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佐伯家で飼われたニワトリの品種はなに? [気になる下落合]

白色レグホン(イタリア).jpg
 下落合661番地の佐伯祐三Click!が、庭で放し飼いにしていた採卵が目的のニワトリは、はたしてどのような品種だったのだろうか。のちに、佐伯が渡欧する際にニワトリを押しつけられた曾宮一念Click!によれば、全身が黒色の品種を7羽ほど飼っていたようなのだが、おそらくこれらのニワトリは佐伯アトリエの斜向かいにあった養鶏場Click!(のち中島邸Click!→早崎邸)から入手したものだろう。
 佐伯祐三がニワトリを飼いはじめたのは、下落合にアトリエが竣工Click!した直後の、おそらく1921年(大正10)夏以降から、第1次渡仏へ旅立つ1923年(大正12)の秋口までの2年間だと思われる。アトリエが竣工して間もなく、“化け物屋敷”Click!に住んでいた鈴木誠Click!のもとへスコップを借りにきた佐伯が、画家にはなれそうもないので富士の裾野に土地でも買い、「鶏でも飼って暮そうかと考えている、どうだろう」(「絵」No.57/1968年11月)と相談に訪れている。このとき、すでに庭でニワトリを飼いはじめていたからこそ、口をついて出た言葉ではなかっただろうか。
 そして、温泉での静養から帰った関東大震災Click!の直後、1923年(大正12)秋に佐伯はニワトリたちを連れて、諏訪谷の曾宮一念アトリエClick!を訪れている。そのときの様子を、1992年(平成4)に発行された『新宿歴史博物館紀要』創刊号に収録の、奥原哲志「曽宮一念インタビュー」から引用してみよう。
  
 (前略)そうこうしているうちに、大正12年の暮れに(大正12年11月26日)、佐伯は船に乗ってパリに行っちゃったんです。これはねえ、おそらく僕は転地療養してて、落合にいない間だったんじゃないかと思います。その間にパリに行っちゃったんですよ。それで行く前に、彼は玉子でもとる気だったんでしょう、黒いニワトリをね、私の所に持ってきて、お前にやると、貰ってくれと。放しといちゃ困るだろうと言ったら、小屋作ってやるって、板っきれを方々から集めてきて、小さな小屋を庭の隅っこに作ってくれた。それからアケビの木ですね、実がなって食べられる、それを2本持ってきましてね、僕の部屋の入口のとこに、2本植えていきましたよ。それから下が三角になってる、室内用では一番安物の、佐伯が使ってた画架Click!を、僕が遊びに行ったら、これ君にやるって言って、どうしても聞かないんですよ。そして足の一番先に、普通の筆記用のインキでもってカタカナで「ソミヤ」と書いて、これやるから一緒にもってけって言うんで、佐伯と二人で私のアトリエまで、担いで来ましたよ。その画架はいまだにあります。
  
 曾宮一念が、なんとなくオタオタととまどっているうちに、7羽のニワトリを押しつけて鶏舎まで建てていった佐伯だが、このとき持ちこまれた黒いニワトリの品種はなんだったのだろう? 食用ではなく、採卵が目的だと思われる黒い品種なので、大正中期の養鶏資料を調べれば品種が特定できるのではないかと考えた。
佐伯アトリエ出前地図1925.jpg
佐伯アトリエ火保図1938.jpg
佐伯アトリエへの道.JPG
 海外で品種改良された、採卵・食肉を問わず優秀なニワトリの輸入に熱心だったのは、岩崎弥太郎Click!の三菱だ。明治の中期ごろから、おもに世界各地が原産のニワトリで、特に米国で品種改良されたニワトリの輸入を積極的に行っており、佐伯祐三が庭で飼いはじめたころには、日本で20種類ほどの養鶏用ニワトリが飼育されていた。落合地域や長崎地域には、採卵を目的とした養鶏農家が多かったらしく、付近の乾物屋Click!では同地域の鶏卵が店頭に並んでいる。
 ニワトリの種類によって、産む卵のサイズは大小さまざまであり、大きな卵を頻繁に産むニワトリの品種は、当然ながらかなり高価だった。大正中期に、日本で入手できた採卵用のニワトリで、全身が黒色の羽毛をもつ品種は6種類だが、現代の採卵用に買われているニワトリの品種とはかなり異なっている。それだけ、ニワトリの品種改良は急速に進んでいるのだろう。
 佐伯の時代に入手できた、6種類の黒羽種のあるニワトリとは、もっとも高価なアンダルシアン種をはじめ、レグホーン(レグホン)種、黒色ミノルカ(メノルカ)種、黒色オーピントン種、黒色ジャバ(ジャワ)種、そして黒色ハンバーグ(ハンブルグ)種だ。この中で、生育してから半年ぐらいで産卵をはじめ、年間に200個以上もの卵を産むアンダルシアン種とレグホーン種は、当時の養鶏場でもっとも人気が高かった品種だ。また、黒色ミノルカ種は大きな卵を産む品種で、年間180個前後の収穫があった。
 黒色オーピントン種は、どちらかといえば採卵用としてよりも観賞用(ペット)として飼われるケースが多かったらしく、艶やかな光沢のある黒い羽毛が特色で、「愛鶏家」の人気が高かった。黒色ジャバ種は、ジャワ島が原産だが米国で品種改良されたニワトリで、卵のサイズはそれほど大きくないが年間に200個ほど産出する。鶏卵は白色ではなく褐色をしていたので、白い卵との差別化という意味から付加価値のある商品だったらしい。
佐伯祐三ニワトリ.jpg
藍灰色アンダルシヤン.jpg
褐色レグホーン1909.jpg
 黒色ハンバーグ種は、採卵用のニワトリとしてはもっとも多産で、年間に240~250個の卵を産む品種だった。卵のサイズも大きく、重さも16~17匁(60~64g)と「大卵種」に分類されていた。同種は、ペットとしても人気が高かったらしく、独特な緑色がかった黒色の羽毛で美しかったらしい。ただし、曾宮一念の証言では、羽毛の色は「黒」としているので、緑がかった黒を画家である彼が単純に「黒」色とするかで疑問が残る。
 明治末から大正期にかけ、上記に挙げた羽毛が黒い品種のニワトリ価格は、以下のようなものだった。ちなみに値段は1羽ではなく、雄雌つがいの価格だ。
ニワトリ価格(大正初期).jpg
 さて、もうひとつの“証拠”として、佐伯がスケッチしたニワトリの素描が残っている。佐伯アトリエの庭をウロウロしていた、ニワトリのおそらく雌鶏(めんどり)を描いたものだ。ご承知かもしれないが、ニワトリは品種によってそれぞれ体形がかなり異なる。佐伯が描いたニワトリの姿は、当時もっともポピュラーだった業務用のアンダルシヤン種かレグホーン種の雌鶏によく似ている。ただし、この2品種は値段に大きな差があった。大正初期に、アンダルシヤン種は雄雌のつがい(2羽)で45円もしたのに対し、レグホーン種のつがいはその6分の1以下の7円だった。
 東京美術学校を卒業したばかりで、下落合にアトリエを新築して間もない佐伯夫妻に、雄雌1つがいが45円のアンダルシヤン種はなかなか飼えなかっただろう。米価を基準に換算(現在の1/1,400)すると、アンダルシヤン種は1つがいで6万円以上もしたことになる。だが、黒色のレグホーン種なら7円なので、1つがいが1万円弱で購入でき、駆け出しの画家にでもなんとか手がとどく値段だったろう。しかも、第1次渡仏をする際には、曾宮一念―へ惜しげもなくプレゼントしていることを考慮すれば、アトリエで飼っていたのは安いレグホーン種ではないかと想定しても、あながち不自然ではないように思える。
黒色ミノルカ種(スペイン).jpg
黒色オーピントン.jpg
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 佐伯夫妻は、採れた卵を健康のためにそのまま生で、あるいは料理して食べていたのだろう。もちろん、すき焼きClick!用の卵としても活用していたにちがいない。だが、曾宮一念に鶏舎までつくってプレゼントした、レグホーン種とみられる7羽の黒いニワトリは、佐伯の渡仏中に曾宮邸の庭へ侵入したドロボーによって、すべて持ち去られている。

◆写真上:現代でも採卵用のニワトリとして飼われている、イタリア原産の白色レグホーン(レグホン)種。黒や褐色など有色レグホーン種は、あまり見られなくなった。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!にみる佐伯アトリエと養鶏場。は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる養鶏場跡。跡地の住宅が、大正末の中島邸から早崎邸に変わっている。は、南側から佐伯アトリエへと抜けられた路地。画面右手の塀が、養鶏場(のち中島邸→早崎邸)跡の現状。
◆写真中下は、佐伯祐三のニワトリ素描。は、大正期には高価だった藍灰色アンダルシヤン種。は、明治末の年賀状にみる褐色レグホーン種。
◆写真下は、スペインが原産の黒色ミノルカ(メノルカ)種。は、イギリスが原産地の黒色オーピントン種(雌鶏は左右)。は、現代ではポピュラーな米国が原産のロードアイランドレッド種。もちろん、佐伯の時代には数も少なく普及していない。
おまけ
「狙われるもんより、狙うほうが強いんじゃ。守宮組ん組長の命(たま)、取っちゃろかい!」と、この季節になると出没するヤモリを追いつめるオトメヤマネコ(♀)。ヤモリ(守宮)は小虫を食べる益獣なので、襲撃事件が発生するたびにオトメヤマネコを検挙・拘束しているが、流血の抗争はやみそうにない。もうすぐ3歳だが、すでに仔猫の面影はなくオオヤマネコ化し、裏庭を横切るタヌキにすごい声で吠え立ててケンカを売っている。
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