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上戸塚の斜面が好きな横井礼以。 [気になるエトセトラ]

横井礼似「高田馬場郊外風景」1921.jpg
 下落合の南隣り、戸塚町上戸塚 (現・高田馬場4丁目)にアトリエをかまえた横井礼以Click!の作品に、1921年(大正10)に制作された『高田馬場郊外風景』という作品がある。同年に開催された、第8回二科展に出品された作品だ。
 横井礼以アトリエは、戸塚町上戸塚781番地にあり、下落合の東部から歩いても早稲田通りを越えて南へ1.5kmほど、また山手線・高田馬場駅に出るには800mほど歩くだけなので、今日の感覚からいえば商店街も近く交通が至便なのだが、大正中期にはいまだ農村の面影を色濃く残す郊外風景そのままだった。横井アトリエは、点在する雑木林や草原、空き地が拡がる中にポツンと建っているような風情だったろう。
 横井礼以は、いまだ横井礼市の本名で1919年(大正8)の第6回二科展へ『つゆ晴れの風景』を出品して第6回二科賞を受賞し、1923年(大正12)には早くも二科会の会員となっている。『高田馬場郊外風景』(1921年)は、文展から離れ二科展で活躍しはじめたころの作品で、アトリエ周辺の連作「高田馬場風景」シリーズのうちの1作だ。
 横井礼以が作品につける「高田馬場」は、本来の幕府練兵場だった高田馬場(たかたのばば)Click!のことではなく、山手線の停車場である高田馬場(たかだのばば)駅Click!のことだ。したがって、横井アトリエは高田馬場駅の西側すなわち上戸塚にあったので、彼の「高田馬場風景」は正確には上戸塚風景ということになる。そして、横井礼以の画面に特徴的なのは、上戸塚のバッケ(崖地)Click!を好んで描いている点だろう。
 『高田馬場郊外風景』も、以前ご紹介した『風景』(1916年)や『高田馬場風景』(1920年)と同様に、斜面沿いに点在している茅葺き農家や住宅を描いている。陽光の射し方や家屋主棟の向きから、画家の視点の背後が南側ないしは南東側だろう。家が2棟描かれており、手前の住宅(瓦屋根のようだが農家だろうか)へと下るカーブをした小道の端には、スイセンだろうか白い花が一面に咲いている。また、奥に見える地付きの農家らしい茅葺き家の庭には、アカマツらしい樹木が2本生えている。
 陽光や周囲の風情からみると、街道筋(現・早稲田通り)あたりから谷底を旧・神田上水(1966年より神田川)が流れる、北側ないしは北西側の急斜面を見下ろしながら描いている公算が高い。横井礼以の風景作品は、目印になるような家屋や特徴的な構造物の描かれていることが少ないので、描画場所を特定するのはむずかしいが、この作品の場合には古い茅葺きの農家が大きなヒントになる。
横井礼以アトリエ1921.jpg
横井礼似アトリエ跡.jpg
横井礼以「風景」1916.jpg
 すなわち、このような地形の場所に明治期から建つ家屋で、斜面の向きが北ないしは北西に向いて下っている、換言すれば谷底の旧・神田上水に向かって傾斜している場所を重点的に探せばいいことになる。さっそく、明治期に発行された陸地測量部Click!による1/10,000地形図Click!を参照し、このような傾斜地に建つ農家らしい建物で、しかも1921年(大正10)発行の同じく1/10,000地形図にも消えずに(解体されずに)掲載されており、周囲の宅地化がそれほど進捗していないエリアを集中的に調べてみた。
 すると、上高田375番地と同377番地の北向き斜面に、明治期からある農家のそれらしい配置を見つけることができる。現在でいえば、早稲田通り沿いから移転した腰折れ地蔵Click!のある東側の北向き斜面あたりだ。いまは住宅地がわずかな段差でひな壇状に並び、ゆるやかな下り坂になっているが、画家がイーゼルを立てている位置から茅葺き農家までは、地形図の等高線によればおよそ3m前後の落差があったはずだ。
 画家がイーゼルを立てている位置は、早稲田通りから1本北側へ入った道路の端、当時の住所でいえば上戸塚宮田375番地あたりの道端であり、手前の家は同じく375番地で奥の茅葺き農家は377番地だが、残念ながら両家とも住民名は不明だ。この北向きの緩斜面は、画家がいる位置から150mほど北へつづき、その先で急にバッケ(崖地)状になって旧・神田上水へと落ちこんでいる。
 画面の奥に描かれた、樹林が並ぶ下には旧・神田上水が流れ、その先の少し青みを帯びたグリーンで遠景ぎみに描かれているのは、対岸に連なる下落合の丘、すなわち目白崖線ではないかと思われる。位置的にいえば、麓に下落合本村Click!の古い家々が連なる久七坂Click!の丘か、西坂Click!が通う徳川邸Click!の丘あたりだろう。
地形図1921.jpg
上戸塚ダラダラ斜面.JPG
 この作品を制作した1921年(大正10)ごろ、横井礼以は具象表現から抽象表現へと向かう過渡的な時期にあたり、『高田馬場郊外風景』の画面にもフォーヴィズムの影響が色濃くでている。「大正アヴァンギャルド」と呼ばれた横井礼以について、2011年(平成23)に出版された中山真一『愛知洋画壇物語』(風媒社)から、少し長いが引用してみよう。
  
 愛知県・知多半島の中ほどに河和という海沿いの町がある。一九二七年(昭二)春、東京から長旅をへて夫人や子供とこの地に降りたった横井礼以は、胸中いかばかりであっただろう。いずれは東京にもどるつもりで、アトリエは人に貸してきた。(中略)/横井は、一八八六年(明一九)愛知県(現)弥富市に生まれ、一九一一年(明四四)東京美術学校を卒業。その後、文展に二年つづけて入選するものの、三年目にはマチスの影響が画面にあらわれるようになり、落選に。ならばと翌一七年(大六)二科展に初入選を果たす。そらに二年後には二科賞を受賞。二三年(大一二)には三七歳で同会員となり、大正アヴァンギャルド作家のひとりとして中央画壇でおおいに活躍している。フォーヴィズムやキュビズムに傾倒した制作の中でも、とくに一九二五年(大一四)の二科出品作《庭》は、大正期を代表する洋画の一点として後に『キュービズム展』(東京国立近代美術館、一九七六年)や、『一九二〇年代・日本展』(東京都美術館、一九八八年)など何度も展覧されることになった。/だが、好いことばかり続かない。夫人に軽い結核が見つかる。自身も眼病を患っていたので、転地療養しようということになった。
  
 愛知への帰郷は、横井夫妻の一時療養のはずだったが、横井礼以が上戸塚781番地のアトリエへもどることは二度となかった。
横井礼以「高田馬場風景」1920.jpg
上戸塚バッケ斜面.JPG
横井礼似卒制1911.jpg 中山真一「愛知洋画壇物語」2011.jpg
 横井礼以(当時は横井礼市)の『高田馬場郊外風景』は、第8回二科展で発行された絵はがきで発見したものだが、戦前は文展・帝展も二科展も展示作品の絵はがきを積極的に制作している。だが、絵はがきに添えられたキャプションの画家名をまちがえている例が多く、目的の作品をなかなか発見できないケースもたびたび経験している。今回は、本名の「横井礼市」と画名の「横井礼以」とで探すのに手間どったが、近いうちに各展覧会の画家名“誤植”で、なかなかデータベースにひっかからない事例をご紹介したい。

◆写真上:1921年(大正10)に制作された横井礼以『高田馬場郊外風景』。
◆写真中上は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる上戸塚781番地の横井礼以アトリエ。は、横井アトリエ跡の現状。(左手の駐車場で前回訪問時は家があった) は、1916年(大正5)に上戸塚のアトリエ近辺を描いた『風景』。
◆写真中下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる『高田馬場郊外風景』の想定描画ポイント。は、ダラダラ坂の緩傾斜がつづく周辺の現状。
◆写真下は、1920年(大正9)に制作された横井礼以『高田馬場風景』。は、上戸塚(現・高田馬場4丁目)の北側によく見られるバッケ(崖地)の坂道。下左は、1911年(明治44)に東京美術学校の卒制で描かれた横井礼以(横井礼市)『自画像』。下右は、2011年(平成23)に風媒社から出版された中山真一『愛知洋画壇物語』。

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