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高田町の商店レポート1925年。(5)乾物屋 [気になるエトセトラ]

自由学園明日館中央ホール.JPG
 高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)の全商店を調査する、自由学園Click!高等科2年生の一戸幸子が訪ねたのは、目白通りに開店していた乾物屋だった。ところが、調査Click!の趣旨を説明すると応対に出た男性は、「主人は病気でズツト前から寝てゐますから」と、自分が番頭であることを名乗ったらしく、「私でわかることならお話ししませう」といってくれた。さまざまな商店レポートの中で、店主が病気だったのはこの乾物屋のみ1軒だけだ。
 この番頭さんは親切だったらしく、女学生Click!の質問にはできるだけていねいに答えてくれている。たとえば、砂糖は相場の値動きが激しいので、1斤(600g)ずつ買うよりも値が下がったときに1貫(3.75kg)ずつ買ったほうが、総体的に得だなどと生活の知恵を教えてくれている。かんぴょうや湯葉は、東京で製造されたものを置いており、鶏卵は西隣りの長崎村で生産されたものを配達してもらっていた。
 卵は、ニワトリの種類によって大小のサイズに分類され、割れないよう米袋に「もみ糠」を詰めた中へ入れて長崎村から配送されてくる。「割れませんか?」という質問には、「ちつとも破れません」と答えている。女学生は「もみ糠」と記録しているが、ひょっとすると「もみ殻」の誤記ではないだろうか。わたしが物心つくころ、プラスチックや再生紙の卵容器などはまだない時代だったので、卵は茶箱にいっぱい詰めたクッション代わりのもみ殻に入れて、毎朝食品店に配送され店先で売っていたように記憶している。これは、リンゴやナシなどの果物でも同様だった。
 乾物屋にいた番頭の詳しい話を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 『大豆は北海道大豆が一番品もよく売れもようございます。その次が満州大豆で、この豆は染物屋と豆腐の原料、馬糧などにつかふ豆ですね。私共の手に入るまでゞすか。仲々どうして、深川市場-問屋-仲買人-それから小売商人の手に渡るんです。その間に五割位は高くなってゐますね。ですから私達は豆ばかしでなく大概のものは二割位しかもうかりませんですなあ。/昆布は北海道産が一番です。わかめは鳴戸、越後(、)にぼしは房州の九十九里浜、ふのりは九州、するめは静岡に北海道(、)鰹節は土佐、伊豆節等ですね。それからひじきなどね、エー? さあ何処からくるのか知りませんけれど、まあかうした海産物問屋があつてそこに買ひに行くんです。相場が年がら年中動いてますし、時季がそれぞれの品物にありますからね。そんなことをよく考へて買うんです。うどん粉にもいろいろ種類があります。天ぷらの衣につかう上等のもの、うどんをこしらへるのは並粉のやつですね。ついでに標を教へてあげませう。日清会社で出来るのが鶴標、東亜会社は弁天標、日本製粉のは竹標、まあざつとこんな工合(ママ)ですなあ。』(カッコ内引用者註)
  
 文中、染物業で大豆を使うのは、大豆のタンパク質を応用して染め色を濃くする技法だ。旧・神田上水(1966年より神田川)沿いに展開していた染物工場では当時、大豆の需要が高かったのだろう。言葉の口調から、おそらく東京の(城)下町Click!から移転してきた乾物屋のように思われる。当時の乾物に対する、東京市民の好みがわかるレポートだ。
海苔(乾物).jpg
 うどん粉(小麦粉)についての記述があるが、当時の高田町には東京パンClick!の大規模な工場があったため、その周囲には大小の製粉所が集中していた。戦後、東京パン工場がなくなったあとも、これら製粉所は操業をつづけている。わが家の知り合いに、昔から製粉所を経営する目白にお住まいの方がいるが、場所をうかがったらやはり旧・東京パン工場があった敷地のすぐ近くだった。
 保存設備のない当時、乾物の保管はたいへんだったようだ。浅草海苔(江戸期に浅草和紙の製法に倣い、葛西で採れた天然海苔を紙状に漉いたものが浅草海苔のはじまり。海苔の産地が九州だろうが韓国だろうが、この製法で作られた和紙状の海苔はすべて浅草海苔だ)は、通常の海苔缶に入れたものを、さらに別の大きな缶に入れて保管している。特に梅雨から夏にかけての保管は、乾物屋泣かせだったらしい。
 先に小麦粉のことを「うどん粉」と表現していたが、番頭は「メリケン粉」(小麦粉)の保管についても苦労話を女学生に聞かせている。彼が話す「うどん粉」と「メリケン粉」のちがいは、強力粉と薄力粉のちがいを意識したものだろうか? メリケン粉は1ヶ月以上も保管すると酸味が出て売り物にならなくなるが、目白界隈ではたいがいすぐに売れるので、なんとか大丈夫だと答えている。
 また、かんぴょうや干し椎茸はカビが生えるので、いつも気を配ってないとクレームがきて売れなくなるし、コショウの粒には虫が湧くとこぼしている。カビや虫を防ぐには、しじゅう商品の風通しをよくしなければならなかったようだ。大正期には、一般の商店に電気冷蔵庫もエアコンも、ビニール袋による真空パックもないので、品質を保つにはすべて小まめな手作業が必要だった。鰹節も虫が湧くため、桶に入れて防虫剤を加え蓋で密閉しておいたらしい。防虫剤がなんだったのかが気になるけれど、これらの手作業は梅雨がはじまる前から10月ごろまで、5ヶ月間ほどつづけられる作業だった。
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 つづけて、乾物屋を仕切る番頭さんの証言を聞いてみよう。
  
 『雇人ですか。三人居りますよ。朝は六時頃起きます。夜は十時ですね。早く起きようと思ふんですけれど昼間随分忙しうござんすからね、どうしても……。/店に小買ひにお出になるお客の外、帳面のお屋敷が二十二三軒ばかしあります。ヘエヘエよく払つて下さるお家もあるんですが、中々の所もありましてね。随分困るんですよ。それに近頃は不景気になりましたから何処の問屋でも現金払になつたんでしてね。実に困りますよ。エーそうですよ。お客が皆現金にして下さると助かりますがね。中々お客の方でね。貸しあきなひはしたくないもんですね。/まあ大体こんなものですね。エエおわかりにならない所が有りましたらいつでもおいでなさい。』
  
 ここでも、お屋敷街をめぐる「貸しあきなひ」Click!の苦労話が語られている。カードや銀行口座から引き落としなどの仕組みがない当時、月々の売掛金はお屋敷を1軒1軒まわって回収しなければならなかった。素直に気持ちよく払ってくれる家はいいものの、消費した商品へあとから難くせをつけたり、けなしたりしてなかなか払わないケチでタチの悪いお屋敷も少なくなかったようだ。
 現在、目白通り沿いに展開する個人商店では、B to BはともかくB to Cの一般顧客を相手に売掛けをしている商店はほとんどないのではないか。(一部の酒屋や米屋の得意先、あるいは飲み屋の常連にはまだあるのかな?) ただし、宅配事業者の場合は、売掛け買掛けの仕組みがそのまま残っている。たとえば、日本生協や東都生協、生活クラブ生協などは月払いだし(わが家でも利用しているが)、自然食ルート(産直ルート)や宅配弁当なども同様だろう。でも、支払いは銀行引き落としやカードなどで決済されるので、まず回収しそびれることはなさそうだ。
 取材した女学生は、「皆買物を現金でする様にしたら、買ふ方でも売る方でもどんなに都合がよいかわからない、一日も早くそれが実行される様にしたい」と感想を記しているので、おそらくレポートに書かれた内容以上に乾物屋の番頭さんから、ひどいお屋敷のケーススタディ(グチ)をたくさん聞かされているのではないだろうか。
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 そして、乾物の品質保持や保存作業が、「案外手数のかゝることを知つて、いつでも高い安いばかし心にかけてかふ私達に又ちがつたことを知る機会が与へられたことを感謝する」と結んでいる。さて、次回は煮物や缶詰も扱う「漬物屋」を訪問してみよう。
                                <つづく>

◆写真上:創立当時は工事中で、わずか2教室か使用できなかった自由学園の本校舎。収容できない女学生たちは、羽仁夫妻の自宅を教室代わりに使っていた。
◆写真中上:乾物店の代表商品だった、江戸東京の料理には欠かせない「浅草海苔」。
◆写真中下:江戸東京たてもの園に“開店”している、乾物屋の店先。
◆写真下は、羽仁吉一・羽仁もと子夫妻の自邸に集まった本科と高等科の女学生たち。夫妻の自宅は、現在の婦人之友社Click!が建っている敷地だ。は、1922年(大正11)5月撮影のホールからの眺め。校庭の先には、当初からサクラが植えられていた。

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