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高田町の商店レポート1925年。(3)魚屋 [気になるエトセトラ]

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 自由学園Click!高等科2年の、梅津淑子がインタビューClick!に訪れた魚屋が面白い。親切で頭もよく働く主人だったらしく、彼女が聞きたいことへ的確に答えてくれている。ただし、最初に訪ねたときは、彼女が自由学園の制服を着ているにもかかわらず、魚屋の商売を実地に体験したい女の子、つまり1日店員で仕事がしたい女学生だと勘ちがいしたらしく、早とちりの受け答えをしている。
 その勘ちがいぶりを、店で魚桶を磨いていた小僧に「おやぢさん また頭がはげるぞ」とすかさず突っこまれ、ようやく落ち着いて彼女の目的を聞き理解したようだ。魚屋を訪ねた梅津淑子は、このふたりのやり取りで一気に緊張感がとけたようで、高田町に店開きしていた魚屋の仕事をいろいろと取材することができた。彼女が店先に立ったところから、魚屋が登場するときの様子を引用してみよう。
 いつもどおり、1925年(大正14)に自由学園Click!(羽仁もと子Click!)から出版された『我が住む町』Click!(非売品)収録の「小売商を訪ねて」から、朝が早いのでついうたた寝してしまう魚屋の主人の様子だ。
  
 『おゝいおやぢさん、お人だよ。誰か起てくれねえか。』 奥をすかして見ると帳場でうたゝねをしてゐるらしい。ニ三度呼ばれて、しきりに眼をこすつたりまたゝきしたり、顔をなでたりしてやうやう出て来た。/魚の匂をすつかりしみこませた、でつぷりとふとつた赤ら顔の主人を見た時、胸の中がヒヤリとした(中略) 『今学校で、私達がいろいろな日用品を売るお店では、どう云ふ工合にして御商売をしていらつしやるのか、こちらなら例へば魚を店に持つて来るまでの順序と言つたやうなこと、その外いろいろのことを話して頂いて、研究の参考にさして頂きたいと思つてゐるのですが、御迷惑でもどうかお話下さいませんか。』と言つてよく頼んだ。/『あゝさうですか。つまり貴女方が実地に商売をなさると云ふので……』/側で桶を磨いてゐた若いのが、『おやぢさん また頭がはげるぞ』/なんとなく話しよいやうな気がしたので、も少しくわしく話すと、やつと意味がわかつて、快くまづ第一にと話し出す。何しろ早口で巻舌なので中々聞きとりにくい。
  
 そそっかしい主人だが、震災後に下町から移転してきた店だろう。いきなり、自由学園の制服を着た清々しい女学生が店先に立って、いろいろお話をうかがいたいなどと突然いわれたら、魚屋でなくても少しはドギマギして慌てるだろう。
 実は、この魚屋の主人はかなり几帳面な性格の人物で、商売をしながら『鮮魚日記』というのを日々の記録として残していた。今日でいうなら、営業の日毎レポートというところだが、それをもとに彼女へ正確かつ精細な情報を提供してくれているのだ。「でつぷりとふとつた赤ら顔」の外見とは裏腹に、仕事にはキチッとした姿勢を貫く優秀な商店主だったようだ。店で雇っている小僧たちにも、やさしく接しているのが透けて見える。
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 つづけて、インタビューに答える魚屋の証言を引用してみよう。相手が清楚な女学生のせいか、「お魚」などとていねいな言葉づかいをしているのが微笑ましい。
  
 『お魚にも上、中、下があつて、河岸で五時半から七時半までにはける魚は上、七時半から九時までが中、九時から十時十一時頃のが下で、その一番遅いやつを普通店ざらひまた場さらひと云つてゐます。同じ魚だが時間が早ければ上、おそければ下となるのです。一刻も早くと言ふのが魚屋の自慢です。/此の頃でも朝は五時、夏は四時頃一噸(トン)積のトラツクに乗つて河岸に行きます。近所の同商売の中から各一人位づゝ出て七八人乗つてゆくのです。河岸に着くと自動車自転車荷車と入れる所がきまつてゐます。魚を買つて、カルコ(番する人)に渡すとそれそれのトラツクなり荷車なりに運びます。大概の魚は百目いくらと目方で買ひますが、一本いくらと買ふのはチクワ、カマボコ、ハンペン、ヒモノ、イワシなどです。問屋では金に符牒がついてゐて、例へば、一をチヨン、二をノツ、五をメの字、八をバンド、十をチヨーン又はピンと云ふ具合に云ふのです。』
  
 ここでいう「河岸」とは、江戸期から330年間もつづいている日本橋河岸の魚市場Click!のことで、関東大震災Click!で日本橋が壊滅したあと、復旧・復興をめざしている最中のころのことだ。だが、東京市の人口増で日本橋河岸のキャパシティが手狭になりつつあり、ほどなく外国人居留地Click!だった築地への移転計画がもちあがり、10年後(1935年)には全面的に移転することになる。
 主人が見せてくれた『鮮魚日記』には、毎日の仕入れと店頭での売り上げによる差引損益が、かなりきれいに整理され記録されていた。ただし、主人によれば毎日の損益を算出して、細かく決算をしていく同業者は少なかったらしい。それによれば、純益は平均2割前後になるはずだが、魚屋はむずかしい商売だと主人は実感として告白している。
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勝鬨橋.JPG
 ただし、女学生が相手なので『鮮魚日記』の数字を細かく見せながら教育的な意味あいをこめたのだろう、「きちんとしまりをしてゆく事の出来ないやつは、何の商売だつても、やれつこありません」と諭すように話している。
 つづけて、女学生の流通に関する質問にもていねいに答えている。
  
 東京ではセラないで相対で売買ひをしますが、地方の問屋ではせり売りをしてゐるやうです。東京に入る魚は大体茅ヶ崎方面と、三崎方面と上総方面からきます。茅ヶ崎方面の魚は汽車で新橋に来て、自動車で河岸に運ばれ、上総方面は蒸気船で日本橋に、三崎方面は隅田川まで来て、そこから自動車で河岸に来るといつた風です。一番魚の味の好いのは南河岸の魚で海の水が暖いせいか、きめがこまかく色も白く、北陸方面のは水が冷くしほが多いからきじがあらくなります。/魚の好みも山の手と下町とでは違ひます。山の手好みの魚、下町好みの魚と云ふのがあるのです。魚屋は他の商売と違つてその日その日の損益がすぐわかります。
  
 書かれている「茅ヶ崎方面」とは、湘南から伊豆にかけての沿岸漁業(地曳きClick!)あるいは近海漁業で獲れる、温かい黒潮を中心に棲息している魚介類Click!であり、「上総方面」は北から流れくだる冷たい親潮に乗ってやってくる魚介類で、「三崎方面」は沿岸や近海ではなく、遠洋漁業で獲れるマグロやカジキなどの魚をさしている。つまり、太平洋のありとあらゆる魚が、3つのルートから日本橋河岸に集合していたわけだが、これは現在の豊洲市場でも(海外産は別にしても)、基本的には変わらないだろう。
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 梅津淑子が、よほど熱心に商売について訊ねたのが気に入ったのか、下町っ子らしい主人から日本橋の市場をぜひ一度見学しにおいでと奨められた。「是非河岸を見物にいらつしやい、私が案内してあげますよ。然しきたない着物をきて行かないと汚れますからね。八時には魚を送つてしまひますから是非いらつしやい」。彼女が商売に興味津々なので将来は魚屋になるのかも……と、またしても早とちりをしてしまったのかもしれない。次回は、やはり毎朝の市場通いがたいへんな「八百屋」(青果屋)を訪ねてみよう。
                                <つづく>

◆写真上:雑司ヶ谷(現・西池袋)に開校した、自由学園本校舎(現・自由学園明日館)。
◆写真中上:昔の木箱がなくなり、発泡スチロールだらけになった魚屋の店頭。
◆写真中下は、自由学園のランチタイム。右手には暖炉があり、その上や裏側がパントリー(食器室)になっていた。は、勝鬨橋から眺めた旧・築地市場。
◆写真下:「茅ヶ崎方面」にあたる片瀬漁港()と、大磯漁港へ帰る漁船()。

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