SSブログ

海辺で関東大震災に遭遇した画家たち。 [気になるエトセトラ]

北條海岸通り19230901.jpg
 1923年(大正12)9月1日の関東大震災Click!のとき、海辺のごく近くにいた画家としてこれまで岸田劉生Click!の証言を何度かご紹介してきた。劉生は津波を懸念して、鵠沼から藤沢駅の北にある丘陵地帯をめざしたが、幸い津波は境川を遡上してそこまでは到達せず、途中の石上駅近くの親切な農家で避難生活を送っている。
 岸田劉生Click!と同じく、関東大震災と同時に発生した大津波Click!の際、海岸べりにいた画家は湘南海岸Click!(神奈川県)のほかに千葉県の房総半島側にもいる。明治末から大正期にかけ、画家の写生地として人気が高かった、太平洋に面する南房総の布良Click!や白浜だ。そこでは、画家たちが大津波の前に沖へ向け、いっせいに波が引いていく光景を目のあたりにしている。その様子は、曾宮一念Click!がとある高名な帝展画家から取材して、その思い出をエッセイに書き残している。
 曾宮一念Click!自身も、風景画のモチーフとして南房総の村々は何度も繰り返し訪れているので、たまたま風景画の写生地について話題になったとき、その画家から大震災時の様子を聞いたのだろう。曾宮一念は、その画家のことを「謹厳で無口なその先生」と表現しているので、かなり年上の彼にとっては師匠格にあたる洋画家だったと思われる。
 ちょうどこの時期、布良に滞在して制作をしていそうな洋画家には、寺崎武男や倉田白羊Click!、多々羅義雄らがいるが、寺崎はのちに南房総にアトリエをかまえている。また、倉田は1922年(大正11)に信州の上田へ転居しているが、夏季になったので南房総へ写生に訪れていたものだろうか。特に倉田白羊は、明治期に牛込弁天町のアトリエで絵画教室Click!を開いており、早稲田中学を中退した鶴田吾郎Click!が最初の弟子として入門している。寺崎も倉田も、曾宮一念よりは10歳以上も年長であり「先生」と呼んでもおかしくなく、彼も鶴田吾郎Click!を通じて「先生」のことを知っていたのかもしれない。
 その帝展画家は、夏の初めから9月まで布良に滞在しており、地元の家の2階をアトリエとして写生に出ていたようだ。浜辺にある漁師の家や波、岩などを描いていたようで、8月末には40枚近いタブローが完成していたと曾宮一念に話している。
 1923年(大正12)9月1日に大震災を経験した、その画家の証言を聞いてみよう。収録されているのは、1955年(昭和30)に四季社から刊行された曾宮一念『橎の畔みち』を底本に、1995年(平成7)に講談社から出版された曾宮一念『橎の畔みち・海辺の熔岩』(文庫版)から引用してみる。ちなみに、収録の「掘出した絵具箱」が書かれたのは1940年(昭和15)1月のことで、文中の「私」とは取材相手だった画家の一人称だ。
  
 その日九月一日も朝のうち仕事をして帰り、昼食前にパレットの掃除をしていた時、平素の風波の音とはちがって地の底から湧き出し身体まで戦かせるような響きの海鳴り、地鳴がしだした。と間もなく、私の体はポンと宙に吹き飛ばされ、これは大地震と気付くと共に着の身着のままで二階から駈け下り戸外へ出た。駈け下りる時のほんの瞬間に眼に映った景色は、遠く遠く潮が引いて海底が赤肌色に露われていた。この時の印象は今に忘れられない。/私も海水の引くのは津波の前兆だと知っていたし、近所の人々も山へ逃げろと呼ばわっているので夢中になって山手の方へ走り小高い丘に上り、その上更に大きな松の木の頂に攀じ登ってしまった。
  
布良海岸.jpg
多々羅義雄「房州布良ヲ写ス」1922頃.jpg
江澤館.jpg
 太平洋の沖に向かって海が後退していく、いわゆる海洋性=相模トラフ(わたしが子どものころまでは「相模湾トラフ」と呼称されていた)に由来した、巨大地震直後に起きる強烈な引き波を目撃して、津波の恐怖に襲われているのがわかる。鵠沼の岸田劉生のアトリエは、海岸から少し内陸へ入った場所にあったので海の様子が見えず、『劉生日記』Click!にも相模湾の引き波の様子は記録されていないが、その後に襲った津波の規模からすると、南房総と同様にかなり大規模な引き波が見られただろう。
 最初、身体が浮き上がるように家屋の床面から投げだされ、あるいは屋外であれば身体が突き飛ばされたように転倒し、その直後から立っていられないほどの激しい横揺れがはじまったという、残された数多くの記録とも一致する証言Click!だ。横揺れの中、屋外へ逃げだした人々の多くは、屋根から落ちてくる瓦で負傷Click!している。また、当時の家屋は耐震設計などない時代の住宅なので、屋内にとどまった人たちあるいは逃げ遅れた人たちは、同大震災で5,000人以上が圧死Click!したとみられている。
 今日、特に都市部などの住宅では耐震設計がほどこされ、瓦屋根を廃した軽量のスレート葺きが主流なので、簡単に倒壊してしまう住宅はそれほどないとみられる。ただし、鉄筋コンクリートの集合住宅では倒壊の危険が少ない反面、割れた窓ガラスの落下や壁面の剥脱・破壊によるコンクリート片の落下、割れた窓からの家具調度類の落下などが大きな懸念となっている。特に繁華な地域では、高層のビルやマンションなどの下にいる歩行者や、走行車の危険が改めて指摘されている。
 さて、曾宮一念に話している帝展画家は、もうひとりいた知り合いの画家といっしょにアトリエの裏山へ避難し、松の木へ登ったのはいっしょにいた画家がそうしたので、自身もそれにつられて登ったと話している。小高い丘に上ったぐらいでは安心できず、大きめな松の木を選んでさらに高いところに登っているのは、沖合いから南房総の海岸線めがけて押し寄せてくる津波の巨大な“壁”に恐怖したからにちがいない。
 つづけて、曾宮一念が採取した画家の証言を引用してみよう。
関東大震災伊東町(国立科学博物館).jpg
外房隆起(2m前後).jpg
延命寺断層(2m).jpg
  
 ちょうどこの時山のような、全く山のような波で、あんな波は北斎の版画で見たほかにはまだ本物には会ったことがないがそれが押し寄せて来る。それが来ると布良の部落は一嘗めにされ、私の居た二階家は一たん浮いて他の家々と打合って粉々に破壊されてしまった。私はまもなく松の木から下りたが、も一人の男は夜中松の木の上で明かした。/多勢(ママ:大勢)いた画家たちは八月末迄に布良を引揚げていて、私と松の木の男と日本画家の三人が震災に遭ったわけである。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、画家はアトリエに描きためていた40枚近くのタブローと、絵の具箱をはじめ画道具をすべて津波に持っていかれて失った。上記の描写は、東日本大震災の被害を目のあたりにしているわたしたちの世代には、すぐにもその情景がリアルに浮かんでくる。特に津波の“音”には触れていないが、家屋や生木が根こそぎ押し倒され流される際には、海岸一帯にすさまじい騒音が響いていただろう。
 しばらくすると、布良の部落の子が津波にさらわれ砂に埋もれていた絵の具箱を見つけ、画家の避難先までとどけてくれた。その後、この絵の具箱は画家にとって特別な存在になっていく。1935年(昭和10)すぎごろ、波太の岩礁で写生をしていた際、高波にさらわれて画架や絵の具箱が海底に沈んだが、翌日になると再び画家の手にもどっている。そのときのエピソードを、同書より引用してみよう。
  
 引潮であったが、まさか此処まではと思って画架を据え岩の上に絵具箱を置いて写生をしていた。もう少し、もう少しと日没後の明るさで仕事をしていた時、追々荒れていた波がとても逃げられぬ高さで押しよせて来て私は頭に(ママ:の)上までスッポリと波をかぶり、首が水から出た時はカンバスは十間も流されていたのを必死に泳ぎついて宿に持ち帰ることが出来た。箱は沈んでしまったのを翌日行って拾うことが出来た、(ママ:。) 絵具の重みが碇の役をして流されずに済んだらしい。こんな因縁があるとただの古び方とは違って一寸捨てられないのである。こういってその先生は焦土色の絵具箱を撫でまわした。
  
 このあとも、「先生」画家は荒れ海あるいは冬山で危うく遭難しそうになるが、この幸運の絵の具箱を持ち歩いていたせいか、そのつど危機を脱して無事に生還している。こうなると、画家は野外の写生には手放せない、“お守り”のような絵の具箱になっていたのだろう。
笠原吉太郎「房州」大正末.jpg
刑部人絵の具箱.jpg
佐伯祐三「絵具箱」1925-26頃.jpg
 曾宮一念は、画家の絵の具箱について「今すぐにでも博物館に珍蔵されるだけの外見と因縁」を備えていると書き終えている。笠間日動美術館では、画家たちのパレットや絵の具箱を蒐集しているが、この帝展画家の絵の具箱も収蔵しているだろうか。海水に何度もつかって、古び方が半端ではない「焦土色」をした絵の具箱を、一度見てみたいものだ。

◆写真上:1923年(大正12)9月1日に撮影された、南房総・館山の地割れした北條通り。房総半島は、大震災で地面が2m前後も隆起している地域が多い。
◆写真中上は、相模湾の各地で見られるのと同じく関東大震災で海底から浮上した南房総・布良の岩礁で、沖の左手に見えている大きな島は伊豆大島。は、1922年(大正11)ごろ制作された多々羅義雄『房州布良ヲ写ス』。は、南房総の鴨川市太海浜にある画家たちの常宿のひとつだった江澤館Click!(裏山より江澤館様撮影Click!)。
◆写真中下は、国立科学博物館に保存されている津波で壊滅した相模湾の伊東風景(作者不詳)。は、関東大震災で2m以上も隆起した南房総の岩礁。は、関東大震災で2m前後もズレた南房総を走る延命寺断層(道路左手の小崖)。
◆写真下は、大正末から昭和初期に南房総をモチーフに制作された笠原吉太郎Click!『房州』Click!。のち1928年(大正3)9月に、東京朝日新聞社で開かれた第3回笠原吉太郎展に出品された、『船のとも』と同一画面ではないかと思われる。渚に近い海には、関東大震災で浮上したとみられる岩礁がいくつも描かれている。は、刑部人Click!の絵の具箱と写生用パレット。は、1925~1926年(大正14~15)ごろに描かれた佐伯祐三Click!『絵具箱』。

読んだ!(22)  コメント(4) 
共通テーマ:地域

『高田村誌』(1919年)の編者たちは怪談好き。 [気になるエトセトラ]

威光稲荷路地.jpg
 1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)には、妖怪譚や幽霊話がいくつか掲載されている。高田村の行政に関連した情報は、わずか45ページに凝縮し、あとは名所・旧跡や記念物、伝承・説話、そして村内の多彩な事業について記述しているところをみると、編者たちには文化や歴史好きが多かったとみられる。
 代表的な幽霊話は、物語の前提としてなにがあったのかは不明だが、諸国をわたり歩くようになった、うら若くて可憐な巡礼姉妹のエピソードだ。日本女子大学校の学生寮Click!が建っている丘(金山稲荷Click!のあった丘)の東側に通う、いまもつづくダラダラ坂が怪談の舞台だ。同村誌に収録された伝承のひとつ、「巡礼妹の墓」より少し長いが引用してみよう。
  
 時代は既に変りて、今こそは日本女子教育の淵叢、学術知識の権威である私立日本女子大学の輪奐たる大建築を並べて、殷賑小石川の街衢となつてゐるが、昔は昔、笹薮続く閑寂の里であつた、空低うして雲暗き五月雨頃の夕まぐれ、見るも可憐な姉妹の巡礼、今の女子大学寄宿舎わきのだらだら坂を巡礼唄の声もほろほろに哀を罩めて通りかけたか(ママ:が)、ふとしたことで二人は死んでしまつた、姉には墓をた(ママ)てたが、どうしたものか妹には立てなかつた、哀れは更に深く暗い幕を垂れた、それからは、だらだら坂を通る人々に、がたがたと身の毛もよだつ音をたてたり、哀願の声を振りたてたりして啜泣いた、里人はこの哀れ深き妹巡礼のためにも墓を立てた、それからは、泣き声も消えたれば、哀れの姿も消え失たと。
  
 巡礼の姉妹が、なぜ「ふとしたことで」死んだのかは語られていないが、巡礼がめずらしくない伝承の様子からすると江地時代から伝わる怪談のようだ。
 このような口承伝承の場合、姉妹が死んだとされる原因、たとえば栄養失調で行き倒れたとか、たまたま地域で流行っていた疫病や、追いはぎの襲撃、バッケ(崖地)Click!からの滑落……等々、なんらかの死因が伝わるのがこの手の話の常だが、それが飛ばされ欠落しているのが、そしてふたり同時に死亡しているのが不可解だ。
 巡礼姉妹は、先ゆきを悲観して近くの溜池にでも身を投げ自殺でもしたか、あるいは護身用の短刀で自害でもしたのだろうか。あるいは、死因を伝承してはマズイことでも小石川村内、あるいは雑司ヶ谷村(のち高田村へ併合)で起きたのだろうか。
 現在でも、このダラダラ坂は片側(西側)が金山Click!のバッケ(崖地)がつづき、坂の上から見ると家々が建つのは坂の左手(東側)だけで、夜間などは仄暗い闇の空間がつづいている。この坂道のどこかに、おそらく江戸期からつづく巡礼姉妹の墓があったとみられるが、もはや一面の住宅街に埋もれて当時の面影はどこにも存在しない。
 つづいて、雑司ヶ谷鬼子母神Click!にあったことになっている、お化けツバキの伝承だ。この怪談は、それほど古くはないようで、『高田村誌』が編纂された当時も、リアルタイムで当該のツバキは存在していたようだ。同村誌より、「伝説化椿の話」から引用しよう。ただし、文中では「鬼子母神境内」とされているが、正確には「法明寺境内」の誤りだ。
  
 鬼子母神境内仁王門を潜つて安国様題目堂に突当る、題目堂のわき、楠木正成公息女の墓に、一株の椿ががある、灌木性としての椿としては可なりの歳経りたるものである、里人之を化椿といふ、今は昔夜更けて茲を通る時は其形様々に変りて通行人に呼び声をかけしと言ふ、時には枯木寒厳の老和尚とも変り、妙齢窈窕たる美人にも化して見えしとか。
  
日本女子大学校櫻楓館.jpg
金山1.jpg
金山2.JPG
 既述のように、「楠木正成息女の墓」があるのは、法明寺Click!の境内(墓地)であり雑司ヶ谷鬼子母神Click!の境内ではないのだが、鬼子母神も法明寺の伽藍の一部なので、より読者へわかりやすく伝えるために、有名で“通り”がいい名称を付加したものだろう。夜の法明寺墓地へ、ちょっと散歩がてら出かけたくなる怪談ではないか。
 「幽霊の正体見たり……」の類の典型話だが、この怪談を年寄りから聞いて“肝だめし”に出かけた周辺の若者たちも多かったのではないか。わたしも、夜に法明寺墓地の脇を通る機会があれば、「枯木寒厳の老和尚」なら即座に無視して通過するが、「妙齢窈窕たる美人」ならちょっと立ち寄ってもみたくなる。ただし、ここに書かれている法妙寺境内の風景は戦災で焼失しているので、かなり趣きが異なっているのだろう。名前を借りたとみられる雑司ヶ谷鬼子母神のほうは、戦災をまぬがれて昔日の姿を残している。
 さて、もちろん場ちがいな関東に楠木正成の事蹟が存在するわけがなく、明治以降に誰かが皇国史観Click!にもとづき適当な「姫塚」(女性墓)に、南朝の「忠臣」である「楠木正成」伝説をくっつけて創作したものだろうと考えていた。前世紀の末、豊島区郷土資料館が調査したところによると、この墓は江戸期の1838年(天保9)に「中沢」という人物が建立したものであることが判明している。建立の時期が幕末に近いため、「中沢」という人物が国学に傾倒していた可能性があり、雑司ヶ谷に伝わる既存の伝説や説話に「楠木正成」を接合したのではなかろうか。
 次の怪談は、動物がらみの祟り譚だ。目白界隈は、昔からタヌキClick!がらみの怪談が多く、拙サイトでは目白台の大岡屋敷での怪談もご紹介している。今回は、清戸道(せいどどう)Click!に面していた田安家(おそらく下屋敷or抱え屋敷?)での怪談だ。目白に田安屋敷があったのは、いったいいつごろのことだろうか。少なくとも江戸後期ではないと思われるので、ずいぶん古くから伝わる怪談なのかもしれない。あるいは、この怪談も屋敷名をまちがえた伝承だろうか。同村誌より、「田安邸狸征伐の伝説」から引用してみよう。
  
 徳川御三家、田安様のお邸は現今の交番から高田銀行の向ふに渡つて広々と取られてあつた、其屋敷中に狐狸が多数に棲んで居つた、すると同家では年々三度の練兵があるので鉄砲の声ききては狐狸の驚き荒ぶ事一方ならず、この事殿様の御目に止り、誰か討取るものなきかと下令あり、誰か誰かと評定の末、大砲方の西原某といふ男に一番槍にて右足をつかれ、狐狸はどんどんと生捕られた、此事より西原某は殿より御加俸あり大方の面目を施した。/其後西原の妻は病に罹つたか恁うしたのか狸の真似をしながら狂死の如くになつて辞世した、それかあらぬか生れし女児も半身不随の不具者と成つたので西原氏は今更に応報が恐ろしく遂に行衛不明となつた。
  
 文中に登場する「交番」は、高田大通りClick!(目白通り)をはさみ鬼子母神の表参道入口前にあった交番Click!だとみられ、「高田銀行」は大通りをはさんで東側の斜向かいにあった新倉徳三郎Click!が頭取をつとめていた高田農商銀行Click!のことだ。
法明寺1.JPG
法明寺2.JPG
法明寺3.JPG
 「化け猫」Click!ならぬ「化け狸」の復讐譚だが、当事者が「行衛不明」になってあとからの検証のしようがない、現代にありがちな怪談の類に似ている。知りあいの、そのまた知りあいの友だちの弟が経験したらしい怪談で、「その弟が現在では行方不明なんだって」……などという落ちで、最初から“ウラ取り”がまったくできず検証を拒否するような構成になっている、ありがちな江戸期の都市伝説だろうか。
 冒頭でご紹介した「巡礼妹の墓」や次の「伝説化椿の話」は、なにか印象的な物語が紡がれ伝承されてきたような、その基盤となるなんらかの故事や事実・実話が、確かに存在していたようなリアリズムの手ざわりを感じる。けれどもタヌキの祟り譚は、なにかよくないことや都合の悪いことが起きるとすべて狐狸のせいにして、無理やり納得(課題や混乱を収拾)していた時代の、野放図な説話の焼きなおしにすぎないように感じる。
 確かに、江戸前期あたりに目白・雑司ヶ谷地域に広い屋敷があれば、タヌキは喜んで縁の下などを恰好の棲みかとしていただろうし(下落合にはいまでも棲んでいるが)、屋敷の残飯をねらって厨房へ忍びこみ、保存してあった食料などを掻っさらっていったかも知れず、その被害をなくすために「殿様」は家臣に退治するよう命じたかもしれない。だが、「西原某」の不幸とタヌキとは、まったく関係のない出来事だろう。
 「大岡様のお屋敷狸の悪戯」でも書いたが、なにか釈明の困難な出来事や、人々が動揺し混乱するような出来事、あえて誰かが重い責任を問われかねないような事件がもちあがり、それが家名や藩名を傷つけるような事態に立ちいたった場合、すべてを“丸く収める”ために狐狸のせいにしたり、「池袋の女」Click!が原因だとしているような感触をおぼえる。それを怪談に仕立てさえすれば、とりあえず誰かが強い責めや恥辱をうける心配もなくウヤムヤとなり、世間への体面や釈明もなんとかなる……というような時代だったのだろう。
目白台.JPG
高田村誌1919.jpg 南蔵院.jpg
清戸道.jpg
 同村誌には「南蔵院」も紹介されているが、有名な『怪談乳房榎』Click!は収録されていない。編者は落語や講談、芝居の演目としてフィクションだと判断したらしい。だが、1929年(昭和4)に三才社から発行された江副廣忠Click!『高田の今昔』Click!では、同寺に類似のエピソードが伝承されてきている事実を突きとめている。この怪談も、まったくの根も葉もないフィクションではなく、痴情のもつれによる殺人事件という史実を知った怪談作者(圓朝)が、それをベースに枝葉をつけ足して怪談に仕立てなおしているとみられる。

◆写真上:雑司ヶ谷鬼子母神の北、威光稲荷Click!の近くにある円形にカーブする路地。
◆写真中上は、1919年(大正8)ごろに撮影された日本女子大学校の「櫻楓館」。は、金山稲荷のあった丘。は、その丘の東側に通うダラダラ坂。
◆写真中下:法明寺の境内にある山門()と本堂(画面右手/)、そして墓地()。
◆写真下は、「田安屋敷」があったとされる目白台から南の眺望。中左は、1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(高田村誌編纂所)。中右は、同村誌に掲載された戦災で焼ける前の南蔵院境内。南蔵院本堂は、1847年(弘化4)に大江戸を襲った台風で倒壊しているとみられ、その際に『怪談乳房榎』の由来となった狩野朱信の「雄龍、牝龍」が失われている。は、清戸道の読みに「せいどどう」のルビをふっている同村誌の記述。

読んだ!(19)  コメント(0) 
共通テーマ:地域

「老子!」と黒石少年にトルストイはいった。 [気になる下落合]

トルストイ(晩年).jpg
 下落合2130番地に住んだとみられる大泉黒石Click!は、1924年(大正13)に文学講演旅行へ出かけている。黒石は1922年(大正11)に、ロシア文学が成立する“前史”ともいえる『露西亜文学史』(大鎧閣)を出版しており、明治末から大正期に起きた空前のロシア文学ブームの中で“本史”の続編出版が待望されているような状況だった。
 だが、日本文壇から排斥され出版機会を奪われたせいもあるのだろう、ついに『露西亜文学史』の“本史”を執筆できなかった。もし、大泉黒石Click!がつづけて『続・露西亜文学史』を書いていたら、19世紀から20世紀にかけての世界文学における一大山脈(父親と同郷で近所にいたトルストイClick!とはかろうじて同時代で、ヤースナヤ・ポリャーナとモスクワで都合三度も会っている)を、同時代のフランスやイギリスなどの文学界と重ねて、グローバルなマクロ的視界でどのように認識していたかが描かれ、非常に貴重な文学史料になったと思うと残念でならない。
 1924年(大正14)の春、福岡高等学校の学生たちを中心に開催された文芸講演会には、大泉黒石のほか辻潤Click!高橋新吉Click!が出席する予定だった。もう、アナキズムとダダClick!の匂いしかしないメンバーだが、実際に講演したのは辻潤Click!ひとりだった。高橋新吉は、故郷である愛媛県の伊方町に寄りたくなったのか四国へわたってしまい、大泉黒石はやはり故郷の長崎県八幡町(現・長崎市)に足を延ばしたままもどらなかった。したがって、文芸講演会で登壇したのは辻潤ひとりだった。
 当時は福岡高等学校の学生で、のちに作家で文芸評論家になる福田清人がその様子を記憶している。1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)付録の、「黒石廻廊/書報No.6」(1988年7月29日)より福田清人『大泉黒石のスナップ』から引用してみよう。
  
 「買って下さった券には、私の他に詩人の高橋新吉と作家の大泉黒石の名が印刷されている。福岡で会ってしゃべる約束だったが、高橋は四国へ消え、大泉も郷里長崎へ行くと言って現れない。僕が三人ぶん話すから我慢してくれ給え」/前日、三、四人の青年を連れて高校の門前に五十銭の入場券を売りに来た辻潤は、黒のソフトに黒マントそのままの格好で壇上に立ち、前の卓上にビール瓶があり、時々コップに注いで飲んでは語りつづけた。
  
 福田清人は長崎の同郷であり、日本文学ではなく世界文学の視野だった大泉黒石の話を聞けなかったのによほど失望したのか、講演の様子を鮮明に憶えている。
 大泉黒石は、実際に生活した日本やロシアはもちろん、同時代のフランス(居住)やドイツ、イギリス(居住)などの文学に精通し、中国(居住)は特に古典文学に詳しかった。このような作家は、大正期から昭和初期にかけて日本にはほかにおらず、多くの私小説家は知識や視野、体験レベルからして大泉黒石にはまったく刃が立たなかったろう。文壇からの激しい嫉妬や、意図的・計画的な疎外(“あいの子”差別を含む嫌がらせ)を受けるのは、当時の日本では必然だったとみられる。
 特に国家を否定し、キリスト者的で謙虚な姿勢を貫きながら生活するトルストイとの邂逅は、大泉黒石の創作や生活におけるどのような政治的権力も認めないトルストイズム的アナキズムとして、人生における経糸的な思想にまで昇華していたのではないだろうか。彼の愛読書の1冊だった老子『道徳経』は、少年時代に出会ったトルストイからの強い教示を受けたものだっだ。トルストイもまた、老子の著作からは強い影響を受けている。
 また、自身の極貧生活を題材にした作品は、明らかにゴーリキーを意識したものだと思われ、黒石の怪奇趣味はゴーゴリやチェーホフのような味わいがあり、登場人物たちの内面告白的なモノローグやセリフは、ドストエフスキーの作品を直接的に連想させる。このような創作の流れに、フランスやドイツ、イギリス、中国、日本などの古典・現代文学から吸収したさまざまな思想や表現が加味されているのが、日本語で書かれているものの「日本文学」には到底収まりそうにない、大泉黒石の広大な文学ワールド(表現世界)を形成している。
大泉黒石「老子」1922新光社.jpg
大泉黒石(少年時代).jpg
五ノ坂.JPG
 日記にでもつけておけばいいような「私小説」(「純文学」??)で、ごくごく小さくこじんまりとまとまっていた当時の文壇にしてみれば、この広大な視界をもつ作家が自分たちの貧相な世界を映す鏡のようにも見えて脅威となり、極力いなくなってほしい人物のひとりになっていったのは想像に難くない。今年(2023年)に岩波書店から出版された四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』では、彼の文学的素養について次のように書いている。
  
 こうしたことのすべては、二〇世紀前半を生きた日本の文学者、知識人として稀有なことである。幼くしてモスクワとパリに学んだことが決定的であった。単一の、絶対の母国語をもたないこと。言語とはつねに複数の言語であり、大切なのはいつでもその場にあって、身近に語られている言語を用いて書くことだ。驚くべきことであるが、黒石にとってエクリチュールの始まりとは、パリのリセ時代になされたフランス語のヴィクトル・ユゴー博物館訪問記である。やがてそれは日本語に取って替わられるのであるが、ロシア語はもとより、ドイツ語、英語、フランス語に通じているという語学的才能と経験は、彼の文学に独自の言語的混淆をもたらすことになった。(中略) 黒石に漢文的教養がなかったかというと、実はその逆である。中国の艶笑小説に蘊蓄を傾けたり、漢籍でもかなり専門的なところまで踏み込んで論じている。
  
 これらのことは、同書にも「久米正雄ら既存の文壇作家たちが危機感を感じる。黒石への違和感を口にし、彼を警戒する」と書かれているとおり、日本文壇から「虚言癖」として排斥される理由にもなった事蹟だが、すべて事実だったことが指摘されている。ちまちました私小説家があふれ、ゾロゾロ群れたがる当時の文壇にとって、彼のような作家はスケールが大きすぎて理解不能で意味不明だったのだろう。日本文学は、「自然主義」文学以来の誤解と履きちがえによる「純文学」的な「私小説」の流れから、ようやく脱却できるかもしれない大きなチャンスを、自らの悪意と揶揄と冷笑で意図的につぶしている。大泉黒石の排斥は、日本文学史における最大レベルの損失のひとつだろう。
 それでも書きつづけるところに、大泉黒石のすごさ……というか図太い神経があるのかもしれない。『預言』の自序では、日本の文壇にはなにも期待していない旨を表明し、高田町から目白台を舞台にしたドストエフスキーばりの物語を紡ぎ、『老子』では自身なりに消化したアナキズム思想をトルストイの思想と重ねあわせて追究し、江戸期の長崎を舞台にした最後の長編小説『おらんださん』では、日本語の独特な表記法(ルビ)に着目・応用しながら、それまで誰も見たことのない多国籍的かつ実験的な小説を創造してみせた。
黒石怪奇物語集1925新作社.jpg 大石黒石「おらんださん」1941大新社.jpg
大泉黒石「山と渓谷」1931二松堂書店.jpg 大泉黒石「渓谷行脚」1933興文書院.jpg
大泉黒石全集1988緑書房.jpg
 恥ずかしながら、わたしも最近まで彼の作品を読むことはなかった。大泉黒石が下落合に住んでいたことは、林芙美子の著作でずいぶん以前から知っていたが、読まなかった理由のひとつには戦前の本以外、戦後は出版物そのものがほとんど存在しなかったこともあるだろう。緑書房による『大泉黒石全集』(1988年)は出版されていたが、部数が少ないせいかかなり高価で手が出ず、なかなか「読めなかった」ともいえるだろうか。
 『大泉黒石全集』の「黒石廻廊/書報No.6」(1988年7月29日)には、英文学者で東京大学教授だった由良君美が『反戦文学と黒石』と題して、次のように書いている。
  
 分からず屋の言い分など、どうでもよい。<一流の>・<二流の>、<主流の>・<傍流の>、<純文学の>・<大衆文学の>とやくたいもないゴタクをならべている暇に、偏見を括弧にいれ、虚心にテクストに対面し、その内在的評価を試みたらよかろう。そのとき、右(=上)にのべた三者は互いに雁行する価値を現わすことであろうし、黒石の『ほろ馬車巡礼』と『人生見物』の位置付けもおのずから定まってくるであろう。(カッコ内引用者註)
  
 大正期から昭和初期(ひょっとすると「戦後」もしばらくだが)にかけての、狭隘な「私小説」で「純文学」のつまらない文壇のゴタクなどどこかへうっちゃっておき、素直に黒石作品に対して接すれば、いかに当時の「純文学」とは比較にならないほどの広大な、そして巨大な創造(想像)力にあふれているかがわかるだろう。
 しかも、大泉黒石の作品群は想像世界を空まわりする、地に足の着かない荒唐無稽で浮薄な表現ではなく、実地の経験や物語の現場を実際に見て聞いて歩いて踏まえたうえでの、非常にリアルかつシリアスな記述に驚かされるにちがいない。それが、底の知れない視野狭窄症で「井里的青蛙」(黒石の漢文風にw)に陥っていた、当時の日本文壇にはまったく理解できなかったとしても、むしろ当然の帰結というべきだろうか。
豫言舞台の江戸川.JPG
神田上水大洗堰1935.jpg
大泉黒石1924頃.jpg
 大泉黒石は『俺の自叙伝』(1919年)で、「露西亜に来ると日本へ帰りたくなるし、日本に一年もいるとたまらないほど露西亜が恋しくなる。俺は二つの血に死ぬまで引き回されるんだろう。そして最後に引っ張った土が俺の骨を埋めるに決まっている」と書いている。最後に黒石が引っ張られたのは、ロシアではなく日本だった。それは、彼の作品がほとんど日本語で書かれていることも含め、日本文学史にとってはかけがえのない幸甚なことだろう。

◆写真上:大泉黒石が少年時代に、実家の近くで邂逅した晩年のレフ・トルストイ。
◆写真中上は、トルストイにも奨められた老子の思想を主題にすえる大泉黒石『老子』(新光社/1922年)。は、少年時代に長崎の写真館で撮影された大泉黒石。は、大泉黒石がよく散歩したとみられる下落合4丁目(現・中井2丁目)の五ノ坂。
◆写真中下上左は、1925年(大正14)出版の『黒石怪奇物語集』(新作社)。上右は、1941年(昭和16)出版の黒石最後の長編『おらんださん』(大新社)。中左は、1931年(昭和6)出版の大泉黒石『山と渓谷』(二松堂書店)。中右は、1933年(昭和8)出版の同『渓谷行脚』(興文書院)。黒石は山歩きが大好きだったが、出版社から小説の注文が絶えたため、やむなく日本の山々や温泉などの紀行文を書くようになった。筆に脂の乗りきった時期だっただけに、日本文学にとってはまさに“宝のもち腐れ”状態だった。は、1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』(緑書房)だが未収録の作品がかなり多い。
◆写真下は、大泉黒石の長編『預言』の舞台となった目白台近くの江戸川Click!(現・神田川)。は、『預言』にも登場する1935年(昭和10)撮影の旧・神田上水Click!と江戸川との分岐点だった大洗堰Click!は、1924年(大正13)ごろ『預言』を執筆中の大泉黒石。
お知らせ
 拙サイトでも繰り返し登場している画家・八島太郎(岩松惇)Click!だが、山田美穂子様Click!より明日のNHK-Eテレで日曜美術館『故郷は遠きにありて~絵本画家 八島太郎~』(望郷の絵本画家)が放映されるとのことです。スケジュールは以下のとおりです。
■『故郷は遠きにありて~絵本画家 八島太郎~』(日曜美術館)
 ・放送日:8月27日(日) AM9:00~9:45
 ・再放送:9月3日(日) PM8:00~8:45
 わざわざお知らせくださり、ありがとうございました。>山田様
八島太郎.jpg

読んだ!(23)  コメント(4) 
共通テーマ:地域

姥島の烏帽子岩が「三角岩」になるまで。 [気になるエトセトラ]

姥島1.jpg
 茅ヶ崎海岸の沖1,600mほどのところにある姥島(うばじま)の烏帽子岩が、鎌倉時代の侍烏帽子(さむらいえぼし)のかたちから、現在のようにやや傾いたただの「三角岩」になったのは、1946~1953年(昭和21~28)ぐらいまでの間のことだ。もちろん、敗戦により進駐した連合軍(おもに米軍)が茅ヶ崎・辻堂海岸を射爆演習場にしていた際、沖の姥島を標的にして大量の砲弾を海岸から撃ちこんだせいだ。
 この演習による砲撃音が、平塚や大磯のほうまで鳴り響いていたのは、同地域のさまざまな資料にも見えている。わたしの親たちも、この湘南海岸に設置されていた射爆演習場についてはときどき話していたが、親父の仕事の都合で平塚へ転居Click!してきたころには、すでに砲撃演習は行われていなかっただろう。ただし、茅ヶ崎・辻堂海岸の射爆演習場が日本に返還されたのは、1959年(昭和34)のことなので、わたしが生れて間もないころまで接収されたままだったのだ。このとき、地元の茅ヶ崎市や藤沢市から神奈川県庁Click!あてに、猛烈な返還運動が展開されている。
 当時、親父が勤めていたのは神奈川県庁の土木建築部門であり、知事の内山岩太郎あてに提出された地元自治体の請願書「湘南観光道路の演習地貫通並びに湘南砂丘地帯の荒廃保護に関する請願」には、ひととおり目を通していたと思われる。将来を見こんで、地元自治体では「湘南観光道路」などと書いているけれど、これは昭和初期に藤沢の鵠沼海岸から大磯の北浜海岸までの海辺沿いに設置された「湘南遊歩道路」Click!のことで、わたしの時代には転訛して地元では「ユーホー道路」(わたしが物心つくころには、いまだ散歩する人たちの下駄の音や乗馬・馬車の音が聞こえていた)、またはクルマの往来が激しくなると「湘南道路」と呼ばれていた、現在の西湘バイパスと結ぶ国道134号線のことだ。
 敗戦から1940年代後半まで、米軍は朝鮮戦争を想定した敵前上陸訓練も、茅ヶ崎・辻堂海岸で行っていた。また、1950年(昭和25)6月に朝鮮戦争が勃発すると、砲撃演習や上陸演習が頻繁に行われるようになる。この演習を目撃し、姥島の烏帽子岩破壊や砂丘破壊について、米軍(GHQ)に激しく抗議した人物がいた。茅ヶ崎在住で、戦前から戦中にかけ「興亜十人塾」を開校し、戦後は茅ヶ崎市公安委員を勤めていた小生第四郎(夢坊)だ。その抗議が原因で、彼はGHQに逮捕・投獄されている。
 そのときの様子を、2013年(平成25)に岩波書店から出版された、小谷汪之『「大東亜戦争」期出版異聞―「印度資源論」の謎を追って―』より、小生第四郎の随筆を孫引きだが引用してみよう。ちなみに、小生第四郎『小生夢坊随筆集』(八光流全国師範会/1973年)はぜひほしいエッセイ集なのだが、古書となった現在では高価で手がでないでいる。
  
 ボクは一人で、あの占領下の爆破被害の修理を強く要求したばっかりに、逆に別のイン謀でそのことが悪用され、占領政策違反に問われた。(中略) 変質な情報屋のネタでコネあげられ「占領政策違反容疑」で四十一日間も豚箱にカン禁された。「悪質な二世通訳」が深夜僕の家にやって来た時にはアキレたね。威張ること威張ること泥酔してベロベロだった。
  
 このGHQによる逮捕がきっかけで、小生第四郎は1950年(昭和25)9月に茅ヶ崎市公安委員の職を追われている。形式は依願退職だが、「占領政策違反容疑」で検束されたのが原因なのだろう。戦前は特高からひどいめに遭い、戦後はGHQに弾圧されたのはどこか宮武外骨Click!に似ていなくもない。朝鮮戦争が激しくなると、1952年(昭和27)7月にはサンフランシスコ平和条約が発効しているにもかかわらず、同年7月より姥島の烏帽子岩が米軍による砲撃演習の標的に設定され、大量の砲弾が撃ちこまれ破壊された。
 少し横道へそれるが、藤沢の鵠沼で米軍に拉致・誘拐された鹿地亘Click!は、その拘禁過程で茅ヶ崎市菱沼海岸(射爆演習場内)にあった米軍USハウスで一時的に監禁されているが、おそらく「占領政策違反」の小生第四郎も、逮捕後の41日間に同ハウス内か、あるいは近くにあった留置所で拘留されていた可能性が高い。このあたり、米軍の謀略部隊だったG2(のちCIA)などの動きとからめ、いまだ闇につつまれた米軍施設の一端だ。
烏帽子岩(明治末).jpg
サムライエボシ.jpg
烏帽子岩1935頃.jpg
 さて、茅ヶ崎に住み「興亜十人塾」を経営していた小生第四郎(夢坊)という人物が、複雑怪奇な生き方でよくわからない。石川県金沢生まれで、画家(日本画)をめざしていたが途中で漫画家の道へ進み、「小生夢坊」の筆名で描いた野球漫画が広く知られるようになる。大正期に入り東京へやってくると、社会主義に共鳴したのか堺利彦や山川均Click!らのグループに接近している。その左翼寄りの風刺画や原稿と、プロレタリア作家の中西伊之助Click!らとともに交通分野の労働組合運動に取り組んだことから、「特別要視察人(乙号)」として警察よりマークされ尾行2名が常時つくようになったとされる。けれども、小谷汪之の調査によれば同時期の警察が記録した「特別要視察人近況概要」には、小生第四郎(警察記録では「小生第次郎」と誤記)の名前は見あたらないとのことだ。
 このあと、小生第四郎は浅草私娼撲滅反対運動や死刑囚の救援活動へ参画したり、新劇の常盤楽劇団を結成してゴーリキーの『どん底』でみずから文士劇の舞台に立ったり、浅草の演劇界(曾我廼家五九郎一座)に接近したりと、かなり紆余曲折したわかりにくい道を歩いていくことになる。その過程では、画家の林倭衛Click!や添田唖蝉坊、タダイストの辻潤Click!、詩人の佐藤惣之助Click!らと知りあっている。
 昭和期に入ると、小生第四郎は国内の言論弾圧から逃れ朝鮮や満洲、台湾などを歴訪して「新亜細亜主義」に共鳴するようになる。そこでは、いともたやすく関東軍が掲げる「五族協和」に賛同し石原莞爾Click!や、アナキストの大杉栄Click!伊藤野枝Click!たちを虐殺した甘粕正彦Click!らと交流している。この「新亜細亜主義」にもとづき、小生第四郎は茅ヶ崎に「興亜十人塾」を開設して、日本・朝鮮・満洲・蒙古・台湾の5地域から、それぞれふたりずつ優秀な学生を募集して「五族協和」的な教育を実践しようとした。
 広さ300坪ほどの「興亜十人塾」があったのは、茅ヶ崎町菱沼南浜竹1948番地で、近くには大正期からのドイツ村がある別荘地だった。この塾には、ダット乗合自動車Click!労働争議Click!でストライキを指導した、当時は藤沢町鵠沼に住んでいた中西伊之助も訪れている。小生第四郎と中西は、共著で『愛国読本』を仕上げているが(中西は「関義基」ペンネーム)、「愛国」と銘打ってはいるものの内容は唯物史観的な記述であったためか、どこの出版社でも引き受けてはくれず、1943年(昭和18)にようやく興亜文化協会から刊行している。
湘南遊歩道路(ドイツ村)大正期.jpg
湘南遊歩道路(戦前).jpg
米軍上陸演習.jpg
茅ヶ崎海水浴場.jpg
 そろそろ、敗戦後の茅ヶ崎にもどろう。茅ヶ崎・辻堂射爆演習場の被害は、姥島の景観被害にとどまらず、当然、周辺海域で漁業をいとなむ漁師たちの生命をも脅かされていた。この課題は、第16回特別国会の衆議院外務委員会でも問題化し、漁業補償に関して茅ヶ崎演習地対策委員会の委員長が参考人として国会へ招致されている。そのころの様子を、同書より小生第四郎の随筆から孫引きしてみよう。
  
 ドカン!/ドカン!/と連日名所エボシ岩が、基地の砲撃にぶっ叩かれる。岩が変形し、海上の平安を祈る八大竜王の祭神がマトで粉ッ葉(ママ:木っ端)みじんと砕け、いまが盛りであるべきキスの漁が少くなり、この一体(ママ:一帯)のアミ元をはじめ、佐倉宗五のような決意を固めかけて来たようだ。/やっとのこと衆院の外務委員会に証人として送り込まれるチガサキ対策委員長の新倉吉蔵[と]漁業組合長の宮川勇吉が、進歩的県議添田良信とともに、本舞台に昇った。(カッコ内引用者註)
  
 その直後、1953年(昭和28)7月に朝鮮戦争は休戦状態になり、翌年からは烏帽子岩への砲撃訓練は行われなくなった。同時に、漁業補償の課題から射爆演習場の全面返還へと運動が盛りあがり、神奈川県知事あてに先の請願書が提出されている。だが、茅ヶ崎・辻堂射爆演習場が接収解除となり、日本へ返還されたのはそれから6年後、先述のとおり1959年(昭和34)になってからのことだった。
 敗戦後、親友だった中西伊之助が日本共産党から立候補して国会議員になったが、小生第四郎は彼を応援することは一度もなかった。むしろ、にわかに勢いづく日本共産党に対しては「人民天狗」と揶揄し、思想運動ではなく「政治行動」に移ったことに批判的だった。ところが、「六全協」Click!を境に小生第四郎は一転して日本共産党を支持するようになる。小谷汪之は同書で、同党には「反米感情に訴えるものがあったのだろう」と推測しているが、彼のアジア主義(あるいは民族主義)的な志向が、1960年代以降に見せた同党の姿勢のどこかに共鳴したものだろうか。
姥島2.jpg
茅ヶ崎海岸(菱沼海岸).jpg
辻堂海岸.jpg
小生第四郎「愛国読本」1943.jpg 小谷汪之「大東亜戦争期出版異聞」2013.jpg
 小生第四郎は、戦後も茅ヶ崎に住みつづけているが、なぜか東京の(城)下町Click!への思い入れがふくらみ、1977年(昭和52)には「下町人間の会」を結成している。おそらく、浅草ですごした青春時代が強烈な印象として脳裏に焼きついていたのだろう。彼のいう「下町」とは、戦前まで地付きの人々が意識して用いた“城下町”の略称=下町のことではなく、庶民が数多く住んでいる地域としての欧米式“ダウンタウン”に見立てた戦後の街々のことで、彼のいう「下町」に旧乃手=城下町の丘陵地帯は含まれていない。晩年は同運動にのめりこみ、竜泉の樋口一葉記念館建設や不忍池の下町博物館建設を手がけている。けれども、金沢出身のこの人物については「よくわからない人」というのが、わたしの正直な感想だ。

◆写真上:茅ヶ崎海岸の沖1.6km余に浮かぶ、相模湾の姥島にある烏帽子岩近影。
◆写真中上は、明治末に撮影された茅ヶ崎海岸の地曳きClick!と烏帽子岩。は、鎌倉期の侍烏帽子。は、1935年(昭和10)ごろ撮影の烏帽子岩。
◆写真中下は、大正期に撮影された茅ヶ崎海岸のドイツ人別荘街(ドイツ村)。正面奥に富士山が見え、手前に見える山は大磯丘陵の高麗山と湘南平(千畳敷山)で左手に見える道路が湘南遊歩道路。中上は、昭和初期に茅ヶ崎で撮影された湘南遊歩道路(ユーホー道路=現・国道134号線)と江ノ島Click!方面。中下は、朝鮮戦争に備えて実施された茅ヶ崎・辻堂射爆演習場の敵前上陸演習で、右手遠景に薄っすら江ノ島が見えている。は、馬入川(相模川)寄りの茅ヶ崎海岸(茅ヶ崎海水浴場)からの辻堂・鵠沼海岸方面の眺め。
◆写真下は、姥島烏帽子岩の現状。中上は、茅ヶ崎海岸の東側(菱沼海岸)で沖に見えるのが烏帽子岩。中下は、辻堂海岸の夕暮れで遠景に富士山と箱根・伊豆連山を望む。下左は、小生第四郎と中西伊之助の共著による出版拒否の連続だった『愛国読本』(興亜文化協会/1943年)。下右は、2013年(平成25)に出版された小谷汪之『「大東亜戦争」期出版異聞―「印度資源論」の謎を追って―』(岩波書店)。
おまけ
 1949年(昭和24)に制作された『晩春』(監督・小津安二郎)には、湘南遊歩道路をサイクリングする原節子と宇佐美淳のふたりが登場している。藤沢の片瀬・鵠沼海岸あたりから、米軍の射爆演習場になっていた茅ヶ崎・辻堂海岸を丸ごとすっとばして、いきなり平塚・大磯海岸あたりの風景が記録されており、この映画の撮影直後には朝鮮戦争が勃発して米軍による激しい砲撃演習や上陸演習が行われるようになる。同作に描かれた鎌倉や湘南海岸の情景は、平和をとりもどした小津映画ならではのテンポで描かれる穏やかな日常などではなく、新たな戦争前夜のキナ臭い風景だったことに改めて気づく。同作の3シーンのうち鵠沼海岸は最初の1枚目のみで、下の2枚は右手に湘南平(千畳敷山)Click!高麗山Click!の山影が見える平塚~大磯の湘南遊歩道路。映像をそのまま解釈すれば、ふたりは稲村ヶ崎Click!あたりから大磯近くまで往復40km余のサイクリングを、午後のきわめて短い時間で楽しんだ並はずれた健脚の持ち主で、立ちこぎが得意なスピード狂ということになる。w わたしが物心つくころ(4歳前後)まで、ユーホー道路はクルマもめったに通らないこんな情景だった。
遊歩道路1_1949.jpg
遊歩道路2_1949.jpg
遊歩道路3_1949.jpg

読んだ!(19)  コメント(2) 
共通テーマ:地域

あちこち居場所を変える近衛文麿。 [気になる下落合]

近衛新邸応接室1929.jpg
 近衛文麿Click!関連の本を読んでいると、下落合の近衛篤麿Click!が建てた下落合の邸から永田町の私邸、そして杉並区西田町の「荻外荘」Click!と、3ヶ所の家を移り住んでいると書かれているものが非常に多いことに気づく。
 落合地域にお住まいの方なら、すぐにも下落合の2邸が忘れられ抜けているのに気づくだろう。近衛文麿は、もともと飽きっぽい性格だったのか、1ヶ所に腰をすえることが苦手な人物だったのか、あるいは落ち着いて住むのではなく家を変えること自体が趣味でもあるかのように、次々と転居しては新たな自邸に移り住んでいる。
 1891年(明治24)に、近衛文麿は麹町区麹町7丁目20番地のいわゆる「桜木邸」で生まれている。一時は、父・篤麿の都合で同じ麹町区飯田町へ転居したこともあったようだが、再び麹町の桜木邸へともどっている。学習院の移転を計画する父・篤麿は、候補地だった山手線・目白駅Click!の東側(高田村金久保沢Click!稲荷原Click!一帯)の近く、山手線の西側にあたる下落合417番地に邸を建設して転居してくる。だが、その2年後の1904年(明治37)に篤麿が40歳で急死すると、近衛文麿は12歳で公爵家の家督を継ぐことになった。
 ここからが、下落合における文麿を当主とする近衛家がスタートするのだが、四谷区尾張町から近くの高田村(現・目白)へ移転してきた学習院中等科を卒業すると、彼は一高Click!へと進学している。そして、校長の新渡戸稲造Click!に惹かれたという一高を卒業すると、21歳になった文麿は1912年(明治45)に東京帝大哲学科へと進んだ。だが、東京帝大の講義が気に入らず、同年に京都帝大法科大学へと転学している。マルクス経済学者の河上肇や、哲学者の西田幾多郎などに惹かれたからだといわれている。
 文麿は、京都での学生時代には借家住まいをしていたが、結婚をすると商家の別荘を借りうけて新婚生活をはじめている。学生時代の1914年(大正3)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳して雑誌「新思潮」に発表。1916年(大正5)には、25歳になったので貴族院議員に選出されている。1917年(大正6)に京都帝大を卒業すると、近衛文麿は下落合の故・篤麿が建てた邸(旧邸)にもどっている。
 さて、ここからが頻繁な転居の繰り返しになるのだが、近衛邸の推移を1995年(平成7)に朝日ソノラマから出版された大須賀瑞夫『首相官邸・今昔物語』より引用してみよう。
  
 (愛人の証言から)「殿さまは家捜しがお好きなようで、目白には先代からのお邸があり、永田町にもあり、後には荻窪の『荻外荘』に移られました」/と書いている。目白といっても、当時はたんぼの中に農家が数軒散らばってあるような感じのところで、東京市外落合町下落合四三七番地という番地が残っている。/最初に首相となったころに住んでいた麹町区永田町二丁目二五番地というのは、まさに首相官邸と同じ町内であり、当時は二百九十戸の二丁目町内には首相、蔵相、農相の官邸があって、いわば日本政治の中枢の場所であった。/首相になった年の暮れ、つまり三七年十二月、近衛は永田町から荻窪に転居した。(カッコ内引用者註)
  
 この記述には、すでに時系列や事実の混乱が多々見られる。まず、「先代からのお邸」=篤麿が建てた近衛旧邸は下落合417番地であり、「下落合四三七番地」ではない。下落合437番地は、1929年(昭和4)に永田町から転居(避難)してきた、下落合436~437番地の近衛新邸のことだろう。また、下落合417番地の近衛旧邸は目白崖線の丘上にあり、灌漑に不便な地勢なので畑はあっても「たんぼ」はない。1880年(明治13)のフランス式1/20,000地形図Click!を参照すると、明治期には野菜畑と茶畑、それに竹林が散在するような風情だった。しかも、江戸期から将軍の鷹狩場Click!である御留山Click!つづきなので森林が多く、農家もあまり建ってはいない。
 また、永田町の邸からすぐに荻窪の「荻外荘」へと転居したように書かれているが、これも事実ではない。その間には、先述のように下落合436~437番地の近衛新邸が竣工して、新たな下落合時代がはさまっている。また、それ以前の転居先として、永田町2丁目の近衛邸が竣工するまでの間、目白中学校(東京同文書院)Click!の跡地南にあたる、下落合432~456番地に新邸を建てて、篤麿の旧邸にいた家族や家令たちとともに移り住んでいる。
近衛邸永田町1924.jpg
近衛新邸1929.jpg
近衛新邸正門跡.jpg
 あまりにも転居が多くて非常にややこしいので、もう一度、時系列に沿って整理してみよう。まず、1917年(大正6)に京都帝大を卒業した近衛文麿は、下落合417番地の自邸(篤麿の旧邸)へと帰る。そして、篤麿が残した膨大な借財を整理するため、学習院の同窓である東京土地住宅Click!の常務取締役だった三宅勘一Click!に相談し、箱根土地Click!による目白文化村Click!の開発を横目で見つつ、近衛邸敷地を新たな郊外住宅地として再開発する計画を進めている。借財の返済にあてるため、明治末にはすでに広大な敷地西側の御留山エリアClick!を、相馬孟胤Click!に売却していたが、それにつづき篤麿の旧邸が建っていた南側のエリアを、「近衛町」Click!として再開発することに決定した。また、翌年には相馬邸北側の落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)エリアを、「近衛新町」として開発し分譲したが、東邦電力Click!松永安左衛門Click!へほぼ全区画を販売している。
 当然、「近衛町」のエリアにあった篤麿の旧邸が解体されるため、文麿は練馬へ移転した目白中学校(東京同文書院)Click!のグラウンド跡の南側へ、一族が住めるように新たな邸Click!を建設している。それが下落合432~456番地にあった近衛邸で、わずか7年間しか存在しない暫定的な(といっても1/3,000地形図で見るかぎり、大きくて豪華な)邸がそれだ。同時に、文麿は麹町区永田町2丁目25番地の敷地へ、自身と妻子たちが住むメインとなる邸を建設しているが、竣工予定が1924年(大正13)だったため、永田町へ移り住むまでの2年間余は、上記の下落合432~456番地の近衛邸に住んでいただろう。
 ところが、永田町の私邸が竣工し住みはじめてから数年もたたないうちに、すぐにそこがイヤになって下落合に新しい邸を建てる計画をスタートしている。それが「近衛町」の北側、目白中学校跡の東側に位置する、下落合436~437番地(のち下落合1丁目436~437番地)の近衛新邸Click!だ。近衛新邸は1929年(昭和4)に完成し、永田町から家族ともども下落合にもどってくる。また、下落合432~456番地の暫定的な邸にいた親族たちも、新邸に合流して別棟に住むようになった。
 永田町の邸を離れるきっかけになったのは、藤田孝様Click!が故・近衛通隆様Click!へ取材したところによれば、永田町は交通が至便で訪問客があとを絶たず、1日じゅう接待に追われて家族も家令もくたびれはて、ウンザリしてしまったからとのことだ。だが、下落合も山手線の目白駅が近いため訪問客はあまり減らず、1937年(昭和12)の首相就任を契機に、杉並区西田町1丁目42番地に入江達吉が建てた「楓荻(ふうてき)荘」(設計・伊藤忠太)を買収して住むことが多くなった。名称も「荻外荘」Click!と改め、執務も首相官邸ではなく「荻外荘」で行うことが増えていく。永田町の邸が放棄され、「荻外荘」が“本邸”となるころには、下落合の近衛新邸は新聞紙上などで“別邸”Click!と表現されることが多くなった。
大須賀瑞夫「首相官邸・今昔物語」1995.jpg 岡義武「近衛文麿-「運命」の政治家-」1972.jpg
近衛文麿記者会見193706.jpg
荻外荘サクラ.JPG
 戦争末期になると、陸軍の監視Click!を避けるため軽井沢の近衛別荘Click!や、箱根にあった桜井兵五郎の別荘「缶南荘」Click!など各地を転々としていたが、敗戦と同時に「荻外荘」にもどっている。こうして、戦後の1945年(昭和20)12月6日、GHQによる巣鴨プリズンへの出頭期限の日に「荻外荘」の寝室で自裁しているのだが、上記に書いた邸のほかにも、まだいくつかの“住まい”が各地にあった。中でも有名なのが、上野池之端にあった元・新橋芸者で愛人だった山本ヌイ邸(別宅)と、京都の元・祇園芸妓だった海老名菊邸(別宅)だろうか。これら別宅でも、近衛文麿は少なからぬ時間をすごしている。
 当時、東京帝大の教授で近衛内閣のブレーンだった矢部貞治は、1941年(昭和16)3月27日の日記に次のように書き記している。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 「翼賛会は職員全部辞表を出すらしい。それぞれの職場を捨ててこれに飛び込んだ連中が可哀そうだ。有馬伯も『この棄て子』と言っている。狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺して与えていくという近衛の性格が最もよく現れている。こんなやり方だから、近衛のために死のうという人間がいないのだ」/「兎死して走狗烹らるか!」と書き、「狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺し与えていくという近衛の性格」と記された矢部の日記の行間からは、深い絶望感とともに、怒りが蒼白い炎をあげて立ちのぼっているようだ。
  
 自身の都合が悪くなると、あるいは自身の立ち場が悪くなると、周囲のせいにして切り捨てることをはばからないと、矢部貞治は近衛文麿の性格に怒りをこめて書いている。これは周囲の“人間”に限らず、生活する住空間や暮らし自体についても、どこか当てはまるのではなかろうか。少しでも住みにくい、あるいは面倒で居心地が悪いことがもちあがると、そこに踏みとどまって問題を解決するのではなく、サッサと新しい邸宅を建てて、あるいは探して逃避してしまうという性格の反映ではないだろうか。
 当時の新聞記者たちが、「土壇場になると、お公家さんは逃げ足が速いねえ」などとウワサしたり、あるいは岩波茂雄Click!の「近衛は弱くて駄目だねえ」という嘆息と、どこか通底するようなエピソードのように感じる。歴史に「もし」は禁物だが、もし近衛文麿が平和な時代に生きていたら、コトを荒立てずに穏やかで柔軟な考え方のできる、新しもの好きの知的な人物として語られていたのかもしれない。だが戦争の時代に生きていた彼は、その性格のすべてがあらゆる面で“裏目裏目”に出てしまったような印象を強く感じる。
荻外荘近衛文麿寝室.JPG
荻外荘仏間.JPG
近衛節子夫人.jpg
 政治ではリーダーシップを発揮できず、軍部(特に陸軍)という「狼に出会うごとに一匹ずつ馬を殺して与えてい」きながら、戦争への道筋へと引きずりまわされた弱い性格が、あちこち転居を繰り返す生活スタイルにも、どこか表れているような気がしてならない。

◆写真上:1929年(昭和4)に竣工した、下落合436~437番地の近衛新邸応接間。
◆写真中上は、1924年(大正13)に竣工した永田町2丁目25番地の近衛邸。は、永田町の邸にはわずか5年足らずしか住まず再び下落合436~437番地に新築した近衛新邸。は、下落合にある近衛新邸の正門跡。
◆写真中下上左は、1995年(平成7)出版の大須賀瑞夫『首相官邸・今昔物語』(朝日ソノラマ)。上右は、1972年(昭和47)出版の岡義武『近衛文麿-「運命」の政治家-』(岩波書店)。は、1937年(昭和12)6月に第1次近衛内閣の記者会見にのぞむ近衛文麿。は、杉並区西田町1丁目42番地にある「荻外荘」のベランダから眺めたシダレザクラ。
◆写真下は、近衛文麿が自裁した「荻外荘」の寝室で、のちには仏間として使われていた。仏壇には、下落合ともつながりが深い近衛篤麿の写真が置かれていた。は、故・近衛通隆様とともにかつて「荻外荘」でお話を聞かせていただいた夫人の近衛節子様。
荻外荘庭.jpg

読んだ!(18)  コメント(4) 
共通テーマ:地域

大空襲の遺体が地表へ這いあがる話。 [気になる本]

深川芭蕉庵.JPG
 以前、1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲Click!について、米軍の偵察機F13Click!が撮影した午前10時30分すぎの写真とともに、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校Click!)近くの実家にいた家族たちの避難ルートClick!をご紹介したことがあった。
 同時に、大橋(両国橋)Click!東詰めの本所に住む菊池正浩という方の家族が、自宅から上野公園まで避難する経緯も、関東大震災Click!の大きな川筋における火のまわり方(大火流)Click!とともにご紹介している。また、向島側と浅草側の避難民が衝突して身動きがとれなくなった、言問橋Click!の惨事についても記事にしたばかりだ。本所から大川(隅田川)の大橋をわたり、西へ逃げた菊池家についての本が出ているのを最近知った。2014年(平成26)に草思社から出版された菊池正浩『地図で読む東京大空襲』だ。
 著者の一家は、大橋(両国橋)をわたり本所元町や同相生町から南の堅川に架かる一ノ橋をわたった、本所の千歳町10番地(現・墨田区千歳1丁目)に住んでいた。また、母親の実家となる中西家は、大川と堅川に面した本所元町268番地(のち本所区東両国1丁目/現・墨田区両国1丁目)で暮らしていた。菊池家と母親の実家とは、直線距離で200mと離れていない。この2家族が、それぞれの家で東京大空襲の夜を迎えることになる。
 菊池一家も、関東大震災の教訓を知悉している祖父のリードのもと、遮蔽物のない大きな川の近くにいては危険ということで、大橋を西側(日本橋側)へわたったあと柳橋Click!をわたり神田方面へと逃げている。神田のフルーツパーラー「万惣」Click!は祖母の遠い親戚筋にあたるそうだが、「万世橋」(浅草橋Click!の誤記?)から南へ折れ日本橋馬喰町から同小伝馬町、同橋本町、同室町とたどり、日本銀行Click!日本橋三越Click!へ出たあと大手町から千代田城Click!方面へ逃げようと計画したらしい。この避難ルートは、わたしの家族が逃げたルートとも何ヶ所か重なっている。
 だが、ここで菊池家は、万世橋から反対方向の上野をめざして避難することになった。理由は、神田小川町や同淡路町方面に火の手が見えたとのことだが、このとき万世橋を「万惣」の方角へ折れるか、神田川に架かるいずれかの橋をわたり日本橋をめざして急いで南下していれば、うちの家族と同様にそれ以上の危険なめに遭うことはなかっただろう。菊池家は日本橋ではなく、まず知り合いのいる湯島天神をめざして北上していった。
 ところが、黒門町まできたときに、本郷や湯島方面から火の手が上がるのが見えたので、迫る大火災に背を向け、上野広小路の交差点から不忍池へと逃れ、そこから上野山へとようやくたどり着いている。このとき、著者は父親か母親の背中でグッスリ寝ており、3月10日夜の公園内の様子は記憶していない。上野公園は、関東大震災のときと同様に濃い森林が幸いして、各町からの大火流を食い止めていた。著者は、なにもない避難用の広場より、「木が豊かなところが避難場所に適している」と書いている。
 翌朝、起きてみると火災で焼けた道路を歩いてきたせいか、靴裏が破れ足の裏がひどく火傷していることに気づいた。大火災により、空気が急激に膨張して起きる火事嵐=大火流Click!で、道路を炎がなめて焼けていたのだろう。3月10日は著者の誕生日で、小学校に上がる直前の満6歳だった。この夜、空襲で焼き殺されたのは10万人超、いまだ行方不明者がどれぐらいいるかわからないのは、何度か記事Click!に書いてきたとおりだ。
 丸1日を上野公園ですごし3月11日の朝、実家のあった本所千歳町へともどる途中の光景は、著者が「話したくない」と書いているように悲惨のひと言だった。ときに、焼死体を踏まなければ歩けないような凄惨な道程だった。その様子の一端を、2014年(平成26)に出版された菊池正浩『地図で読む東京大空襲』(草思社)から少し引用してみよう。
堅川一ノ橋.JPG
鼠小僧次郎吉墓.JPG
力塚.JPG
  
 (犠牲者の遺体を)鳶口などで引っ掛けては、大八車やリヤカーへ無造作に積み重ね、埋葬場所へと運ぶ。埋葬場所といっても適当な空地や隅田公園などに大きな穴を掘り、放り込んで埋めるだけである。棺桶などはあるはずもない。ただの土葬である。戦後しばらくして掘り返されたわずかな遺骨は、何人分かをまとめて骨壺に入れられ、震災慰霊堂へ保管された。多くの犠牲者はビルやマンションが建ち並ぶ地下に眠っている。/下町といわれる一帯は、明暦の大火以降、多くの災害で亡くなった数十万の人に支えられてあるといっても過言ではない。(カッコ内引用者註)
  
 著者が遺体処理を目撃していたころ、わたしの義父Click!は麻布1連隊(第1師団)のトラックを運転し、大空襲による重傷者(おもに大火傷)を、次々と下落合の聖母病院Click!(1943年より軍部の命令で「国際」を外され単に「聖母病院」となっていた)までピストン輸送していた。国際聖母病院で亡くなった重傷者も、少なからずいたはずだ。
 わたしはよく記事の中で、東京は街全体が「事故物件」であり、そのような環境で「心霊スポット」や「心理的瑕疵物件」などといっているのは滑稽で笑止千万……というようなニュアンスの文章を書いているが、特に(城)下町Click!つづきの東京市街地(旧・大江戸エリアClick!)は、江戸期の初めから東京大空襲まで数えても、足もとにいまだ何万体の遺体が人知れず眠っているか不明なままの、街が丸ごと「心理的瑕疵物件」だ。
 現在でも、東京各地の自治体では東京大空襲による犠牲者の遺骨収集Click!をつづけているが、戦後78年が経過しても発見されている。菊池正浩は「隅田公園」を例に挙げているが、わたしは以前にこんな“怪談”を聞いたことがある。
 自治体では、遺骨収集の計画にもとづいて各地の公園や空き地、学校、公共施設の建て替え、あるいは大規模な道路工事などの際、戦後の記録や生存者の証言などにより発掘調査を行うが、前年に調査・発掘して遺骨を収集した場所でも、再び地表面の近くで少なからぬ遺骨が見つかるという。すでに遺骨を発掘・収集を終えているので、今回はより深く掘削して残りの遺骨を探す計画だったものが、再び地表面近くの同じ位置で遺骨が何度も繰り返し発見されるというのだ。
 つまり、5m以上も深く掘られた穴へ投げこまれた数多くの犠牲者の遺体が、少しでも早く発見してもらいたくて地中を上へ上へと這いあがってきているのではないか?……というのが、東京大空襲にからんで語られる有名な“怪談”のひとつだ。特に卒業式や終業式のため、疎開先からわざわざ東京へ一時的にもどっていた小中学生にとっては、悔やんでも悔やみきれない無念の死だったろう。この話が、人を怖がらせるためだけに作られた荒唐無稽な「怪談」とは異なり、非常にリアルかつ身近に感じるのは、事実として無念の死を迎えた人々の遺体があと何万体(関東大震災なども含め)、この街の足もとに人知れず埋まっているのかがわからず、わたしたちがその上で平然と生活し、歩きまわっているからだろう。
東京大空襲1.jpg
東京大空襲2.jpg
東京大空襲3.jpg
 余談だが、菊池家は明治期に東京へやってきているそうなので、わたしの親世代や祖父母世代から上の感覚でいうと、同書には違和感をおぼえる記述がいくつかある。大橋の東詰めは本所であって、少なくとも地付きの人々は1960年代ごろまでは「両国」とは呼んでいない。総武線の両国駅があるので、「両国」と呼ばれはじめたのは昭和期に入ってからだ。したがって、女学生たちがヒロポンを注射され風船爆弾Click!製造に動員されていた、そこにある国技館は本所国技館であって、「両国国技館」とは(少なくとも大川の西側からは)呼んでいない。両国国技館は、両国駅の北側にある現代の施設だ。
 大橋の東詰め一帯にある本所松坂町や本所相生町、本所松井町、本所小泉町などから「本所」(一帯は江戸期より「南本所」と呼ばれていた)がとれたのは町名の上に本所区が成立したからで、明治以降に「本所区本所〇〇町」ではクドく感じて面倒だったのは、大橋の西側が日本橋区になり、各町名のアタマから江戸期よりつづいていた「日本橋」を外したのと同じ感覚であり経緯だ。たぶん、わたしの親世代でさえ「東両国〇丁目」というよりは、「本所〇〇町」といったほうがピンときて話が通じやすかっただろう。日本橋区も京橋区と統合され、中央区という名称になっているけれど、町名の上に本来の「日本橋」を復活させる自治体の動きは、めんど臭いのかわたしの知るかぎり存在していない。
 また、以下のような記述がある。同書より、つづけて引用してみよう。
  ▼
 深川の思い出といえば八幡祭りが思い出される。/毎年八月十五日を中心に行なわれ、江戸三大祭りの一つに数えられている。他は神田明神と山王日枝神社で「神輿の深川、山車の神田、だだっ広いが山王さま」といわれ、それぞれ百ヵ町村以上の氏子町内を有していた。いずれも「天下祭」という寺社奉行直轄免許の祭礼であり、なかでも八幡宮の祭礼は勇み肌祭礼として、勇壮な神輿振りで庶民に人気があった。
  
 上記の文章には、明らかな誤りがあるので指摘しておきたい。深川八幡社(富岡八幡宮)Click!の祭りが、「江戸三大祭り」なのはまちがいないし、同祭が日本最大の神輿(4.5トン)を担ぐ“いなせ”で勇み肌なのも事実だ。ちなみに、日本橋地域のわが家は神田明神Click!の氏子で、氏子町は旧・神田区や旧・日本橋区を中心に八重洲や京橋方面も含め、ゆうに150町(江戸期の町数:昭和期に区域や地名、町名などが統廃合され現在は108町)を超えている。だが、深川八幡祭は史的に「天下祭り」とは呼ばれていない。
 「天下祭り」は、千代田城に山車や神輿が繰りこみ、ときの徳川将軍が観覧する神田明神Click!(北関東は世良田氏=松平・徳川氏の徳阿弥時代<鎌倉末期>からの氏子)と、日枝権現Click!(徳川家の産土神)の2社だけだ。深川八幡祭が「天下祭り」と呼ばれだしたのは、明治以降のことだろう。また、「寺社奉行直轄免許の祭礼」は江戸市中のおもな寺社祭礼には出されていたもので、特に上記の3社に限ったことではない。
 さらに、著者は「江戸城」と書いているが、江戸城は大江戸以外の地方・地域(他藩)から江戸表の同城を呼称するときに使用される名称であり、また江戸城Click!は1457年(康正3/長禄元)の室町期に太田道灌Click!が建てた日本最古クラスの城の呼称であって、それと区別するために地付きの人々が徳川幕府の城を表現するときは、戦前戦後を通じ一貫して単に「お城」、または昔からの地域名をとって「千代田城」と呼称している。
本所国技館.jpg
富岡八幡社神輿.jpg
菊池正浩「地図で読む東京大空襲」2014.jpg 東京都35区区分地図帖1946.jpg
 同書では、1946年(昭和21)に日本地図(のち日地出版)が刊行した『東京都35区区分地図帖-戦災焼失区域表示-』の詳細を紹介している。確かに、戦後間もない植野録夫社長の仕事には頭が下がる思いだ。けれども、同地図には誤りが多々散見される。戦後、F13が1947~1948年(昭和22~23)にかけ爆撃効果測定用に撮影した空中写真Click!と同地図とを重ねあわせると、特に山手大空襲Click!地域における焼失区域と焼け残った区域とが、かなり異なって一致しないことに、ここ10数年気づかされつづけている。詳細な被害地区を特定するには同地図よりも、米軍の精細な空中写真を参照するほうがより正確な規定ができるだろう。

◆写真上:小名木川出口の、深川芭蕉庵跡から清州橋方向を眺める。大空襲のあった翌朝、大川には無数の犠牲者が浮かび東京湾へと流されていった。
◆写真中上は、一ノ橋から大川へと注ぐ堅川水門を眺めたところ。著者の家は堅川の左手(千歳町)に、母親の実家は川の右手(相生町)にあった。は、空襲がはじまってすぐに避難した同書にも登場している本所回向院の鼠小僧次郎吉の墓と力塚。
◆写真中下:1945年(昭和20)3月10日の午前10時35分から数分間、大空襲の翌朝に東京を撮影した米軍の偵察写真。いまだ各地で、延焼中の煙が見えている。
◆写真下は、1909年(明治42)に竣工した本所国技館。は、夏の深川八幡の祭礼でかつがれる日本最大(4.5トン)の富岡八幡宮神輿。下左は、2014年(平成26)出版の菊池正浩『地図で読む東京大空襲』(草思社)。下右は、戦後間もない1946年(昭和21)に出版された『コンサイス/東京都35区区分地図帖-戦災焼失区域表示-』(日本地図)。
おまけ
 新型コロナ禍で中止されていた神田祭が、ようやく今年は開催された。「天下祭り」Click!の名のとおり、神輿かつぎや山車ひき、先導も含め女子が多いのも同祭の特徴だ。ちなみに神田祭には、昔から男神輿と女神輿の区別がない。もうすぐ創建から1300周年祭を迎える江戸東京総鎮守・神田明神の本神輿や山車は、柴崎村(現・大手町)の旧・神田明神跡(将門首塚)Click!で主柱「将門」を載せたあと、同じく主柱の出雲神オオクニヌシの神輿とともに神田町内を巡行する。神田・日本橋・京橋・八重洲・大手町その他の各町内からは、150基を超える神輿や山車が繰りだす日本最大の祭り(参加氏子総数は200万人前後ともいわれる)だが、神田から御茶ノ水、湯島一帯の交通がマヒしてしまうので、現在では観光客や見物客も多いため、氏子町の全神輿が神田明神下へ勢ぞろいするのはなかなか困難だ。写真は、日本橋筋から神田方向へと進む神輿連。いちばん下の写真は、大川(隅田川)の大橋(両国橋)から柳橋をくぐり神田川を明神下までさかのぼる、東日本橋界隈の舟神輿(舟渡御)。
神田祭1.jpg
神田祭2.jpg
神田祭3.jpg
神輿舟(舟渡御).jpg

読んだ!(19)  コメント(11) 
共通テーマ:地域

誰ノ御蔭デコンナ罹災者ニナツタンダ。 [気になるエトセトラ]

帝国議会議事堂.jpg
 以前にも、敗戦時に焼却されず残った特高警察資料Click!をもとに何度か記事Click!を書いているが、特高Click!がある人物をマークClick!したり思想・宗教弾圧で検挙して拷問を加えたりしたのは、別に共産主義者や社会主義者、アナキストだけではない。昭和10年代になると、民主主義・自由主義者、エスペランティスト、キリスト者、英語教師、反戦・厭戦を口にする人物たちなどを、文字どおり片っぱしから検挙Click!している。
 また、肥大化した組織の常として、検挙や起訴の“成績”が思うようにあがらないと、「人民戦線事件」Click!や「横浜事件」のように、ありもしない「事件」を次々とデッチ上げ、ふだんから気に食わない学者や芸術家たち、いうことをきかない出版社やマスコミをこれみよがしに弾圧Click!していった。まるで、今日のロシアや中国の国情を見るようだが、いまから80年ほど前まで日本で起きていた地つづきの現実だ。
 今回は、太平洋戦争が開戦する直前(1941年8月)の時点で特高に検挙・起訴された人物と、あまたの犠牲者を生みながら敗戦を迎え、大日本帝国が滅亡する直前(1945年8月)の時点で検挙・起訴された人物について、同じ東京市内の本郷区と淀橋区に在住していたふたりの人物にしぼって、その検挙理由や罪状も含めてご紹介したい。
 まず、1941年(昭和16)8月に本郷区春木町(現・文京区本郷3丁目)に住む、店舗の支配人だった壇小三郎という人が、「反戦反軍言辞」を理由に検挙・起訴された事例で、隣組臨時常会に出席しているときの発言がもとで摘発されている。当時、日米関係の緊張が高まっており、また中国の戦線では「破竹の勢い」の進撃がなくなり、国民党や共産党と対峙する前線では苦戦または膠着状態がつづいているような戦況だった。
 2019年(平成31)にパブリブから出版された高井ホアン『戦前反戦発言大全』に収録の、1941年(昭和16)8月5日付け「特高月報」より引用してみよう。
  
 戦争は破壊である、文化を破壊し人名(ママ:人命)を損傷し財産を滅失して人々を苦しめるものであるからどんな場合でも最後まで手を尽して戦争を避くべきである、破壊を伴う戦争はどんな場合でも罪悪である、支那事変は二・二六事件の延長として日本軍部の急進的分子が意識的に計画して起したもので一般国民には関係がないのだ(。) 軍部は事変前に国際的危局迫ると言って軍用機の準備、兵員の訓練に努力して事変始まるのを予想してその準備をして居たのである、軍人の職業は戦うことだ、軍人は戦場で死ねばどんな場合でも戦死として扱はれ靖国の神として祭られるし、その遺族は遺族扶助料をもらい生活まで保護されるが、一般国民は空襲などの為死んでも又は職域奉公に倒れても何の保障もなく酬われる所がないのです(後略/カッコ内引用者註)
  
 まったく当時の史的事実と社会状況を率直つか現実的に述べているにすぎず、また戦争末期の空襲や戦時中のインフレ、政府の財政破綻などを正確に予測するなど、非常にまともで論理的かつ分析力・認識力に優れた知的な人物像が浮かぶ。
東京大空襲.jpg
下落合空襲1.jpg
 これに対して、特高は「反戦反軍に渡る造言飛語を為す」として検挙のうえ、ただちに送検(起訴)している。単に事実を話し、「このままいくと……」の近未来予測を少ししただけで逮捕されるのは、学者や評論家たちまでをも弾圧しはじめている、現在のロシアの社会状況に酷似している。先日、「戦争はやめよう」というプラカードを持ち、街角に立っていただけで逮捕されたロシアの少女がいたが、当時の日本で同様のことをしたなら特高による激しい拷問により、五体満足では出てこられなかったかもしれない。
 隣組臨時常会での発言が特高に知られたのは、もちろん出席者あるいは近所の誰かの密告(チクり=タレこみ)によるものだ。国家による全体主義Click!的、あるいはファシズム的な傾向が強まれば強まるほど、現代の中国やロシア、ミャンマー、あるいは北朝鮮などを問わず監視と密告は奨励され褒賞されていく。戦時中の「隣組」Click!は、相互監視と密告奨励をセットにし双方の弾圧機能をになった、人間の想いや感情、思想・宗教の吐露さえいっさい許容しない、恥ずべき愚劣な「亡国」制度のひとつだろう。
 やや横道にそれるが、これまで拙サイトには日本語を勉強する外国人の方々から、少なからずコメントが寄せられてきた。当然、中国の方々からのコメントも書きこまれていたが、最近はそれが途絶えて久しい。もちろん、中国の監視組織による当局への密告、あるいは日本国内で組織化されているとウワサされる「中国警察」の密告・摘発への懸念から、沈黙せざるをえなくなったのだろう。非常に残念なことだ。
 さて、次は敗戦間近の摘発事例を見てみよう。淀橋区柏木1丁目(現・新宿区西新宿7~8丁目)に住んでいた能瀬貞子という女性が、特高により「重要特異流言飛語」として検挙・起訴されたケースだ。たいそうな厳めしい摘発用語が付加され、数々の違反名や罪名が列挙されているが、単に配給の行列に並んでいた際、よくある女性同士の世間話、あるいは井戸端会議として交わされた話の内容にすぎない。
 こちらは、1945年(昭和20)8月3日に発行された「官情報第629号」に掲載された事例だ。ちなみに、「特高月報」は1944年(昭和19)の11月号を最後に、おそらく物資不足のためか廃刊になっており、戦争末期にはすでに存在しなかった。では、同書より「官情報629号」に掲載された「重要特異流言飛語発生検挙」から、少し長いが引用してみよう。
焼夷弾と火災.jpg
下落合空襲2.jpg
  
 1、此ンナニ大勢焼ケ出サレテ、私達ハスキ好ンデコノヨウナ目ニ遭ツタンジヤアルマイシ/デモネー戦争ハ此ノ秋位デ勝ツトカ負ケルトカ区切リガツクツテ話ジヤナイノ 七、八月頃ハトテモ空襲ガ激シクナルソウデスヨ。/2、負ケテモ殺サレルノハ上ノ方ノ人達ダケナンダ 私達ミタイノ下ノ物ハ殺サレヤシナイハヨ 負ケテモ私達ハ別ニ悪イコトシテル訳ジヤナシ殺サレルノハ上ノ偉イ人達ダケナンデセウ/3、本当ニ近衛サンヤ東條サンガモツト確(しっか)リシテ亜米利加ト手ヲ握リサヘスレバコノヨウナコトニナラナクテ済ンダンダ/亜米利加デ最初斯(ママ:其)ンナニナラナイ内ニ手ヲ握ラウトシタノヲ近衛サンガ頑固ニ振リ切ツチヤツタカラコンナ戦争ニナツチヤツタンダハ 其ノ為大勢ノ人ガ焼ケ出サレタリナンカシテ苦シムノダハ/罹災者罹災者ツテネー人ヲ邪魔扱ヒシテ誰ノ御蔭デコンナ罹災者ニナツタンダカ判リヤシナイハ。/4、天皇陛下ハ立派ナ防空壕ニデモ這入ツテ納ツテンデセウネ 天皇陛下、天皇陛下ツテ奉ツテ居ルケレ共 別ニ天皇陛下ニ喰ベサシテ貰ツテル訳ジヤナシ 反ツテコツチデ働イテ喰ベサシテヰル様ナモンダ/天皇陛下ナンテアツテモナクテモ同ジダ 御天道様ト米ノ飯ハツイテ廻ツテルンデスモノ。(カッコ内引用者註)
  ▲
 いつも庶民の眼は、鋭くて的確で正しい見本のような女性の言葉だ。まことにもっておっしゃるとおりで、真珠湾攻撃やマレー沖海戦について「はじめの勝ちは、嘘っ勝ちだ」といい、<♪勝チ抜ク僕ラ少国民~天皇陛下ノ御為ニ~>とうっかり唄ったとたん、「うちじゃ、そんなこと教えていないよ!」と厳しく叱責した川田順造の母親Click!や、真珠湾攻撃の前日まで銀座や日本橋で上映されていた米国映画をふんだんに観ていたせいか、「米国に勝てるわけがない」といって祖父や親父たちの言論をリードしていたらしいうちの祖母Click!(学生の親父はそう公言して交番のお巡りに引っ張られている)と同様、高等教育を受けたわけでもない女性たちの直感(皮膚感覚)や洞察力の鋭利さには恐れ入る。
 ただ、熊瀬貞子は「秋位」に「負ケル」と予想していたようだが、それよりも1ヶ月ほど早い藪入り(旧盆)Click!の8月15日に、日本は無条件降伏して敗戦を迎えている。この井戸端会議の内容が漏れたのも、誰かの密告によるものだろう。
 他の女性たちに対する彼女のおしゃべり=世間話についた罪状、すなわち7月11日に起訴された容疑は、刑法第74条違反(天皇への不敬罪)、陸軍刑法第99条違反(反戦・反軍思想)、言論集会結社等臨時取締法第17・18条違反(女性たちの井戸端会議が集会結社にあたる/爆!)だった。ずいぶん厳めしい罪状が女性たちに付与されたものだけれど、今日から見ればまことに滑稽でバカバカしさすら漂う。ただし、人々が集まり世間話をしただけで逮捕されるのは、民主派を弾圧しつづけるミャンマーや少し前の香港のケースと同様で、「反国家的集会結社」で逮捕された人たちはどれほどの数にのぼるのだろうか。
 おそらく、彼女は裁判所の法廷に引きだされることもなく(そもそも裁判所は焼けて機能しておらず、法廷要員さえ空襲で満足に集まらない状況だった)、どこかに拘禁されて1ヶ月後の敗戦を迎えていると思われるが、無事に戦後を生きのびていてほしいと願う女性だ。
焼夷弾攻撃.jpg
早稲田上空B29.jpg
 敗戦が近い街角で、とある女性が「今頃新聞で敵の軍艦を何艦轟沈、我が方の損害は軽微と書いてあるけど、我が方が多く沈んでゐるのでせう」と発言してすぐに検挙されている。だが、事実はまさにそのとおりで、「大本営発表」こそが造言飛語の出どころだったのだ。ロシアや中国の治安当局が、反戦や民主思想に関する「取り締り」の際に発表する、ほとんどウソで塗り固められたその口実や理由を、後世の歴史は決して許容しやしないだろう。

◆写真上:戦後すぐの撮影とみられる、帝国議会議事堂Click!周辺の焼け野原。
◆写真中上は、1945年(昭和20)3月10日夜半の東京大空襲Click!で撮影された燃えるビルや住宅街。は、同年5月17日撮影の目白駅と下落合東部の空襲被害。
◆写真中下は、東京で撮影された焼夷弾攻撃の様子。は、1945年(昭和20)5月17日にF13Click!によって撮影された第2次山手空襲Click!直前の下落合中部および椎名町の様子。上部には武蔵野鉄道・椎名町駅が見え、右下には国際聖母病院が写る。
◆写真下は、米誌「LIFE」に掲載された焼夷弾攻撃の様子。は、夏目坂Click!上空を飛ぶB29。眼下上部には早稲田大学の大隈記念講堂と、右下には早稲田小学校が見えている。
おまけ
 郵便ポストの中で、大きなカブトムシ♀が死んでいた。カラスに追われたものか、娘が見つけていたらアオダイショウClick!以来、再びキャーーッ!が近所じゅうに響いただろう。
カブトムシ♀.jpg

読んだ!(18)  コメント(2) 
共通テーマ:地域

大泉黒石が下落合にやってくるまで。 [気になる下落合]

溝口健二×大泉黒石「血と霊」1923.jpg
 大泉黒石Click!がぶっ飛んでいて面白いのは、ベストセラー作家になり原稿依頼が次々と舞いこみ多忙だったにもかかわらず、息子のひとり(大泉滉)と同様に俳優をめざしたことだ。今日ではめずらしくない“二刀流”だが、ベストセラー作家が活動(映画)俳優をめざすなど当時としてはありえないことで、彼が混血のハーフだったことによる“あいの子”差別ともあいまって、同業者(文壇)から反感をかったのではないか。彼が映画界に手をだしたことも、文壇から排斥されるきっかけになったのかもしれない。
 大泉黒石は1923年(大正12)5月、日本活動写真(のち日活)の俳優部を志望して、同社の向島撮影所へ入所している。もちろん、彼は世間に名の知られた作家であり、職業をふたつ持つことなど考えられない時代だったので、希望する俳優部ではなくシナリオライティングが専門の脚本部所属の顧問というポストへまわされている。人気の流行作家が映画会社に就職したということで、さっそく東京の新聞ダネにもなっている。
 当時の映画界は時代劇Click!が主流で、同時代の新派Click!と同様に女役も男の役者が演じるような環境だったが、大正中期の日活は松竹蒲田撮影所Click!から新進女優を引き抜いたり、『カリガリ博士』(R.ヴィーネ監督/1920年)などヨーロッパ前衛映画の影響を受けた作品の制作を試みたりと、時代の最先端をいく映画表現に挑戦する姿勢を見せていた。
 大泉黒石は、脚本部で『血と霊』という120枚ほどの短編を仕上げると、前年にデビューしたての新人監督だった溝口健二Click!と組むことになった。ちょうど、村山知義Click!がヨーロッパからドイツ表現主義を持ち帰り、月見岡八幡社Click!の南側にあたる上落合186番地の敷地へ「三角アトリエ」Click!を建設しているころだ。未来派美術協会Click!の解散から「マヴォ」Click!グループ結成と、大泉黒石のシナリオによる溝口健二『血と霊』の制作過程は、時期的にもみごとにシンクロしている。
 少し余談だが、大泉黒石によって築地小劇場へよくいっしょに連れていかれた息子の大泉滉は、1940年(昭和15)に制作された『風の又三郎』(島耕二監督/日活)の子役でデビューしている。戦後は杉村春子Click!のいる文学座Click!に所属して舞台や映画・ドラマで活躍することになるが、1952年(昭和27)に制作された溝口健二『西鶴一代女』(東宝)に出演し、田中絹代Click!と共演している。このとき、溝口健二が大泉滉へ父親と制作した映画『血と霊』について話題にしていたかどうかは不明だ。
 映画『血と霊』を溝口健二と制作しているのと同じ時期、大泉黒石は並行して『預言』を執筆している。だが、ちょうど関東大震災と重なってしまい、震災後に新光社から出版された同書(出版社が勝手に『大宇宙の黙示』とタイトルを変更してしまった)は、大震災の混乱の中で埋もれてしまいほとんど評判にならなかった。これは映画『血と霊』もまったく同様で、大震災直後の秋に公開されたため観客の入りがきわめて悪く、日活は以降、前衛映画の制作に二の足を踏むようになる。大泉黒石にとっては、重ねがさね不運な時代だった。
 このころの様子を、岩波書店から今年(2023年)に出版された四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』から、少し長いが引用してみよう。
  
 黒石が『預言』を世に問うにあたっては、いくぶん込み入った事情があった。関東大震災の直後、彼は瓦礫と化した雑司ヶ谷(ママ)に疲れ、郊外の下長崎(ママ)に転居。気分を一新して執筆を開始したまではよかったが、刊行にあたっては大震災の出版業界の混乱が災いした。/一九二四年四月、以前に『老子』で大評判を得た新光社がこれに飛びつき、大急ぎでそれを出版した。ところが困ったことに、出版社は作者の主張する『預言』という題名を無断で『大宇宙の黙示』という表題に変更して刊行したのだった。この鬼面人を驚かす題名は、あわよくば『老子』の二番煎じを狙ってのことである。杜撰なのは題名だけではなかった。書物には目次も章立てもなく、校正が不充分であったのか恐ろしく誤植が目立った。黒石は「自序」のなかで「文壇に対する私の心には、今や、軽蔑と冷笑のほかには何もない」と大見得を切ったものの、文壇からの反響はなく、大震災後の騒然とした雰囲気のなかで、『大宇宙の黙示』は何の話題にもならず埋没してしまった。
  
大石黒石「大宇宙の黙示」1923新光社.jpg 大泉黒石「豫言」1926雄文堂出版.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神参道1919.jpg
雑司ヶ谷鬼子母神1919.jpg
 まず、「下長崎」は「南長崎」(当時は長崎村字椎名町)、あるいは「下落合」のどちらかだと思われる。文中では、「瓦礫と化した雑司ヶ谷」と書かれているが、東京郊外の高田町雑司ヶ谷は関東大震災による被害は軽微だった。
 もっとも大きな被害は、薬品棚が倒れ学習院の特別教室が全焼したもので、あとはレンガ造りの建物や脆弱な住宅などの外壁が崩れたか、場所によって住宅の屋根瓦が落ちた程度だった。建物の倒壊も見られず、したがって雑司ヶ谷地域では死者が出ていない。ちなみに、落合地域の被害は農家の古い納屋が2軒倒壊しただけで、死者は高田町(雑司ヶ谷)と同じく記録されていない。東日本大震災のときにも感じたことだが、東京市街地と丘陵地とではそもそも震動の規模が異なっていたとみられる。
 1923年(大正12)現在、雑司ヶ谷にあった当初の大泉邸の住所番地は不明だが、雑司ヶ谷鬼子母神Click!秋田雨雀邸Click!からほど遠からぬ位置にあったことはまちがいない。ちなみに、『俺の自叙伝』(岩波書店版/2023年)には華族の三条邸裏(北側)と書いてあるので、高田町(大字)雑司ヶ谷(字)美名實あるいは高田町(字)若葉(高田若葉町)のいずれかだと思われる。大泉黒石は、同業の文学者や、「鬼子母神森の会」Click!のサークルのように地元に住んでいた作家や画家たちと交流することはほとんどなかったが、秋田雨雀Click!の家にはちょくちょく遊びに寄ったようだ。そのためか、彼のトルストイ主義的アナキズム思想とも相まって、黒石はこの時期から警察にマークされるようになる。
 大泉黒石は、同じ雑司ヶ谷町内で一度転居している。そのころの生活の様子を、1988年(昭和63)に出版された『大泉黒石全集』第3巻の付録、「黒石廻廊/書報No.3」に収録された黒石の長男・大泉淳「父、黒石の思い出」から少し長いが引用してみよう。
大泉黒石プロフィール.jpg 大泉黒石「当世浮世大学」1929.jpg
大泉黒石「当世浮世大学」前川千帆.jpg
東長崎駅1935頃.jpg
  
 家の屋根に登れば鬼子母神の森が望めた程の距離であったから、父はよくそこに出かけた。父は子供達への愛情は大変強かったので、鬼子母神には自ずから足が向いたのであろう。その参道の欅並木に挟まって雀焼きの店があって、父は雀焼きをよく買って帰って酒の肴にしていた。/その後、私共は鬼子母神と池袋の中間辺りに引越した。(中略) ここでは、父は好んで和服を着ていた。背恰好、風貌は全く日本人離れしていたから、和服を着て外を歩く父を人々は振り返って見ていた。(中略) 家の後ろの程遠からぬ所を武蔵野鉄道が走っていて、時々、私は弟の灝を連れて電車を見に行った。(中略) その後、私共は東長崎(ママ)の茶畑にぽつんとある西洋館に引越した。この頃父の名も売れて、仕事が本調子になって来ていたのであろう。と言うのは、家の構えはその頃には珍しくハイカラな洋館で、ピアノを始め家具調度も然るべく整っていて、離れた所にある何軒かの人たちから、私共は坊っちゃん、坊っちゃんと呼ばれるようになっていた。私は武蔵野鉄道に乗って雑司ヶ谷の小学校に通っていたが、朝、父が駅まで見送りに来てくれることが屡々だった。
  
 高田町雑司ヶ谷の中で転居した先は、武蔵野鉄道の線路内に子どもたちが侵入できる地域(大泉淳は一度汽車に轢かれそうになっている)だから、おそらく池袋駅も近い(大字)雑司ヶ谷(字)御堂杉か(字)西原のどちらかだろう。
 この文章では、新たに「東長崎」という名称が登場している。もちろん、大正期の長崎村にこのような地名も字名も存在していないので、武蔵野鉄道の駅名だとすると、同駅から近い長崎村(字)五郎窪あるいは(字)大和田ということになる。だが、長崎村の転居先については「椎名町」、あるいは「南長崎」とする大泉淳の証言もあるようなのだ。息子が武蔵野鉄道で雑司ヶ谷の高田第一小学校へ通うために、大泉黒石がしばしば見送った駅は東長崎駅か、または椎名町駅のどちらだったのだろう?
 また、当時の長崎村は清戸道Click!(現・目白通り)沿いの(字)椎名町を除いては、一面の田畑が広がる農村地帯だった。したがって、文中に書かれているようなハイカラな西洋館が建っていたとすれば、そして同邸の主人が「全く日本人離れ」した風貌をしていれば、雑司ヶ谷のリヒャルト・ハイゼClick!が住んでいた「異人館」Click!と同様に、地元の人たちに強烈な印象を残しているはずだが、わたしは長崎地域でそのようなエピソードを一度も聞いたことがないし、資料類でも目にした憶えがない。おそらく、大泉一家の長崎村ですごした時期が短かったため、語り継がれるほどの印象を地元に残さなかったのだろう。関東大震災からほどなく、一家は下落合(現・中落合/中井含む)へと転居してくることになる。
大泉黒石とその子どもたちばかりでなく、黒石の研究者も彼の転居先やそこでのエピソードについて混乱していることが判明した、詳細はこちらの記事Click!へ。
椎名町駅付近1919.jpg
椎名町駅1935頃.jpg
 大泉淳は、林芙美子の『柿の実』(1934年)を意識したのか、「父が酒に溺れていたことはない」とわざわざ書いている。むしろ、健康には留意して生活し執筆をしていたと、林芙美子へ間接的に“反論”しているようだ。また、大泉黒石はよく即興で自己流のピアノを弾いていたらしい。今日的な表現をすれば、黒石はJazzyな演奏をしていたのだろう。下落合2130番地でも、大泉邸からは黒石のJAZZが流れて五ノ坂あたりまで聴こえていただろうか。

◆写真上:1923年(大正12)秋に上映された大泉黒石×溝口健二監督によるドイツ表現主義的映画『血と霊』(日活)だが、大震災の混乱で興行は失敗だった。
◆写真中上上左は、1923年(大正12)に新光社から出版された大泉黒石『大宇宙の黙示』(出版社がタイトル『預言』を勝手に改変)。上右は、1926年(大正15)に雄文堂出版から改めて刊行された大泉黒石『預言』中扉。は、1919年(大正8)に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の表参道。は、同年撮影の雑司ヶ谷鬼子母神境内。
◆写真中下上左は、雑司ヶ谷時代とみられる大泉黒石。上右は、1929年(昭和4)出版の大泉黒石『当世浮世大学』(現代ユウモア全集刊行会)。は、『当世浮世大学』の前川千帆Click!による挿画。は、1935年(昭和10)ごろ撮影の東長崎駅。
◆写真下は、1919年(大正8)に撮影された椎名町駅の近辺。当時はほとんどが田畑で、東京郊外の田園地帯だった。は、1935年(昭和10)ごろ撮影された椎名町駅。

読んだ!(21)  コメント(2) 
共通テーマ:地域

大鍛冶(タタラ)集団による操業は千人規模? [気になる下落合]

菅谷たたら場.jpg
 目白崖線に残る、古代か中世かは不明だがタタラ遺跡Click!とみられる金糞=鐵液Click!が出土した3地域について、少し前の記事に書いた。また、神奈(鉄穴)流しを必要とせず、あらかじめ良質の砂鉄が堆積している天然の神奈(鉄穴)流し場について、香取神宮の金久保谷と目白駅Click!のある金久保沢Click!についてもつづけて記事にしている。
 その際、各地を移動して目白(鋼)Click!を製錬した古代の大鍛冶(タタラ)集団は、100人単位の大所帯だったのではないかと書いた。そのヒントとなるような数字が、1885年(明治18)の出雲地方で記録されている。まず、大鍛冶(タタラ)を専業としていた小村の記録から見てみよう。島根県飯石郡吉田村吉田菅谷の菅谷タタラ集落では、戸数が34戸で158人の村人が生活していた。そのうち、労働人口は52人で、大鍛冶(タタラ)を専業とする職に携わっていた人は32名となっている。残り労働人口20名は山仕事や農作業などで、他の106人はその扶養家族あるいは仕事をもたず地域で扶養していた人々だ。
 大鍛冶(タタラ)にかかわる32名(32戸)の内わけは、次の表のとおりだ。
菅谷タタラ人数.jpg
 この32名が、大鍛冶(タタラ)作業をするすべてではない。彼らは、その多くの役職が部門長格であり、その下に派遣職工(アルバイト職人)として村外から参加する、一時雇いのスタッフたちが周辺地域に数多く存在している。たとえば、足踏み鞴(ふいご)を24時間(×3日間)にわたって約2時間(1刻)交代で踏みつづけ、大鍛冶(タタラ)作業ではもっともきつい力仕事のひとつである、代番子(かわりばんこ)が含まれていない。彼らは、周辺の地域から集められた健脚自慢の人たちだったろう。
 読者のみなさんはすでにお気づきかと思うが、なにかの行為を交代で担当することは「かわりばんこ」であり、「たたらを踏む」「ひょっとこ(火男)」Click!などと同様に現代に伝わるタタラ用語のひとつだ。また、菅谷タタラ場の山子は、単に山の樹林を伐採して炭焚(炭焼き)に引きわたすだけでなく、菅谷地域に定住している彼らは、伐採した跡地には数十年後に再び樹木を調達できるよう、積極的に植林作業も行っていたと思われる。
 1885年(明治18)ごろ行われていた、政府から支給される大鍛冶(タタラ)の特別手当ては、村下の最高責任者が米9合/日、炭坂(副村下)の初心者が2合/日で、ベテランになればなるほど炭坂は米1合/日単位で増え、村下に近い特別な扶持米が与えられていた。これらは上席の特別な賞与だが、各職工の通常の日当(通常の生活費)は、村下・炭坂・炭焚・番子が1升2合/日、鋼造・内洗が1升/日などと決められていた。もちろん、これだけでは食べていくのがきついので、家族たちは神奈(鉄穴)流しが行われなくなった跡地などを利用して耕し、田畑で米や野菜などを栽培していたのだろう。鉄の需要が急増し、もっとも景気がよかった日露戦争(1904~1905年)のころは、扶持米に代わり賃金が支払われたようで、村下が10銭/日、炭坂が8銭/日という記録が残っている。
 近世に入ると、わざわざ砂鉄を採集する神奈(鉄穴)流しでは、短期間で十分な砂鉄量が集まらないため、各地で営業する砂鉄採集の専門業者から大量に購入したり、周辺の山々の樹木を伐採して木炭を焼けば、すぐに森林が丸裸になってしまうので、製錬に必要な不足分の莫大な木炭を炭業者へ注文したり、タタラ炉を築造する鑪土(粘土)を集めるのは非常に手間と労力がかかるので、粘土の専門業者へ発注したり、山火事や火災などで燃えた焼木(やけぎ)を、生木よりも短時間で木炭化が可能なためどこからか調達したりと、大鍛冶(タタラ)集団自体の作業も非常に効率化・省力化され、大幅に分業化が進捗していたのがわかる。
もののけ鉄穴流し.jpg
 これらをひとつの大鍛冶(タタラ)集団のみでまかなうとすれば、すぐにも100人単位の人数が必要なことは自明だろう。明治期には、ここまで生産性の向上による作業の省力化・分業化が進んでいたが、古代の大鍛冶(タタラ)が製錬事業を行うためには、厖大な職人や労働力が必要であり、その移動はちょっとした“民族の大移動”だったろう。
 明治期の出雲に残った菅谷タタラ場では、不足する資材を専門業者から大量に仕入れ、それでも足りない人材を数多く臨時雇用していたが、その人数は各職で123人にもおよんだ。これに、菅谷タタラの専門職の責任者たち32人を加えると、近現代でさえ大鍛冶(タタラ)を行うのに合計155人のスタッフが必要だったことになる。明治期の、かなり効率化され省力化された大鍛冶(タタラ)作業でさえ、150人以上の人員が必要なことを考えると、古代の作業ではどれほど多くの人員を必要としたのかがおおよそ見えてくる。
 彼ら大鍛冶(タタラ)の作業には、少なくとも200人を下ることはなかっただろう。この200人という数字は、あくまでも大鍛冶(タタラ)の仕事を直接手がける職人数であり、その家族たちを含めれば大規模な集団を想定することができる。上記の菅谷タタラ場をモデルとすれば、集落の人口158名のうち52名が労働人口であり、大鍛冶(タタラ)仕事を専業としているのが32名で他の職(林業など)が20名と記録されているから、単純な比率計算をすると大鍛冶の家族は97名、その他の家族は34名(=計158名)という見当になる。つまり、大鍛冶(タタラ)1人あたりの家族構成は、平均3.031名ということになる。
 これを、古代の大鍛冶(タタラ)集団に当てはめるのはかなり乱暴な気もするが、父母に子どもひとりの3人家族としても、200人の大鍛冶(タタラ)職人の集団には400人以上の家族、つまり最低でも計600人余の集団の形成を想定することができる。複数の子どもや老人たちを想定すれば、各地を移動する集団はさらに大規模なものになっただろう。もちろん、当時の乳幼児死亡率は現代と比べものにならないし、老人の平均寿命も短かったにちがいないので、単純に5~6人家族を想定するわけにはいかないが。
 さて、菅谷タタラ場にある村下家系の堀江家には1883年(明治16)に記録された、一度の大鍛冶(タタラ)作業で購入した資材などの物品(分業化が進み専門業者から購入)、およびその際に雇用した職人や人夫へ賃金を支払った支払台帳(「製鋼所壱代ニ付入用物件及代価」/雲南市教育委員会所蔵か?)が残っている。以下、その項目を一覧表化してみよう。
菅谷タタラ経費.jpg
もののけ炭焼き.jpg
 ここに記録されている砂鉄や木炭、鑪土(粘土)などの資材数値は、これがすべてではなく菅谷タタラ場周辺で採れたそれら地元の資材や人材に加え、これらの資材と人材を他所から調達している数値(入用物件及代価)だとみられる。
 この中で、「村下」と書かれているのは、タタラの製錬炉を監督する他の地域から招いた村下、あるいはベテランの炭坂(村下助手)が含まれているとみられる。それだけ、作業規模が大きめな大鍛冶(タタラ)作業だったのではないだろうか。また、番子が18人ということは、1つの炉に3人ひと組で2時間おきの「代番子(かわりばんこ)」が通常だから、5~6つのタタラ炉を構築して同時にパラレルで操業した可能性が考えられる。
 また、堀江家には大鍛冶(タタラ)事業における、年間の支出と収入を記録した収支決算書(1883年度)が伝わっている。以下、明治期の大鍛冶(タタラ)の営業成績を見てみよう。
菅谷タタラ収支決算.jpg
 これでは43.7%もの大赤字となり、まったく事業の採算がとれていなかったことがわかる。それでも、菅谷タタラ場がつぶれなかったのは、良質な銑鉄や鉧(けら)、目白(鋼)に対する兵器生産の需要が、当時は国家事業として重要視されていたからだ。菅谷タタラ場の大鍛冶(タタラ)操業は、1921年(大正10)までつづけられている。
 明治期には、おもに海軍を中心に貫通力の高い徹甲弾の開発が進んでおり、鋼を弾頭に装着することで、敵艦の頑丈な装甲を貫通する砲弾の研究が行われていた。その徹甲弾に用いられる良質な鋼は「玉(弾)鋼」と呼ばれ、刀剣に使用する目白(鋼)とほぼ同質のものが使われていたという。明治以降、現代にいたるまで刀剣に用いられる良質な目白(鋼)のことを「玉鋼」と表現するのは、当時の呼称が慣例化したものだ。
 良質な銑鉄や鉧、そして目白(鋼)を製錬する大鍛冶(タタラ)集団が、地域の有力者や政治勢力、各時代の武家幕府、あるいは近代国家などの政治権力に優遇されたのは、いつの時代でも変わらず同様だったろう。ちょうど、徳川幕府の庇護を受けた佃島Click!の漁民たちが、室町期の江戸城下(太田道灌)Click!のころから操業をつづける地元の漁民たちとの間で、少なからず対立Click!を生じたのと同様に、もともとその地域に住んでいた農耕民や林業民と大鍛冶(タタラ)集団との間には、数多くの深刻な軋轢や訴訟沙汰を生んでいたにちがいない。
もののけタタラ炉.jpg
 目白崖線に沿った河川を遡上していく大鍛冶(タタラ)集団が600人以上、ときには1,000人規模の集団であったとすれば、地域で生活する村単位の農民たちだけでは、とても彼らに対抗できなかったにちがいない。ましてや、彼らが権力者から庇護される職能集団であれば、農民たちはどうすることもできず、彼らのすることを黙認せざるをえなかったのではないだろうか。また、タタラ集団が大規模であった場合、構成メンバーの全員が一度期に移動するのではなく、次のタタラ操業地に適した場所を捜索する探鉱グループ(山師)Click!や、樹木を伐採して炭を焼く山子・炭焚集団が“本隊”に先行するケースもあったかもしれない。

◆写真上:島根県飯石郡吉田村菅谷地域(現・雲南市吉田町)に残る菅谷タタラ場の集落。現在は「鉄の歴史博物館」Click!が開館し、往年の面影を伝えている。
◆写真下:『もののけ姫』(宮崎駿監督/1997年)に描かれた、室町期とみられる大鍛冶(タタラ)の移動集団。同作でも、明らかに出雲と思われるタタラ場が舞台として登場している。上から下へ、崖地での神奈(鉄穴)流し、炭焚(炭焼き)、そして丸型製錬炉によるタタラ操業。現代のタタラでは、丸型の炉ではなく角型の炉で砂鉄を製錬するのが一般的だ。

読んだ!(19)  コメント(4) 
共通テーマ:地域

日本文壇から排斥された「世界文学」の大泉黒石。 [気になる下落合]

大泉黒石.jpg
 下落合4丁目(現・中井2丁目)の五ノ坂下に、大泉黒石Click!が引っ越してきたのは、関東大震災Click!の直後、1924年(大正13)のことだった。それ以前は、1921年(大正10)から高田村雑司ヶ谷に住んでいたが、短い期間だけ長崎村に住んだあと下落合へ転居している。ちなみに、関東大震災のときはすでに南長崎(ママ)にいたとする黒石の長男・大泉淳の証言もあり、このあたり震災の混乱もあってか記憶が錯綜しているようだ。
その後、大泉黒石とその子どもたちのみならず、黒石の研究者たちも転居先とそれにともなうエピソードについて混乱していることがわかった。詳細はこちらの記事Click!へ。
 長崎村の住所を、「椎名町」とする年譜が存在しているが、椎名町Click!は江戸期の清戸道Click!(およそ現・目白通り)沿いの下落合村と長崎村の両側に形成された街道町Click!の名称、あるいは北へ500mほど離れた武蔵野鉄道の駅名であって、1923年(大正12)現在の住所は長崎村(字)椎名町が正確な表記だろう。おそらく、大泉黒石は目白通りも近い長崎村の最南部(のちに南長崎と呼ばれる長崎村側の椎名町Click!)に住んでいたとみられる。このあと、大泉一家は東京土地住宅Click!が1922年(大正11)以来、「アビラ村」(芸術村)Click!と名づけて開発していた下落合の西部、目白文化村Click!の西側へと転居してくる。
 この「アビラ村」(芸術村)Click!での大泉邸は、五ノ坂から路地を西側へ家1軒分入りこんだ旗竿地、大正期の二瓶貞次郎邸が建っていた西隣りの、下落合2130番地の大きな屋敷だと思われる。大震災の前から、大泉黒石はベストセラー作家として活躍しており、また映画監督・溝口健二と組んで『血と霊』(日活)を制作するなど、彼の生涯でもっとも多忙で収入が多かった時期にアビラ村(芸術村)へ移り住んでいる。だから、一家全員に加え書生を3~4人置けるほど、家賃が50円/月の大きな屋敷を借りられたのだろう。黒石は家族とともに、この屋敷で1942年(昭和17)までの17~18年をすごすことになる。
 なぜ、下落合2130番地の屋敷だと規定できるのかといえば、すでに大正期から五ノ坂下に建っており、のち1932年(昭和7)に林芙美子・手塚緑敏夫妻Click!が転居してくる“お化け屋敷”Click!(林の自称)、大泉邸と同じく家賃が50円/月だった和洋折衷館の「裏庭」に位置する大きな屋敷は、同地番の1棟しか存在していないからだ。大泉邸の子どもたちは、“お化け屋敷”の裏庭から林・手塚邸へ遊びに訪れている。また、林芙美子は大泉邸の庭になるみごとな落合柿Click!を、うらやまし気に眺めていた。
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、のちに林芙美子・手塚緑敏Click!夫妻が住む下落合2133番地の屋敷には平山季明という人物が住んでいる。この裏庭に面する屋敷は、1926年(大正15)現在で北・北東・東側の3邸しかなく(西側は未開発のままだった)、北側の斜面に接した同じく下落合2133番地は本間長一邸、北東の斜面に面していた下落合2130番地は佐藤吉三郎邸と記録されている。だが、裏庭の東側に面した下落合2130番地の邸には名前が記載されていない。路地の奥にある旗竿地だったせいか、五ノ坂に面した二瓶貞次郎邸を採取しただけで、同明細図の調査員は調査漏れに気づかなかったか、あるいは表札を出していなかった可能性がありそうだ。
 平山季明一家がどこかへ転居したあと、1932年(昭和7)に上落合850番地Click!尾崎翠Click!旧居跡Click!から、林芙美子・手塚緑敏夫妻が下落合2133番地の屋敷に住むようになると、その裏庭に面した(林・手塚邸の台所からは見上げる位置にあたる)大泉黒石邸についての文章が残っている。1934年(昭和9)に改造社から刊行された、「旅だより」収録の『柿の実』という「随筆」だ。これがエッセイ=事実でなく、一部が林芙美子の想像による創作(フィクション)だったことが、のちに大泉黒石の二女・大泉淵によって、やや怒り気味の文章で否定されている。まずは、林芙美子の『柿の実』から引用してみよう。
  
 夏中空家であつた隣家の庭に、私がねらつてゐた柿の木があつた。無性に実をつけてゐて、青い粉をふいてゐた柿の実が毎日毎日愉しみに台所から眺められたのに、あと二週間もしたら眺められると云ふ頃、七人の子供を引き連れた此家族が越して来たので、私はその柿の実を只うらやましく眺めるより仕方がなかつた。(中略) 台所から覗くと淵子ちやんがもう柿を噛りながら唄をうたつてゐる。/「淵子ちやんお父さまは……」/「お酒のんでンの」/「お母さまは」/「おちごと」/「お兄さまは」/「ガツコ」/「お姉さまは」/「お母さまのお手つだひ」/「洽子さんは」/「ガツコ」……。
  
大泉邸1926.jpg
大泉邸1938.jpg
大泉邸跡.jpg
 まず、1924年(大正13)から下落合の五ノ坂下に住んだ大泉家が、なぜか林芙美子が転居してきた1932年(昭和7)以降に転居してきたことになっているのに、読まれている方々はすでにお気づきだろう。大泉黒石が下落合に住んで8年後、『放浪記』Click!がヒットした林芙美子が夫とともに、五ノ坂下の屋敷へ引っ越してきているのが事実だ。
 また、大泉淵と林芙美子との会話にもフィクションが混じっているとみられる。文中で林芙美子は、「大泉黒石と云ふひとにまるで知識がない」と書いているが、そんなことはないはずだ。昭和初期の同時代、日本文学(=「私小説」)の文壇から激しく排斥されようとしていた、「私小説」家とは無縁な日本人とロシア人のハーフだったベストセラー作家を知らなかったはずはない。少し前まで、大泉黒石は『放浪記』がヒットした林芙美子よりも、よほど原稿料の実入りがよかったはずだ。だからこそ、アビラ村(芸術村)の大きな屋敷を借りて、大家族を養うことができたのだろう。
 1988年(昭和63)に緑書房から出版された、『大泉黒石全集』付録の「黒石廻廊/書報No.1」(1988年2月25日)より、大泉黒石の二女・大泉淵の証言を聞いてみよう。
  
 林芙美子の随筆の中に、「お父様は?」、「お酒のんでるの」。「お母様は?」、「お父様のご飯つくってるの」と書いてあるけれども、私は、「お父様はお仕事してるの」、と言ったつもり。子供にもプライドや体裁はあるものです。
  
 私小説主流の日本文壇から、虚偽の情報やウワサ(“主犯”は村松梢風Click!田中貢太郎Click!らといわれている)を流され、「日本人」とは見なされない“あいの子”差別とともに意図的に排斥されようとしていた大泉黒石は、より質が高く視野の広い「世界文学」(当時の日本文学=「私小説」ではない)や旅行記に取り組もうと、必死に原稿用紙と向かいあっていたはずで、育ち盛りの子どもたちを養うために酒を飲んでいるヒマなどなく、どう考えても大泉淵の証言どおり「お仕事してるの」が事実だったろう。
 事実にもとづいて書かれているとされる随筆やエッセイの類にも、ついフィクション(虚偽)が混じるのは小説家の性(さが)としてはいたしかたのない側面もあるのは、全身小説家Click!の“嘘つきミッちゃん”の記事でも触れたが、上記のケースはヘソ曲がりなわたしから見れば、林芙美子は当時の私小説家が群れ集う文壇から「異端」とされ、はじき出されようとしている大正期のベストセラー作家へ、文壇主流派の意向を忖度して彼の“落ちぶれた姿”を描いてみせた……と考えるのは、あまりにもうがちすぎだろうか。尾崎翠Click!を鳥取で「殺し」てみたり、矢田津世子Click!の大切な作品原稿を押入れの奥に隠して「行方不明」にしたりと、没後に次々と明らかになった彼女の行状を考えると、ついつい疑ってしまうのだ。
大泉邸1936.jpg
大泉邸1940頃.jpg
大泉邸1947.jpg
 大泉黒石は、1893年(明治26)にロシア外交官と長崎税関長の娘・本山ケイとの間に生まれ、日本名を大泉清、ロシア名をアレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキーと名乗っていた。生まれてすぐ母親を亡くし、当初は日本で育ったが10歳のとき父親が死去してロシアの叔母のもとへ引きとられ、モスクワの小学校へ転校している。11歳のとき、父親の故郷であるヤースナヤ・ポリャーナを訪れ、76歳で浮浪者のような身なりのレフ・トルストイClick!と会話している。彼が生涯、晩年のトルストイズム的アナキズムの思想に共鳴しつづけたのは、このときの出会いが強烈な印象として焼きついたからだろう。
 1907年(明治36)の14歳のとき、叔母に連れられロシアからフランスに移住すると、モーパッサンの研究に夢中になり雑誌に「ヴィクトル・ユゴー博物館印象記」などを寄稿して評判になる。その後、スイスやイタリアをへて日本に帰国している。1915年(大正4)にロシアのペテルブルグの高校へ進学するが、二月革命に遭遇し身の危険を感じて帰国、三高(現・京都大学)に進学したが学費が払えず退学している。東京に転居してくると、父親の遺産で一高(現・東京大学)へ入学するが、遺産がつきて退学を余儀なくされた。
 こうして、大泉黒石は小説家をめざすことになるが、彼の視野は世界レベルであり日本語はもちろんロシア語、フランス語、英語、ドイツ語に堪能で、のちに中国語(漢文)にも精通していった。日本文学(私小説)にはない魅力をたたえた彼の作品は、次々とベストセラーになるが「大泉黒石はロシア語ができない」(村松梢風による悪質なフェイク情報)をはじめ、当時、ベストセラーをいまだ持たない小説家たちの嫉妬による、低劣な虚偽のウワサがあまた出版界に流され、それが彼の出自であるハーフに対する差別意識とあいまって、出版社からの原稿依頼が徐々に減っていくことになる。
 先述の『大泉黒石全集』全9巻(造型社)は、「全集」と銘打ってはいるが第1シリーズのみで、出版社の都合により第2シリーズは刊行されなかった。したがって、大泉黒石の作品群の多くが戦後未刊のままに終っている。今年(2023年)になって、岩波書店Click!は大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波文庫)をはじめ彼の関連本を次々に刊行しはじめた。おそらく、『大泉黒石全集』(完全版)をいずれ出版する布石なのだろう。
 1960年代に、日本文学では「異端」「特異」などとされていた夢野久作Click!久生十蘭Click!江戸川乱歩Click!小栗虫太郎Click!ら(私小説ではなく完全なフィクションや物語を創造する力量のある、世界ではあたりまえの作家たち)が見直されたときも、大泉黒石にスポットライトが当たることはなかった。それは、彼がハーフであるがゆえに「日本文学」の範疇とは見なされなかったものか、あるいは大正末から昭和初期にかけてイヤというほど流された「彼は虚言癖」というウワサ(世界文学の視野から見れば「特異」な私小説が中心だった日本文壇だが、そもそも小説家が“虚言癖”でなくてどうするのだ? 別の国であれば、「彼は虚言癖」は一笑にふされただけで終わりだったろう)が、出版界で生きていたせいなのか、またはフェイク情報や排斥に加担した作家たちが、いまだ存命だったせいだからだろうか。
大泉黒石「老子とその子」1922春秋社.jpg 大泉黒石「人間廃業」1972桃源社.jpg
溝口健二「血と霊」1923日活.jpg
大泉黒石「俺の自叙伝」2023.jpg 四方田犬彦「大泉黒石」岩波書店2023.jpg
 もうひとつ、わたしには気になることがある。同じく、昭和初期に日本文壇からも当局からも敵意をもって意図的に排斥されようとしていた(その急先鋒は小林秀雄Click!だ)、私小説とは無縁な大正期からのベストセラー作家に吉屋信子Click!がいる。まったく同じ時期に、下落合に住みあわせていたこのふたりだが、下落合2113番地の吉屋信子邸Click!と下落合2130番地の大泉黒石邸とは、五ノ坂をはさみ直線距離でわずか80m弱しか離れていない。このふたりの接点がどこかにないかどうか、わたしはここしばらく探しつづけている。

◆写真上:その容姿から、下落合2130番地邸の書斎で撮られたと思われる大泉黒石。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる平山邸裏庭の東側に面した大泉邸とみられる屋敷。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同邸。大泉邸西側の林芙美子が住んでいる手塚邸が「牛塚」邸と誤採取され、大泉邸東側の二瓶邸が「二藤」邸と誤採取されるなど、「火保図」は表札名の読み誤りが目立つ。は、大泉邸があった五ノ坂から西へ入る袋小路。左手奥の茶色い建物が大泉邸跡で、正面に見えるグレーの四角い建物が林芙美子・手塚緑敏邸の北側に面した裏庭跡。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる大泉邸。は、1940年(昭和16)ごろの空中写真にみる大泉邸。は、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・大泉邸。下落合西部はほとんど空襲を受けておらず、戦前からの屋敷がそのまま建っていたが、旧・林・手塚邸は裏庭がなくなり北側へ増築されているのがわかる。
◆写真下上左は、1922年(大正11)に出版された大泉黒石『老子とその子』(春秋社)。上右は、1972年(昭和47)にようやく出版された同『人間廃業』(桃源社)。は、1923年(大正12)に監督・溝口健二×大泉黒石で制作された表現主義的映画『血と霊』(日活)の1シーン。関東大震災の直後に上映されたものの、震災の混乱で観客を集めることができず評判にはならなかった。下左は、今年(2023年)に出版された大泉黒石『俺の自叙伝』(岩波書店)。下右は、同年出版の四方田犬彦『大泉黒石-わが故郷は世界文学』(岩波書店)。
おまけ
 アブラゼミの蝉時雨のなかで聴きづらいが、下落合の居心地がいいのか北帰行しないマガモが、家の裏でウロウロしながら毎日鳴きつづけている。この声を聞くと、うちのヤマネコは女子のくせに「打(ぶ)っ殺すニャ!」と殺気立ちながら網戸に手をかけて威嚇する。

読んだ!(20)  コメント(6) 
共通テーマ:地域