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鉄剣と金属にまつわる怖い話。 [気になるエトセトラ]

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 関東や東北の各地には、さまざまな伝承や民話Click!が語り継がれてきたことはよく知られているが、その中には刀剣Click!大鍛冶(タタラ)Click!との関連が深いとみられる怪談も、今日まで消えずに伝えられている。少し前に、香取神宮の裏に位置する天然神奈(鉄穴)流し場だった金久保谷Click!について書いたけれど、今回は香取神宮から北東へ13.4kmほどの太平洋沿岸にある、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)について書いてみたい。
 鹿島神宮にまつわる怪談は昔話ではなく、1940年代の現代史上で起きたエピソードだ。同神宮に関する本や資料などにまで登場している“怪談”であり、雑誌の記事などでも何度か取りあげられているので、目にした方もおられるのではないだろうか。科学者がからむこの怪談には、上野にある東京国立科学博物館と東京大学が登場している。1940年代の後半、鹿島神宮に奉られている日本最大の韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ/国宝)を対象に、その硬度や素材の品質について調査することになった。
 韴霊剣の調査は、東京国立科学博物館が企画し、現地調査を東京大学工学部冶金学科(現・マテリアル工学科)に依頼している。当時、同学科の教授だった小川芳樹と助教授の芥川武、それに製鉄の専門家である日立金属(株)の小柴という人物の3人は、さっそく鹿島神宮を訪れて剣の硬度調査を実施した。このとき、周囲から韴霊剣は鹿島神宮秘蔵の「御神刀」なのだから、いくら研究とはいえかかわらないほうがいいと懸念する声が、学者たちのもとへ各方面から寄せられていたそうだ。だが、彼らは工学分野のサイエンティストであり、妙な「迷信」を気にすることなく現地におもむいて調査している。
 調査・分析の結果、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)は2.71mの長さのまま鍛刀されたものではなく、途中で接合(鍛接)されたとみられることが判明した。また、実際に使用された剣ではなく奉納用に造られているため、質の高い目白(鋼)を使用しておらず、かなりの割合で鉄を製錬する際の不純物が含まれていることもわかった。成分調査までしているところをみると、おそらく調査チームはサンプル(茎部分から採取した錆か)を削りとって東京大学に持ち帰り、詳しく分析・解析をしているのだろう。硬度はそれほど高くはなく、当初から奉納刀として鍛錬され実戦には用いられなかったとみられる……という結論だった。
 この調査から10年後、調査を主導した3人に次々と不幸が襲いかかった。1976年(昭和51)に玉川大学出版部から刊行された、黒岩俊郎『たたら』から引用してみよう。
  
 ところで「余談」だが、かりにもご神刀の硬度を調べるので、友人などから「やめておけ、きっとたたりがあるぞ」とおどかされた。/ところが、不思議なことに、戦後になってであるが、小川先生が、インドに出張中交通事故にあわれ、帰国後その後遺症らしい症状で急死された。芥川先生は、平素から血圧の高い先生であったが、小川先生のなくなられるのと相前後して、脳いっ血でなくなられた。そして、さらに小柴さんもなくなられた。(中略) つまり硬度をしらべる決定に関与した人々は何れも、若死されてしまったというのである。
  
 偶然といってしまえばそれまでだけれど、そうではない肌ざわりをそこに感じるからこそ、東大をはじめ学者たちの間でも長く語り継がれてきた怪談なのだろう。まるで「ツタンカーメンの呪い」の日本版だが、この分析調査で調査チームの助手をつとめた東大の「佐川さん」という人物は、改めて鹿島神宮へ“祟り除け”の参詣をするつもりだと著者に語っている。学者たちの死は、1950年代末に集中しており、みんな40代から50歳をすぎたばかりの、研究者としてはこれから脂が乗りはじめ、大きな成果をあげる矢先の突然死だった。
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 ここで刀剣がらみの余談になるけれど、先に奈良県の富雄丸山古墳で見つかった剣のことを、発見した学者たちは「日本最大の剣」などと記者団に発表していたが、その長さは2.35mで韴霊剣の2.71mには及ばない。なぜ、そのような見え透いた稚拙なフェイク情報を流すのだろうか。「第一報」で、なにか印象操作でもしたいのだろうか。その点をさっそく指摘されると、急いで日本最大の「蛇行剣」とあわてて表現を変えている。蛇行剣は、刀身が蛇のようにくねる剣のことで(剣ではなく鉾とする説もある)、古墳の造り出し(祭祀場)から発見されていることから、実用ではなく韴霊剣と同様に奉納剣だとみられる。日本最大の剣が関東にあると、なにか都合の悪いことでもあるのだろうか?
 また、富雄丸山古墳はいつから「日本最大の円墳」になったのだろうか。「直径109m・高さ13m余」という数値は、付属する造り出しの基部を水増しして「直径」を計測しなおしたものだろうか。1980年代に行われた本調査では、確か直径100m弱だったはずだ。国内における最大規模の円墳は、埼玉県の丸墓山古墳(直径107m・高さ17.2m)だったはずだ。これも、国内最大の円墳が関東にあると不都合なことでもあるのだろうか?
 ついでに、1990年ごろまでとある学者たちは、「古代日本の中心地」は銅剣・銅鐸・銅矛(権力者の権威を象徴する銅製品)が、もっとも数多く発掘されている地域だと断言していたはずなのに、島根県の荒神谷遺跡のたった1ヶ所のみから、明治以降に日本全国で見つかった数量を上まわるそれらが一度期に発見(1983年~)されたあと、では「古代日本の中心地」は神々が集う出雲だったのでは……というテーマには一貫して沈黙し、そんな説など「なかったこと」にしているのはなぜなのだろう。自説を覆すような新事実が発見されれば、それを検証するのが学術としてのあたりまえの姿勢であり、人文科学(ときに自然科学)の学者としては当然の姿勢ではないか。先の「大山古墳」Click!の学者たちも含めて、あまりにご都合主義的かつ事実を踏まえない不マジメな姿勢に呆れるばかりだ。どうしても、奈良とその周辺域を「古代日本の中心地」にしておきたい、発掘・発見および検証など事実にもとづく人文科学とは無縁な、“宗教”Click!でもいまだ存在しているのだろうか?
 さて、次にご紹介するのは、東北地方に現代まで伝わる田圃と金属にからんだ怪談だ。神奈(鉄穴)流しによって地形が変わってしまい、山々の樹木が伐られて河川が泥で汚染され、ときには土石流を生じかねないため、農民たちと大鍛冶(タタラ)集団とが対立する地域Click!も多かったとみられるが、この怪談もそのような史的対立の故事を背景にしているのだろう。田神(たのかみ=農神)と、山の近くに奉られた金属神(荒神・鋳成神・金山神など)との確執が、その基盤に横たわる本質的なテーマだと思われる。
 かたい民俗学の学術書からの引用だと、せっかくの怪談がつまらなくなるので、ここは東北地方の怪談を数多く蒐集している、作家・黒木あるじの本から近似譚を拝借してみよう。フリーカメラマンの「Oさん」が制作会社から依頼され、日本ののどかな田園風景を撮影しようと、東北の山奥にある農村を訪ね歩いたときの話だ。もはや現代住宅ばかりで、昔ながらの茅葺き農家など見つからず、高圧線鉄塔や電線などが視界へ入るのに悩まされながら、とある山奥でようやく昔日の面影をとどめた農村風景を見つけることができた。
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 田圃では、ひとりの農夫が手作業で黙々と草とりをしており、その農夫を入れて撮影しようと、「Oさん」は許可を得るために近づいて話しかけた。以下、2012年(平成24)に竹書房から出版された、黒木あるじ『怪談実話/叫』から引用してみよう。
  
 「かねはあるか」/なるほど、被写体にするならギャラを払えってか。思ったよりしたたかだな。心の中で苦笑しながら財布を取り出した彼を見て、農夫が首を振った。/「銭じゃなくて、金属は持ってねえよな、って聞いたんだ」/言葉の真意を判じかね、Oさんが黙りこくる。農夫は声をあげて笑いながら彼の隣にどっかり腰を下ろすと、おもむろに謂れを喋りはじめた。/「方言がキツくて全部はわからなかったけれど、どうやらこの田んぼには金属を持ちこんではいけないって決まりがあるのだけは、理解できた」/農夫によれば、田の神様は一本杉の真下にある小さな社に住んでおり、とにかく金気のあるものを嫌うため、はるか昔より金属製品を敷地内に持って入る行為は堅く禁じられているとの話だった。/万が一、持って入ったらどうなるんですか。何か良くないことでも起きるんですか。冗談めかして問うOさんの顔をねっとり眺めて、農夫が口を開いた。/「前に入った奴は、死んだ」/静かに呟くと、農夫は押し黙ったまま、表情を崩そうともしない。
  
 このあと、カメラマンは農夫から安全だと指示された地点からのみ撮影して、制作会社に作品を提出した。すると、その写真を見て気に入ったある出版社の編集者が、その田圃を写真に撮って農夫に詳しく取材したいといいだした。
 農夫から聞いたことを話すと、単なる村落伝説か民間伝承のたぐいだと気にもとめず、雑誌の特集用に取材チームを組んで出かけたという。しかたなく撮影場所を教えたカメラマンは、「あそこは本当にそんな簡単な場所かなあ」と、妙なわだかまりが残ったという。その結果、数ヶ月後には企画した編集者をはじめ、取材チームに参加した人物は順次、なんらかの要因で死亡していった……という、はるか昔からの祟り伝承を踏まえた現代怪談だ。カメラマンの「Oさん」は、無理やり結びつける気はないが、偶然で片づけるには取材チームの全員が死んでいるのは、あまりにも唐突で不自然だと話を終えている。
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 この伝承に登場する田神(たのかみ)は、近世になると家や一族の祖霊(先祖の死者)たちとも習合し、田畑の中に先祖代々の墓地が設置されることもめずらしくなくなる。田畑を守るのは田神に加え、当初は代々その地で農耕をつづけてきた、そして当代の生者を見守ってくれるはずの祖霊もいっしょに祀る……という発想からなのだろう。この田神=祖霊との結びつきが、田畑に「金気のあるもの」を近づけてはならないという、はるか昔からの大鍛冶(タタラ)忌避にまつわる故事が、現代人まで代々伝承されてきたゆえんなのだろう。

◆写真上:落合地域の近辺に田神はいるかと調べたら、賑やかな池袋駅前にズラリと並んでいた。江戸期に形象化されたとみられる石像×4体だが、金属はおろか高層ビル群が林立する風景を毎日見ていたら人に祟るどころか、もう笑うしかないだろう。
◆写真中上:いずれも鹿島神宮の風景で、海上に建つ夕陽の“映えスポット”になっている西一之鳥居()と表参道の大鳥居()、そして拝殿と本殿()。
◆写真中下は、その姿から奈良時代に鍛刀されたと伝えられる鹿島神宮の韴霊剣(2.71m)。いまだ直刀の体配をしており、拵(こしら)えは黒漆平文大刀拵(くろうるしひょうもんたちごしらえ)と命名されている。は、同剣の茎(なかご)と刃区(はまち)部分。は、物打(ものうち)から鋩(きっさき)部分。後世の日本刀における片切刃のような造りをしており、近年に刃取りがなされているようで刃文は細直(ほそすぐ)に見える。
◆写真下は、どこかに田神が奉られている日本の典型的な田園風景。は、江戸期に制作された田神は社(やしろ)をもたず、たいがいは地蔵尊や道祖神と見まごう野外の石像が多い。は、1968年(昭和43)に学生社から出版された東実『鹿島神宮』(左)と、2012年(平成24)に竹書房から出版された黒木あるじ『実話怪談/叫』(右)。
おまけ
 池袋駅の周辺にあった、水田各所に配置されていたとみられる田神。地蔵尊とまちがえられがちだが、田神の右手には錫杖ではなく、しゃもじを持っているので見分けは容易だ。
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