で知られていた山本鼎Click!だった。
 開校時の美術の授業について、当時の本科生徒が記録した文章がある。1985年(昭和60)に婦人之友社から出版された、自由学園女子部卒業生会・編集の『自由学園の歴史Ⅰ雑司ヶ谷時代』から引用してみよう。
  
 先生は当時自由画教育の提唱者として知られる山本鼎先生。何でもよく見て、自分で見たままを自由に描きなさいといわれ、お庭の花壇の花を写生したり、小石川の植物園等にも出掛けた。又先生がむちのようなものをふり上げていらっしゃる姿を十五分で描いてごらんといわれることもあった。(今いうクロッキー) ただただお手本を描き写していた頃としては全く新しい方法である。自分で図案をつくることも度々勉強した。木の実、葉っぱ、釘などもモチーフとして大切なことを知ったし、何かモチーフによいものはないかと探ねまわったことも忘れられない。
  
 追いかけて、本科の女学生が増えてくると、桑原儀一と木村荘八Click!が美術の教師陣に加わった。美術の授業は、毎週1回(1時限)と決められていたが、毎週土曜日が丸ごと「美術の日」に当てられていたため、美術の1時限は実質3~4時間、つまり土曜日の半日すべてが充てられることになった。1922年(大正11)6月には、早くも第1回美術展覧会を開催し学園外へも一般公開されている。
 桑原儀一は、おもに本科1年生へ美術の初歩を教えたが、木村荘八Click!は本科3年生には絵画の実習、本科4年生には美術史、高等科の1・2年生には美術講話を行い、本科1年から高等科2年までの6年間、絶えず美術の授業や講義が受けられるカリキュラムが整備された。これは音楽など、ほかの芸術分野の授業も同様だったろう。
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第1回美術展1922.jpg 第4回美術展1925.jpg
 美術展覧会の開催も、自由学園ならではの主体性重視の教育方針で行われた。ちょうど同時期に行われていた、目白中学校における「目白社」の美術展は、美術教師の清水七太郎Click!による指導のもとに開かれている。ところが自由学園では、教師は展覧会へ展示する作品を選ぶ鑑査役だけで、会場の設営からレイアウト、必要な用具や調度の手配、展覧会の広報などへいっさい“口出し”ができなかった。
 女学生が自分たちで展覧会のことを調べ、必要な取材をし、人員を配置し、予算を管理し、必要な物品の手配を行い、会場の設営から撤収までをすべて運営するという、学園当局や教師たちは彼女たちの自治および主体性にゆだねる姿勢を、終始一貫してつらぬいている。木村荘八は、それを「見逃すことの出来ない愉快な、面白い特徴」だとし、美術展へ手だしができないのを、少し残念がっている様子さえうかがえる。同書収録の、木村荘八『学園第二回絵画展覧会より』から引用してみよう。
  
 展覧会は無論「自由学園の」です。功罪は倶に自由学園が負う。美術家の教師たる我々が負う。しかしここの内部には、学校や教師に負わせずとも自ら負うことを潔よしとしている一団の選手がいます。――展覧会はその目録から、陳列から、額の心配から、番号札から、招待から、案内まで、否、あとの取り片づけまで、展覧会前後の案内掃除一切迄……悉く、全部、現在の四年生が衝に当たってしたのです。/我々(山本鼎、桑重儀一、小生)は絵を選むことをしました。それと学校の都合で日どりを工夫するぐらいしたでしょう。小さい級の者や高等科は美術の催しに対して、二日間教室を明け渡すことをしました。各々机や教壇を外へ運ぶことも、そこまではしたと思う。そのあとは、そっくり四年生が何も彼も処理しました。
  
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 本科4年生は、年齢でいうと16~17歳ぐらいの女子たちだ。すべての支度を終えたのは、展覧会前日の午後7時ごろだったようで、木村荘八は「ああ、あたしおなかが減ってしまった!」という声を聞いている。
 全会場(展覧会場には7教室を転用)の設営が終わると、すっかり夜になってしまったが、中央ホールのテーブルで本科4年生の25人全員がお茶をいれ、しばらく休憩している。彼女たちは、全員がクタクタのはずなのに、興奮しておしゃべりが止まらなかったようだ。木村荘八は、その話し合いを「不思議な雀のようです」と記している。つづけて、木村の文章を引用してみよう。
  
 私も今までに幾度も友達と展覧会をして、この一番おしまいの一休みの天国はよくおぼえがあるから、察しられます。察しるのはまた私も――この日は何にもしないが――みんなの天国へ誘われた心理でしたろう。/それから帰ることにしました。あたりは郊外の闇だから、人影の数で見ずには名ではわからない。山本氏がよく一同の数をして、細い道を目白駅まで一緒に来たのであった。学校を出た途端に校内の電燈が消えましたが、誰か一人一番後まで残ってスイッチをひねって駈けもどって来た人などあったはずです。
  
 遠くから自由学園に通ってくる女学生は、当時の武蔵野鉄道Click!には上屋敷駅Click!が未設置だったため、山手線の目白駅か池袋駅まで歩くしかなかった。木村荘八が記録した展覧会は、1924年(大正13)11月の第2回美術展だったので、3代目・目白駅Click!はすでに橋上駅化を終えていたはずだ。
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廊下の風景1925.jpg
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 学校や教師がほとんど関与しない、この第2回美術展覧会が実施されて以降、年度ごとに開かれる同展は本科4年生の仕切りによる仕事になっていく。木村荘八は、それを展覧会以上に面白くて愉快で立派な、「四年生の自治団」と呼んでいる。

◆写真上:黄色い灯りが漏れる、夕暮れの自由学園校舎(現・自由学園明日館)。
◆写真中上は、美術展覧会が開催される前の作品鑑査風景で手前から桑重儀一、木村荘八、羽仁吉一。は、美術展覧会の出品目録(展覧会パンフレット)で1922年(大正11)の第1回展覧会()と1926年(大正15)の第4回展覧会()の表紙。これらも彼女たちが、すべて構成・編集・デザインを行い印刷所へ発注している。
◆写真中下は、1926年(大正15)6月に自由学園の敷地にアトリエが竣工した日の記念写真。立っているのは美術部の委員と美術科の女学生で、前列左から羽仁吉一、石井鶴三、山本鼎、木村荘八、山崎省三、羽仁もと子の教員たち。は、1921年(大正10)に近くの公園に出かけたのだろうか本科1年生に写生を教える山本鼎。は、娘を自由学園に進学させているため美術展を観にきた日本画家・平福百穂。
◆写真下は、1925年(大正15)ごろに描かれた美術展用の水彩画作品。は、南沢村(現・久留米市南沢)に完成した自由学園「清風寮」へ帰る女学生たち。1930年(昭和5)ごろに新聞社のカメラマンが撮影したもので、モダンな彼女たちが大きな荷物を持っているのは、寮での炊事はすべて自分たちで賄う自治運営のため、野菜やパン、卵など目白駅周辺で購入した食糧を運んでいる。駅名に「たなしまち(田無町)」と見えるが、現在のひばりヶ丘駅のことで、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)のプラットホームの様子がよくわかる。余談だが、自由学園の資料をあれこれ漁っていると、武蔵野鉄道(西武池袋線)の田無町駅(ひばりヶ丘駅)と、西武鉄道(現・西武新宿線)の田無駅を混同している記述があり要注意だ。

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