忘れられた江戸東京の昔話。 [気になるエトセトラ]
「むかしむかし、あるところに……」というような昔話が、江戸東京の各地にもたくさん伝わっているが、いまや住民の移動が頻繁になり地域性が稀薄化してきたせいか、それらを子どもたちに語り伝えるという習慣がなくなって久しい。
佐々木喜善Click!や森口多里Click!が明治末から昭和初期にかけて収集した、遠野をはじめとする東北地方などでは、それらの物語がいまでも活きいきと伝承されているようだが、江戸東京の(城)下町Click!とその周辺域で語られていた膨大な数の昔話は、もはや書籍や地域資料の中でしか、なかなかお目にかかれない状況ではないだろうか。
もちろん、地付きの方の家では子や孫へ、地元の昔話を語って聞かせる事例があるのかもしれないが、特に面白い説話でないかぎりは、時代とともに忘れ去られてしまうほうが多いのだろう。ずいぶん以前に、落合地域で語り継がれていた人間の女がキツネに化けてカネを騙しとる、詐欺事件の昔話Click!をご紹介したことがあったが、たまたま新宿区の民俗資料に記録されていたせいで“事件”を知ることができたけれど、戦後も日常的に落合地域で語り継がれてきたとは思えない。
(城)下町では急速に住民の移動や流入、核家族化が進むとともに、地元に残る昔話を知る人たちが別の地域へと散ってしまい、また語り継ぐ相手(多くは子どもや孫だが)の不在や減少とともに途絶えてしまうケースも多かったにちがいない。確かに、いまの子どもたちは祖父母や親から寝物語に昔話を聞くよりも、ポータブルゲームやタブレットを操作していたほうがよほど楽しいのだろう。下落合にある日本民話の会Click!が記録した語りべたちの出版物を、大人が楽しんでいたりするのがちょっとさびしい気がする。
そこで、きょうは江戸東京で語り継がれてきた昔話をひとつご紹介したいのだが、落合地域となんら関係のない話では面白くないので、350年の時を超えて結果的に落合地域のごく近くで、そのエピソードの建物や“証拠”を確認することができる昔話について書いてみたい。東京メトロ東西線・落合駅の出口から、早稲田通りを西へ約550mほど歩いたところに、この昔話の中心となった松源寺がある。上落合の西端からはおよそ350mほどの距離で、所在地は中野区上高田1丁目にある寺だ。
だが、別名「さる寺」と呼ばれている同寺は、もともと上高田の地にあったのではなく、1906年(明治39)に牛込神楽坂から上高田村へ移転してきたもので、それ以前は旗本の屋敷街が形成されていた麴町(当時は糀町)の四番町に建立されていた。この昔話は、同寺が牛込神楽坂にあった元禄年間の出来事だと伝えられている。当時の神楽坂は、千代田城Click!の外濠に面した牛込御門(牛込見附)Click!が近いにもかかわらず、昼間も薄暗い鬱蒼とした森林が連なる斜面だった。夏目漱石Click!の『硝子戸の中』Click!によれば、明治になってからも追いはぎが出るような人家の少ないさびしいところで、女子が外濠へ出るときは下男が必ず付き添っていったらしい。
『江戸名所図会』の記述より、松源寺の項目から引用してみよう。
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蒼龍山松源寺
同所向かふ側にあり。花洛妙心寺派の禅林にして、江戸の触頭四ヶ寺の一員たり。本尊に釈迦如来の像を安ず。開山は霊鑑普照禅師と号す。禅師、諱は宗丘、字を蓬山といへり。(俗に長刀蓬山といふ。昔境内に猿をつなぎて置きたりとて、いまも世に猿寺と号く。旧地は番町なりといへり。観音堂本尊は聖観音にて、弘法大師の作なり)。
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天正年間に創建された同寺なので、弘法大師(空海)Click!作の本尊はご愛嬌だが、元禄年間の当時、松源寺の住職は徳山(とくざん)といい、麹町四番町から移転して以降も、江戸の各地に檀家を抱える寺だったようだ。ある春の日、徳山は向島Click!の檀家から法事を頼まれ、小坊主をひとり連れて出かけていった。神楽坂の松源寺から、隅田川を向島へ渡る竹屋の渡しまで地図上の直接距離でも6.4kmほどあり、道を歩けば10km前後にはなったと思われるが、当時の人は往復20kmぐらいはなんでもなかっただろう。
花が見ごろ時節で、竹屋の渡しは墨田堤のサクラを見物する客でごったがえしていた。渡しの舟を待つ間、住職と小坊主は隅田川の土手に腰をおろして対岸の風景に見とれていた。やがて舟がもどり、ふたりが腰をあげて乗ろうとすると、背後から法衣を引っぱられた。見ると、1匹の小ザルが法衣の裾をつかんでいる。1979年(昭和54)に社会思想社から出版された、小池助雄・万代赫雄『東京の民話』から引用してみよう。
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「おかしなサルだ」――と、住職はそう思いながら岸の方に歩きはじめた。すると、また追ってきて裾を引っ張る。住職は不思議に思って、腰をかがめ手を差し出すと、小ザルは逃げようともせず、住職の膝にひょいと飛び乗った。/あまりに人なつっこい振舞いに住職はサルの頭をなでながら、「お前はどこのサルかな。なぜわしの着物を引っ張るのだ」と、ひとりごとをいっているところへ、サルに逃げられたといって、一人の男が駆けてきた。橋場(台東区)で酒屋をしている武蔵屋という檀家の主人だった。二人が立ち話をしているうちに、渡し船は住職をおいてきぼりにしてこぎ出してしまった。/ところが、舟が川の中ほどに差しかかったころ、舟は突然ひっくりかえり沈んでしまった。すぐ助け舟も出たがたくさんの人がおぼれ死んだ。
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住職が、岸に揚げられた水死者に向けて合掌していると、先ほど法衣の裾を引いたのは「サルの恩返し」だろうと、武蔵屋の主人がそばにきていった。そして、そのサルは1年前に松源寺からもらったものだとつけ加えた。住職は最初、なんのことをいわれているのかわからなかったが、ようやく1年前の出来事を思いだした。
神楽坂の深い森には、ときどきサルが出没しては松源寺の境内でいたずらをするので困っていた。ある日、住職が外出中に小坊主がしかけたワナに、1匹の小ザルがかかっていた。小坊主が町で売りとばそうとしているのを聞いて、住職は急に小ザルがかわいそうになり、小坊主へ代わりに小遣いをやるから放してやれといった。
ちょうどそこへ、武蔵屋の主人が寺を訪れて、かわいがって育てるから小ザルをゆずってくれと頼みこんだ。住職は、檀家の申し出に異存はなかったので、そのまま小ザルを武蔵屋の主人へまかせることにした。そして、それっきり住職は小ザルのことなど忘れていた。それから1年、小ザルは武蔵屋の花見に連れられて竹屋の渡しまできたところ、急に主人のもとから逃げだして住職の裾を引いたというわけだった。
『東京の民話』の「小ザルの恩返し」から、つづけて引用てみよう。
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住職はあらためて武蔵屋に「サルに助けられるという尊い体験をはじめてした。恩返しの意味でサルを大切に育てます。このサルをわたしに譲って下さらぬか」と、申し入れた。武蔵屋も心よく(ママ:快く)サルを住職に譲った。それ以来、サルは松源寺で住職の手厚い保護を受けながら暮らした。/近くの人々は、いつしかこの寺を「さる寺」と呼ぶようになった。サルはお参りに来る人たちからもかわいがられたが、数年後に死んだ。この物語はその後ながく語り伝えられていたという。
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1906年(明治39)に、松源寺が牛込神楽坂から上高田村へと移転する際、小ザルの昔話にちなんでサルの石像を彫らせ、サル像を載せた台座へ「さる寺」と彫刻した石碑を門前に建立した。このサル像は、いまでも同寺山門の右脇に置かれて見ることができる。落合地域には、ネコ寺で有名な自性院Click!があるが、すぐ隣り町に江戸の昔話に語られたサル寺があるのは、あまり知られていない。
さて、ここでちょっと余談だが、松源寺から北へ直線距離で950mほどのところにあった上高田小学校が、中野区の学校統廃合で消滅してしまった。上高田小学校跡の同所には、新井小学校と上高田小学校を統合した「令和小学校」が暫定的に創立されている。ゆくゆくは新井小学校の跡地に新校舎を建設して、令和小学校が入る予定だという。
わたしの世代からいえば、「鉄腕アトム」も「ビッグX」も、「マグマ大使」も、「スーパージェッター」も、「少年探偵団」も、「レインボー戦隊ロビン」も、「宇宙少年ソラン」も、「キャプテンウルトラ」も、アニメなど子供向け番組の主題歌は、みんな上高田小学校の生徒たちClick!(上高田少年合唱団)が唄っていたので、非常に親しみのあるネームだったのだ。それが少子化とはいえ消えてしまったのは、いかにも残念だ。
アトムが産まれた、山手線・高田馬場駅に流れる発車音のメロディーは「鉄腕アトム」だが、それらを唄っていたのが上高田小学校の児童たちだったというエピソードも、これからだんだん忘れられる昔話になるのかと思うと、少年時代が消えていくようでさびしい。
◆写真上:白銀公園の西側にあたる、牛込神楽坂通りに面した松源寺跡。
◆写真中上:上は、『江戸名所図会』の長谷川雪旦Click!が描く「松源寺」。中は、1851年(嘉永4)に作成された尾張屋清七版の切絵図「市ヶ谷牛込絵図」にみる牛込神楽坂の松源寺。下は、翌年の1852年(嘉永5)作成の同切絵図にみる松源寺。
◆写真中下:上高田にある現在の松源寺の山門(上)と門前のサル像(中)、本堂(下)。
◆写真下:上は、昔話ブームの1979年(昭和54)出版の小池助雄『東京の民話』(社会思想社/左)と、同年出版の中村博『東京の民話』(一声社/右)。中は、『東京の民話』に掲載の松下紀久雄「小ザルの恩返し」挿画。下は、浅草の人気者だったニホンザル。