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佐伯米子アトリエを拝見する。 [気になる下落合]

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 佐伯米子Click!が存命中で、静物画を描いてる最中に撮影したとみられる、彼女のアトリエの記録写真が残されている。その細かな情景を観察すると、佐伯祐三Click!が死去したあと、彼女の生活の一端がうかがわれて興味深い。アトリエには、静物画用のモチーフとともに、佐伯米子の愛用品がサイドテーブルや棚などに置かれており、戦後、彼女をアトリエでとらえた写真ではおなじみの品物も見えている。
 イーゼルに、真新しい6~8号Fサイズほどのキャンバスが置かれた横には、テーブルの上にモチーフの花瓶や花束(キスゲのような花弁だが、なんだろう?)、シチュー皿に載せられたニワトリ(チャボ)Click!の死骸(?カモClick!ではなさそうだ)などが置かれている。花瓶の手前にある、袋に入れられたフランスパンか米あられ、またはソーセージのような物体はなんだか不明だ。イーゼルの前に座ると見えなくなるよう、物体の陰にマッチが置かれているのは、彼女がタバコ飲みだったからだろう。
 その花の向こうには、おかしなものが見えている。筆立てや鉛管の箱に並んで設置された、おそらく卓上ラジオの上に置かれているのは小さな獅子頭(ししがしら)だ。尾張町(銀座)にある多くの町内は、江戸期から山王の日枝権現社Click!の氏子町なので、池田家の氏神も同様だったろう。この獅子頭Click!は、日枝権現にまつわるなんらかの記念品か、それとも地元銀座の出世地蔵尊Click!の祭りに関連した思い出の品ででもあるのだろうか。
 その左横に置かれた筆立てにも、筆とともに矢が何本も挿してある。おそらく破魔矢だと思われるが、日枝権現社の破魔矢か、あるいはひょっとすると地元の下落合氷川明神社Click!のそれかもしれない。その手前には、もっと場ちがいな、にわかには信じられないモノが目に入る。金属パイプに布を張った、ドイツのバウハウス風デザインのようなイスの背後には、フランスのオーヴェル・シュル・オワーズにあるゴッホの墓石のような形状の、“なにか”板碑のような物体が立てかけられている。
 同じかたちをした重たい墓石を、そのまま床面が脆弱なアトリエに持ちこんだとはとても思えないので、墓碑銘の拓本か写真をボードに貼りつけ、墓石のかたちに切り抜いたものだろうか。表面には、なにやら文字らしいものが書かれているように見えるが、この写真の解像度では読みとれない。中村彝Click!も、『カルピスの包み紙のある静物』Click!(1923年)を制作する際、十字架のついた同じようなモノ(キリスト磔刑像)をわざわざこしらえているが、モチーフ用に製作した小道具のひとつなのだろうか。
 その左手の棚の上にも、ランプやミニチュアの家具など、モチーフに使われたとみられる道具類が並んでいるが、その中におそらく観音立像(のようなもの)が一体見えている。でも、印形をかたちづくる左右の腕が確認できず、遠目には欠損しているように見える。あるいは、前に向けた右腕が欠損している、夢違観音(ゆめたがいかんのん)の出来の悪いレプリカだろうか。だが、それにしては左手首の印形も見えないので、両腕が破損したレプリカだろうか。わたしは、このようなかたちをした日本の仏像を知らないが、ひょっとすると廃仏毀釈時に壊され両腕の欠損が多い、仏像まがいの神像のたぐいだろうか。
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ゴッホ兄弟墓1925.jpg
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 左手のソファには、やはりモチーフ用に購入したものか、人や馬、熊などの人形類やぬいぐるみが並んで置かれている。成長した大人の女性が、ぬいぐるみや各種キャラクターに夢中になるのを、わたしは「気味(きび)が悪い」と感じてしまうので、ここはモチーフ用の素材類と解釈したい。この中で、ソファの右側に置かれている黒いシルクハットをかぶった男子の人形は、佐伯祐三が第1次渡仏時にパリ・オペラ座近くの骨董店で、高額にもかかわらず無理をして購入したものだ。
 この人形は、もともと男女のペアだったが、女子の人形は有島生馬Click!にプレゼントしているため(のちに焼失)、男子人形だけが佐伯アトリエに残されていた。人形たちが並べられた手前のソファには、ザルに盛られたミカンのような果実が見えるが、季節が秋だとすればカキかもしれない。いつも晩秋になると、アトリエ中央(穴の開いた丸いイスのあたり)にすえられていた石炭ストーブがまだないので、秋に果実店へ出まわりはじめたカキの可能性が高い。あるいは、下落合にはカキの木が多いので、近所の庭でなったカキを分けてもらったものだろうか。
 バウハウス風のイスと同じデザインのように見える、手前の金属パイプで造られたサイドテーブルに目を移すと、卓上には南欧産らしいワインボトルが見えている。フィアスコのように見えるので、イタリア産のキャンティワイン(赤)だろうか。このボトルは、1950年代に佐伯米子のアトリエを撮影した写真には必ず登場するもので、モチーフに多用されたか、あるいは本人が好きで制作の合い間に飲んでいたものだろう。
 ワインボトルの前には、小さな花瓶にバラのような花(造花かもしれない)が一輪挿してある。その横には、これもアトリエの佐伯米子Click!を撮影した写真ではよく見かける、お気に入りのティーカップやティーポット、シュガーポットなどのセットが並んでいる。さらに、卓上に敷かれたレース編みの上には、輸入されたフランスタバコの「ジタン」とみられるパッケージが4つ、奥にはマッチ箱が見えている。また、周囲には画集や、そこから切り抜いたとみられる写真類、書類などが重ねられており、サイドテーブルの下の段に置かれたソーサーの上には、紅茶缶あるいは緑茶缶らしい容器が見えている。
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 この写真では、左の壁面に架けられていたはずのゴヤ『裸のマハ』のレプリカ(15号サイズほど)が見えず、またランプなどが置かれた棚の上に架けられていた3号F前後の、風景画とみられる作品(自作か?)も見あたらないため、何枚か残されている1950年代のアトリエ写真と比較すると、少なからずタイムラグがありそうだ。
 ワインやティーセットなどの置かれたサイドテーブルだが、1950年代の写真では木製のありふれた四角い仕様のテーブルだったものが、この写真ではより現代的な金属パイプ仕様のテーブルと、おそらくセットで購入したとみられる同じ仕様のイスが置かれている。したがって、この写真は敗戦からかなり時間が経過した、1960年(昭和35)以降に撮影されたアトリエ内部の様子ではないだろうか。
 佐伯アトリエの内部が写真のような状態だったころ、「落合新聞」Click!竹田助雄Click!が佐伯米子のもとをスクーターで訪ねている。1965年(昭和40)4月6日のことだが、竹田は御留山Click!の保存と自然公園化を求める当時の蔵相・田中角栄Click!あての署名用紙を携えていた。1982年(昭和57)に創樹社から出版された、竹田助雄『御禁止山-私の落合町山川記-』から当該部分を引用してみよう。
  
 佐伯邸はたくさんの木立に囲まれている。庭の広さは二百坪くらいであろうか、その奥まったところに静居がある。玄関を真中に、右に大正の名残りを示す急傾斜の破風に、浅葱色のペンキを塗った羽目板のアトリエが建ち、左は離れのような四畳半の居間だ。いきな丸窓が目立つ。雨戸の戸袋には杉板を嵌め込み、近代と伝統を振り分けた和洋折衷の構図である。混みいる木立の中には燈籠も見える。私は四畳半の縁先に腰掛けていたのだった。見上げると屋根の庇が広い。/佐伯米子さんは軀をよじりながら縁先のそばにきて、正座した。そして言った。/「……新聞に小野七郎さんが書いていらっしゃいましたね」/「はい」/「小野さんがお書きになる新聞でしたら……」/信用できるということらしかった。(中略) 「小野さんとは、ロンドンでご一緒しました」/「そうでしたか」/「あなたも、東大ですか……」/「いいえ」/私は微笑した。東大出なら、男の働き盛りにこんなちっぽけな地域新聞なんぞ、やっている訳がない。
  
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 写真の手前に写る、それぞれデザインが異なる3脚の丸イスは、おそらく佐伯米子が開いていた絵画教室へ通ってくる、生徒たちの専用イスなのだろう。中央下にとらえられた丸イスの脚には、生徒のひとりとみられる「文子」と書かれた名前が確認できる。

◆写真上:1960年以降の撮影とみられる、下落合661番地の佐伯米子アトリエ。
◆写真中上は、制作中のイーゼル近くのモチーフ類。中上は、獅子頭に破魔矢、フランスの墓石のようなモノ。中下は、1925年(大正14)にゴッホ兄弟の墓に参詣した右から佐伯祐三、渡辺浩三、木下勝治郎、伊原宇三郎。は、棚の上に置かれたモチーフ類。
◆写真中下は、ソファに置かれた人形やぬいぐるみのアップと、佐伯祐三が1次渡仏中に購入した人形。は、サイドテーブルの上に置かれたワインやティーセット、タバコなど。は、脚に「文子」の名前が入る丸イス。
◆写真下は、1953年(昭和28)に撮影された佐伯米子アトリエ。は、1955年(昭和30)に撮影された同アトリエ。は、竹田助雄が署名願いに訪れた佐伯米子の居間。撮影は1984年(昭和59)で、佐伯邸の改修工事が行われた際のもの。

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