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夕立がきそうな三宅克己『諏訪の森』。 [気になるエトセトラ]

三宅克己「諏訪の森」1918.jpg
 1918年(大正7)のよく晴れた夏の日の午後、淀橋町柏木407番地のアトリエをあとにした三宅克己Click!は、画道具を肩に蜀江山Click!を左手に見ながら迂回すると、中央線・大久保駅の先にある道路(現・大久保通り)へと抜けて踏み切りをわたった。そのまま新大久保駅のガードをくぐり、すぐに北へと左折して戸山ヶ原をめざす。戸山ヶ原Click!の写生では、以前から歩きなれた道順だ。
 山手線の線路沿いをしばらく北上し、住宅がまばらになってくるあたりから、大久保射撃場Click!に築かれた防弾土塁(三角山)Click!があちこちに見えてくる。大正のこの時期、とりわけ大きな防弾土塁は近衛騎兵連隊Click!の兵営内に1ヶ所、同連隊と陸軍戸山学校の射撃訓練用に1ヶ所、陸軍全体で使用する大久保射撃場に3ヶ所構築されていた。周辺の住宅街に流れ弾が飛びこむようになり、死傷者がでる流弾被害Click!の急増が問題化し、「陸軍は戸山ヶ原から出ていけ」運動Click!が周辺自治体で活発になると、さらに高い防弾土塁(三角山)が増えていく。そして、1928年(昭和3)には射撃場をコンクリートのドームで覆う最終的な工事が実施されている。
 三宅克己は、射撃場の敷地内に赤旗が掲揚されていない(射撃訓練をしていない)のを確認すると、山手線沿いにあるとりわけ大きな防弾土塁の西側から、諏訪社の前を東西に横切る道路(現・諏訪通り)へと抜けた。空はよく晴れているが、周囲のあちこちに大きな積乱雲が湧きでており、午後も遅くなると夕立がきそうだった。
 三宅克己は、諏訪通りを東へと向かい、射撃場内の湧水源から北へ向けて流れでる小流れの手前で、肩から画道具一式を下ろすと、写生用のイーゼルを組み立てはじめた。諏訪の森で鳴くミンミンゼミやアブラゼミの声が、ときおり陽をさえぎる雲の動きで、大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
 西からの陽光がオレンジ色に変わるころ、周囲が急に暗く蔭りはじめた。あたりは人影もなくひっそりとしており、玄国寺の門前あたりに干された洗濯物が、ときどき強い風にあおられてパタパタ揺れている。風が出てきたということは、夕立が近いのかもしれない。三宅克己は風景の色合いを目に焼きつけ、大急ぎで水彩道具を片づけていると、どこかからか遠雷の音が聞こえてきた。油彩ではなく水彩なので、描いた画用紙を雨に濡らしては元も子もない。
 あとは帰ってからアトリエで仕上げようと、画道具を肩にかつぎ大急ぎで写生現場をあとにして、百人町方面へと足を速めた。……おそらく、諏訪の森での制作の様子は、こんな状況だったのではないだろうか。
三宅克己「諏訪の森」積乱雲.jpg
三宅克己「諏訪の森」洗濯物.jpg
三宅克己「諏訪の森」小流れ.jpg
 画面に描かれた風景から、モチーフの特定をしてみよう。まず、中央から左手にかけて描かれている森が、玄国寺Click!や諏訪社の建立されている森だ。画面を拡大すると、手前の森の中に玄国寺の山門らしい構築物が、また奥には諏訪社の鳥居らしいフォルムが描かれているようにも見えるが、陽が蔭っていて薄暗く、また大正期のカラー印刷精度では判別することができない。
 この森沿いに拓かれ、奥へ向かって上り坂にカーブしている道路が、当時の諏訪通りだ。諏訪通りを左へ、つまり西へ300mほど歩けば山手線の諏訪ガードClick!が、東へ1,000mほど歩けば近衛騎兵連隊兵舎(現・学習院女子大学)をへて、穴八幡(高田八幡社)Click!のある馬場下交叉点へと抜けることができる。
 諏訪通りをはさみ、洗濯物が干されているエリアは、すでに陸軍大久保射撃場Click!の敷地内だ。右手に見えている小高い丘が、射撃場の側面に盛られた防弾土塁で、その土塁沿いの下には小道が通っている。戸山ヶ原を散歩する人たちが、土塁を迂回するために歩いて踏みかため小道化した、「獣道」ならぬ「人道」なのかもしれない。
 この側面に築かれた防弾土塁は、大正の後期になると周辺の住宅地で流弾被害が急増するにつれ、諏訪通り沿いのギリギリの位置まで土砂の山が丸ごと動かされ、さらに高い防弾土塁が道沿いに築かれることになる。その様子は、1938年(昭和13)ごろの記憶を水彩画で記録しつづけた、濱田煕Click!の作品やスケッチで確認することができる。そして、手前の下を横切る茶色いくぼみは小道ではなく、射撃場内の湧水源(湧水池が形成されていた)から諏訪の森までつづく小流れだ。
陸地測量隊地形図1918.jpg
諏訪の森描画ポイント.jpg
諏訪社1.JPG
諏訪社2.JPG
 1938年(昭和13)前後に見た戸山ヶ原界隈の記憶画を描く、濱田煕の話を聞いてみよう。1988年(昭和63)に光芸出版から刊行された、濱田煕『記憶画 戸山ヶ原―今はむかし…』に掲載されている諏訪通りについての記述だ。
  
 山手線側から、諏訪神社の方角を見る。
 画面左手は墓地。その向こうの二階家は製函問屋で、店内の板の間には、何台かの紙箱製造機が働いていた。右手三角山の小屋附近に、当時としては珍らしい自動車の練習コースがあった。
 諏訪神社前の登り坂
 諏訪神社の前は結構な坂であった。/当然のことながら道は拡張され、墓地の生垣は殺風景な万年塀となっている。製函問屋は立派な建築の東京製菓学校に変り、あたりは若者たちであふれている。
  
 「自動車の練習コース」は、戦前に造成された簡易自動車練習場のことで、昭和10年代は自動車の免許取得がブームになっていたものか、同様の施設を高田馬場駅近くの旧・神田上水(1966年より神田川)に架かる神高橋Click!の北側や、妙正寺川に架かる北原橋Click!の西側の上高田でも確認できる。また、「墓地の生垣」とは玄国寺の墓地のことで、現在はより頑丈なコンクリート塀となっている。
濱田煕「山手線側から諏訪神社の方角を見る」1938.jpg
濱田煕「諏訪神社前の登り坂」1938.jpg
三角山(戦後).jpg
三角山.JPG
 さて、濱田煕の文中にもあるとおり、現在の諏訪通りは広く拡張され(1938年当時の道幅の約4倍強)交通量も激しいので、三宅克己の描画ポイントに立つことは危険でできないが、Google MapのStreet Viewによる車載カメラの画像では、それらしい位置から玄国寺本堂と諏訪社のある『諏訪の森』跡を、なんとか眺めることができるようだ。

◆写真上:第12回文展に、『落合村』とともに出品された三宅克己『諏訪の森』。
◆写真中上:ほどなく夕立がきそうな、『諏訪の森』に描かれた風景の部分拡大。
◆写真中下は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図にみる描画ポイント。は、StreetViewで描画位置あたりから『諏訪の森』跡を眺めたところ。は、小流れがあった玄国寺の西側から上り坂になる諏訪通り(上)と諏訪社拝殿(下)。
◆写真下は、1938年(昭和13)の記録画で描かれた濱田煕『山手線側から、諏訪神社の方角を見る』。中上は、同じく濱田煕のスケッチで『諏訪神社前の登り坂』。中下は、戦後すぐのころに撮影された山手線沿いの三角山のひとつで、右手が安田善次郎Click!が創立した東京保善高等学校。は、現在でも大久保3丁目に残る防弾土塁(三角山)。

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