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上落合1丁目328番地の吉岡憲アトリエ。 [気になる下落合]

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 上落合にアトリエをかまえていた吉岡憲の、アトリエ所在地が判明した。弟である吉岡美朗が編集した年譜によれば、1948年(昭和23)1月に世田谷区粕谷から上落合1丁目328番地(現・上落合2丁目3番地)へと転居している。世田谷区は吉岡憲の故郷であり、1915年(大正4)3月に北多摩郡千歳村粕谷78番地で産まれ育っている。
 上落合の地番を見て、すぐに二葉染工場(現・二葉苑)Click!を思い浮かべた方は江戸友禅・小紋染めClick!の昔ながらのファンか、松本竣介Click!のファンかもしれない。そう、上落合328番地は大正期からそのほとんどが二葉苑の染工場敷地であり、松本竣介が1944年(昭和19)に妙正寺川をはさんで下落合側からスケッチした『上落合風景』Click!の、まさにその場所だからだ。松本竣介とは、吉岡憲が上落合に転居したその年、つまり1948年(昭和23)の最晩年に交友しているのは、麻生三郎らの紹介だったろうか。
 吉岡アトリエから西部新宿線の中井駅までは300m弱で、高田馬場駅へ出て『目白風景』Click!(1950年)や『高田馬場風景』Click!(同年ごろ)を描くのも容易なら、そこから旧・神田上水(1966年より神田川)沿いを散策しながら江戸川公園まで出かけ、『江戸川暮色』(同年ごろ)を制作するのもたやすかっただろう。
 また、戸塚町2丁目54番地(現・西早稲田2丁目11番地)にあった、杉本鷹が主宰する全日本職場美術協議会中央研究所へと通勤し、麻生三郎Click!や大野五郎、中谷泰、井上長三郎などといっしょに、画学生たちの指導をするのにも便利だったはずだ。同研究所は、現在の早稲田通り沿いに建つ第一山武ビルがあるあたりに建っていた。高田馬場駅から約850mほどで、歩いても10分以内でたどり着ける。
 上落合1丁目328番地にあったアトリエは、一部が平家建ての住宅で、棟つづきに2階建てのアトリエ部が付属していた。吉岡憲の死後、1975年(昭和50)に展覧会の作品を借りに出かけた窪島誠一郎Click!の証言が残っている。1996年(平成8)に「信濃デッサン館」出版から刊行された窪島誠一郎・監修『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』から引用してみよう。
  
 「吉岡憲デッサン展」の開催準備のために上落合の菊夫人のところへ何度も足を運んでいた。菊夫人の住む家は、西武新宿線中井駅の商店街の外れの、細い小路を五分程あるいたところにあった。古い木造アパートや小住宅がびっしりと密集している地域だった。そこに、吉岡憲が菊夫人と暮らしていた平家建ての家屋と、それと棟つゞきになっている十坪程の二階家のアトリエが建っていた。たてつけの悪い古びた硝子戸をあけると、部屋いっぱいに乱雑におかれたカンバスや画架のあいだから油絵具の匂いがぷんと鼻をついた。
  
 この記述を読むと、吉岡アトリエは一戸建ての住宅だったことがわかる。だが、この文章だけでは、二葉染工場(二葉苑)が敷地のほとんどを占める上落合1丁目328番地のどこに、吉岡憲アトリエが建っていたのかがわからない。
 もうひとつ、吉岡憲が健在だった1950年(昭和25)に、同アトリエを訪ねている画学生の証言を聞いてみよう。この画学生とは、のちの洋画家・鞍掛徳磨のことで、日本大学芸術学部に在学中から吉岡憲に師事していた。吉岡憲は戦後、武蔵野美術大学や女子美術大学の講師をつとめ、1949年(昭和24)には日大芸術学部の講師にも就任している。
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 『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』に、挿みこみで添付されたオリジナル証言集の小冊子『吉岡憲のこと』所収の、鞍掛徳磨「であい」から少し長いが引用してみよう。
  
 私は誰からといった紹介らしい紹介もなく、上落合のアトリエを訪ねることにした。西武線中井駅で下車して改札を出ると、左側に踏切がある。そこをわたらないで、左に折れると三、四分の所で、直ぐに分かった。/初秋の空は青く澄んで高く、朝夕涼しさを感じさせていた。当時、高田馬場で電車を待つホームの眺めは、ガード下の飲み屋、下落合にくだる川沿いに立ち並ぶバラック、目白側の丘の学習院寮、その下の町工場、風呂屋の煙突、踏切とその番小屋といった風景であった。/アトリエは、道に面して門札が掛けてあって、ちょっとした庭の先からアトリエの戸をノックして私は直接仕事場にひきつけられていた。私はかなり以前から親しくしているかのように迎えられた。(中略)アトリエの広さは十五畳程で、漆喰壁を塗り込む段階で中断されていた。細い板が横に間隔をおいてうちつけてるだけであった。その素材の板の表面を覆いかぶせるように作品が掛けてあった。床から壁に立てかけてあるもの、額縁にはめこまれてあるもの、木枠をとりはずして画鋲でとめてある作品、コンテで描いたデッサン、ペンと淡彩、といった具合であった/籐椅子に案内され座る。
  
 鞍掛徳磨の文章は、道順が省略されてわかりにくいが、改札を出て左側の踏み切りを「わたらないで」右側に折れ、妙正寺川に架かる寺斉橋をわたって、最初の曲がり角を「左に折れると三、四分の所」に、上落合1丁目328番地の吉岡アトリエがあった……ということになる。おそらく、染の小道Click!などのイベントで二葉苑を訪れた方がおられれば、まったく同じ道順なのですぐにおわかりだろう。
 1950年(昭和25)の当時は、まだあちこちに戦争の焼け跡が残り、空襲で焼けた住宅には急ごしらえのバラックが建ち並んでいた時代だ。高い建物など存在しないため、高田馬場駅のホームから目白崖線沿いの下落合がよく見わたせたと思われる。文中に登場する踏み切りとは、高田馬場2号踏み切りClick!とその番小屋だとみられる。
 さて、鞍掛徳磨の文章を読むと、吉岡憲のアトリエは妙正寺川の寺斉橋をわたって「左に折れると三、四分の所」にあり、その「道に面して門札が掛けてあっ」た住宅で、しかも窪島誠一郎によれば「平家建ての家屋」とは棟つづきになっている、「十坪程の二階家のアトリエ」ということになる。これに合致する住宅が、鞍掛徳磨が訪問した1950年(昭和25)から、吉岡憲の死後19年がたち、1975年(昭和50)に窪島誠一郎が訪れるまでの間に撮影された空中写真で見つかるだろうか。
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 通常、航空機に装備された空撮専用カメラClick!で撮影される空中写真Click!は、もちろん地上に写るものは真フカンからの撮影になるので、地上にある住宅のほとんどは平面的な屋根しか写らない。ところが、かなり以前から気づいていたことだが、目標物の上空をかなり外れて、少し離れたところから撮影された空中写真を参照すると、その写真の片隅に目標物が“立体”としてとらえられているのだ。
 たとえば、鞍掛徳磨の文章にも登場している学習院昭和寮Click!を例に説明すると、各時代ごとに真上からではなく“立体”Click!として観察したければ、同寮が建っている下落合や近くの目白駅の上空からではなく、少し離れた戸山や早稲田、百人町あたりを飛んだ撮影機の航路評定図を参照して、中心点のずれた空中写真を観察すればいい。戦後の上落合1丁目328番地界隈を“立体”で観察したければ、戸山か高田馬場4丁目、あるいは東中野の上空を飛んだ航空機が撮影した空中写真を参照すればいいことになる。
 その結果、1948年(昭和23)から1975年(昭和50)ごろまでの27年間変わらずに、平家つづきでアトリエとして使われていた2階家が付属する建物、そして中井駅の駅前通りから左折した道路に面していた住宅は、たった1軒しか存在していない。二葉苑への入り口の左手、328番地の南西隅に建てられていた住宅だ。ちょうど、現在の「染の里 二葉苑」ビルと駐車場のあるあたりが、吉岡憲アトリエ跡ということになる。
 何枚かの空中写真にとらえられた住宅を観察すると、中井駅の駅前通りから妙正寺川沿いに東進する道に面して建てられており、西側が平家で東側が2階家の造りをしていたのがわかる。1963年(昭和38)以降のカラー写真では、屋根が灰色っぽい色をしているので、当時の住宅に多い大量生産されたコンクリート製の瓦屋根だったものだろうか。南側には樹木を植えた小さな庭が見え、道路に面して西寄りに小さな門が見える。
 328番地一帯は、1947年(昭和22)の空中写真では焼け跡のままなので、吉岡憲一家は1948年(昭和23)に新築の住宅へ入居したことになる。しかも、鞍掛徳磨の証言によれば、アトリエに使われた2階家の壁に漆喰が塗られていなかったことを考えると、いまだ建設中の住宅に急いで転居してきたのかもしれない。敗戦直後は極端な住宅難であり、世田谷の粕谷に身を寄せていた吉岡一家は、竣工を待ちきれなかったものだろうか。
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吉岡憲「おらんだ坂あたり」1953頃.jpg
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 このアトリエで、吉岡憲は22年間にわたり仕事をしているが、1956年(昭和31)1月15日の深夜午前1時ごろ中央線・東中野駅近くの高根町踏み切りに飛びこんで自死している。41歳の誕生日を迎える、2ヶ月前のことだった。芸術家が自殺をすると、すぐに「制作や表現上の悩み」「仕事のいきづまり」などと書かれることが多いのだが、吉岡憲の自裁は、どうやらそれほど“単純”ではなさそうだ。また機会があれば、別の記事に書いてみたい。

◆写真上:吉岡憲のアトリエ跡は、正面に見える二葉苑の施設になっている。
◆写真中上は、1947年(昭和22)撮影の上落合1丁目328番地でいまだ焼け野原だ。は、1963年(昭和38)撮影の同所。328番地の南西隅に、道路に面した吉岡アトリエが建っている。は、1966年(昭和41)作成の「住居表示新旧対照案内図」にみる上落合1丁目328番地で、翌年に上落合2丁目3番地に変更された。
◆写真中下は、1975年(昭和50)に撮影された空中写真にみる吉岡アトリエ。ちょうど窪島誠一郎が菊夫人を訪ねたころで、西側の平家に東側の2階建てアトリエが付属していた様子がよくわかる。は、1979年(昭和54)撮影の吉岡アトリエだが1984年(昭和59)の空中写真にはすでに写っていないので、80年代の早々に解体されたと思われる。は、自死する2年ほど前の1954年(昭和29)に制作された吉岡憲『春雪』。
◆写真下は、1950年(昭和25)ごろに制作された吉岡憲『高田馬場風景』。は、1953年(昭和28)ごろに九州の長崎風景を描いた吉岡憲『おらんだ坂あたり』。下左は、1996年(平成8)に出版された窪島誠一郎・監修『手練のフォルム-吉岡憲全資料集-』(「信濃デッサン館」出版)。下右は、生真面目な性格がよくでた吉岡憲のポートレート。

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