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鉄剣と金属にまつわる怖い話。 [気になるエトセトラ]

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 関東や東北の各地には、さまざまな伝承や民話Click!が語り継がれてきたことはよく知られているが、その中には刀剣Click!大鍛冶(タタラ)Click!との関連が深いとみられる怪談も、今日まで消えずに伝えられている。少し前に、香取神宮の裏に位置する天然神奈(鉄穴)流し場だった金久保谷Click!について書いたけれど、今回は香取神宮から北東へ13.4kmほどの太平洋沿岸にある、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)について書いてみたい。
 鹿島神宮にまつわる怪談は昔話ではなく、1940年代の現代史上で起きたエピソードだ。同神宮に関する本や資料などにまで登場している“怪談”であり、雑誌の記事などでも何度か取りあげられているので、目にした方もおられるのではないだろうか。科学者がからむこの怪談には、上野にある東京国立科学博物館と東京大学が登場している。1940年代の後半、鹿島神宮に奉られている日本最大の韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ/国宝)を対象に、その硬度や素材の品質について調査することになった。
 韴霊剣の調査は、東京国立科学博物館が企画し、現地調査を東京大学工学部冶金学科(現・マテリアル工学科)に依頼している。当時、同学科の教授だった小川芳樹と助教授の芥川武、それに製鉄の専門家である日立金属(株)の小柴という人物の3人は、さっそく鹿島神宮を訪れて剣の硬度調査を実施した。このとき、周囲から韴霊剣は鹿島神宮秘蔵の「御神刀」なのだから、いくら研究とはいえかかわらないほうがいいと懸念する声が、学者たちのもとへ各方面から寄せられていたそうだ。だが、彼らは工学分野のサイエンティストであり、妙な「迷信」を気にすることなく現地におもむいて調査している。
 調査・分析の結果、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)は2.71mの長さのまま鍛刀されたものではなく、途中で接合(鍛接)されたとみられることが判明した。また、実際に使用された剣ではなく奉納用に造られているため、質の高い目白(鋼)を使用しておらず、かなりの割合で鉄を製錬する際の不純物が含まれていることもわかった。成分調査までしているところをみると、おそらく調査チームはサンプル(茎部分から採取した錆か)を削りとって東京大学に持ち帰り、詳しく分析・解析をしているのだろう。硬度はそれほど高くはなく、当初から奉納刀として鍛錬され実戦には用いられなかったとみられる……という結論だった。
 この調査から10年後、調査を主導した3人に次々と不幸が襲いかかった。1976年(昭和51)に玉川大学出版部から刊行された、黒岩俊郎『たたら』から引用してみよう。
  
 ところで「余談」だが、かりにもご神刀の硬度を調べるので、友人などから「やめておけ、きっとたたりがあるぞ」とおどかされた。/ところが、不思議なことに、戦後になってであるが、小川先生が、インドに出張中交通事故にあわれ、帰国後その後遺症らしい症状で急死された。芥川先生は、平素から血圧の高い先生であったが、小川先生のなくなられるのと相前後して、脳いっ血でなくなられた。そして、さらに小柴さんもなくなられた。(中略) つまり硬度をしらべる決定に関与した人々は何れも、若死されてしまったというのである。
  
 偶然といってしまえばそれまでだけれど、そうではない肌ざわりをそこに感じるからこそ、東大をはじめ学者たちの間でも長く語り継がれてきた怪談なのだろう。まるで「ツタンカーメンの呪い」の日本版だが、この分析調査で調査チームの助手をつとめた東大の「佐川さん」という人物は、改めて鹿島神宮へ“祟り除け”の参詣をするつもりだと著者に語っている。学者たちの死は、1950年代末に集中しており、みんな40代から50歳をすぎたばかりの、研究者としてはこれから脂が乗りはじめ、大きな成果をあげる矢先の突然死だった。
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 ここで刀剣がらみの余談になるけれど、先に奈良県の富雄丸山古墳で見つかった剣のことを、発見した学者たちは「日本最大の剣」などと記者団に発表していたが、その長さは2.35mで韴霊剣の2.71mには及ばない。なぜ、そのような見え透いた稚拙なフェイク情報を流すのだろうか。「第一報」で、なにか印象操作でもしたいのだろうか。その点をさっそく指摘されると、急いで日本最大の「蛇行剣」とあわてて表現を変えている。蛇行剣は、刀身が蛇のようにくねる剣のことで(剣ではなく鉾とする説もある)、古墳の造り出し(祭祀場)から発見されていることから、実用ではなく韴霊剣と同様に奉納剣だとみられる。日本最大の剣が関東にあると、なにか都合の悪いことでもあるのだろうか?
 また、富雄丸山古墳はいつから「日本最大の円墳」になったのだろうか。「直径109m・高さ13m余」という数値は、付属する造り出しの基部を水増しして「直径」を計測しなおしたものだろうか。1980年代に行われた本調査では、確か直径100m弱だったはずだ。国内における最大規模の円墳は、埼玉県の丸墓山古墳(直径107m・高さ17.2m)だったはずだ。これも、国内最大の円墳が関東にあると不都合なことでもあるのだろうか?
 ついでに、1990年ごろまでとある学者たちは、「古代日本の中心地」は銅剣・銅鐸・銅矛(権力者の権威を象徴する銅製品)が、もっとも数多く発掘されている地域だと断言していたはずなのに、島根県の荒神谷遺跡のたった1ヶ所のみから、明治以降に日本全国で見つかった数量を上まわるそれらが一度期に発見(1983年~)されたあと、では「古代日本の中心地」は神々が集う出雲だったのでは……というテーマには一貫して沈黙し、そんな説など「なかったこと」にしているのはなぜなのだろう。自説を覆すような新事実が発見されれば、それを検証するのが学術としてのあたりまえの姿勢であり、人文科学(ときに自然科学)の学者としては当然の姿勢ではないか。先の「大山古墳」Click!の学者たちも含めて、あまりにご都合主義的かつ事実を踏まえない不マジメな姿勢に呆れるばかりだ。どうしても、奈良とその周辺域を「古代日本の中心地」にしておきたい、発掘・発見および検証など事実にもとづく人文科学とは無縁な、“宗教”Click!でもいまだ存在しているのだろうか?
 さて、次にご紹介するのは、東北地方に現代まで伝わる田圃と金属にからんだ怪談だ。神奈(鉄穴)流しによって地形が変わってしまい、山々の樹木が伐られて河川が泥で汚染され、ときには土石流を生じかねないため、農民たちと大鍛冶(タタラ)集団とが対立する地域Click!も多かったとみられるが、この怪談もそのような史的対立の故事を背景にしているのだろう。田神(たのかみ=農神)と、山の近くに奉られた金属神(荒神・鋳成神・金山神など)との確執が、その基盤に横たわる本質的なテーマだと思われる。
 かたい民俗学の学術書からの引用だと、せっかくの怪談がつまらなくなるので、ここは東北地方の怪談を数多く蒐集している、作家・黒木あるじの本から近似譚を拝借してみよう。フリーカメラマンの「Oさん」が制作会社から依頼され、日本ののどかな田園風景を撮影しようと、東北の山奥にある農村を訪ね歩いたときの話だ。もはや現代住宅ばかりで、昔ながらの茅葺き農家など見つからず、高圧線鉄塔や電線などが視界へ入るのに悩まされながら、とある山奥でようやく昔日の面影をとどめた農村風景を見つけることができた。
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 田圃では、ひとりの農夫が手作業で黙々と草とりをしており、その農夫を入れて撮影しようと、「Oさん」は許可を得るために近づいて話しかけた。以下、2012年(平成24)に竹書房から出版された、黒木あるじ『怪談実話/叫』から引用してみよう。
  
 「かねはあるか」/なるほど、被写体にするならギャラを払えってか。思ったよりしたたかだな。心の中で苦笑しながら財布を取り出した彼を見て、農夫が首を振った。/「銭じゃなくて、金属は持ってねえよな、って聞いたんだ」/言葉の真意を判じかね、Oさんが黙りこくる。農夫は声をあげて笑いながら彼の隣にどっかり腰を下ろすと、おもむろに謂れを喋りはじめた。/「方言がキツくて全部はわからなかったけれど、どうやらこの田んぼには金属を持ちこんではいけないって決まりがあるのだけは、理解できた」/農夫によれば、田の神様は一本杉の真下にある小さな社に住んでおり、とにかく金気のあるものを嫌うため、はるか昔より金属製品を敷地内に持って入る行為は堅く禁じられているとの話だった。/万が一、持って入ったらどうなるんですか。何か良くないことでも起きるんですか。冗談めかして問うOさんの顔をねっとり眺めて、農夫が口を開いた。/「前に入った奴は、死んだ」/静かに呟くと、農夫は押し黙ったまま、表情を崩そうともしない。
  
 このあと、カメラマンは農夫から安全だと指示された地点からのみ撮影して、制作会社に作品を提出した。すると、その写真を見て気に入ったある出版社の編集者が、その田圃を写真に撮って農夫に詳しく取材したいといいだした。
 農夫から聞いたことを話すと、単なる村落伝説か民間伝承のたぐいだと気にもとめず、雑誌の特集用に取材チームを組んで出かけたという。しかたなく撮影場所を教えたカメラマンは、「あそこは本当にそんな簡単な場所かなあ」と、妙なわだかまりが残ったという。その結果、数ヶ月後には企画した編集者をはじめ、取材チームに参加した人物は順次、なんらかの要因で死亡していった……という、はるか昔からの祟り伝承を踏まえた現代怪談だ。カメラマンの「Oさん」は、無理やり結びつける気はないが、偶然で片づけるには取材チームの全員が死んでいるのは、あまりにも唐突で不自然だと話を終えている。
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 この伝承に登場する田神(たのかみ)は、近世になると家や一族の祖霊(先祖の死者)たちとも習合し、田畑の中に先祖代々の墓地が設置されることもめずらしくなくなる。田畑を守るのは田神に加え、当初は代々その地で農耕をつづけてきた、そして当代の生者を見守ってくれるはずの祖霊もいっしょに祀る……という発想からなのだろう。この田神=祖霊との結びつきが、田畑に「金気のあるもの」を近づけてはならないという、はるか昔からの大鍛冶(タタラ)忌避にまつわる故事が、現代人まで代々伝承されてきたゆえんなのだろう。

◆写真上:落合地域の近辺に田神はいるかと調べたら、賑やかな池袋駅前にズラリと並んでいた。江戸期に形象化されたとみられる石像×4体だが、金属はおろか高層ビル群が林立する風景を毎日見ていたら人に祟るどころか、もう笑うしかないだろう。
◆写真中上:いずれも鹿島神宮の風景で、海上に建つ夕陽の“映えスポット”になっている西一之鳥居()と表参道の大鳥居()、そして拝殿と本殿()。
◆写真中下は、その姿から奈良時代に鍛刀されたと伝えられる鹿島神宮の韴霊剣(2.71m)。いまだ直刀の体配をしており、拵(こしら)えは黒漆平文大刀拵(くろうるしひょうもんたちごしらえ)と命名されている。は、同剣の茎(なかご)と刃区(はまち)部分。は、物打(ものうち)から鋩(きっさき)部分。後世の日本刀における片切刃のような造りをしており、近年に刃取りがなされているようで刃文は細直(ほそすぐ)に見える。
◆写真下は、どこかに田神が奉られている日本の典型的な田園風景。は、江戸期に制作された田神は社(やしろ)をもたず、たいがいは地蔵尊や道祖神と見まごう野外の石像が多い。は、1968年(昭和43)に学生社から出版された東実『鹿島神宮』(左)と、2012年(平成24)に竹書房から出版された黒木あるじ『実話怪談/叫』(右)。
おまけ
 池袋駅の周辺にあった、水田各所に配置されていたとみられる田神。地蔵尊とまちがえられがちだが、田神の右手には錫杖ではなく、しゃもじを持っているので見分けは容易だ。
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山手線と目白停車場は「迷惑至極ニ御座候」。 [気になる下落合]

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 先に、佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!の1作『ガード』Click!にからめて、日本鉄道(株)が敷設する品川-赤羽線(現・山手線)で構築される線路土手により、金久保沢Click!湧水流Click!(主流)が遮断されてしまうため、(下)高田村と下落合村の双方で田圃(下落合側は東耕地と丸山の水田/高田側は八反目の水田)の灌漑用水の水路確保が、敷設当時の大きな課題だったことを書いた。だがそれ以前に、そもそも線路土手を築き線路を通すこと自体にも、大きな問題が発生していたようだ。
 1884年(明治17)3月に、下落合村や上落合村をはじめ、葛ヶ谷村、江古田村、上鷺宮村、下鷺宮村、上沼袋村、下沼袋村、新井村、上高田村、中荒井村、中村の計12村が共同で東京府知事あてに、「鉄道停車場御設置願」を提出している。これは、前月の同年2月に提出された北豊島郡の各町村による「鉄道停車場設置追願」に連動しているとみられ、北豊島郡からさらに各村へ働きかけが行われたとみられる。
 東京都が日本鉄道に関する公文書として保管している、上落合村と下落合村が含まれた「鉄道停車場御設置願」を、2006年(平成18)に豊島区立郷土資料館から刊行された『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』(調査報告書 第18集)から引用してみよう。
  
 南豊島郡下落合村外二村北豊島郡中新井村外一村東多摩郡江古田村外六村各戸長及右村々総代、茲ニ奉請願候旨、謹シテ開陳仕候、既ニ客歳八月第弐拾九号公布ヲ以テ当府下品川ヨリ埼玉県下川口ニ至ル汽車線路布設相也候趣詳知仕候、就テハ該線路ノ途北豊島郡高田村ニ係ル清戸往還筋ノ傍ラニ該停車場ノ御設置相成度、之レ出願ノ要点ナリ、而テ此地位ハ甲州街道ト中仙道ノ間道ニテ埼玉神奈川両県地方内ヨリ繭生糸并ニ製茶ノ諸物貨ヲ京浜両地ニ運輸スルノ便路即チ清戸道ト称スル該道ノ咽喉ヲ占メ専ラ農商通行ノ多キコト他道ニ譲ラサルモ従来車馬ノ運輸ノ用ニ供スルモノ乏シキカ故ニ(後略/以下上落合・下落合など各村列記)
  
 1884年(明治17)2月21日付けで、北豊島郡各町村から東京府知事あてに出された「鉄道停車場設置追願」のほうには、高田村をはじめ高田千登世町、雑司ヶ谷村、高田若葉町、雑司ヶ谷旭出町、長崎村、上板橋村、下練馬村、上練馬村、中新井村、谷原村などの戸長や総代の署名が添えられている。これらの文書に書かれている「清戸往還」「清戸道」Click!は、多少道筋は異なるものの、ほぼ現在の目白通りのことだ。
 ところが、停車場の設置以前に、日本鉄道が線路を敷設するための土地買収で、当時の土地の実勢価格とは合わない低い買収額を提示したのだろう、さっそく紛糾しているようだ。1884年(明治17)4月21日付けの、東京府の地理課と租税課が作成した文書には、地権者からのクレームが数多く寄せられていた様子が透けて見える。同資料より、当該文書を引用してみよう。ちなみに、最初期の路線計画では品川-赤羽間ではなく、品川-川口間として予定されていたため、公文書での表記はすべて「品川川口間鉄道」と表記されている。
  
 品川々口間鉄道北豊島郡滝野川村より(ママ)南豊島郡下落合村ニ至ル間曩ニ地券面代価ヲ以テ買上之義、別紙丁号之通御達相成候処、今般実地売買相場ト格別之相違有之趣ヲ以、現今相当代価ヲ以買上之義、丙号之通願出因テ評価人ニ付シ調査為致候(後略)
  
 せっかく鉄道が敷設されると思ったら、提示された用地の買取価格が実勢地価よりもはるかに低い額だったので、線路沿いの多くの地主が納得できず腹を立てたのだろう。実際に取引きされている実勢地価ではなく、農地に適用される固定資産税評価額などで買取り地価を計算されたのでは、所有者はたまったものではないだろう。現在でさえ、土地の実勢価格に比べ、固定資産税の評価額はその5~6割程度に抑えられている。
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 線路沿いの地主たちが、土地の“半額セール”をやらされるのに激怒した様子は、「田畑乏敷場所ニテ手作等ニ差支甚難渋仕候間、何卒相当代価ヲ以テ御買上被成下度候」(新田堀之内村)、「右代価ニテハ各所有者ニ於テ難渋仕候間、相当代価ヲ以御買上ケ被成下度、此段奉願候也」(池袋村)、「小村同様之土地ニて(ママ)畑地少ク甚難渋仕候間、何卒相当代価ヲ以御買上被成下度候」(巣鴨村)、「御買上相成候て(ママ)ハ、実ニ各自迷惑仕候義ニ御座候」(高田村)と、沿線の村々からは次々と抗議の文書がとどいていた。特に、停車場を予定されている高田村の文書は、その表現がことさらきつい印象を受ける。
 また、わずか1年前にはあれほど熱心だった高田村金久保沢の停車場誘致だが、やはり土地の買収問題で相当こじれている。ことに、高田村の地主たちは東京府あての「鉄道線路ニ係ル停車場御買上ノ義ニ付歎願」では、ついに「迷惑至極」とまで書いている。
  
 今回私共所有地之内鉄道停車場敷地ノ為メ、曽テ公用土地買上規則第四則前項ニ拠リ、該地券面ヲ以御買上相成候旨御達有之候、然ルニ目下農家非常困難之場合ニ際シ、前顕御規則ニ拠リ御買相成ては(ママ)実ニ各自迷惑至極之義ニ御座候、何卒前情御洞察之上、相当之代価ヲ以御買上被成下旨、此段奉歎願候也
  
 この文書は、1885年(明治18)4月16日に東京府知事へ提出されたものだが、おそらく高田村金久保沢の停車場敷地に関しては、鉄道線路の敷設および線路土手の構築とは異なり、停車場の建物(駅舎)とその関連施設を建設するために、農地ではなく宅地並みの評価額で「御買上」してくれなければ、地主たちにしてみれば「迷惑至極」だといいたかったように思える。3名の地主署名に加え、当時の高田村戸長・新倉徳三郎Click!の署名も添えられている。以降、明治期の「土地収用法」をカサにきた日本鉄道と、沿線住民との対立は訴訟沙汰も含め豊島線(現・山手線)の建設では、さらに深刻化していくことになる。
 しかも、カンのいい読者や鉄道マニアの方なら、すでにお気づきではないかと思うが、この停車場用地の買収をめぐる歎願書(というかほとんど抗議書に近い)が、目白停車場Click!が開業したと鉄道史へ「公式」に記録されている同年3月16日よりも、1ヶ月もあとの日付だという点に留意したい。開業したとされる3月16日は、プラットホームに汽車が停車するだけで、目白停車場の駅舎(初代・地上駅)建設工事の進捗はおろか、存在すらしていなかったのではないか。今日、「〇〇駅が開業」というと、すでに駅舎が完成して改札口がオープンしているイメージが強いが、1885年(明治18)3月16日の目白停車場「開業」は、ずいぶん様相が異なっていたとみられる。
 「開業」していたとすれば、駅員は踏切番小屋のようなところにいて、切符の検札や販売をおこなっていたのだろうか。ちなみに、用足しはどうしたのだろう。敷地の買収でもめにもめていて駅舎が存在しない目白停車場では、佐伯祐三方式Click!だったのだろうか。(爆!) 周囲には、金久保沢の奥に向かって田圃や茶畑などを埋めたてた、一面の空き地が拡がる原っぱと、湧水源の近くには雑木林、谷の東側(椿坂側)には江戸期に植林されたとみられる杉林だけだった。もっとも、当初は駅員が誰もいない無人停車場で、汽車の車掌が乗降客へ切符の販売から検札までを行っていた可能性もあるだろう。
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 保存された歎願書によれば、同年4月16日の時点で「鉄道停車場敷地」は、地主が「買上代価」にまったく納得・同意しておらず、いまだ土地売買契約書に署名・捺印していない様子が明確に見てとれる。土地の名義が日本鉄道側に変更されなければ、いくら東京府が間に立ち土地売買の仲介・斡旋をしていたとしても、「停車場敷地」の予定地へ駅舎などの施設建設を勝手に着工できなかったろう。
 また、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』には、金久保沢の湧水源から流れでる用水路が線路土手で遮断されて溜池(明治以降は血洗池)へ流入しなくなってしまうため、線路土手をくぐる暗渠水路(用水路ガード)の設置を申請する文書も保存されている。高田村の戸長だった新倉徳三郎Click!から東京府知事へあてた、1886年(明治19)3月1日の文書「鉄道御布設ノ為メ村道及田養水路変換御設置上申」だ。同資料より、再び引用してみよう。
  
 品川々口間鉄道御布設ニ付、当村千五拾六番地之村道及田養水路(ママ:用水路)ノ義、線路敷地内ニ相成、現今通行及ヒ水路ニ差支候旨、各地主より(ママ)申出ニ付、実地取調候処、目下差支候間、御検査之上、別紙図面之通リ、同番地先ヘ巾壱間五合村道并巾壱間ノ水路、更ニ御設置被成下候度、此段上申候もの(ママ)也(カッコ内引用者註)
  
 上申書には、道路や水路に関する図面が添付されていたようだが、『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』には収録されていない。だが、以前に目白駅の橋上駅化Click!でご教示いただいた平岡厚子様Click!より、高田村の上申書前後に作成したとみられる図面を数種類お送りいただいた。それを参照すると、金久保沢1056番地の「村道」とは、線路土手の構築で下敷きになってしまった道路で、その不便を解消するため新たに設置された学習院側に通う椿坂Click!のことだろうか。
 また、線路土手を横切る用水路は、以前にご紹介した「北豊島郡図」(1887年)に描かれたとおり、目白停車場の前をしばらく線路と並行に南下したあと、西側からガード状の用水路が線路を斜めにくぐって、東側へと抜ける仕様を想定していたのがわかる。
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 小島善太郎Click!と佐伯祐三が東西の線路土手に描いた、椿坂の下部にあったとみられる線路をくぐり、(字)東耕地や(字)丸山へと灌漑用水を供給する用水路のガードについては、豊島区が編纂した『鉄道関係資料Ⅰ―日本鉄道編―』では区外となるのでもちろん収録されていないが、東京都公文書をはじめどこかに同資料が保管されてやしないかとても気になっている。さらに、その佐伯祐三が描く下落合ガードだが、線路土手で下落合村から高田村へと抜ける雑司ヶ谷道Click!(現・新井薬師道)が遮断されてしまうため、当初は土手を上って下りる面倒な踏み切り仕様だったことも判明しているので、機会があればまた書いてみたい。

◆写真上:下落合ガードの脇にあった、山手線の線路に上る土手階段。ガードが設置される前の踏み切りには、こんな階段が設置されていただろうか。
◆写真中上は、大正初期の目白停車場(日本鉄道が設置した初代・地上駅とは明らかに設計図面が異なる2代目・地上駅と思われる)の記憶をもとに描かれたスケッチ。この地上駅は、1922年(大正11)の橋上駅化までつづく。は、目白通りから金久保沢へ下る先週火事があったバッケ階段。は、下落合側から下るバッケ(崖地)Click!坂。
◆写真中下は、1970年代後半に撮影された目白駅東側の目白貨物駅跡。は、休日の朝でほとんど人がいない目白貨物駅跡の東側に通う椿坂(高田側の呼称は旧・西坂)。は、同じく山手線沿いに目白駅までつづく下落合側の坂。
◆写真下:「品川川口間鉄道」(現・山手線)の敷設時に、高田村側からの要望で計画された金久保沢の湧水源から線路土手の下を横切る用水路図面3種。

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陸軍火薬20箱が山手線の踏み切りで大爆発。 [気になるエトセトラ]

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 これは、落合地域とその周辺域にも無縁ではない事故だったと思われるので、あえてご紹介したい。落合地域および周辺域で起きた、さまざまな鉄道事故をこれまでいくつかご紹介してきた。明治期から絶えない飛びこみ事故Click!(=人身事故Click!)をはじめ、線路内への侵入による列車事故Click!、スピードの出しすぎによる脱線事故Click!、線路土手の崩落事故Click!など、その種類は多岐にわたっている。
 だが、こんなケタ外れな山手線の事故は前代未聞で、かつて一度も聞いたことがない。1918年(大正7)8月5日(月)の午後、山手線・恵比寿停車場と目黒停車場との間の踏み切りで、陸軍東京砲兵工廠 目黒火薬製造所(通称:目黒火薬庫/のちに海軍技術研究所)から運びだしていた大量の火薬を積んだ荷車が、山手線の踏み切り内に侵入して目黒方面からやってきた外回り電車に突っこみ大爆発を起こした、にわかには信じられないような事故だ。大量火薬の爆発で山手線の車両は大破し、陸軍の下請けをしていた運送業者や電車の乗客合わせて36名が死傷する大惨事となった。
 目黒火薬庫は、現在の防衛装備庁艦艇装備研究所の敷地にあり、そこから山手線の線路をわたって恵比寿貨物駅へと運びこもうとしていたようだ。恵比寿停車場は、当初は近くのビール工場(ヱビスビール製造所Click!)出荷用の貨物駅として設置されており、旅客営業がスタートしたのは1906年(明治39)10月からだった。恵比寿駅と目黒駅の間は、丘陵地帯を掘削して山手線を敷設した地点が多く、目黒火薬庫側から線路際に出るには、傾斜が急な坂道を下らなければならなかった。
 1918年(大正7)8月6日の東京朝日新聞より、事故の様子を引用してみよう。
  
 火薬荷車 電車と衝突して爆発/目黒踏切の大惨事
 死傷者丗六名を出す/物凄じき現場の光景
 目黒火薬庫にては五日朝来 大阪砲兵工廠に向け民間に払下を為すべき鉱山用火薬を恵比寿駅に向け積出しを為すべく 芝区金杉一の十五佐生文治郎の叔父なる佐生喜之助<六四>が午後二時八分荷車に該火薬二十箱を積み込み 芝区金杉川口町二 津久井亀太郎<五三>後押しとして従ひ 恵比寿駅を距る約二町目黒街道踏切に近き坂路(ママ)に差掛りし時 恰も目黒方面より院線電車百八十五号(運転手石橋正一 車掌石田増吉)が警笛をならしつゝ進行し来りしが 此時踏切<番>なる府下目黒村字三田関根貞吉<五二>は 電車の近づけるに気付かざるものゝ如く多少閉鎖に手遅れたる由にて将に閉鎖せんとせる刹那 同所は坂道(ママ)の事とて荷車は余勢の為め直に停まらず 其儘ズルズルと線路上に出で進行し来れる電車運転台に接触し 約四五尺も引摺られしより其の震動を受けて 積載しありし二十箱の火薬は忽ち大爆音と共に数丈の大火柱となつて爆発……(カッコ内引用者註)
  
 もう、記事の前半をちょっと読んだだけでイヤな予感しかしない。民間に払い下げられる鉱山採掘用の火薬なので、より破壊力の大きな砲爆弾用の火薬=爆薬ではなく、荷車に積んで運んでいたのは黒色火薬だと思われるが、それでも大量の黒色火薬が一度に爆発すればとんでもない威力があっただろう。当時の火薬箱は木製で、1箱に積みこむ火薬量は最大20kgと規定されていたらしい。したがって、それを20箱も積んでいた荷車は、最大400kgの黒色火薬を運んでいたことになる。
 記事を読むと、大阪砲兵工廠から民間(鉱山会社)へ払い下げる予定の火薬を、地元の大阪で調達せず東京の目黒火薬庫に発注していたのがわかる。民間向けなので、特にマル秘の軍事物資輸送のような警戒体制はとられておらず、目黒火薬庫の下請け運送業者に恵比寿貨物駅までの運搬を依頼したのだろう。この運送業者も、ふだんから同火薬庫に出入りしている、信頼のおける業者だったにちがいない。
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 爆薬ではなく火薬なので、400キロの爆弾ほど破壊力はなかったと思われるが、それでも第二次世界大戦中に戦爆機が装備できた250キロ爆弾ほどの威力はあったかもしれない。火柱と爆風により、電車の窓ガラスはすべて砕け散り車両は黒焦げで大破した。
  
 電車は硝子戸全部破壊され外廓は黒焦となり 運転手石橋正一始め乗客三十五名の重軽傷を出し 荷車曳き喜之助は無惨にも火傷の上 首胸を轢断されて即死せり、爆発後附近の石垣は約六七間真黒となり 蝙蝠傘や少女のリボン下駄等半焦て飛散せる等頗る惨憺たるものあり 尚架空線の火焔の為焼け落ちたる等爆発の猛烈さを想はしめたり 猶同駅には負傷者の家族知己等続々詰めかけ駅員は一々其応接に忙殺され居たり 一方東京地方裁判所よりは小野山口両検事即時出張臨検した責任は誰か 踏切番は閉鎖したと主張す
  
 さて、この踏み切りとはどこのことだろうか? 1918年(大正7)当時の恵比寿貨物駅から「約二町目黒街道踏切」、すなわち200m強ほど目黒駅寄りの踏み切りということになる。ほぼ同時期の1916年(大正5)の地図を参照すると、同位置に踏み切りは1ヶ所しかない。現在の恵比寿南橋、通称「アメリカ橋」が架かっている位置だ。
 アメリカ橋は、日本の鉄鋼技術や架橋技術をアピールするため、1906年(明治39)に米国で開催されたセントルイス万国博覧会に出品されている。同博覧会が終了したあと、橋の資材一式は日本にもどり保存されていたが、大正末に鉄道省が買いあげ、1926年(大正15)に「目黒街道踏切」上へ架橋されている。ちなみに、「1906年(明治39)に架橋」とする史料が多々見られるが、それはセントルイス万博での展示架橋のことで、山手線における架橋ではない。おそらく、危険な踏み切りで従来から事故が多発していたのだろう、爆発事故から8年後に跨線橋は目黒街道踏み切り上に設置されている。
 事故の重軽傷者は、最寄りの鉄道病院や赤十字病院、東京病院、山田病院、高輪病院、瀬戸病院へ分散して運びこまれたが、いずれも爆発による火傷と爆風で飛び散ったガラスの破片による裂傷、爆発の衝撃による打撲などで、重傷者は全治2ヶ月ほど、軽傷者は自宅療養者も含め全治1~2週間ほどのケガと報道されている。
 新聞には各病院へ入院した31名と、自宅療養者4名の乗客名簿が掲載されているが、その住所から多くの人々が恵比寿駅か、次の渋谷駅で降りる住民だったことがわかる。また、その先の新宿駅で降りたり中央線に乗りかえたりしそうな乗客が6名、新大久保で下車しそうな乗客が2名、高田馬場で下車しそうな乗客が1名で、あとは訪問先か勤務先へと向かう乗客だったとみられる。
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 午後の早い時間帯の事故だったせいか乗客には女性も多く、負傷者35名のうち名前から判断するかぎり12名が女性だった。また、中には東京にやってきて、たまたま山手線を利用したため爆発事故に巻きこまれた人たちもおり、岩手県水沢町からきていた40歳の女性や、香川県綾歌郡岡田村からきた17歳の少女も重傷を負っている。
 この少女は、香川県女子師範学校の教諭にともなわれ、淀橋町柏木に住む学習院助教授の家で行儀見習いをするために同家へ向かう途中だった。その柏木の番地からすると、新宿駅で降りて中央線に乗りかえ、次の大久保駅で下車する予定だったと思われる。なお、教諭の名前は負傷者リストには含まれておらず無事だったとみられるので、赤十字病院に入院した師範学校の教え子に付き添っていたのだろう。
 また、乗客には「有名人」もいた。同紙の記事より、つづけて引用してみよう。
  
 奇禍に遭へる子爵夫人/東京病院に入院/顔と両腕に負傷
 負傷したる府下大崎字桐谷四〇 元松前福山藩主子爵松前勝廣氏夫人すが子(二四)は希望に依り直に東京病院に入院せるが 無惨にも顔面全部及び両腕に包帯を為し 副院長高木喜宣氏診察を為せるが中村鉄道院総裁、金杉英五郎氏夫人、井伊子爵家等の見舞客引きもきらず鈴木家扶は曰く、「今日は夫人は女中も連れず外出して五反田より乗車して此の奇禍に遭つたのです」松田少将夫人と令嬢 良人田中中尉を見送つての帰途……(後略)
  
 なお、荷運び業者の人夫で即死した佐生喜之助は、芝区新網町で老いた妻とふたり暮らしだった。事故の当日は、朝から火薬20箱を積む荷馬車を目黒火薬庫から恵比寿貨物駅まで、すでに3回も往復していた。目黒火薬庫でいっしょに働いていたとみられる甥が、4度目に荷車を手押しで運ぼうとするのを見て過労を心配し止めたが、「馬に曳かせては可愛さうだから」と後押しの津久井亀太郎とともに人力で運んでいったという。
 この事故は一見、落合地域とはなんら関係ないように思えるが、戸山ヶ原Click!近衛騎兵連隊Click!陸軍戸山学校Click!大久保射撃場Click!などの施設が設置されていたため、当然ながら銃砲弾など火薬類を含む軍事物資は鉄道を介して輸送されていた。
 そして、それらの物資は近くの貨物駅で下ろされ、下請け業者の荷車や馬車・牛車、または大きくて重要な物資であれば、軍用トラックなどで戸山ヶ原に運びこまれていただろう。そして、それらの貨物輸送を扱っていた鉄道駅とは、下落合の西隣り高田町にある山手線沿いの目白貨物駅Click!であり、南隣りにあった戸塚町の西武高田馬場駅Click!だった。同じ大正期には弾薬・火薬のみならず、陸軍の「兵器、器材鉄道貨車搭載演習」Click!として陸軍所沢飛行場から飛行機まで分解し、西武線の貨物列車(無蓋車)で運搬されている。
目黒街道踏切.jpg
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 これらの駅で、軍事物資の輸送にかかわる事故はいまだ発見できないが、この記事の山手線火薬爆発事故がそうだったように、意図的に記録を消し去るか、あるいは目立たなくするような措置がとられているような気がする。国立公文書館に保管されている陸軍関連の資料を追いかけてみても、この目黒火薬庫にからむ大事故の記録は発見できない。

◆写真上:1918年(大正7)8月5日、爆発現場である「目黒街道踏切」付近の様子。
◆写真中上は、1918年(大正7)8月6日に発行された爆発事故を伝える東京朝日新聞。は、東京砲兵工廠目黒火薬製造所の平面図。は、明治末に撮影された恵比寿停車場。右手には、倉出中とみられる積み荷の山が見られる。
◆写真中下は、東京砲兵工廠による1915年(大正4)の鉱山用黒色火薬箱。は、1916年(大正5)作成の「東京全図」にみる恵比寿駅(貨物駅)と目黒街道の踏み切り。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「目黒街道踏切」跡。1926年(大正15)に跨線橋の恵比寿南橋(アメリカ橋)が架けられたため、踏み切り跡の面影はない。
◆写真下は、1948年(昭和23)の斜めフカン写真でたどる目黒火薬庫から恵比寿貨物駅までの火薬箱運搬ルート。は、戦後に撮影されたアメリカ橋。は、爆発事故と同時期に行われていた目黒火薬製造所の改修工事。「河川改修」「水流変更」とは目黒川のことで、江戸期から河川沿いの水車小屋Click!では黒色火薬Click!を生産しており(爆発事故Click!も多発していた)、大正期まで木炭などの粉砕動力には水力が使われていたとみられる。

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平均湿度60%超の国における油絵の美とは? [気になる下落合]

中村彝アトリエフィニアル2013.JPG
 これまで、下落合に中村彝Click!のアトリエがあるせいか、彝の視点からあるいは彼の近くにいた人々の一方的な視点から、周囲の風景や人物について記述することが多かった。特に中村彝とは相いれなかった人々、彼の病状が悪化する前(新宿中村屋Click!アトリエClick!以前)、若いころの横柄で傲慢だったらしい性格Click!や、美術表現などでことさら対立した人々の側からの視点を、ほとんどご紹介してこなかったのに気づく。
 中村彝は、結核が進行して衰弱する以前は血気盛んで議論好き、ときには暴力で相手をねじ伏せようとまでしたのは、1915年(大正4)8月に思いどおりにならない相馬俊子Click!との恋愛で、日本刀Click!を振りまわしたことでもうかがえる。自分の思いどおりにならないと、すぐにキレやすいわがままな人物像をそこに見いだせるようだ。先に「議論好き」と書いたが、さまざまな記録や証言を参照すると、彼の場合は自身の意見に賛同ないしは一部でも同意しない相手とは、ほとんどハナからケンカ腰ではなかったろうか。
 その傲慢な性格が弱まったのは、病状と恋愛とに諦念が混じるようになった、下落合464番地Click!にアトリエを建て転居してきてからのように見える。悪化する病状や、小サイズのタブローでさえ弱まりつづける体力と相談しなければ描けなくなっていく制作活動を通じて、無鉄砲さが消え「メメント・モリ」的な心境に変化した、あるいは人と対峙する余力があるなら制作へ……といった、明らかに死を意識しはじめたことによる性格の変化なのだろう。彼の周囲にいた、下落合の親しい友人たちの気づかいや思いやりも多分にあったとみられ、彝の尖った感情や精神は日々やわらげられたのかもしれない。
 だが、そんな“丸くなった”はずの彝の性格でも、怒りとともに罵倒せずにはいられない相手がいた。新宿中村屋時代から対立をつづけていた、もちろん岸田劉生Click!だ。中村彝のような性格の人物は、痛いところ(弱点など)を突かれると、あるいは自身の思いどおりの論旨へ収着しないと、改めて自身の言動や表現を振り返り検証する余裕もなく、より強烈な激情とともに怒りを爆発させかねないタイプのように思える。
 新宿中村屋時代から彝のアトリエを訪問していた岸田劉生について、1977年(昭和52)の中央公論美術出版から刊行された鈴木良三Click!『中村彝の周辺』から引用してみよう。
  
 岸田(劉生)も正宗(得三郎)も彝さんにとってはライバルとしてよい相手だったのだろう。お互いに激論を交えていたそうである。/彝さんのアトリエに押しかけて来た岸田は深更に到るも論が果てず、帰りそこねてとうとう彝さんのところへ泊り込むことになってしまった。あとでこれを聞いた清宮彬が岸田に、「中村彝は肺病なんだぞ、おまへ肺病がこわくないのか」とおどかされ、岸田は真青に顔の色をかえてふるえていたそうである。従ってそれ以来あまり挑戦して来なくなったらしいが、彝さんは「要するに岸田の絵なんて悪写実だよ」と屡々私達にももらしていた。(カッコ内引用者註)
  
 鈴木良三は中村彝の身近な親友のひとりなので、岸田劉生を揶揄して、ことさら彝の肩をもっているような表現に留意する必要があるだろう。この一文につづき、劉生が高名になったのは早逝したからで、それが「天才扱いにする好材料」であり「希少価値」だからだと書いている。だが、鈴木良三は美術愛好家の眼差しを忘れている。
 この文章が書かれた1977年(昭和52)の時点で、やはり早逝した佐伯祐三Click!長谷川利行Click!は「天才扱いにする好材料」であり「希少価値」だったにもかかわらず、彼らの作品群が改めて陽の目をみて話題になるのは、ようやく没後30~40年もの時間が経過したあとのことだった。だが、大正期に大きく注目された中村彝とその作品群は、彼が早逝しているにもかかわらず、残念ながら一時期は世間から忘れ去られていったかのように見える。
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中村彝遺作展覧会目録(1925画廊九段).jpg
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 岸田劉生を「りゅうせい」と読める人は多いが、中村彝は「なんて読むの?」という人たちが、わたしの経験も含めていまでも圧倒的に多い。それを、画商が「早逝」したから「希少価値」として売りだしに注力したせいだ、あるいはマスコミが「天才扱い」したからだだけでは、あまりに美術愛好のインフラを形成するArt lover(ファン)たちの眼差しをないがしろにし、バカにしすぎた言葉だろう。美術ファンにとっては、どこまでいっても作品を好きか嫌いか(美しいと思うかそうでないか)、またはどちらでもないかの世界であって、その作品の時代的な存在意味(表現技巧や美術史での位置づけ)は二の次なのだ。
 初めて協和音やモードさえ廃して、より自由な無調の世界へと踏みだしたE..Dolphy(fl)やO.Coleman(as)は、フリーJAZZを創造した音楽家として大きな存在意味をもつが、彼の演奏が「好き!」というのとは別問題だ。(わたしは、どちらでもないけれど) 新ウィーン楽派のA. SchönbergやA. Webernは、現代音楽に直結するさまざまな作品を残したが、その作品の好き嫌いと、彼らの音楽史における学術的な存在や意味とは、またぜんぜん別世界のテーマなのだ。(わたしは、Schönbergはこよなく好きだけれど)
 だから、日本的(あるいは東洋的)な香りがプンプンする泥臭くてグロテスクで、どこか湿度が60%以上もありそうな環境下、西洋絵の具で描く劉生の構成や色合いの画面が「好き!」「美しい!」と感じる人が大勢いたとして、それは彼が「早逝」して「希少価値」だからでも、周囲が「天才扱い」したからでもないと考えている。ましてや、“大衆ウケ”しそうな表現効果をねらってもいない。むしろ当時の画壇からいえば、劉生の作品群は中村彝が身を置くアカデミズム(文展・帝展)から外れた異端的な存在だった。
 数多くの美術ファンが、劉生の画面に「好き!」Click!と感じる美を見いだし、彼の絵を求めたがゆえに画名が広く知れわたり、いまにつづく劉生ブームが形成されているのだろう。それは「悪写実だよ」では済まない、西洋の画道具を手段として借りうけ制作されたにもかかわらず、どこか日本人の琴線に響く「美」に対する好みや嗜好、感覚に直結するモチーフであり表現でもあるからだろう。
 中村彝は1919年(大正8)、下落合のアトリエで岸田劉生の作品を酷評している。
  
 態々見にいらつしやる価値ハ(ママ)ありません。場中で僅かに見るべき、岸田君の如きも自然の各相と特質とを再現するのに、全然その方法を誤ついいる。画面が硬く寒く貧しくなるその原因ガ(ママ)どこにあるか、それについての反省と努力とガ(ママ)全然かけて居るとしか思へません。木村荘(ママ:八)、その他ニ(ママ)至つては全く熱も生命もない形式的な神秘的耽美に過ぎません。林檎一個が持つて居るあの偉大なる「マッス」ヤ(ママ)異常なる輝きに関しては彼らの画面ハ(ママ)何の感激も脅威をも語つて居ない(カッコ内引用者註)
  
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岸田劉生「古屋君の肖像」(草持てる男の肖像)1916.jpg
 これは、柏崎にいるパトロンのひとり洲崎義郎Click!あての手紙(同年12月)の中で綴られている、第7回草土社展(赤坂溜池・三会堂)の感想だが、彝は同時期に美術誌あるいは新聞へも展評(もちろん酷評)を書いているとみられる。
 この年、鵠沼時代Click!の岸田劉生は草土社展ばかりでなく、白樺派10周年記念に連動した生前最大の個展(京橋加賀町・日本電報通信社)が開催され、同展はつづけて京都(京都府立図書館)でも開かれている。劉生にとっては、生涯でもっとも繁忙な時期にあたり、また鵠沼で立てつづけに「麗子像」を(ついでに「麗子漫画」シリーズClick!をw)制作していた時期にも相当する。『劉生日記』Click!を見ても、その忙しさや慌ただしさが感じられるが、そんな多忙のなか劉生は中村彝の酷評に目を通しているようだ。
 それに対する劉生の反応が彼の死後、1940年(昭和15)に河出書房から出版された岸田劉生『美乃本体』に、「雑感集」の1編として収録されているので引用してみよう。
  
 僕の画を一顧の価もないやうな態度で批評し去った人の画を見たが、あまりつまらないものなので、へーと思つた。その人の画のつまらない事は前から知つてはゐたが、その画は又あまりに下らないものだつた。/かういふ画を描いてゐてよく、あんな事が言へたものだと思つた。その人にとつては、ああいふものを描く事が芸術上正しい事なのかしら。(中略) 兎に角どちらにしろ、ああいふ画を描いてゐるといふ事は、芸術になくてはならぬものに対して不明であり、さういふ欲望を真に知らないものである事を證明してゐるのだから、ああいふ画を描く人から、僕が悪口を言はれても名誉になつて不名誉にならぬ事は事実だ。/馬の耳に念仏は通じないのだ。通じなくても念仏のせゐではないのだから。
  
 「美」はきわめて感覚的かつ直感的なものであり、言語として表現できない領域を多分に含んでいるのだから、いくら言葉を探して選び表現をしつくして議論しても、わからない奴には死ぬまでわからないのでムダと、突き放しているような文章だ。
 岸田劉生にしてみれば、中村彝の作品は日本における「美」や油絵の具という西洋画道具の表現課題にほっかむりした、レンブラントやルノワール、セザンヌなどの安直なコピーあるいは単なる西洋かぶれのエピゴーネン(模倣追随者)で、「バッカ」野郎Click!にしか見えなかっただろう。「芸術になくてはならぬものに対して不明」とは、日本における「西洋画」表現ならではのオリジナリティ(を創造する「さういふ欲望」)を指していると思われる。「日本で西洋製の油絵の具を拝借し、あえて美を表現・追求する意味とはなにか?」という、制作の大前提となる絵画表現の大きな命題が、なぜ無視され(あるいは意図的に知らんぷりされて忘れられ)、置き去りにされているんだよ?……と感じていたのかもしれない。
第7回草土社展ポスター1919(清宮彬).jpg
岸田劉生「魔邪鬼と踊る麗子」1920頃.jpg
 岸田劉生は、「僕の画にだつて欠点はあるだらう」と書き「欠点は欠点だ」と認めている。その上で、中村彝と同様にガンコで意固地な彼は、自作について「その欠点をかくしきつてゐる芸術的魅力がある」と自画自賛している。確かに劉生のいうとおり、彼の作品(漫画含むw)は晩年の日本画(京都時代)はともかく、いまでもその深い魅力を失ってはいない。

◆写真上:2013年(平成25)に復元直後の、中村彝アトリエの屋根に載るフィニアル。
◆写真中上は、上落合503番地に住んだ辻潤Click!の妻になる小島キヨClick!を描いた中村彝『椅子によれる女』(1919年)。は、1925年(大正14)に画廊九段で開かれた「中村彝遺作展覧会」目録。下左は、1917年(大正6)ごろ撮影された岸田劉生と麗子Click!下右は、下落合464番地のアトリエにおける中村彝(撮影:清水多嘉示Click!)。
◆写真中下上左は、1941年(昭和16)出版の岸田劉生『美乃本体』(河出書房)。上右は、1977年(昭和52)出版の『近代画家研究資料/岸田劉生Ⅲ』(東出版)。は、1920年(大正9)制作の麗子が鵠沼の畑を走る岸田劉生『早春ノ一日』。は、下落合2113番地に住んだ古屋芳雄Click!を描いた岸田劉生『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』。
◆写真下は、清宮彬が制作した1919年(大正8)の第7回草土社展ポスター。は、最近発見された劉生の連作漫画で蓄音機の音楽にあわせ『妖怪と踊る麗子』(1920年ごろ)。

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下落合を描いた画家たち・水船六洲。 [気になる下落合]

水船六洲「聖母病院(落合風景)」1932.jpg
 この春、宇都宮美術館へ「陽咸二-混ざりあうカタチ-」展Click!を観にいったついでに、同時開催されていた「二つの教会をめぐる石の物語」展にも立ち寄ってきた。「二つの教会」とは、宇都宮市内にある宇都宮天主公教会と宇都宮聖約翰(ヨハネ)教会礼拝堂のことだ。その中に、下落合風景を描いた作品(版画)があったのでご紹介したい。
 宇都宮市天主公教会二代聖堂(現・カトリック松が峰教会聖堂)は、スイスの建築家であるマックス・ヒンデル(Max Hinder)が1932年(昭和7)に設計した、ロマネスク様式(ロマネスク・リバイバル)の大聖堂を大谷石とコンクリートを用いて再現したスケールの大きな教会建築だ。下落合で設計し竣工した、国際聖母病院Click!の翌年にあたる作品だ。
これまで、Max Hinder設計の国際聖母病院本館を、地元の史料や呼称を優先し「フィンデル本館」としてきたが、人名にかかわるテーマなので地元史料を引用の際はそのまま「フィンデル本館(ママ)」とし、記事中では「ヒンデル本館」と表現する。
 「二つの教会をめぐる石の物語」展の会場には、さまざまな石造建築の写真や模型、絵画などが展示されていたが、その中に明治末からはじまる創作版画(新版画)Click!の運動へ参加した、水船六洲(みずふねろくしゅう)の『聖母病院』と題する作品があった。1932年(昭和7)に制作されたもので、ちょうどヒンデル設計の宇都宮市天主公教会二代聖堂が竣工したのと同年であり、国際聖母病院が完成してから1年後の作品ということになる。
 水船六洲は、1931年(昭和6)に東京美術学校彫刻科へ入学したが、同科に在籍しつつ版画の勉強もスタートしている。版画には中学時代から興味をもっていたらしく、特にムンクの木版画に惹かれていたと伝えられている。1936年(昭和11)に東京美術学校を卒業すると、関東学院中等部の美術教師をつとめるかたわら、美術団体に所属し彫刻と版画の双方を制作し展覧会へ出品する作家となった。
 東京美術学校では、任意活動の版画部に所属して幹事をつとめているが、校内に臨時版画教室が開設されると木版画を履修し、西落合1丁目157番地(現・西落合3丁目)に住んだ木版画の平塚運一Click!に師事している。また、臨時版画教室ではエッチングも学んでいるとみられ、そのいくつかは戦後の作品でも観ることができる。彼はよくインタビューなどで、「彫刻家なのか版画家なのかどちらが専門?」……と問われることが多かったらしく、その質問に対してはこんなふうに答えている。
 広島県呉市にある、呉市立美術館のWebサイトから引用してみよう。
  
 水船は「私はよく-版画が本職ですか、彫刻が本職ですか-という質問をうける。その度にぎくりとして-二本立ての映画館です。あとの一本はサービスです。-と逃げるが、これは私自身にも答えられない難しい問題だ。第一あとのサービスが彫刻なのか版画なのかはにわかには判じがたい。」と冗談めかして語っています。/彫刻は強い存在感を主調(と)する永続的・記念碑的・社会的な、峻厳な芸術形態であり、版画は移ろいゆく存在や生命の一瞬を表現することのできる身近で親しみやすい私的な媒体です。彫刻と版画は水船の中で一つのものとして繋がっていると同時に、その芸術衝動を適度に分散させ、二つの領域によって相互に充足されるものであったようです。(カッコ内引用者註)
  
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 水船六洲が落合地域に足しげくやってきたのは、師の平塚運一Click!が西落合に住んでいたからか、あるいは創作版画運動の一大拠点となっていた、西落合1丁目31番地(現・西落合1丁目9番地)の白と黒社Click!、すなわち版画雑誌の「白と黒」や「版芸術」などを発行していた料治熊太Click!がいたからだろうか。彼は目白通りを歩いていて、版画のモチーフとなった国際聖母病院を見つけたのだろう。山手線・目白駅から西落合の平塚運一アトリエまでは直線距離で2.3km、目白駅から同じく西落合の白と黒社までは2.1kmで、国際聖母病院はほぼその中間点の位置にあたる。ちなみに、当時は背の低い建物しかなかったので目白通りから聖母病院はよく見えたろうが、現在はまったく見えなくなっている。
 『聖母病院』の画面を観察すると、国際聖母病院のヒンデル本館(特に尖塔部分)がかなりデフォルメしてとらえられており、白いはずの雲に刷りインクが載って黒く表現されているため、太陽が西へかなり傾いた夕刻の風景だと思われる。光源は、左手やや奥の比較的低い位置にあり、画面はほぼ逆光の位置から西側を向いて描かれている。すなわち左手が南側であり、ヒンデル本館の東側に突きだしたウィングが描かれていることになる。また、手前に描かれた和風の住宅と、病院の間に距離があるように感じるのは、当時の補助45号線(現・聖母坂)Click!が通っているからだ。
 画面の手前には、いかにも庭木らしい枝ぶりの樹木が見られるので住宅の庭か、あるいは空き地のようになっており、地面には雑草の繁っているのがわかる。大正期からこの東西の敷地には、東京高等師範の数学教授だった佐藤良一郎邸Click!(手前)と、東海電極製造の監査役だった森孝三邸(奥)が建っていた。だが、聖母坂に面した日本家屋の森孝三邸らしい建物は描かれているものの、手前に佐藤邸があるようには見えない。住宅が解体された跡の、空き地のような風情だ。また、森邸は昭和10年前後に大規模な増築が行われ、画面に描かれている邸の倍近くの規模になっていると思われる。
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 ちょうど同じような時期に、水船六洲の描画位置から180度反対の方角を向いて描いた画家がいた。武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した資料に収録されている、『風景(仮)』と題された作品番号OP284およびOP285Click!を制作した清水多嘉示Click!だ。わたしは、周囲の風情や曾宮一念アトリエClick!の増築の様子から、OP284とOP285の制作時期を1931年(昭和6)をすぎたあたりと推定していたが、これら2点の画面の手前に描かれた佐藤良一郎邸の敷地も、やはり建物が存在しない空き地のような風情に表現されている。すなわち、佐藤邸は1931~1932年(昭和6~7)ごろに解体され、どこかへ転居しているのではないだろうか。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)にも、すでに佐藤良一郎の名前は収録されていない。
 また、水船六洲『聖母病院』や清水多嘉示『風景(仮)』×2作品の6年前、1926年(大正15)の夏にごく近くでイーゼルを立てていた画家がいた。暑いさなかに仕事をしていたのは、連作「下落合風景」Click!の1作『セメントの坪(ヘイ)』Click!を描いた佐伯祐三Click!だ。さらに、水船六洲の『聖母病院』からさかのぼること9年前、佐藤邸の門前から東を向いてキャンバスに向かっていた画家もいる。1923年(大正12)に自身のアトリエClick!浅川邸Click!の土塀を入れて、『夕日の路』Click!を制作した曾宮一念Click!だ。
 水船六洲は当時、これらの画家たちを知っていたかどうかは不明だが、少なくとも自身の立場と酷似している彫刻家で画家だった“二刀流”の清水多嘉示Click!と、『聖母病院』の描画位置から振り返れば、すぐ目の前にアトリエが見えていた曾宮一念Click!のことは知っていたのかもしれない。また、師の平塚運一や創作版画の仲間たちから、落合地域に集う数多くの画家たちの名前を聞きおよんでいた可能性もありそうだ。
 さて、木版画『聖母病院』の画面観察にもどろう。水船六洲は、諏訪谷へ急激に落ち込むバッケ(崖地)Click!、元(?)佐藤良一郎邸の敷地ギリギリのところに立ってスケッチをしているように見える。画面の左手から背後にかけ、当時は7~8mはあった崖の下に谷戸(諏訪谷)が口を開けている。崖には、いまだ擁壁が築かれておらず、むき出しの急斜面には草木が繁っていたはずだ。この崖地の部分にコンクリートの擁壁が設置されるのは、戦後も10年以上がすぎて焼け跡に建った簡易住宅が減り、諏訪谷の再開発が改めて進捗してからのことだ。すなわち、水船六洲は下落合731番地の旧(?)・佐藤邸庭の崖淵から、下落合669~673番地に建つ国際聖母病院のヒンデル本館を描いていることになる。
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 版画『聖母病院』の描かれたのが夕方で、周囲の草木が青々としていそうなことから日の長い夏季だとすれば、そろそろ聖母病院のチャペルの鐘が鳴り響きそうな時間帯だろう。水船六洲は、その鐘の音を聴きながら、スケッチブックに描きとめた風景なのかもしれない。

◆写真上:1932年(昭和7)に制作された、水船六洲の木版画『聖母病院』。
◆写真中上は、宇都宮のカトリック松が峰教会聖堂()と、設計者のマックス・ヒンデル()。は、1935年(昭和10)制作の水船六洲『婦人像』()と、作者の水船六洲()。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる諏訪谷界隈。
◆写真中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる水船六洲『聖母病院』の描画ポイント。中上は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同界隈。中下は、1945年(昭和20)4月2日に米軍の偵察機F13Click!によって撮影された空襲11日前の同界隈と各画家の描画位置。は、戦後の1955年(昭和30)に撮影された諏訪谷と聖母病院と描画位置。いまだ、バッケ(崖地)にはコンクリート擁壁が築かれていない。
◆写真下は、1923年(大正12)に制作された曾宮一念『夕陽の路』。は、周囲の情景から1931年(昭和6)すぎの制作とみられる清水多嘉示『風景(仮)』のOP284()とOP285()。は、1926年(大正15)の夏に制作された佐伯祐三『セメントの坪(ヘイ)』。
おまけ
 現在のGoogleEarthから見た、水船六洲『聖母病院』(1937年)の描画ポイント。もちろん、家々が建てこんでいるので、水船六洲がスケッチしていた位置には立てない。
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笠原吉太郎が祝い着に描いた裾模様。 [気になる下落合]

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 前回の記事で取りあげた佐伯祐三Click!『目白風景』Click!で、画家が北側を向いて描いているその背後に、屋敷林を透かして2階建ての笠原吉太郎アトリエClick!が見えていたかもしれないと書いた。その笠原吉太郎Click!の孫娘でおられる山中典子様Click!より、先日、笠原吉太郎が描いた裾模様の入る美寿夫人Click!の着物と、典子様用に描かれたひな祭りの色紙を発見されたとのことでお送りいただいた。
 笠原吉太郎Click!が着物のデザインを難なくこなすのは、彼がそれを国家公務員として“本職”にしていた時期があったからだ。1875年(明治8)に群馬県桐生町で生まれた彼は、幼いころから織物に囲まれて育っており、実家も織物のデザインや機織りを専業とする工房だった。16歳のとき、家業を継ぐためか東京にやってきて、日本画を学ぶために村田丹陵(土佐派)へ入門している。村田丹陵は当時、青年絵画協会を結成したばかりで、周囲には日本画家をめざす全国の青年たちが集っていただろう。
 だが、笠原吉太郎は因習にとらわれた日本画の世界に飽きたらず、1897年(明治30)にフランス留学を決意する。そして、1900年(明治33)には政府の海外実業練習生の資格を得て、リヨンにある国立高等美術学校に籍を置き、1902年(明治35)には専門課程の意匠図案科を首席で卒業している。翌1903年(明治36)に帰国すると、国費留学生だったため自由に仕事を選ぶことができず、農商務省の「技師」(図案家)として仕事をするが、おそらくフランスで日々目にしていた自由闊達な西洋画が忘れられなかったのだろう、1912年(明治45)になると同省をあっさり辞職している。
 9年間勤めた官吏を辞め、洋画家として独立した笠原吉太郎は、さっそく美寿夫人Click!を含め6人家族とともに生活が困窮することになる。苦しい生活の中で、彼は日々油絵の研究をつづけていたが、大正期になると宮内省からの発注が、一家の生計を助けることになった。1973年(昭和48)に発刊された「美術ジャーナル」復刻第6号に収録の、外山卯三郎Click!『画家・笠原吉太郎を偲ぶ』から少し引用してみよう。
  
 当時、高級な染色の図案のできる画家がいなかったので、退官したあとも、明治四十四年末に、当時の皇后、照憲皇太后の裾(ザ・トレイン)の図案模様の制作をしたこともあり、そのあと大正元年には、新天皇の御即位の際に、皇后陛下の御使用になる礼服、その他の服地に図案七十余種類の作製をも命じられたのです。何にしろ、ルイ王朝以来の伝統のある衣装の服地用の図案の制作などという伝統的な技術者は、もはや笠原氏をおいて他になく、彼の退官は非常におしまれたものだったのです。このような退官後の伝統的な意匠図案というのも、大正十二年(一九二三年)九月一日の関東大震災をモメントとして、ばったりと筆をたって、彼は油絵を描くことに没頭したのです。
  
 笠原吉太郎Click!が、下落合679番地にアトリエを建てて麹町から転居してくるのは1920年(大正9)、関東大震災Click!が起きる4年前のことだ。
 その当時から、下落合に住む画家たちとは頻繁に交流していたのだろう。その中には、翌1921年(大正10)に下落合623番地Click!へアトリエを建てた曾宮一念Click!や、同年の春以降にアトリエが竣工Click!しているとみられる佐伯祐三らがいたにちがいない。フランスに留学し、当時のパリ画壇の動向を熟知していたとみられる笠原吉太郎は、自邸で画塾(外山卯三郎Click!とのちに夫人となる野口一ニ三Click!はそこで出逢ったとみられる)を開いて生計の足しにしつつ、大正中期に日本の洋画壇で主流だった印象派的な表現には近づかず、より新しい表現を吸収した画家たちへ急接近していったとみられる。
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 さて、お送りいただいた美寿夫人Click!の着物の柄を観察してみよう。笠原吉太郎が描いた裾模様に使われているのは、染料でも顔料でもなく油絵の具だ。絹地の裾をキャンバスにし、日本画の土佐派ではなく琳派のような川流れが描かれている。その水紋の周囲に、紅葉したモミジが散らしてあれば伝統的な図柄の「龍田川」だが、裾にはフクジュソウ(福寿草)とみられる可憐な野草が描かれている。油絵の具で描かれているため、絹地から模様がかなり盛りあがっており、より立体的に見えるような仕上がりだ。
 キャンバスになっている着物は、袖や背に家紋が入った黒無地で、裏地が辰沙(赤)なのでもともとは祝い着だったのだろう。訪問着(礼服)にしては肩口に模様がなく、裾模様のみが短い丈で入れられているので、純粋に祝い着としてあつらえられたものなのだろう。辰沙の裏地の傷み具合からみると、また着物は代々受け継がれることを考えあわせると、この祝い着は明治期、あるいはもっと以前のものなのかもしれない。ちなみに、黒無地の紋付が葬儀などの喪服(葬礼着)として使われるようになったのは、昭和期のおもに都市部からのことで、地方によっては黒無地はいまでも祝い着として用いられている。
 笠原吉太郎の模様表現は、フクジュソウの花弁や葉、流れる水紋などに繊細で微妙なグラデーション効果を用いて立体的に描いており、当時でいえば西洋画風、いまでいえば現代風の絵付けがなされている。ただし、油絵の具でモチーフを盛り気味に描いているせいか、長期間にわたって保存されてきた着物の折り目ないしは皺の部分の絵の具が、多少それらに沿って剥脱しているのが惜しいところだ。
 着物とともにお送りいただいた色紙には、ひな人形が描かれている。笠原吉太郎が66歳のときに、生れて間もない孫娘の山中典子様のために描いたもので、裏面には「祝/孫女典子初節句/昭和十五年三月三日/笠原祖父」と書かれている。絵は水彩のようで、江戸期から明治初期までおもに都市部で大流行した、鮮やかな立ち雛をモチーフにしている。生れたばかりの孫娘が、目に入れても痛くないほどかわいかったのだろう。
 1940年(昭和15)という年は、すでに絵筆(笠原吉太郎Click!の場合はペインティングナイフを用いることが多かった)をあまり手にしなくなっていた時期で、1930年協会Click!独立美術協会Click!などへの出品のかたわら、すでに8回の個展を各地で開いていた時期にあたる。その個展第2回展のパンフレットには、1930年協会の前田寛治や里見勝蔵らが序文を寄せている。前田寛治の序を、外山卯三郎『画家・笠原吉太郎を偲ぶ』から孫引きしてみよう。
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 笠原氏の芸術は、氏の楽天的な、愛心のある、ユーモアに満ちた気質から生れたものです。/苦しんでは考え、熱望しては画くのが、われわれの中の大部分で、楽しんでは見、飄々としては画くのが残りの中の一部です。ですから前の者には、お互の尊敬と同情とをもちやすいのですが、後者の者にはそれを忘れ勝です。/ですが、楽天家の胸中の朗さ清らかさは、依然として変りないものと思われます。
  
 ある日、家族に相談もなく突然「洋画家になる!」といって役所を辞め、美寿夫人に「明日からの生活費、どうします?」といわれていそうだから、前田寛治の観察どおり、笠原吉太郎がかなり「楽天家」だったのはまちがいなさそうだ。
 2軒おいて南隣り(下落合679番地)に住んでいた、高良興生院Click!の院長・高良武久Click!が譲りうけた一連の『下落合風景』シリーズClick!(昭和初期)には、かなりユーモラスでプリミティーフな表現が見えていて面白い。佐伯祐三のような、まるで熱病に浮かされたように一心不乱に描くタイプではなく、絵が好きでたまらず楽しみながら制作する正反対のタイプだったのだろう。ただし、筆ではなくペインティングナイフを多用するようになってからは、タブローを一気呵成に描いていったようだ。
 佐伯家とは、家族ぐるみで交際した笠原家だが、1927年(昭和2)5月に佐伯祐三は笠原家を訪れ、笠原吉太郎をモデルに『男の顔(K氏の像)』を制作している。これは同年4月に、笠原吉太郎が『下落合風景を描く佐伯祐三』(朝日晃の画名ママ/キャンバス裏の笠原吉太郎タイトルは『下落合ニテ佐伯祐三君』Click!)を制作したのに対する返礼で、同作は笠原家にプレゼントされている。当時の様子について、外山卯三郎の同文より引用してみよう。
  
 佐伯祐三が日本に帰り、毎日、下落合のあちらこちらを、モチーフを求めて、さまよい歩いたのです。その頃、笠原氏も一九三〇年協会展に出品をしたことがあり、私の家内(外山ひふみ――当時野口一ニ三)も、彼のアトリエで花の写生をしたものです。そしてともに、一九三〇年協会展や最初の<独立美術協会展>にも出品したのです。当時、突然おとずれた佐伯祐三が、笠原吉太郎をモデルにして、黒いロイドメガネの肖像画(六号人物)を描いたことがあるのです。その絵は長い間、笠原氏のアトリエの壁にかけられていたのです。
  
 今年(2023年)の春に、東京駅のステーションギャラリーで開かれた「佐伯祐三―自画像としての風景」展にも、くだんの『男の顔(K氏の像)』は展示されていたのだが、わたしが気になるのは記事でこれまでにも何度か書いたように、行方不明になっている笠原吉太郎が描いた『下落合風景を描く佐伯祐三』だ。ご遺族の方々にも心あたりがないようで、めずらしく他の画家が描いた「佐伯祐三」の全身像Click!を17年間探しつづけている。
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 1954年(昭和29)2月17日に笠原吉太郎は80歳で死去するが、その葬儀には笠原邸の居間に長く架けられていた佐伯祐三の『男の顔(K氏の像)』が、遺影と並んで祭壇の左手Click!に飾られた。来年は、笠原吉太郎が下落合で死去してから没後70周年にあたる。

◆写真上:着物の裾に油絵の具で描かれた、水紋とフクジュソウとみられる表現。
◆写真中上は、明治期(以前?)の祝い着とみられる辰沙(赤)の裏地がついた黒紋付。は、水紋にフクジュソウが描かれた裾模様の拡大。
◆写真中下:同じく、グラデーションをきかせた裾模様の拡大。
◆写真下は、山中典子様あてに描かれた初節句(ひな祭り)色紙の表裏。は、晩年の笠原吉太郎()と、1927年(昭和2)5月に制作された佐伯祐三『男の顔(K氏の像)』()。は、1954年(昭和29)2月の笠原吉太郎の葬儀祭壇に架けられた『男の顔(K氏の像)』。
おまけ
 いまでも探索中の、1927年4月に描かれた笠原吉太郎『下落合ニテ佐伯祐三君』。
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笠原吉太郎「下落合風景を描く佐伯祐三」裏面.jpg

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佐伯祐三の『目白風景』は下落合風景だ。 [気になる下落合]

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 ようやく、山本發次郎Click!が蒐集していた佐伯祐三Click!作品を収録し、佐伯の死後1937年(昭和12)に座右宝刊行会から出版された『佐伯祐三画集』を観ることができた。もちろん、わたしがもっとも惹かれたのは、おそらく山本發次郎が名づけた『目白風景』Click!という地元の画面だ。そして、同作品の大きな画像を入手することができた。
 当初、「佐伯祐三-芸術家への道-」展図録(練馬区立美術館/2005年)に掲載されている小さな画像と『目白風景』というタイトルから、わたしは単純かつ安易に下落合の東隣り、高田町金久保沢の谷間にある目白駅(地上駅)Click!近くの谷間風景だろうと17年前に想定していたが、改めて詳しく観察することができる大きな画面で確認すると、これがとんだまちがいであることが判明した。同作を仔細に観察すると、目白駅のある金久保沢Click!に接した近衛町Click!バッケ(崖地)Click!を描いた画面などではなく、まちがいなく『下落合風景』シリーズClick!の1作であることがわかる。小さな画像では曖昧だったが、崖地の丘上に屋敷など存在していなかった。1926年(大正15)から翌年にかけ、金久保沢の谷戸Click!に太陽を背にして描けるような、このような風景は存在していない。
 『佐伯祐三画集』では、「目白時代」と名づけられた章目次(山本發次郎の命名らしい)に同作は分類されているが、佐伯は目白Click!という地名の場所に住んだことは一度もない。彼がアトリエを建設した下落合661番地から、当時は目白という小石川区(現・文京区の一部)の地名で呼ばれていたエリアまで、ゆうに2km以上は離れている。以前、開業が間近な中井駅前の風景を描いた『目白の風景』Click!でも書いたけれど、『目白風景』も同様に『下落合風景』の1作とするのが当時の史的事実と重ねあわせても妥当だろう。
 さて、『目白風景』の画面を仔細に観察してみよう。まず、太陽は画家の背後やや右寄りから射しているように見える。周囲の枯れた草木らしい表現から、季節は晩秋または冬、あるいは枯草を残したまま迎えた早春だろうか。手前右手の地面に描かれた明るい絵の具は、残雪のようにも見えている。また、画面の右手から奥にかけ、崖地がつづく谷戸のような地形がうかがえる。影の濃さから、かなり深い谷戸のようで、奥に連なる家々は谷戸の突きあたりの丘上に建っているように見えている。手前から左手の家屋までつづく土地も、谷戸の西側につづく尾根筋のようだ。
 画面の左側に見えている大きく描かれた2階家には、高めの物干し竿に洗濯物や蒲団類だろうか、晴天日にあわせてなにかが干されているような描写に見える。すぐに思い浮かぶのが、佐伯の「制作メモ」Click!にある『洗濯物のある風景』Click!だが、この画面は同作ではないとみられる。なぜなら、1926年(大正15)9月21日(火)の天候は、東京中央気象台の記録によれば曇天で、翌日から4日間も雨が降りつづくので厚い雲におおわれた、薄暗い曇天ではなかったかと思われるからだ。それに、カラー画面で確認しないと最終的な規定はできないが、描かれた風情はどう見ても9月とは思えない。
 右手の丘上には、ほとんど樹木が生えておらず背の高めな雑草が生い繁っているだけなので、木々を伐採してなんらかの整地作業が行われた可能性を感じさせる。将来の住宅地化を踏まえ、樹木を伐採したあとの原っぱが拡がっているのだろうか。南側を背にして、あるいは仮に早朝の朝日があたる風景を想定したとしても、このような風情の谷戸地形が見られる場所は、大正末の現在、下落合では3ヶ所しか存在していない。すなわち、下落合の東部にある林泉園Click!谷戸と、中部ののちに国際聖母病院Click!が建つ青柳ヶ原Click!の西側に口を開けた西ノ谷(不動谷)Click!の谷戸、そして第一文化村Click!に切れこんだ前谷戸Click!だ。
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曾宮一念「冬日」1925.jpg
 ただし、『目白風景』に描かれた谷戸周辺の家々を観察すると、東邦電力Click!の建てた社宅群=洋風のテラスハウスClick!中村彝アトリエClick!が建つ林泉園Click!周辺でもなければ、1926年(大正15)現在で谷戸周辺にオシャレな西洋館が見えず、谷戸の幅がかなり狭いので第一文化村の前谷戸でもないだろう。残るのは、左手(西側)の丘筋に〇あ井邸(1文字目不明/昭和初期に建て替えられ佐久間邸)の2階家が入り、右手に樹木の伐採が進んだ青柳ヶ原の丘の崖線がつづき、谷戸の突きあたりの下部には造成されて間もない第三文化村の敷地が拡がる、青柳ヶ原の西ノ谷(不動谷)Click!だろう。
 青柳ヶ原に繁っていた樹木の伐採は、おそらく住宅地の開発を前提としていたのだろう、1924年(大正13)ごろからすでにはじまっており、その様子は同年から1925年(大正14)にかけての冬季に制作されたとみられる樗牛賞Click!を受賞した曾宮一念Click!『冬日』Click!でも、その様子を知ることができる。1931年(昭和6)になると、青柳ヶ原には国際聖母病院Click!が建設されるが、それ以前は箱根土地Click!の第三文化村開発に刺激された地主が、丘上を宅地開発用に整地しはじめていたのかもしれない。
 そして、もうひとつ西ノ谷(不動谷)ならではの特徴が、『目白風景』の谷戸の奥に描かれている。谷戸の突きあたり、すなわち西ノ谷(不動谷)に第2の「洗い場」Click!を形成していた湧水源の丘上の地形が、左手(西側)から右手(東側)へゆるやかに傾斜していることだ。これは、下落合の他の谷戸には見られない大きな特徴で、左手の尾根筋へ上がれば、もちろん「八島さんの前通り」(大正期の補助45号線)Click!が南北に通っている。
 佐伯祐三が描く『八島さんの前通り』(1926年)では、帽子をかぶった人物(ときにイヌを連れた人物)が、右手の坂道へ下っていく様子が描かれている。その傾斜が、西ノ谷(不動谷)へと下りる谷戸突きあたりの坂道であり、『目白風景』に描かれた谷戸奥の傾斜だ。すなわち、佐伯祐三は箱根土地による第三文化村の開発地と、樹木を伐採して同様に造成中だったと思われる、青柳ヶ原の段丘西端を描いているとみられる。
 ちなみに、寺の息子の佐伯はこの谷戸に形成された洗い場に繁る低木で、パーティー用のクリスマスツリーを調達している。昭和期に入ると、野菜を洗う農家がなくなったのか洗い場は埋め立てられ、少し南の谷戸の出口近くに、湧水を利用した釣り堀Click!が開業している。また、右手の切り立った崖地も、昭和期に入ると緩斜面にならされ姿を消している。
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目白風景3.jpg
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 佐伯祐三は、「八島さんの前通り」から外れて東側の須藤邸敷地(庭先?)に入りこみ、西ノ谷(不動谷)西側の尾根筋へイーゼルをすえ、北側を向き太陽を背にして『目白風景』を描いている。番地でいえば、下落合678番地の須藤邸敷地内だ。この風景の背後(南側)、50mほどのところには笠原吉太郎アトリエClick!(下落合679番地)があり、そのモダンな2階家Click!の一部が屋敷林から突出して見えていたのかもしれない。
 谷戸の突きあたりに見える三角屋根の家は、佐伯が『テニス』Click!をプレゼントした落合第一小学校Click!の教員・青柳辰代Click!が住む青柳邸(下落合658番地)だろう。少し間をあけ、右手(東側)に見えかかっている大きめな屋敷は、廃業した養鶏場Click!跡に建っているハーフティンバーの建築様式を採用した西洋館の中島邸(のちに早崎邸/同658番地)であり、その間に見えている大きめな家屋は、地主の高田福太郎邸(同659番地)だと思われる。佐伯祐三アトリエClick!(同661番地)は、高田邸の左手(西側)、青柳邸の背後(北側)に隠れてモノクロ画像では描かれていないように見える。
 さて、画面左手に描かれている洗濯物を干した2階家は、〇あ井邸(1字不明/下落合667番地)で、佐伯がイーゼルを立てている手前に黒い影が映る家が須藤邸(同678番地/昭和初期に建て替えられて東條邸)だと思われるが、谷戸の突きあたりにはもうひとつ大きなテーマとなる情景が描かれている。それは、三角屋根をした青柳邸の左側(西側)に、なにやら大規模な屋敷と見られるモチーフが、薄いコントラストで描かれていることだ。まるで小学校の校舎のような2階家なのだが、1階部分がなにかに隠れているようでハッキリしない。あたかも、住宅建築にみられる養生のようだと考えて、ハタと気がついた。
 青柳邸の西隣りの広い敷地には、1926年(大正15)の暮れあたりから、“『”の字型をした赤い屋根の大きな納三治邸Click!の建設が着工していたはずだ。池袋駅近くの雑司ヶ谷953番地で曙工場Click!を経営していた納三治は、大家族だったのかこの一帯でもひときわ巨大な西洋館を建設している。納邸は、翌1927年(昭和2)の初夏には竣工または竣工間近の時期を迎えており、その様子は「八島さんの前通り」を北側から描いた、『下落合風景』Click!(1927年6月の1930年協会第2回展Click!出品作)にとらえられている。
 青柳邸の左側に描かれているフォルムが、建設途上の納三治邸であるとすれば、『目白風景』の制作時期は1926年(大正15)内ということはありえない。画面の描写では、すでに棟上げを終えたような様子だが、とても竣工しているようには見えないことから、少なくとも1927年(昭和2)の冬の終わりから早春ごろに描かれた可能性が高いということになる。
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 できれば、『目白風景』はカラー画像で観てみたいものだが、1945年(昭和20)5月15日の神戸空襲で、佐伯コレクション104点(一説には約150点)のうち、岡山へ疎開しそびれていた60%以上の作品が焼失しているので、『目白風景』もその中に含まれていたのだろう。

◆写真上:1927年(昭和2)の冬か、早春に制作されたとみられる佐伯祐三『目白風景』。
◆写真中上は、佐伯祐三『目白風景』に描かれた風景モチーフの部分拡大。は、1925年(大正14)制作の諏訪谷を描いた曾宮一念『冬日』。西ノ谷(不動谷:西側)とは青柳ヶ原の丘をはさみ反対側(東側)の諏訪谷から南西の方角を向き描いたもので、青柳ヶ原にはいまだ伐採されずに残っている樹林がとらえられている。
◆写真中下は、1926年(大正15)に制作された佐伯祐三『八島さんの前通り』の1作。右手の帽子をかぶった男の下りていくのが、西ノ谷(不動谷)へと通う坂道。同作が描かれた時期、八島知邸の南側にある納三治邸の建設予定地には、縁石が設けられておらず草地のままの状態なのがわかる。この納邸敷地の整地状態によって、「八島さんの前通り」シリーズの制作順Click!がわかることはすでに記事に書いた。は、谷戸突きあたりの部分拡大。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる描画ポイント。
◆写真下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイントとその周辺の家々。すでに多くの住宅が建て替えられており、青柳ヶ原には国際聖母病院が建設されている。また、この空中写真からも佐伯邸の西並びにある納三治邸の巨大さがわかるだろう。は、住宅が建ち並び描画ポイントには立てないので、谷底から撮影した西ノ谷(不動谷)の現状。佐伯は左手に見える大谷石の築垣の、さらに上にある斜面を上った位置あたりから谷戸の突きあたりを向いて描いているとみられる。は、「八島さんの前通り」から西ノ谷(不動谷)へと下る坂道。ちょうど、吉田博・ふじをアトリエClick!(大正末は大塚邸)の跡に建っていた邸(かつてお話を聞かせていただいた料亭「桃山」の社長邸)の解体工事中だった。
おまけ
 1935年(昭和10)前後に、青柳ヶ原(すでに国際聖母病院敷地)から撮影された西ノ谷(不動谷)。見えている西洋館は、谷戸西側の尾根筋に建つ佐久間邸(右)と東條邸(左)。佐伯は、東條邸(建て替え前の旧・須藤邸)敷地あたりにイーゼルをすえ、同様に新築の佐久間邸(建て替えられる前は〇あ井邸)を画面左に入れて『目白風景』を描いているとみられる。
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2階のベランダか高い物干しざおに架けられた、風で揺れる洗濯物?
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お化け屋敷はグローバルに未来へとつづく。 [気になるエトセトラ]

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 このところ夏日なので、恒例の「お化け」の話をそろそろ……。子どものころ、夏になると各地の遊園地では、「お化け屋敷」または「お化け大会」が開催されていた。現在のように、1年じゅう常設している遊園地はめずらしく、夏季限定で夏休みに子どもたち(家族づれ)を集めるための販促イベントだったのだろう。「お化け屋敷」がかかる建物は、期間限定のせいかちゃんとした建築ではなく、園内の空き地に仮設した“小屋がけ”やプレハブのような仕様が多かったように記憶している。
 子どものわたしは、遊園地で開かれた「お化け屋敷」はたいてい見ていると思うけれど、江戸東京の「お化け屋敷」の系譜は、見世物小屋Click!の隆盛と相まってかなり歴史が古い。いつだったか、大橋(両国橋)Click!の日本橋側と本所側の両詰め(=西両国+東両国Click!両国広小路Click!)で開かれていた見世物Click!について書いたけれど、浅草の浅草寺前の見世物を含め、その中にはもちろん「お化け」もあった。当時は、「お化け屋敷」ではなく「化物屋舗」と呼ばれた見世物だ。
 大江戸(おえど)Click!の見世物小屋を研究している学者はけっこういるが、中でも「お化け屋敷」をメインテーマにすえて研究している学者は少ない。「お化け屋敷」や「幽霊屋敷」を、“恐怖”という感情の側面から研究している心理学者や、それらの恐怖から脳内に分泌される物質を研究している脳生理学者はいても、「お化け屋敷」の存在そのものの研究をしている学者はあまりいない。おそらく、学部の担当教授に「実は、お化け屋敷の研究をしたいのです」などといえば、「キミ、大学を辞めてからにしてちょうだいよ。ガチでいうけど、学者生命がマジヤバだよ」などといわれてしまうのかもしれない。w
 ここは、井上哲学堂Click!も近い下落合なので、井上円了Click!センセが創立した学府には、そのような研究者や学者が現在でもいるのではないかと思って探してみたら、ちゃんと21世紀の「お化け屋敷」研究者がいらした。しっかり論文も発表されていて、東洋大学日本文学文化学会の関明子『「お化け屋敷」試論』がそれだ。同試論をベースに、ぜひ本論となるより深い研究書をお書きいただきたい。遊園地の「お化け屋敷」とは異なり、夏季ばかりでなく1年じゅう売れつづけるのはまちがいないだろう。
 「お化け屋敷」は、1830年(文政13)に当時は江戸郊外の寮町(別荘地)だった大森で、瓢仙という医師が自宅の庭を改造して「お化け屋敷」を建設したのが嚆矢……とされる解説が多い。庭先に小屋がけして、室内全体に「百鬼夜行」図を描き「化物人形」を配置した構成で、訪れる人々に観覧させていたようだ。だが、幕末に近い瓢仙のエピソードよりも、はるか以前に両国広小路や浅草の見世物では、それらしい小屋がけが多々見られるので、今後の深く詳細な研究が待たれるのが現状だ。
 同論文では、大森の医師・瓢仙のことは触れられておらず、江戸後期より隆盛をきわめた大橋(両国橋)や、浅草の見世物小屋からスタートしているのはさすがだ。同論文より、大橋(両国橋)の両詰めで行われていた見世物興行について少し引用してみよう。
  
 話は前後するが、右に挙げた籠細工以前にも注目された細工見世物があった。安永七年(一七七八)の「とんだ霊宝」である。これは干鱈やするめなど乾物で釈迦三尊像や不動明王像等を作っており、生臭もので仏像を作るという「とんだ」ことをしているわけだが、これが洒落として江戸っ子に大いにもてはやされた。小屋掛けした場所は両国<ママ:本所>であり、この時回向院では信州善光寺の阿弥陀如来像の出開帳が行われていた。本物の仏像が開帳されている傍らで、このような興行が行われていたのである。(中略) 両国回向院<ママ>周辺の一連の見世物の中でも、そのリアルな印象で群を抜いていたと伝えられるのが泉目吉の化物細工である。『武江年表』巻之八・天保九年(一八三八)三月の条に「〇十七日より回向院にて井の頭辨才天開帳、境内にて人形師目吉の細工にて色色の変死人を作り見せものとす」とある。化物というより変死体の人形であるが、棺桶の中からわずかに覗いている亡者、獄門首、木に吊るされた他殺体等、気の弱い観客はろくに見もせず走って出口まで逃げるほど迫力のある細工であったという。(< >内引用者註)
  
北斎「新板浮絵化物屋舗百物語の図」1790頃.jpg
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 地元では、回向院のある地域は本所であり、本所回向院Click!とはいうが「両国回向院」(地名変更後の1960年代以降の俗称?)とはいわないなど、文中で気になるところはあるが、ここで書かれている「両国」の「見世物」とは大橋をはさみ東詰めの本所側である東両国と、西詰めの日本橋側である西両国を貫通する、両国広小路の広場(火除け地)に設営された見世物小屋のことだ。ちなみに、「小屋」といっても小さな建築ではなく、巨大なパビリオンだったことは以前にも書いたとおりだ。
 また、生臭の見世物「とんだ霊宝」を「洒落」と書いているけれど、上野のケコロClick!に象徴的な腐敗した生臭坊主Click!たちへの、シャレにならない強烈な皮肉=当てつけ見世物だった可能性が高い。見世物に対する幕府の取り締まりが意外に緩かったせいで、常日ごろから庶民のうっぷん(フラストレーション)を晴らす、このようなシャレにならない坊主への揶揄・批判展示も可能だったのだろう。「とんだ霊宝」が取り締まりを受けたとは書かれていないので、当局も黙認していたとみられる。
 1838年(天保9)に開催された、泉目吉による「変死人」見世物も取りあげられているが、この優れた人形師がそれ以前に「化物人形」を作らなかったとは考えにくいだろう。そして、それを目玉の見世物にした小屋がけが、大江戸のどこかで行われていたのではないだろうか。それを観賞した大森の医師・瓢仙が魅せられ、自宅の庭を改造して「化物屋舗」をこしらえている……そんな気が強くするのだ。北斎Click!国芳Click!とつづく「化物屋舗」の浮世絵作品は、すでに1700年代から描かれている。
 大規模な「お化け屋敷」は、幕府が開国したあとの1860年(万延元)に浅草寺門前で、「化物細工見世物」が開催されている。この見世物には、当時のプロイセン王国の伯爵だったF.A.オイレンブルク(団長)と、彼の率いるオイレンブルク使節団も見学に訪れていて、詳細なレポートを残している。同論文より、オイレンブルクの記録を孫引きしてみよう。
  
 別の見世物小屋では、恐怖、戦慄の幽霊ばかりがある。しかもこの場合は、むごたらしい自然そのままの写実なので、誰でも思わず身震いする。入口の右側からかびた床板の上に足を踏み入れると、その下は沼のような所で、そこに腐敗した死体がはまり込んでいる。目の凹んだ骸骨(本物ではない)で、泥の枯草の上に半ば隠れて横たわっているので、幻想は目で見る以上のものを見るのである。目を転ずると、生きた鳥があたりを掻いたり、ついばんだりしている。歩めるのは狭い通路だけで、建物の内部に向かっては暗く、外へ向かっては板囲いがされている。それゆえ、横から伸びている木の枝をすかして空がのぞいて見える。このように不気味にそして自然そのままに飾られてあるので、見世物小屋であることを忘れるほどである。
  
 オイレンブルクもかなり怖かったようで、「お化け屋敷」について思いのほか詳細に書き残している。実際の生きた鳥(カラス?)を演出に用いたり、自然の樹木を取りこんだりしてあくまでもリアリズムを徹底追求した見世物だったのがわかる。明治以降、ことに大正期に各地で大ブームとなる「お化け屋敷」の原型は、すでに江戸期に完成されていた。
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 明治になると薩長政府は、太政官布告として「お化け屋敷」などの見世物はもちろん、「低俗」な浮世絵や看板の類、裸で組みあう相撲まで「不埒の儀」として禁止した。また、広小路や街道筋に「葭簀張り」で開店していた水茶屋(喫茶店)や茶屋(軽食店)、遊戯店(ゲーム場)なども、すべて禁止している。現代からは信じがたい暴挙だが、「日本」を消して「欧米化」を強引に進めようとしたゆえんだろう。
 面白いのは、薩長政府の禁止にもかかわらず、各地で開かれる博覧会や物産展では、客寄せの娯楽的な「納涼」の目玉として「お化け屋敷」は復活していく。それらは「八幡の藪知らず」などと呼ばれ、全国各地に普及していった。「八幡の藪知らず」とは、下総八幡村(現・千葉県市川市八幡)にある入ると出られなくなる迷える森(ラビリンス)のことで、「化物屋舗」の別称として幕末から明治にかけて普及していった。薩長政府の弾圧から、表立って「化物屋舗」とはうたえない見世物が、欧米の「迷宮」の概念を借りて「八幡の藪知らず」と名のりながら、営業をつづけていた可能性もありそうだ。
 ちなみに、市川市役所の斜向かいにある「八幡の藪知らず」は、多彩な伝説を内包し呪われた場所として立入禁止のようだが、かなり古くから禁足地として伝承されている。おそらく、古墳期から伝わる禁忌伝承Click!と結びついた屍家(しんや・しいや)Click!伝説へとつながる区域ではないかと想像していたが、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、明らかに鍵穴Click!の形状をしている。「藪知らず」伝承の根源は、後円部を北に向けた100m前後の前方後円墳だったのではないだろうか。そして、内部の窪んだ低地というのは、後円部を斜めに深く掘り下げた玄室の跡ではないか。
 「お化け屋敷」の集客力は抜群だったようで、1931年(昭和6)3月には本所国技館で民俗学者・藤沢衛彦のプロデュースによる、大規模な「日本伝説お化け大会」が開催されている。以後、「お化け屋敷」は単発の見世物というよりも、遊園地のアトラクションとして取りこまれ、最近では空いた店舗を活用した商店街の集客イベントとして、21世紀の今日まで受け継がれている。なお、同国技館を現代地名をあてはめて「両国国技館」と書いた資料も多いが、両国国技館はいまの両国駅北口にある現用施設の呼称だ。相撲の国技館は、戦前から本所→蔵前→両国と表現するのが地元の“お約束”になっている。
 同論文にも書かれているとおり、日本の「お化け屋敷」はウォークスルーが基本で、登場する幽霊や妖怪も“実物”(物体)であることが多い。別に、CG(3D)やVRの導入が遅れたわけではなく、「恐怖」や「戦慄」の基準が欧米などとは大きく異なるからだろう。わたしも吸血鬼やゾンビ、狼男、悪魔、魔女などには怖さをまったく感じず、つい笑ってしまうが、窓や障子に映る長い髪をふり乱して水平に横すべりする、なんらかの物語(怪談)がからんだシルエットには思わずドキッとしたりする。リアリズム(実在感)のちがい、生活環境のちがい、そして文化のちがいに直結するのが、「恐ろしさ」「怖さ」の概念なのだろう。「お化け屋敷」は、それらの概念を視覚化しながら300年にわたって継承されてきた。
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 そういえば、近ごろ遊園地の「お化け屋敷」が楽しみで来日する外国人も多いと聞く。「昔から浅草の花屋敷がいちばんよ」とか、「よみうりランドでしょ」「後楽園がいちばん怖いわ」とか、「豊島園のお化け屋敷がなくなって残念」などというのを聞くと、日本の「お化け」もグローバルになってきたと思うこのごろだ。ミシュランの料理店のように、怖さを☆印で競う「日本全国お化け屋敷」ガイドが出るのも時間の問題なのかもしれない。

◆写真上:お化け屋敷への集客率は、21世紀の今日でも落ちていない。
◆写真中上は、1790年ごろに葛飾北斎が描いた『新板浮絵化物屋舗百物語の図』。は、1800年代前半に歌川国芳が描いた『百物語化物屋舗の図』。は、井上哲学堂の哲理門にいる完成直後の「幽霊姉さん」Click!
◆写真中下:日本各地の「お化け屋敷」いろいろ。
◆写真下上左は、幕末にプロイセンから来日した使節団の伯爵・F.A.オイレンブルク。上右は、本所国技館で「日本伝説お化け大会」をプロデュースした民俗学者・藤沢衛彦。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる千葉街道沿いの「八幡の藪知らず」。は、AIエンジンに「お化け屋敷・日本・女の幽霊」のキーワードを入力して生成したイメージ。どこか浮世絵風だが、樹木の上を飛びまわる生首に驚いて悲鳴をあげている女子たちのようだ。
おまけ1
 AIエンジンを備えたが描画ツールに「お化け屋敷・幽霊」と入力すると、ありがちな西洋の「幽霊屋敷」のイメージ(上)が生成される。キーワードに「日本」を追加すると背景の建物が日本風になり、なぜか頭の上に毛が3本ありそうなオバケ(下)が出現した。テキストの分野はともかく、AIの描画力はアルゴリズムがまだまだ練れてなくて未熟だ。
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おまけ2
 下落合の北隣りわずか500mほどのところ、旧・豊島区池袋3丁目(現・西池袋5丁目)に住んだ江戸川乱歩の作品に『目羅博士』(1931年)がある。この中に、本所国技館で開かれた「日本伝説お化け大会」が登場している。「今もその国技館の『お化け大会』というやつを見て帰ったところだ。久しぶりで『八幡の藪知らず』をくぐって、子供の時分のなつかしい思い出にふけることができた」。下の写真は、震災復興絵はがきにみる本所国技館(右上ドーム)。大橋(両国橋)をはさみ、手前が西両国(日本橋側)で向こう岸が東両国(本所側)。
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