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下落合を描いた画家たち・柏原敬弘。 [気になる下落合]

柏原敬弘「芽生えの頃」1920.jpg
 洋画家の柏原敬弘Click!が、いつごろから下落合803番地に住んでいたのか、資料がないので正確なところはわからない。だが、1924年(大正13)以降は絵を描いておらず、鈴木誠Click!によれば「気が狂った」状態になったので、画家をやめてしまったものと思われる。それまでは、同住所のアトリエで制作しているので、かなり早くから下落合に住んでいた可能性がありそうだ。
 柏原敬弘は、東京美術学校Click!に在学中の20歳のときから文展・帝展に入選しつづけており、藤島武二Click!に師事している。大正後期の下落合803番地の周辺には、関東大震災Click!で避難してきた中村彝Click!が一時滞在した鈴木良三Click!(800番地)をはじめ、有岡一郎Click!(800番地)、鈴木金平Click!(800番地)、鶴田吾郎Click!(804番地)、服部不二彦Click!(804番地)など洋画家たちのアトリエが集中していた。
 1921年(大正10)から下落合623番地にアトリエを建てた曾宮一念Click!もまた、柏原敬弘のことは記憶しているようなので、柏原が下落合に住みはじめたのは中村彝に師事した二瓶等Click!が下落合584番地へアトリエを建てたのと同じころ、1919年(大正8)前後ではないかと想像している。
 柏原敬弘が描く大正中期の作品には、樹間からのぞく風景や森林、小川など東京近郊とみられる田園風景が多いが、そのうちの何点かは落合地域を写生していると思われる。だが、当時の落合地域(特に西部)には指標となるような建物や構造物が少なく、描かれている風景の場所を特定することは非常にむずかしい。今回ご紹介するのは、1920年(大正9)に第2回帝展へ出品された『芽生えの頃』という作品だが、めずらしく建物がふたつ画面にとらえられている。
 陽光は、画面左手の上から射しており、樹木の影などから左側が南の方角に近いのだろう。建物の向きを合わせて考えると、太陽は東寄りの上空にあり、建物の向こう側が南の可能性が高いだろうか。すなわち、見えている建物手前の暗い画壁は北面ということになる。『芽生えの頃』というタイトルから、同作は1920年(大正9)の早春に描かれたものだとみられ、同年秋の第2回帝展に出品されている。
 画面を中央右手から手前へ、建物に沿うように小川が流れており、左端の建物のほうへ寄り添うように流れる川筋と、手前にそのまま流れる川筋とで分岐しているように見える。画面の左端に、屋根と外壁がチラリと見えている建物は、左手から射す陽光でできた影の様子から見て、かなり大きめな建物であることがわかる。だが、このような川辺の氾濫原に建つ建築物は、おそらく住宅ではないだろう。大雨が降り川が氾濫したら、洪水でひとたまりもないからだ。
 そのような目で眺めると、左手奥に見えている細長い建物も住宅には見えない。しかも、ふたつの建物の外周やその周辺には、規則的な木の柵が張りめぐらされており、ますます住宅らしくない風情となっている。このように、周囲へ木柵をめぐらす建物の場合は、中にいる動物を外へ逃がさない牧舎(たとえば牛舎か厩、鶏舎など)か、あるいは逆に外からの(人間の)勝手な侵入を許さない防柵の意味合いが強い。防柵の場合は、なんらかの収穫物や製造品、大型の農具などを保管する倉庫のケースだ。細長い建物の手前にも柵が見えているが、野菜を育てている畑地だろうか。
柏原敬弘「芽生えの頃」1920小屋.jpg
柏原敬弘「芽生えの頃」1920小川.jpg
バッケの水車1921.jpg
 以上のような観察を踏まえ、1920年(大正9)という早い時期を考慮すると、このような川筋や建物の配置で思いあたる場所が、落合地域で1ヶ所だけ存在している。当時の住所でいうと、左端の大きめな建物が上落合768~780番地、左手奥の細長い建物が上落合809番地で、流れている川は妙正寺川(北川)だ。画家は、妙正寺川の北側、すなわち下落合側にイーゼルをすえていることになる。
 陽光を受けた影の様子から、かなり大きめな左端の建物は2代目・バッケの水車小屋Click!であり、画面左手の奥に見えている細長い建物は、水車小屋で製粉する穀物を保管しておく、あるいは製粉した穀物粉を保管しておく倉庫のひとつではないだろうか。『芽生えの頃』の翌年、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図を参照すると、大きめな水車小屋の周囲には、3棟の穀物倉庫らしい細長い建物を確認できる。描かれているのは、水車小屋の西側に位置する倉庫のひとつだ。
 倉庫に保管される穀物は、もちろん落合地域や上高田地域で多く収穫されていた麦で、大正期になるとおもに都市部でのパンの需要が急速に伸びたため、水車小屋の製粉業はフル稼働をしていただろう。上落合で収穫された麦は、描かれているバッケの水車小屋で粉砕されていたが、上高田で収穫された麦は妙正寺川のひとつ上流の水車小屋にあたる、稲葉の水車Click!で小麦粉にされていた。
 水車小屋は、24時間365日稼働しつづけるミッションクリティカルな作業なので、もちろん常に水車番が寝泊まりしており、粉砕を終えた粉を倉庫へ倉入れしたり、業者が引きとりにきたら倉出しして出荷したり、穀物を新たに引き臼へ加えたり、ときには歯車など機構のメンテナンスを実施するなど、かなり多忙でキツイ仕事だったろう。仮眠をとろうにも、水車の動力で上下する杵(胴突き)のゴトンゴトンという騒音で、なかなか熟睡ができなかったのではないだろうか。
妙正寺川1927.jpg
バッケの水車跡.JPG
下落合村稲葉の水車1880.jpg
 柏原敬弘は、朝早い時間から目白崖線を下って妙正寺川沿いを歩いていくと、当時はあたり一帯がシーンと静まり返っていたので、かなり遠くからでも水車小屋の杵音が聞こえていただろう。久七坂Click!の下から、雑司ヶ谷道(中/ノ道)Click!を約1,000mほど西へ歩くと、バッケの水車小屋へたどり着くことができる。彼は、中ノ道から南に折れ、東京電燈谷村線Click!が建てた木製の高圧線塔Click!の下をくぐって妙正寺川の河畔に立った。当時の妙正寺川は、ひとまたぎで飛び越えられそうな、いまだ小川の風情をしている。妙正寺川が、下流域の洪水対策のために浚渫され、川幅も拡幅されて、蛇行する川筋が整流化されるのは昭和に入ってからのことだ。
 柏原は、バッケの水車小屋が目の前に見える川の北側にイーゼルをすえ、南西を向いて描きはじめた。左隅に、対岸の水車小屋の北西角を入れ、少し離れたところに2棟並んで建つ穀物倉庫の、手前の1棟を入れて構図を決めた。非常に神経質な性格なのか、キャンバスに向かい細々とした点描のような筆づかいで、画面をゆっくりと時間をかけて仕上げていく。いまだ川沿いには、前年の枯れ草が多く残っているが、あちこちで黄緑色の新芽が芽吹きはじめている。特に、水車番が耕しているらしい畑では、ダイコンだろうか勢いのある青々Click!とした葉が鮮やかだ。
 柏原敬弘は、おそらく雨でも降らないかぎり何日間か連続して同じ描画ポイントに足を運び、午前中の光の中で描きつづけたのだろう。筆致の様子から、佐伯祐三Click!のように1時間足らずで20号の画面を仕上げてしまうのとは、対極的な制作スピードだったのではないだろうか。『芽生えの頃』は、秋の帝展に出品を予定している作品のため、よけいにこだわりが強く何度も写生地を訪れては、絵の具を執拗に繰り返し重ね塗りしていた……そんな気が強くする画面だ。
 第2回帝展に『芽生えの頃』を出品した翌年、1921年(大正10)の第3回帝展には『落葉搔き』と題する作品が入選している。寺社の灯籠のある境内か参道だろうか、熊手を手にした少女が落ち葉を掻いている情景だが、この画面も落合地域に建立されている、いずれかの寺社かその周辺を写した可能性が高い。そして、翌1922年(大正11)の第4回帝展に入選した『夏の輝き』を最後に、柏原敬弘は同郷の鈴木誠Click!によれば「気が狂った」状態になって制作をやめてしまった。『夏の輝き』は、樹間の太陽を真正面から逆光でとらえた、当時の文展・帝展の洋画家はあまり類例を見ない特異な構図だ。
椿山ミニ水車.jpg
柏原敬弘「落葉かき」1921.jpg
柏原敬弘「夏の輝き」1922.jpg
 『夏の輝き』もまた、落合地域のどこかを描いた可能性があるが、描かれているモチーフだけで場所を特定するのは困難だ。柏原敬弘は、丸善あたりかどこかでゴッホClick!(当時の呼称では「ゴオグ」)の画集でも見たのだろうか? 太陽の逆光が降りそそぐ表現が、強烈なクロームイエローには見えないにせよ、どこかゴッホが描く空に近似している。

◆写真上:第2回帝展に出品された、1920年(大正9)制作の柏原敬弘『芽生えの頃』。同展の絵葉書からの画像だが、キャプションには柏原敬「孝」の誤植がある。
◆写真中上は、描かれた建物と小川の画面を拡大したもの。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみるバッケの水車の描画ポイント。
◆写真中下は、1927年(昭和2)に撮影された妙正寺川で、大正期とほとんど変わらない風情を残している。は、バッケの水車小屋があったあたりの現状。は、1880年(明治13)に描かれた焼失直後の稲葉の水車。バッケの水車から、妙正寺川を500mほど上流にさかのぼったところに設置されていた水車で、陸軍参謀本部の陸地測量隊が同年に1/20,000地形図を作成する直前に焼失しているが、ほどなく再建された。
◆写真下は、目白崖線の椿山にある装飾品としてのミニ水車。は、1921年(大正10)の第3回帝展に出品された柏原敬弘『落葉搔き』。は、翌1922年(大正11)の第4回帝展に出品の柏原敬弘『夏の輝き』で、以降は制作活動が見られない。

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