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高田町の商店レポート1925年。(7)豆腐屋 [気になるエトセトラ]

自由学園大谷石.JPG
 いつだったか、下落合の目白文化村Click!を歩いていたら、豆腐の行商に出会ったことがある。あのプーッという、豆腐屋独特の懐かしいラッパを吹いていたが、乗っていたのはスクーターだった。近くの豆腐屋から、午後になると豆腐を入れた箱をうしろの荷台に載せ、近くの住宅街をまわっているのだろう。
 この街を注意深く見まわしてみると、昔から変わらない豆腐の専門店が、けっこうあちこちに残っているのに気づく。それだけ、スーパーで売っている工場で大量生産された豆腐ではなく、昔ながらの手づくり豆腐の需要が高いのだろう。うちの近所では残念ながら現在、専門の豆腐屋はまわってこないが、わざわざスーパーへ出かけなくても済むよう、多彩な食品を小型トラックに載せた「移動スーパー」Click!が毎週まわってくる。その中でも、豆腐はよく出る売れ筋商品のようだ。
 1925年(大正14)2月26日(木)と27日(金)の両日、自由学園Click!の女学生たちはいっせいに商店の取材に高田町内へ散っているが、高等科2年の清水雪子が取材に訪れたのは豆腐屋の「尾張屋」だった。豆腐屋は朝が早く夕方には閉まってしまうので、彼女は店じまいの少し前、その日の商売がほぼ終わる夕方近くに訪ねている。一連の商店インタビューを読んでいると、女学生たちは店の繁忙時間を事前に観察して認知しており、できるだけその時間帯を避けて取材に訪れている気配がうかがえる。
 さて、豆腐屋の「尾張屋」さんは、高田町の住民よりも下落合の住民のほうが多く利用していたのではないだろうか。「尾張屋」が開店していたのは、自由学園から南南西へ直線距離で500m弱、目白通り沿いの高田町金久保沢1120番地(現・目白3丁目5番地)の角地、つまり高田町と落合町の町境で営業をしていた。店の斜め前の北側も西側も、そして南側もすべて下落合で、目白通りから近衛町Click!へと入る道筋の角店だ。この時期、1922年(大正11)からはじまった東京土地住宅Click!による近衛町の開発Click!で、建設工事用の車両が店の前を頻繁に往来していたのではないだろうか。
 では、豆腐店「尾張屋」の主人のインタビューを、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。ちなみに、同レポートで具体的な店名が記されていて店舗を特定できるのは、この豆腐屋1軒のみだ。
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 『豆腐屋はずいぶん早く起きなくてはならない商売で、家などは三時から起きて、まあ一日に四斗の豆をつぶします。そのうち半分は白に、残りの半分は又半分に分けて、焼と油揚げに造ります。家では七人の職工がゐまして、四人は行商にかゝり、三人は製造の方にまはります。朝は六時には売りに歩くのですからね――、一箱冬ならばあけがありますので、三円位のものを持ち歩きます。夏はまあ二円位ですね、冬の方が売行がいいのです。いや、箱が空になるのは夕方位のものですよ。朝とか昼の稼ぎを合せたものが夕方のものになりますね。ですから、一人の行商人が六円平均に稼ぎます。一人の給料は寝泊りをして食べさせて、その売上高の二割二分払つてます。一人前の職工になるには、十四五歳から住み込んで、五年はかゝりませう。なかなかむづかしいものですよ。それで小僧が入営した時は1ケ月五円づゝの小遣をやつて除隊すればまた勤める様にしてます。』
  
 主人は、豆乳4斗(72リットル)の半分が「白」と証言しており、その中で絹ごしと木綿ごしの比率が知りたいが、女学生はそこまで訊いてはいないようだ。
 山手線の目白駅Click!をはさんで、目白橋Click!をわたった南東側は学習院Click!のキャンパスなので商売はできないが、北東側の高田町雑司ヶ谷大原(現・目白2丁目)、店のある北西側の同町雑司ヶ谷旭出(目白3丁目)と下落合、そして西側と南側の下落合へ、4人の店員は毎日行商に出かけていたのだろう。
 行商をする小僧たちの生活は、寝食給与(小遣い)が保証されており、もし赤紙(召集令状)Click!がきて入営しても、毎月5円の小遣いが支給されていた。こうして店員をつなぎとめ、除隊後に再び職場に復帰するよう店の側から働きかけていたわけだ。豆腐屋は、商店というよりもどこか職人の世界に近い仕事なので(主人も「職工」と表現している)、専門的な技術の習得そして熟練には時間がかかったのだろう。それだけ、製造技術の伝授に注力していた様子がうかがえる。
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 つづけて、「尾張屋」主人の話を聞いてみよう。
  
 『わしはこれでこの商売を三十年もやつてゐるんで、製造だけはなかなか心得たものですよ。前に大学にも教へに行つたことがありますよ。今話せ? そりやだめだ。一日かゝりますからな。今度ゆつくり話してあげるから一日がゝりでいらつしやい。残つた物ですか? 残つたものは、熱湯の中に鹽(塩)を入れ、その中に豆腐を入れると、製造当時と同じになるのですよ。それをまた次の日に売ります。まあ、家へ帰つて厚い鹽(塩)昆布を鍋の下に敷いて豆腐をゆでゝごらんなさい。さうするてえと豆腐は、何時間ゆでゝも堅くなりません。少し位悪くなつたものでも元通りになります。これは昆布がよいわけのものではなく、昆布の中にある鹽(塩)分がよいのです。この方法は、わしが随分方々を歩きましたが、関西でも朝鮮でもしていたのを見たが、どうしたのか、東京の人がしてゐないのです。今夜やつて御覧なさい。お母さんが喜びますぜ。』 気さくな面白い人であつた。(カッコ内引用者註)
  
 わたしも、「尾張屋」の主人が大学へ豆腐のつくり方を教えにいった経緯を知りたいのだが、それほど話が長くなるのだろうか。もし、訪問した清水雪子が再び同店を訪れ、「一日かゝり」で話を聞いているとすれば、自由学園の卒業生が寄稿する同窓誌などに文章が残っているかもしれない。
 古い豆腐を「元通り」にする方法を、なぜ「東京の人がしてゐない」のか主人は不思議がっているけれど、これは江戸東京地方の食文化Click!や食の美意識へのこだわりのちがいからだろう。真空パックや冷蔵庫が普及した今日ならともかく、豆腐の専門店で前日にこしらえた豆腐など、買って食いたくないのは当たり前にちがいない。魚でも野菜でも豆腐にしても、できるだけ新鮮なものを尊重し食卓に載せたいのは、江戸東京地方のゆずれない地域性だ。この女学生が家に帰ってそんなことをしたら、「お母さんが喜」ぶどころか「気味(きび)の悪いことしないで棄てなさい!」と、逆に叱られたかもしれない。
講義三宅驥一192209.jpg
講演スタンフォード大学D.S.ジョーダン192211.jpg
 店では、そろそろ夕方の店じまいに向けた仕事がはじまっていた。おかみさんの指図で、店の調度や道具類はきちんと片づけられ、板間もきれいに洗われていく。女学生が、「尾張屋」と書かれた戸を開け目白通りに出たときは、すでに通り沿いは薄暗く灯りが点いていた。次回は、掛け売りが円滑に回収できず悩む「酒屋」を訪ねてみたい。
                                <つづく>

◆写真上
:自由学園校舎の教室部。建物の内外には、F.L.ライトClick!設計による帝国ホテルClick!の建設で出た大谷石の余材がふんだんに使われた。
◆写真中上:1926年(大正15)に作成された『高田町北部住宅明細図』にみる、目白通りに面した高田町金久保沢1120番地の豆腐店「尾張屋」。
◆写真中下:最近は、人気が下がり気味らしい木綿ごし豆腐。
◆写真下は、1922年(大正11)9月に遺伝学の「メンデルの法則」を講義する東京帝大の三宅驥一。は、1922年(大正11)11月に講演した米国スタンフォード大学総長のD.S.ジョーダン。自由学園の教授や講師は、当時の他の女学校に比べて特異であり、メンデルの弟子H.モーリッシュや島崎藤村Click!、地震学のT.A.ジャガー、徳川義親Click!、英国詩人のR.ホジソン、ロシアの小説家R.L.トルストイの娘トルスタヤなど、開校早々に多彩な人物を招いている。国語や外国語、自然・社会科学ばかりでなく美術や音楽、演劇、文学など芸術分野にも力を入れ、美術教師には山本鼎Click!木村荘八Click!、桑重儀一の3人が就任し、追って彫刻・工芸分野では石井鶴三Click!と吉田白嶺などが着任している。『我が住む町』の社会調査のために、同じ高田町内に住む早稲田大学教授の安部磯雄Click!を招聘したことはすでに記した。

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