SSブログ

高田町の商店レポート1925年。(4)八百屋 [気になるエトセトラ]

自由学園管理棟.JPG
 自由学園Click!高等科の2年生だった、山田久子が訪ねた八百屋(青果屋)も話し好きで面白い主人だった。最初は、お客とまちがえられモジモジしてしまった彼女だが、自由学園の調査だと告げると、主人は「そんなら八百屋といふ商売程もうからないものはないと書いて下さい」といって笑った。
 八百屋を開店するには、当時は最低でも500円ほどの資本が必要だったらしい。毎朝、市場へ買い出しにいくのは夏は6時ごろ、冬は7時ごろになり、帰りは昼前後になった。店を出るときは、いまだトラックではなく大八車Click!に籠や箱、布製の覆い(カバー)などを積んでいき、市場からの帰りは荷が多くて重くなるから、市場つきの人夫をやとって高田町まで運んでくる。特に、目白崖線を上る坂道には、「押し屋」Click!と呼ばれる人夫たちがいたので、荷が多いときは駄賃を払って人力や牛力を頼んでいただろう。
 八百屋の中には、夕方に市場へ買い出しにいく店もあったらしいが、できるだけ新鮮でいい品物を確保するためには、早朝に出かけないとダメだったらしい。特に、高田町の屋敷街のあるあたりでは悪い品物は受けとらないので、早朝に市場で仕入れたよい品を納入している。逆に、できるだけ品物の安いほうがよく売れる地域では、市場で値段が下がる夕方に出かけて仕入れてくるケースが多かったようだ。
 高田町に店開きをしていた八百屋は、そのほとんどが神田多町の市場か、地元の高田町市場から品物を仕入れている。主人の証言を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 多町の市場は云ふまでもなく、全国から品物が集るので、品物も多く品もよい代り、自然値段も高くはあるが、高田町の市場は、この近在の農家から集るので、品数は少い代はり、価はやすいといふことである。けれども大抵神田まで出なければ、得意先の要求を充たすことが出来ない。即ち一旦地方から市場へ集つてそれから八百屋へわたるので、八百屋では平均二割の利を品物にかけ、果物には、すたりが多く出るので三割から四割かけるといふことである。東京は品物が少なくて需要者が多いため、自然八百屋ものが全国で一番高いさうである。品物の一番よく出るのは春と秋で、八月は一番売れない時である。さういふ時にはこの八百屋で一日十円も売れゝばよい方で、平均の純益は二割位のものでせうといつた。この辺は現金払ひが七分で、通ひが三分 八百屋では現金払ひの方が商がしやすひさうである。
  
 いわゆる「御用聞き」Click!をしてまわる、屋敷街での売上げ(掛け売り)は30%ほどなので、この八百屋では多くが来店客による現金払いの売上げだったことがわかる。
八百屋.jpg
 また、当時は市場にも店舗にも冷蔵設備がないので果物(フルーツ)の傷みが早く、その損失ぶんを価格に上乗せしているため、フルーツは全般的に高価だった。別に大正時代に限らず、戦後も「フルーツは高い」状態がそのままつづき、市場や青果店に冷蔵庫が普及した1960年代あたりから、徐々に価格が下がっていったのではないだろうか。
 この店では、主人がこまめに屋敷街や新興住宅地をまわって、より多くの顧客獲得をめざしていたようだ。そのような販促活動をしている間、店のほうは妻が留守番をして仕切ることになるが、学校から帰ってきた子どもたちも商いの“戦力”で、自然に店を手伝うようになる。できるだけ小僧など使用人を雇わず、家族だけで切り盛りしないと、競合店が多い高田町では経営が苦しかったのだろう。
 再び、『我が住む町』の「小売商を訪ねて」から引用してみよう。
  
 さうして主人の留守の間は妻が店の方をやり、年高の子供も学校から帰れば、代る代る手伝ひをするといふ工合で、成るべく雇人を少くしやうとしてゐる。自然、上の学校に入れるよりも、小学校を終へると、親の商売を継ぐやうになる。話が前後したが、市場では矢張八百屋に取りつけの店があつて、通帳になつてゐるが、物によつては他の店も見て現金買をしなくてはならない。この頃一体の傾向は、八百屋でも問屋でも現金払を欲して来た。だから八百屋がお客にもさう望んでゐる。この店の通の得意は一日四五十軒で、店に来るお客は百人位な話である。処によると随分世間の景気が影響するが、この辺ではそれほど目立つて表はれない。これは中産階級の多いためであらう。
  
自由学園校庭遊ぶ(2教室のみ)1921.jpg
自由学園校舎192205_1.jpg
 商店の子どもたちが、日々店の手伝いをつづけることで自然に仕事を憶え、後継ぎとして成長して行く様子が書かれている。
 だが、換言すれば商店の子どもたちは上の学校へ進学するのがむずかしく、いくら優秀でもなかなか進学させてもらえる環境ではなかったことがうかがえる。高等小学校の教師が家庭訪問し、「お宅のお子さんは優秀なので、なんとか進学させてあげられないか?」と説得することもめずらしくなかった時代だ。だが多くの場合、商店のだいじな跡取りであり商売の重要な“戦力”でもある子どもを、それ以上の学校へ通わせられる経済的な余裕も経営的なゆとりもないのが実情だった。
 また、高田町は市街地に比べ、八百屋にとっては不利な条件が重なっていた。市場から店舗までは距離があり、商品を配送する物流コストがよけいにかかっているからだ。最後に、主人のグチともため息ともつかない証言を聞いて見よう。
  
 『何しろこの辺で商売をするのは損なのですよ。何故つて神田から品物を持つてくるのに、運賃が一車三円もかゝるのです。それは市場は茶屋制度で、そこへ車をあづけたり車を曳く人を頼んだり、江戸川の坂を登るのにとても曳けないので牛に曳いてもらつたりするので、それ丈費用がかゝるのである。ですから私達は小石川辺に神田位の大きな市場が出来るのを望んでゐます。』
  
 「江戸川の坂」とは、椿山Click!目白不動Click!があった目白坂Click!のことだ。
自由学園校舎192205_2.jpg
小野田製油所の牛.jpg
 主人は、「小石川辺」に大きな市場ができたらといっているが、根津嘉一郎Click!による池袋駅東口に拡がっていた根津山Click!“温存”Click!と、どこかでつながる構想なのかもしれない。昭和初期に、根津山を郊外貨物の一大集積地にしようとする計画が、当時の根津嘉一郎の発言からも、また高田町による町政の動きや気配からも強くうかがわれるからだ。次回は、商品の保存に苦心する「乾物屋」を訪ねてみよう。
                                <つづく>

◆写真上:自由学園の西ウィングにつづく、回廊の終端にある管理棟の窓。
◆写真中上:昔に比べ、世界中の野菜や果物が手に入るようになった青果屋の店先。
◆写真中下は、1921年(大正10)の開校直後に入学した生徒たちが遊ぶ校庭。当時は校舎がいまだ工事中で、ふたつの教室しか使えなかった。は、開校後の1922年(大正11)5月にようやく竣工した自由学園校舎(正面)。
◆写真下は、完成した校舎西側の回廊部。は、下落合1529番地(現・中落合3丁目)の小野田製油所Click!で精製されたゴマ油を運搬するかなり頑丈に造られた牛車。

読んだ!(21)  コメント(23) 
共通テーマ:地域