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お化け屋敷はグローバルに未来へとつづく。 [気になるエトセトラ]

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 このところ夏日なので、恒例の「お化け」の話をそろそろ……。子どものころ、夏になると各地の遊園地では、「お化け屋敷」または「お化け大会」が開催されていた。現在のように、1年じゅう常設している遊園地はめずらしく、夏季限定で夏休みに子どもたち(家族づれ)を集めるための販促イベントだったのだろう。「お化け屋敷」がかかる建物は、期間限定のせいかちゃんとした建築ではなく、園内の空き地に仮設した“小屋がけ”やプレハブのような仕様が多かったように記憶している。
 子どものわたしは、遊園地で開かれた「お化け屋敷」はたいてい見ていると思うけれど、江戸東京の「お化け屋敷」の系譜は、見世物小屋Click!の隆盛と相まってかなり歴史が古い。いつだったか、大橋(両国橋)Click!の日本橋側と本所側の両詰め(=西両国+東両国Click!両国広小路Click!)で開かれていた見世物Click!について書いたけれど、浅草の浅草寺前の見世物を含め、その中にはもちろん「お化け」もあった。当時は、「お化け屋敷」ではなく「化物屋舗」と呼ばれた見世物だ。
 大江戸(おえど)Click!の見世物小屋を研究している学者はけっこういるが、中でも「お化け屋敷」をメインテーマにすえて研究している学者は少ない。「お化け屋敷」や「幽霊屋敷」を、“恐怖”という感情の側面から研究している心理学者や、それらの恐怖から脳内に分泌される物質を研究している脳生理学者はいても、「お化け屋敷」の存在そのものの研究をしている学者はあまりいない。おそらく、学部の担当教授に「実は、お化け屋敷の研究をしたいのです」などといえば、「キミ、大学を辞めてからにしてちょうだいよ。ガチでいうけど、学者生命がマジヤバだよ」などといわれてしまうのかもしれない。w
 ここは、井上哲学堂Click!も近い下落合なので、井上円了Click!センセが創立した学府には、そのような研究者や学者が現在でもいるのではないかと思って探してみたら、ちゃんと21世紀の「お化け屋敷」研究者がいらした。しっかり論文も発表されていて、東洋大学日本文学文化学会の関明子『「お化け屋敷」試論』がそれだ。同試論をベースに、ぜひ本論となるより深い研究書をお書きいただきたい。遊園地の「お化け屋敷」とは異なり、夏季ばかりでなく1年じゅう売れつづけるのはまちがいないだろう。
 「お化け屋敷」は、1830年(文政13)に当時は江戸郊外の寮町(別荘地)だった大森で、瓢仙という医師が自宅の庭を改造して「お化け屋敷」を建設したのが嚆矢……とされる解説が多い。庭先に小屋がけして、室内全体に「百鬼夜行」図を描き「化物人形」を配置した構成で、訪れる人々に観覧させていたようだ。だが、幕末に近い瓢仙のエピソードよりも、はるか以前に両国広小路や浅草の見世物では、それらしい小屋がけが多々見られるので、今後の深く詳細な研究が待たれるのが現状だ。
 同論文では、大森の医師・瓢仙のことは触れられておらず、江戸後期より隆盛をきわめた大橋(両国橋)や、浅草の見世物小屋からスタートしているのはさすがだ。同論文より、大橋(両国橋)の両詰めで行われていた見世物興行について少し引用してみよう。
  
 話は前後するが、右に挙げた籠細工以前にも注目された細工見世物があった。安永七年(一七七八)の「とんだ霊宝」である。これは干鱈やするめなど乾物で釈迦三尊像や不動明王像等を作っており、生臭もので仏像を作るという「とんだ」ことをしているわけだが、これが洒落として江戸っ子に大いにもてはやされた。小屋掛けした場所は両国<ママ:本所>であり、この時回向院では信州善光寺の阿弥陀如来像の出開帳が行われていた。本物の仏像が開帳されている傍らで、このような興行が行われていたのである。(中略) 両国回向院<ママ>周辺の一連の見世物の中でも、そのリアルな印象で群を抜いていたと伝えられるのが泉目吉の化物細工である。『武江年表』巻之八・天保九年(一八三八)三月の条に「〇十七日より回向院にて井の頭辨才天開帳、境内にて人形師目吉の細工にて色色の変死人を作り見せものとす」とある。化物というより変死体の人形であるが、棺桶の中からわずかに覗いている亡者、獄門首、木に吊るされた他殺体等、気の弱い観客はろくに見もせず走って出口まで逃げるほど迫力のある細工であったという。(< >内引用者註)
  
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 地元では、回向院のある地域は本所であり、本所回向院Click!とはいうが「両国回向院」(地名変更後の1960年代以降の俗称?)とはいわないなど、文中で気になるところはあるが、ここで書かれている「両国」の「見世物」とは大橋をはさみ東詰めの本所側である東両国と、西詰めの日本橋側である西両国を貫通する、両国広小路の広場(火除け地)に設営された見世物小屋のことだ。ちなみに、「小屋」といっても小さな建築ではなく、巨大なパビリオンだったことは以前にも書いたとおりだ。
 また、生臭の見世物「とんだ霊宝」を「洒落」と書いているけれど、上野のケコロClick!に象徴的な腐敗した生臭坊主Click!たちへの、シャレにならない強烈な皮肉=当てつけ見世物だった可能性が高い。見世物に対する幕府の取り締まりが意外に緩かったせいで、常日ごろから庶民のうっぷん(フラストレーション)を晴らす、このようなシャレにならない坊主への揶揄・批判展示も可能だったのだろう。「とんだ霊宝」が取り締まりを受けたとは書かれていないので、当局も黙認していたとみられる。
 1838年(天保9)に開催された、泉目吉による「変死人」見世物も取りあげられているが、この優れた人形師がそれ以前に「化物人形」を作らなかったとは考えにくいだろう。そして、それを目玉の見世物にした小屋がけが、大江戸のどこかで行われていたのではないだろうか。それを観賞した大森の医師・瓢仙が魅せられ、自宅の庭を改造して「化物屋舗」をこしらえている……そんな気が強くするのだ。北斎Click!国芳Click!とつづく「化物屋舗」の浮世絵作品は、すでに1700年代から描かれている。
 大規模な「お化け屋敷」は、幕府が開国したあとの1860年(万延元)に浅草寺門前で、「化物細工見世物」が開催されている。この見世物には、当時のプロイセン王国の伯爵だったF.A.オイレンブルク(団長)と、彼の率いるオイレンブルク使節団も見学に訪れていて、詳細なレポートを残している。同論文より、オイレンブルクの記録を孫引きしてみよう。
  
 別の見世物小屋では、恐怖、戦慄の幽霊ばかりがある。しかもこの場合は、むごたらしい自然そのままの写実なので、誰でも思わず身震いする。入口の右側からかびた床板の上に足を踏み入れると、その下は沼のような所で、そこに腐敗した死体がはまり込んでいる。目の凹んだ骸骨(本物ではない)で、泥の枯草の上に半ば隠れて横たわっているので、幻想は目で見る以上のものを見るのである。目を転ずると、生きた鳥があたりを掻いたり、ついばんだりしている。歩めるのは狭い通路だけで、建物の内部に向かっては暗く、外へ向かっては板囲いがされている。それゆえ、横から伸びている木の枝をすかして空がのぞいて見える。このように不気味にそして自然そのままに飾られてあるので、見世物小屋であることを忘れるほどである。
  
 オイレンブルクもかなり怖かったようで、「お化け屋敷」について思いのほか詳細に書き残している。実際の生きた鳥(カラス?)を演出に用いたり、自然の樹木を取りこんだりしてあくまでもリアリズムを徹底追求した見世物だったのがわかる。明治以降、ことに大正期に各地で大ブームとなる「お化け屋敷」の原型は、すでに江戸期に完成されていた。
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 明治になると薩長政府は、太政官布告として「お化け屋敷」などの見世物はもちろん、「低俗」な浮世絵や看板の類、裸で組みあう相撲まで「不埒の儀」として禁止した。また、広小路や街道筋に「葭簀張り」で開店していた水茶屋(喫茶店)や茶屋(軽食店)、遊戯店(ゲーム場)なども、すべて禁止している。現代からは信じがたい暴挙だが、「日本」を消して「欧米化」を強引に進めようとしたゆえんだろう。
 面白いのは、薩長政府の禁止にもかかわらず、各地で開かれる博覧会や物産展では、客寄せの娯楽的な「納涼」の目玉として「お化け屋敷」は復活していく。それらは「八幡の藪知らず」などと呼ばれ、全国各地に普及していった。「八幡の藪知らず」とは、下総八幡村(現・千葉県市川市八幡)にある入ると出られなくなる迷える森(ラビリンス)のことで、「化物屋舗」の別称として幕末から明治にかけて普及していった。薩長政府の弾圧から、表立って「化物屋舗」とはうたえない見世物が、欧米の「迷宮」の概念を借りて「八幡の藪知らず」と名のりながら、営業をつづけていた可能性もありそうだ。
 ちなみに、市川市役所の斜向かいにある「八幡の藪知らず」は、多彩な伝説を内包し呪われた場所として立入禁止のようだが、かなり古くから禁足地として伝承されている。おそらく、古墳期から伝わる禁忌伝承Click!と結びついた屍家(しんや・しいや)Click!伝説へとつながる区域ではないかと想像していたが、1936年(昭和11)の空中写真を見ると、明らかに鍵穴Click!の形状をしている。「藪知らず」伝承の根源は、後円部を北に向けた100m前後の前方後円墳だったのではないだろうか。そして、内部の窪んだ低地というのは、後円部を斜めに深く掘り下げた玄室の跡ではないか。
 「お化け屋敷」の集客力は抜群だったようで、1931年(昭和6)3月には本所国技館で民俗学者・藤沢衛彦のプロデュースによる、大規模な「日本伝説お化け大会」が開催されている。以後、「お化け屋敷」は単発の見世物というよりも、遊園地のアトラクションとして取りこまれ、最近では空いた店舗を活用した商店街の集客イベントとして、21世紀の今日まで受け継がれている。なお、同国技館を現代地名をあてはめて「両国国技館」と書いた資料も多いが、両国国技館はいまの両国駅北口にある現用施設の呼称だ。相撲の国技館は、戦前から本所→蔵前→両国と表現するのが地元の“お約束”になっている。
 同論文にも書かれているとおり、日本の「お化け屋敷」はウォークスルーが基本で、登場する幽霊や妖怪も“実物”(物体)であることが多い。別に、CG(3D)やVRの導入が遅れたわけではなく、「恐怖」や「戦慄」の基準が欧米などとは大きく異なるからだろう。わたしも吸血鬼やゾンビ、狼男、悪魔、魔女などには怖さをまったく感じず、つい笑ってしまうが、窓や障子に映る長い髪をふり乱して水平に横すべりする、なんらかの物語(怪談)がからんだシルエットには思わずドキッとしたりする。リアリズム(実在感)のちがい、生活環境のちがい、そして文化のちがいに直結するのが、「恐ろしさ」「怖さ」の概念なのだろう。「お化け屋敷」は、それらの概念を視覚化しながら300年にわたって継承されてきた。
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 そういえば、近ごろ遊園地の「お化け屋敷」が楽しみで来日する外国人も多いと聞く。「昔から浅草の花屋敷がいちばんよ」とか、「よみうりランドでしょ」「後楽園がいちばん怖いわ」とか、「豊島園のお化け屋敷がなくなって残念」などというのを聞くと、日本の「お化け」もグローバルになってきたと思うこのごろだ。ミシュランの料理店のように、怖さを☆印で競う「日本全国お化け屋敷」ガイドが出るのも時間の問題なのかもしれない。

◆写真上:お化け屋敷への集客率は、21世紀の今日でも落ちていない。
◆写真中上は、1790年ごろに葛飾北斎が描いた『新板浮絵化物屋舗百物語の図』。は、1800年代前半に歌川国芳が描いた『百物語化物屋舗の図』。は、井上哲学堂の哲理門にいる完成直後の「幽霊姉さん」Click!
◆写真中下:日本各地の「お化け屋敷」いろいろ。
◆写真下上左は、幕末にプロイセンから来日した使節団の伯爵・F.A.オイレンブルク。上右は、本所国技館で「日本伝説お化け大会」をプロデュースした民俗学者・藤沢衛彦。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる千葉街道沿いの「八幡の藪知らず」。は、AIエンジンに「お化け屋敷・日本・女の幽霊」のキーワードを入力して生成したイメージ。どこか浮世絵風だが、樹木の上を飛びまわる生首に驚いて悲鳴をあげている女子たちのようだ。
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 AIエンジンを備えたが描画ツールに「お化け屋敷・幽霊」と入力すると、ありがちな西洋の「幽霊屋敷」のイメージ(上)が生成される。キーワードに「日本」を追加すると背景の建物が日本風になり、なぜか頭の上に毛が3本ありそうなオバケ(下)が出現した。テキストの分野はともかく、AIの描画力はアルゴリズムがまだまだ練れてなくて未熟だ。
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おまけ2
 下落合の北隣りわずか500mほどのところ、旧・豊島区池袋3丁目(現・西池袋5丁目)に住んだ江戸川乱歩の作品に『目羅博士』(1931年)がある。この中に、本所国技館で開かれた「日本伝説お化け大会」が登場している。「今もその国技館の『お化け大会』というやつを見て帰ったところだ。久しぶりで『八幡の藪知らず』をくぐって、子供の時分のなつかしい思い出にふけることができた」。下の写真は、震災復興絵はがきにみる本所国技館(右上ドーム)。大橋(両国橋)をはさみ、手前が西両国(日本橋側)で向こう岸が東両国(本所側)。
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