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笠原吉太郎が祝い着に描いた裾模様。 [気になる下落合]

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 前回の記事で取りあげた佐伯祐三Click!『目白風景』Click!で、画家が北側を向いて描いているその背後に、屋敷林を透かして2階建ての笠原吉太郎アトリエClick!が見えていたかもしれないと書いた。その笠原吉太郎Click!の孫娘でおられる山中典子様Click!より、先日、笠原吉太郎が描いた裾模様の入る美寿夫人Click!の着物と、典子様用に描かれたひな祭りの色紙を発見されたとのことでお送りいただいた。
 笠原吉太郎Click!が着物のデザインを難なくこなすのは、彼がそれを国家公務員として“本職”にしていた時期があったからだ。1875年(明治8)に群馬県桐生町で生まれた彼は、幼いころから織物に囲まれて育っており、実家も織物のデザインや機織りを専業とする工房だった。16歳のとき、家業を継ぐためか東京にやってきて、日本画を学ぶために村田丹陵(土佐派)へ入門している。村田丹陵は当時、青年絵画協会を結成したばかりで、周囲には日本画家をめざす全国の青年たちが集っていただろう。
 だが、笠原吉太郎は因習にとらわれた日本画の世界に飽きたらず、1897年(明治30)にフランス留学を決意する。そして、1900年(明治33)には政府の海外実業練習生の資格を得て、リヨンにある国立高等美術学校に籍を置き、1902年(明治35)には専門課程の意匠図案科を首席で卒業している。翌1903年(明治36)に帰国すると、国費留学生だったため自由に仕事を選ぶことができず、農商務省の「技師」(図案家)として仕事をするが、おそらくフランスで日々目にしていた自由闊達な西洋画が忘れられなかったのだろう、1912年(明治45)になると同省をあっさり辞職している。
 9年間勤めた官吏を辞め、洋画家として独立した笠原吉太郎は、さっそく美寿夫人Click!を含め6人家族とともに生活が困窮することになる。苦しい生活の中で、彼は日々油絵の研究をつづけていたが、大正期になると宮内省からの発注が、一家の生計を助けることになった。1973年(昭和48)に発刊された「美術ジャーナル」復刻第6号に収録の、外山卯三郎Click!『画家・笠原吉太郎を偲ぶ』から少し引用してみよう。
  
 当時、高級な染色の図案のできる画家がいなかったので、退官したあとも、明治四十四年末に、当時の皇后、照憲皇太后の裾(ザ・トレイン)の図案模様の制作をしたこともあり、そのあと大正元年には、新天皇の御即位の際に、皇后陛下の御使用になる礼服、その他の服地に図案七十余種類の作製をも命じられたのです。何にしろ、ルイ王朝以来の伝統のある衣装の服地用の図案の制作などという伝統的な技術者は、もはや笠原氏をおいて他になく、彼の退官は非常におしまれたものだったのです。このような退官後の伝統的な意匠図案というのも、大正十二年(一九二三年)九月一日の関東大震災をモメントとして、ばったりと筆をたって、彼は油絵を描くことに没頭したのです。
  
 笠原吉太郎Click!が、下落合679番地にアトリエを建てて麹町から転居してくるのは1920年(大正9)、関東大震災Click!が起きる4年前のことだ。
 その当時から、下落合に住む画家たちとは頻繁に交流していたのだろう。その中には、翌1921年(大正10)に下落合623番地Click!へアトリエを建てた曾宮一念Click!や、同年の春以降にアトリエが竣工Click!しているとみられる佐伯祐三らがいたにちがいない。フランスに留学し、当時のパリ画壇の動向を熟知していたとみられる笠原吉太郎は、自邸で画塾(外山卯三郎Click!とのちに夫人となる野口一ニ三Click!はそこで出逢ったとみられる)を開いて生計の足しにしつつ、大正中期に日本の洋画壇で主流だった印象派的な表現には近づかず、より新しい表現を吸収した画家たちへ急接近していったとみられる。
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 さて、お送りいただいた美寿夫人Click!の着物の柄を観察してみよう。笠原吉太郎が描いた裾模様に使われているのは、染料でも顔料でもなく油絵の具だ。絹地の裾をキャンバスにし、日本画の土佐派ではなく琳派のような川流れが描かれている。その水紋の周囲に、紅葉したモミジが散らしてあれば伝統的な図柄の「龍田川」だが、裾にはフクジュソウ(福寿草)とみられる可憐な野草が描かれている。油絵の具で描かれているため、絹地から模様がかなり盛りあがっており、より立体的に見えるような仕上がりだ。
 キャンバスになっている着物は、袖や背に家紋が入った黒無地で、裏地が辰沙(赤)なのでもともとは祝い着だったのだろう。訪問着(礼服)にしては肩口に模様がなく、裾模様のみが短い丈で入れられているので、純粋に祝い着としてあつらえられたものなのだろう。辰沙の裏地の傷み具合からみると、また着物は代々受け継がれることを考えあわせると、この祝い着は明治期、あるいはもっと以前のものなのかもしれない。ちなみに、黒無地の紋付が葬儀などの喪服(葬礼着)として使われるようになったのは、昭和期のおもに都市部からのことで、地方によっては黒無地はいまでも祝い着として用いられている。
 笠原吉太郎の模様表現は、フクジュソウの花弁や葉、流れる水紋などに繊細で微妙なグラデーション効果を用いて立体的に描いており、当時でいえば西洋画風、いまでいえば現代風の絵付けがなされている。ただし、油絵の具でモチーフを盛り気味に描いているせいか、長期間にわたって保存されてきた着物の折り目ないしは皺の部分の絵の具が、多少それらに沿って剥脱しているのが惜しいところだ。
 着物とともにお送りいただいた色紙には、ひな人形が描かれている。笠原吉太郎が66歳のときに、生れて間もない孫娘の山中典子様のために描いたもので、裏面には「祝/孫女典子初節句/昭和十五年三月三日/笠原祖父」と書かれている。絵は水彩のようで、江戸期から明治初期までおもに都市部で大流行した、鮮やかな立ち雛をモチーフにしている。生れたばかりの孫娘が、目に入れても痛くないほどかわいかったのだろう。
 1940年(昭和15)という年は、すでに絵筆(笠原吉太郎Click!の場合はペインティングナイフを用いることが多かった)をあまり手にしなくなっていた時期で、1930年協会Click!独立美術協会Click!などへの出品のかたわら、すでに8回の個展を各地で開いていた時期にあたる。その個展第2回展のパンフレットには、1930年協会の前田寛治や里見勝蔵らが序文を寄せている。前田寛治の序を、外山卯三郎『画家・笠原吉太郎を偲ぶ』から孫引きしてみよう。
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 笠原氏の芸術は、氏の楽天的な、愛心のある、ユーモアに満ちた気質から生れたものです。/苦しんでは考え、熱望しては画くのが、われわれの中の大部分で、楽しんでは見、飄々としては画くのが残りの中の一部です。ですから前の者には、お互の尊敬と同情とをもちやすいのですが、後者の者にはそれを忘れ勝です。/ですが、楽天家の胸中の朗さ清らかさは、依然として変りないものと思われます。
  
 ある日、家族に相談もなく突然「洋画家になる!」といって役所を辞め、美寿夫人に「明日からの生活費、どうします?」といわれていそうだから、前田寛治の観察どおり、笠原吉太郎がかなり「楽天家」だったのはまちがいなさそうだ。
 2軒おいて南隣り(下落合679番地)に住んでいた、高良興生院Click!の院長・高良武久Click!が譲りうけた一連の『下落合風景』シリーズClick!(昭和初期)には、かなりユーモラスでプリミティーフな表現が見えていて面白い。佐伯祐三のような、まるで熱病に浮かされたように一心不乱に描くタイプではなく、絵が好きでたまらず楽しみながら制作する正反対のタイプだったのだろう。ただし、筆ではなくペインティングナイフを多用するようになってからは、タブローを一気呵成に描いていったようだ。
 佐伯家とは、家族ぐるみで交際した笠原家だが、1927年(昭和2)5月に佐伯祐三は笠原家を訪れ、笠原吉太郎をモデルに『男の顔(K氏の像)』を制作している。これは同年4月に、笠原吉太郎が『下落合風景を描く佐伯祐三』(朝日晃の画名ママ/キャンバス裏の笠原吉太郎タイトルは『下落合ニテ佐伯祐三君』Click!)を制作したのに対する返礼で、同作は笠原家にプレゼントされている。当時の様子について、外山卯三郎の同文より引用してみよう。
  
 佐伯祐三が日本に帰り、毎日、下落合のあちらこちらを、モチーフを求めて、さまよい歩いたのです。その頃、笠原氏も一九三〇年協会展に出品をしたことがあり、私の家内(外山ひふみ――当時野口一ニ三)も、彼のアトリエで花の写生をしたものです。そしてともに、一九三〇年協会展や最初の<独立美術協会展>にも出品したのです。当時、突然おとずれた佐伯祐三が、笠原吉太郎をモデルにして、黒いロイドメガネの肖像画(六号人物)を描いたことがあるのです。その絵は長い間、笠原氏のアトリエの壁にかけられていたのです。
  
 今年(2023年)の春に、東京駅のステーションギャラリーで開かれた「佐伯祐三―自画像としての風景」展にも、くだんの『男の顔(K氏の像)』は展示されていたのだが、わたしが気になるのは記事でこれまでにも何度か書いたように、行方不明になっている笠原吉太郎が描いた『下落合風景を描く佐伯祐三』だ。ご遺族の方々にも心あたりがないようで、めずらしく他の画家が描いた「佐伯祐三」の全身像Click!を17年間探しつづけている。
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 1954年(昭和29)2月17日に笠原吉太郎は80歳で死去するが、その葬儀には笠原邸の居間に長く架けられていた佐伯祐三の『男の顔(K氏の像)』が、遺影と並んで祭壇の左手Click!に飾られた。来年は、笠原吉太郎が下落合で死去してから没後70周年にあたる。

◆写真上:着物の裾に油絵の具で描かれた、水紋とフクジュソウとみられる表現。
◆写真中上は、明治期(以前?)の祝い着とみられる辰沙(赤)の裏地がついた黒紋付。は、水紋にフクジュソウが描かれた裾模様の拡大。
◆写真中下:同じく、グラデーションをきかせた裾模様の拡大。
◆写真下は、山中典子様あてに描かれた初節句(ひな祭り)色紙の表裏。は、晩年の笠原吉太郎()と、1927年(昭和2)5月に制作された佐伯祐三『男の顔(K氏の像)』()。は、1954年(昭和29)2月の笠原吉太郎の葬儀祭壇に架けられた『男の顔(K氏の像)』。
おまけ
 いまでも探索中の、1927年4月に描かれた笠原吉太郎『下落合ニテ佐伯祐三君』。
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