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高田町の商店レポート1925年。(9)炭屋 [気になるエトセトラ]

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 従来の商店インタビューClick!とは異なり、自由学園Click!高等科2年の石井輝子が訪ねた炭屋のレポートは、主人が質問に答えた言葉をそのままの形式で綴るのではなく、取材で解釈したり感じたり、観察したことを彼女自身の言葉で表現する文章となっている。したがって、主人の語り口は最小限のことしか書かれていない。
 開店して1年足らずの店だが、彼女はすでに主人とは顔なじみだったらしく、「何時会つても何時来ても愛想のいゝ気楽さうな主人」とあえて書いているので、自宅近くの店だったのかもしれない。彼女が店を訪れたとき、薪や炭俵を積み上げた店先で、主人は炭粉がついた黒い顔をしながら薪を割っている最中だった。仕事の邪魔をするのは気がひけたが、彼女が取材の趣旨を説明すると、イヤな顔もせず仕事の手を休めて、いろいろなことを詳しく教えてくれている。
 炭屋の主人が話した薪炭(しんたん)商の詳細を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 先づ『炭と申しましてもなかなか種類が多うございましてね』と切り出した、奥州、野州から出る物の中に桜炭、楢丸、楢割、ぞう丸、ぞう割等、その他紀州から出る物には大丸、中丸、角びん、小びん、一丸、丸丈、等其他にもまだ随分種類が多いさうです。けれど東京では大抵奥州、野州から出る物を、使ってこの店でも紀州物はあまり取扱はないさうです。何処の炭が一番良いんですかと聞いたら、釜の加減で時には大変よく焼ける事もあるが、時には悪く焼ける事もあるから、一概には云へないが、紀州の物は一番上等で、桜炭は常陸が良い。福島から来る炭はあまり良いのがないと云つてゐました。どの商売にも仲買と云ふのがありますが、やはり炭にも仲買人が居るさうです。大抵はその手を経てくるので、客にもよるがまあ平均俵あたり五銭位の口銭ださうです。そして小売する時には一割から一割二分の口銭で、同じ値で思はぬ良い炭が手に入ればもつと口銭を取ることもあるが、悪い品が手に入つた時には損をして売ることもあるそうです。
  
 炭屋の主人は、質のいい炭は紀州の炭か常陸の桜炭といっているが、これは家庭で使用することを前提に、火力が安定して火持ちがいいという面からの評価だろう。たとえば、これが鍛冶の火床やガラス細工の炉、焼き窯など製造用の炭となると、紀州の炭も常陸の桜炭も“ダメな炭”ということになる。
 炭には、それぞれ材質によって温度や火力に大きな差があり、火力を短時間で上昇させて火床や炉、窯などを一気に高温にし、なにかを焼成したい場合には、家庭では火花がはぜて面倒なのであまり使われない、松炭(アカマツの炭が主流)が最良ということになる。炭には多種多様な特徴があるので、その用途によって選ぶのが案外むずかしい。また、主人もいっているように、時季によって焼き具合に出来不出来のムラがあるし、特定の地域の炭のみが安定した品質にならないのでなおさらだ。
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 下落合でも、1990年代ぐらいまでは「炭・練炭・薪」という文字を掲げる薪炭専門店の看板を何軒か見かけていた。あるいは、プロパンガスや灯油などを扱う燃料店でも、「炭・薪」の文字を目にしていた。おそらく、いまでもその何軒かは目立たないが、特定の得意先を相手に商売をつづけているのだろう。
 炭は、いまだに手あぶり用の火鉢や鍛冶店の火床(ほと)、料理屋の厨房、あるいは茶室の炉(おもにナラ炭やクヌギ炭が主流)などで需要があったのだろうし、薪は住宅の暖炉に用いる燃料用なのだろう。あまり目立たないが下落合には茶室が多く、30代ごろ住んでいた聖母坂Click!のマンション1Fにも茶室がしつらえられており、近くの薪炭屋から定期的に炭を購入していた。また、昔ながらの暖炉つきの住宅もけっこう見かけるので、それなりに細々と商売が成り立っているのだろう。
 つづけて、石井輝子の炭屋インタビューを引用してみよう。
  
 仕入はわざわざ山まで行かなくても、手紙で炭が無くなりかけた時や、得意から特別注文のあつた場合に、山なら山、問屋なら問屋へ注文すれば運送屋に託して送つて呉れるさうです。八百屋や呉服屋の様に別に仕入れに行かなくても好いし、酒屋の様に少しづゝの注文もないから、あまり急がしい商売ではないらしい。現金と掛買とどちらが多いんですかと聞いたら、勿論掛買で七分から八分が掛買の得意だそうです、学校や役所とかなら勘定もなかなか堅いが、勤人でも中流以下だと他の入用が多いとそつちへ廻して、炭代の方へはなかなか廻して呉れないで、ずいぶん滞つたのもあるさうです。一人では全体を動かすことは出来ないが、学校なんかで宣伝していたゞけるなら、現金取引を実行するやうにしたいと云つて居ました。
  
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 ここでも、嗜好品(たとえば酒など)と同様に生活用品の支払いが、食料品などに比べて後まわしにされる、当時の掛け売りの状況が語られている。家計のやりくりがたいへんな家庭では、食料品の支払いが滞ると店から配達してくれなくなり、死活問題になりかねないので優先して代金を払うが、それ以外の支払いは「家計に余裕があるときに払う」ぐらいの感覚だったのだろう。
 炭屋の場合、掛け売りが7~8割もあったというから、その回収には多大な労力が必要だったろう。ましてや、この炭屋は高田町で開店してから間もない店であり、商売の苦労は並たいていでなかったにちがいない。掛け買いではなく、現金取引を推進するために「学校なんかで宣伝していたゞけるなら」という主人の言葉に、掛け買いをしたままなかなか払わない顧客で苦労している様子がうかがわれる。
 また、この炭屋の近くにはライバル店が1軒、少し離れたところには2~3軒の同業が開店していたというから、顧客の獲得競争も激しかっただろう。ただし、ここの主人はあまり他店を「商売敵」のようにとらえてはいなかったらしい。むしろ、その性格から地道かつこまめな営業で、確実に稼ぐほうへ注力していたようだ。再び、『我が住む町』収録の「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
  
 新しい店を出して、古くからある家と同じ様にお得意を得るのは、苦しい事だけれど、お得意と云ふものは定つてゐない様なもので、勉強次第だそうです。人様が二円五十銭に売る物は二円四十銭に売り、人様が帳場にゐて小僧を使つてゐる時に自分は注文取りに行くと云ふ風に努力さへすれば、お得意はふえてくれますと言つてゐました。酒屋の様に小売は多くないから、毎日注文取りに出かける必要もなく、配達したついでに途々の家へ明日か明後日はお炭が無くなる頃だと思つた家へ見こしては注文を取りに行つて、注文があればそれを注文帳に記しておいて、店の暇な時に配達の準備に店の方へ出しておくのださうです。資本はと尋ねたら、派手な人なら五千円と云ふでせうが、まあ二千円位あれば努力如何で何うにかやつて行けますと云つてゐました。
  
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食堂のイス&テーブル遠藤新192304.jpg
 「おかげさまで此の頃はだいぶんお得意もふえました」と笑顔で語る主人へ、彼女は最後に商売でいちばん苦しいことはと訊くと、「同じ値段で良い品物を手に入れる事」と、「昔からある店の様にいゝ得意を得る事」だと答えている。このふたつのテーマは炭屋に限らず、どのようなビジネスにも共通していえることだ。次回は、女学生が気をつかったのだろう、洋装ではなく着物袴の和装で取材に訪れた「蕎麦屋」をご紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:竣工直後の写真Click!と変わらない、西側の校門から見た自由学園校舎。
◆写真中上は、囲炉裏や茶室の炉などでよく使われるクヌギ炭やナラ炭。は、佐伯祐三Click!がアトリエの中2階へ持ちこみ曾宮一念Click!たちと囲んだすき焼きでも登場する、昔懐かしい七輪Click!(ひちりん:大阪ではカンテキ)。
◆写真中下は、薪炭屋の店先に積まれているのを見かける薪。は、三岸アトリエClick!の北面に設置された応接室の暖炉煙突。
◆写真下は、1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!の直後から罹災者への支援活動を開始した自由学園の女学生たち。同震災による自由学園の被害はガラスが1枚割れただけで、写真は罹災者の子どもたちへ毎日とどけるミルク配り活動。そのほか、自分たちで布団や着物を縫って被災家庭へとどけるなど、1学期分の授業をすべてつぶして救援活動に専念した。そのため、この年の修業式は翌年の夏に行われている。は、1923年(大正12)4月に遠藤新Click!の設計デザインで完成した食堂の調度やイス&テーブル。

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