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「池袋池尻辺の女」はいまや55,000人超え。 [気になる本]

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 今年も夏がやってきたので、恒例の怪談話Click!を記事にしようと思うのだが、たまには落合地域にもほど近い「池袋」怪談などを少し。以前、戦災で亡くなった人たちを仮埋葬した、山手線・池袋駅東口の根津山Click!で語られつづけている怪談Click!について書いたが、「池袋」怪談はそれより90年も前の江戸期にかかる物語だ。
 岡本綺堂Click!が、1902年(明治35)に「文藝倶楽部」4月号の誌上へ発表した小説に、『池袋の怪』という作品がある。別に、当時の池袋村が舞台なのではなく、1855年(安政2)に麻布にあったさる大名の上屋敷で起きた怪談というかたちで紹介されている小品だ。異変は、同屋敷の隠居部屋にカエルが夜な夜な入ってきて(特に怪異とも思えないが)、蚊帳に飛び乗る現象からはじまった。
 最初は草深い麻布六本木のことなので、家中の者たちは誰も不思議には思わなかったのだが、日を追うごとにカエルの数が増えつづけ、しまいには「無数」のカエルが座敷に入りこむようになった。屋敷では、さっそく庭師を呼んで庭に生える草や木々の手入れをさせ、カエルが棲息できないよう環境を整備すると、以降、カエルの侵入はピタリと止まった。だが、今度は屋敷の屋根になぜか石が降ってくるようになった。その様子を、2008年(平成20)にメディアファクトリーから出版された『綺堂怪奇名作選-飛騨の怪談』収録の、『池袋の怪』から引用してみよう。
  
 ある日の夕ぐれ、突然だしぬけにドドンと凄じい音がして、俄に家がグラグラと揺れ出したので、去年の大地震に魘えている人々は、ソレ地震だと云う大騒ぎ、ところが又忽ちに鎮って何の音もない。で、それからは毎夕点燈頃になると、何処よりとも知らず大浪の寄せるようなゴウゴウという響と共に、さしもに広き邸がグラグラと動く。詰合の武士も怪しんで種々に詮議穿索して見たが、更にその仔細が分らず、気の弱い女共は肝を冷して日を送っている中に、右の家鳴震動は十日ばかりで歇んだかと思うと、今度は石が降る。この「石が降る」という事は往々聞く所だが、必らずしも雨霰の如くに小歇なくバラバラ降るのではなく何処よりとも知らず時々にバラリバラリと三個四個飛び落ちて霎時歇み、また少しく時を経て思い出したようにバラリバラリと落ちる。けれども、不思議な事には決して人には中らぬもので、人もなく物も無く、ツマリ当り障りのない場所を択んで落ちるのが習慣だという。で、右の石は庭内にも落ちるが、座敷内にも落ちる、何が扨、その当時の事であるから、一同ただ驚き怪しんで只管に妖怪変化の所為と恐れ、お部屋様も遂にこの邸に居堪れず、浅草並木辺の実家へ一先お引移りという始末。
  
 さっそく、妖怪を退治するために同家の血気にはやる若侍たちが、刀や鉄砲をもち出して泊まりこみ、屋敷じゅうを調べてまわったが怪異はやまず、ついには飛んできた石でケガ人まで出る始末だった。狐狸のしわざも疑われたが、屋敷の庭に巣穴は見つからなかった。すると、こんなことをいう者が出てきた。
 それは、江戸の巷間で以前からささやかれていた伝説の引用で、「池袋村の女を下女に雇うと、不思議にもその家に種々の怪異がある」(同書)というものだった。そこで、屋敷内に「池袋村」出身の下働きの女がいるかどうか調べさせたところ、ひとり見つかったのでさっそく暇を出した(クビにした)ところ、怪異はそのまま2~3日はつづいたけれど、1週間ほどで少しずつ収まっていった……というものだ。
 だが、ここには岡本綺堂の古い怪談を参考にした、意図的な怪異の創作があったと思われる。麻布六本木の大名屋敷での怪異は安政年間=幕末の想定だが、それに先立つ50年以上も前の、天明年間ごろから江戸市中でささやかれていた伝説は「池尻村」と「池袋村」であり、実際に怪異が記録され伝承されたのは「池尻村」のケーススタディだった。それを、岡本綺堂が明治期になって実際の事例が伝わらなかった「池袋村」のほうを取りあげ、新たな怪談として創作しているとみられる。
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麻布の道.JPG
麻布西洋館.JPG
 その巷間に伝わる怪異話を、南町奉行だった根岸鎮衛Click!が有名な『耳嚢』に記録している。『耳嚢』巻之二に収録された、「池尻村の女召使ふ間敷事」から引用してみよう。
  
 池尻村とて東武の南池上本門寺などより程近き一村有。彼村出生の女を召仕へば果して妖怪など有と申伝へしが、予評定所留役を勤し頃、同所の書役に大竹栄藏といへる者有。彼者親の代にふしぎなる事ありしが、池尻村の女の故成けると也。享保延享の頃にもあらん、栄藏方にて風と天井の上に大石にても落けるほどの音なしけるが、是を初として燈火の中へ上り、或は茶碗抔長押を越て次の間へ至り、中にも不思議なりしは、座敷と台所の庭垣を隔てけるが、台所の庭にて米を舂き居たるに、米舂多葉粉抔給て休みける内、右の臼垣を越て座敷の庭へ至りし也。其外天井物騷敷故人を入て見しに、何も怪き事なけれども、天井へ上る者の面は煤を以て黒くぬりしと也。其外燈火抔折ふしはみづからそのあたりへ出る事有りければ、火の元を恐れ神主山伏を頼みて色々いのりけれども更にそのしるしなし。ある老人聞て、若し池袋池尻辺の女は召仕ひ給はずやと尋し故、召仕ふ女を尋しに、池尻の者の由申ければ早速暇を遺しけるに、其後は絶て怪異なかりし由。
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 「池袋池尻辺の女」を雇うと怪異が起こるというのは、どのような起源で伝承されるようになったのだろうか? 双方の地名に「池」がつくことから、なんらかの水辺にからんだ怪異話がもとになり、そのような伝承へ発展したのかもしれない。
 確かに、江戸期にはお玉ヶ池Click!や溜池の周辺で、池をめぐる怪談がいくつか語り伝えられている。しかし、それは江戸市中のことであって、突然、江戸市街から遠い池袋村や池尻村と結びつけられるのが理解できない。昭和初期、新聞ダネにもなった青山墓地からタクシーに乗り、途中で消えた女が告げた行き先が「入谷」または「池袋」Click!だったというのは、江戸期からの怪異譚がどこかで生きていたものだろうか。
 当の池袋村のごく近く、下高田村と小石川村の境界にある豊川町にも、非常によく似た怪談が伝承されている。江戸後期から大岡忠正が主膳正を受領していた、豊川稲荷のある大岡家下屋敷と近くで開業していた打紐屋とのエピソードだ。現在の文京区目白台1丁目で、豊川稲荷や日本女子大付属小学校がある目白崖線沿いの一帯だ。こちらは、怪異の原因が「池袋池尻辺の女」ではなく、タヌキのしわざだったとされている。
 1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)に収録の「大岡屋敷の狸の悪戯」から、短いので全文を引用してみよう。
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 豊川町の大岡越前守(ママ)の屋敷の前にあつた打紐屋に、毎日何処からともなく、沢山の石が降つて来るので、大評判となり、遠方から見物に来るものも多い。一日、雲低く空暗く、五月雨の蕭々として物淋しき夕、激しく大岡屋敷から石が飛んで来るので、多くの見物人の中から一人が屋敷内に入り調べて見たるに、永くこの屋敷内に棲んで居る幾疋かの古狸が、人間を驚かさんとする悪戯である事が判かつた。
  
 なぜ、「古狸」のしわざ(タヌキたちの投石)だとわかったのか、その経緯が記録されていないので不明だが、いちおう直接の原因が「判明」している。
 だが、市中で起きた石が降る怪異は、「池袋池尻辺の女」の存在が「原因」とされているだけで、なぜ彼女たちがいると屋敷が揺れたり石が降ってくるのか(体力のある彼女たちが家を揺らしたり、石をまいたのではなさそうだw)、その因果関係の説明がまったくなされていない。そこに、なんとなくウサン臭さを感じるのは、わたしだけではないだろう。
 屋敷内のある女中を追いだしたくなった、なんらかの不都合やよんどころない事情が大名屋敷側にあり、たまたま追いだした女中の出身地が「池袋池尻辺の女」だったのではないか。それを、ことさら家が揺れるだの石が降ってくるだのとあれこれ尾ひれをつけ、妖女の怪異譚に仕立てあげて巷間にウワサをリークした気配が濃厚だ。大名屋敷内は基本的に「治外法権」であり、なにか事件があっても幕府でさえ調査をするのはなかなかむずかしい。ちなみに、大岡屋敷の投石怪談は打紐屋と、下屋敷の門番か中元あたりとの間で、なんらかのイザコザがあった近隣トラブルではないだろうか。w
 さて、現在の豊島区にある「池袋」という地名がつく街や地域に住んでいる女性は、5年前に実施された2016年の国勢調査ベースの数字によれば、上池袋が8,369人、東池袋が9,272人、南池袋が3,990人、西池袋が7,897人、池袋が8,823人、池袋本町が8,717人のつごう47,068人となる。また、世田谷区の池尻1~4丁目の女性人口は、池尻まちづくりセンターの調査によれば2021年現在で8,170人が暮らしている。特に文化・芸術事業に注力して、昭和のイメージを一新した池袋地域は、若い女性に人気な「住みたい街」の上位エリアなので、今後とも女性の人口が増えつづけそうだ。
 すなわち、現在では「池袋池尻辺の女」は合計55,000人をゆうに超えるわけだが、残念ながら彼女たちの自宅やその勤務先で建物が揺れたり、石が降ってくるというような怪談はまったく聞かない。もし江戸期の「池袋池尻辺の女」怪談が事実であれば、現代の東京では同様の怪異が少なくとも数万件の単位で起きてなければおかしいことになるが、怪談Click!都市伝説Click!が好きなわたしの耳にさえ、そんなウワサはただのひとつも入ってこない。
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 岡本綺堂が書いた『池袋の怪』が「実話怪談」系であれば、ここは神田三河町に住む半七親分にでも登場してもらって、大名屋敷の怪を解明してほしいものだが、なぜか綺堂の怪異譚はその原因を探ろうともせず、不思議をうっちゃったまま恐怖を楽しむだけのことが多いようだ。それとも、綺堂自身がじっくり腰をすえ調査しながら書いている時間的な余裕がなかったのか、あるいは編集者のニーズやケチな原稿料も含めた“大人の事情”がいろいろと介在し、「文藝倶楽部」編集者が半七捕物帖シリーズの1編だと期待して、なかなか脱稿しない原稿を督促しに岡本邸を訪ねたら、それが「実は怪談」だったのかもしれない。

◆写真上:江戸期には高田豊川町とも小石川豊川町とも呼ばれた、現在は目白台1丁目になっている大岡家下屋敷にあった豊川稲荷社。
◆写真中上上左は、『池袋の怪』が収録された『綺堂怪奇名作選-飛騨の怪談』(メディアファクトリー/2008年)。上右は、著者の岡本綺堂。は、麻布丘陵の随所に通う細い坂道。は、現在は大名屋敷よりももっと怖い麻布の古い西洋館。
◆写真中下は、屋根に石をまいていたのは「砂かけ婆」ならぬ「石かけ婆」だろうか。は、国立公文書館に保存されている根岸鎮衛の『耳嚢』巻之三。は、1857年(安政4)に発行された尾張屋清七版の切絵図「雑司ヶ谷音羽絵図」にみる大岡家下屋敷。
◆写真下は、大岡家下屋敷跡に建つ「目白台一丁目遊び場」。もうすぐ、都道25号線の大道路建設で壊されてしまうだろう。は、豊川稲荷の小祠。は、麻布地域と同様に目白崖線のあちこちに通う細い急坂の1本で目白台の「幽霊坂」(バッケ坂Click!)。

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