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タタリ話や呪い譚が盗掘を防いだ古墳。 [気になるエトセトラ]

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 少し前、古墳の盗掘にからんだタタリ譚Click!の記事をアップしたら、奈良にはもっと強烈なタタリ古墳があるよ……と、関西の知人が教えてくれた。その強烈な禁忌伝承Click!の継続により、近世に入って横行した盗掘の被害にも遭わず、密閉されたまま副葬品がほぼ完璧なかたちで保存されてきたのだという。同古墳で2006年(平成18)に作成された、発掘調査の報告資料もお送りいただいた。
 その呪いやタタリが現代まで強烈に伝承されてきた古墳とは、奈良市高畑町にある奈良教育大学のキャンパス北端に残された吉備塚古墳のことだ。戦前は、平城京の公卿であり遣唐使の使節としても有名な吉備真備の墓だと規定されていたようだが、これもまた皇国史観Click!によるいい加減な規定だったものか、現在では否定されている。
 事実、同古墳がある奈良教育大学による発掘調査では、5世紀後半から6世紀初頭の遺物が出土し、8世紀後半に死去している吉備真備とは、まったくなんの関係もない6世紀はじめの古墳であることが証明された。それでも、「吉備塚」の名称をそのまま採用し、「吉備塚古墳」と命名しているのは地元で根づいた呼称とはいえ、学術的にはいかがなものか。明らかに時代ちがいな大山古墳や誉田山古墳Click!のことを、もはや学術的には「仁徳天皇陵」とも「応仁天皇陵」とも呼ばないように、「吉備塚古墳」も高畑古墳とか奈良教育大学古墳と名称を変更すべきではないだろうか。
 この吉備塚には、「触れた者は祟られる」「粗末にあつかえば呪われる」という伝承が、つい最近まで語られつづけてきたようだ。その伝説は、江戸時代にはすでに地元では口承されていたようで、周囲は田畑に囲まれた農村地帯だったにもかかわらず、それほど大きくはない同古墳は開墾で崩されもせず現代まで伝わった。おそらく、タタリの禁忌伝説Click!は江戸期以前から語り継がれてきたのではないだろうか。なんらかの屍家・死屋(シイヤ・シンヤ)伝説Click!が、延々とこの地で伝承されつづけてきた可能性が高い。
 そのタタリの信憑性を決定的にしたのは、1909年(明治42)に陸軍歩兵第53連隊が駐屯地として高畑村の同地を開発した際、吉備塚を崩そうとした者が次々と病気になったため、「やはりタタリ話は本当だ」ということになり、手つかずのまま連隊内に保存されることになった。なにやら、大手町の旧・大蔵省跡地Click!にある柴崎古墳(将門首塚)Click!にまつわる伝説に近似している。
 このタタリ話は、明治末の歩兵53連隊内ではなく、1925年(大正14)に駐屯していた歩兵38連隊内の出来事だとする説や、歩兵53連隊の時代に崩そうとして止めたにもかかわらず、歩兵38連隊内でも同様に崩そうとして病人が出たとする、繰り返されたタタリ話として語られるケースなど、いずれが事実だったのかは曖昧だ。
 2002~2003年(平成14~15)にわたり、吉備塚のある奈良教育大学による発掘調査が行われ、穿たれた十文字のトレンチからは盗掘を受けていない貴重な副葬品が数多く見つかっている。これほど保存状態がよい理由を、同大学の調査報告書では「吉備真備の墓」と伝えられてきたことと、明治以降は官有地として買収され軍隊が駐留していたからだとし、江戸期から伝承されていたとみられるタタリ話には触れていない。
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 2006年(平成18)に発行された、同大の「吉備塚古墳の調査」から引用してみよう。
  
 明治41年に旧帝国陸軍歩兵第53連隊が高畑町に置かれたことによって、吉備塚は連隊の敷地内に取り込まれた。昭和20年に米軍に駐屯地(米軍キャンプC地区)として接収された後、昭和33年に奈良学芸大学(当時)が登大路町から移転した。大学校舎の建設によって旧陸軍の建造物は現在教育資料館として使用されている旧糧秣庫のみが残されたが、吉備塚古墳は西南角が削平されているものの、江戸時代の状態がほぼ現存していると推定される。吉備塚古墳周辺の若草山山頂から古市にかけては多くの古墳があるが、その多くは寺社の築造や土地利用によって改変され、墳丘の形を留めている例は少ない。吉備塚古墳が大きな改変を受けずに残されたのは、吉備真備の墓である伝承とともに、明治時代以降に官有地とされたことが幸いしたのだろう。
  
 あえて民俗学的な側面を無視した書き方をしているが、これはおそらく結果論的なとらえ方だろう。吉備真備の名前に、江戸期の古墳泥棒が盗掘をためらうほどのネームバリューがあったとはとても思えないし(事実、より権威のありそうな大型古墳が軒並み盗掘されている)、地元の農民に開墾を躊躇させるほど彼は畏れ多い“有名人”でもなかったはずだし、また開墾が困難なほど古墳のサイズは大きくない。そこには、現代にまで語り継がれる強烈な禁忌伝説がまつわりついていたからこそ、誰も「触れなかった」と考えるほうが自然だし事実に近いのではないか。
 文中で興味深いのは、奈良市でも古墳がその形状を活用して寺社の境内にされたり、破壊されて住宅地の下になってしまったケースが、東京の市街地Click!と同様に多々ありそうなことだ。報告書の文面からも、早い時期から墳丘が崩されて寺社や住宅の下になってしまい、いまからでは調査が不可能になってしまった無念さがにじみ出ている。
 発掘調査によれば、吉備塚古墳は直径25m余の円墳とみられていたが、北西方面に前方部が伸びる40mほどの前方後円墳になる可能性もあるようだ。墳墓からは2基の埋葬施設が発見され(一方は陪墳だろうか)、三累環刀大刀などの古墳刀類Click!や貝装雲珠、画文帯環状乳神獣鏡、挂甲(古代の鎧)、ガラス玉、埴輪片などが出土している。また、同古墳は羨道や玄室を設けずに、木棺を直葬する簡易な構造であることも判明した。特に、近世に横行した盗掘の目標になりそうな、金や銀をほどこした三累環刀大刀の刀装具が完璧なかたちで発見されたのは貴重な成果だろう。
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 さて、今世紀の初めに学術的(人文科学的)な発掘調査が行われたので、タタリ話や呪い譚はようやく消滅したのかといえば、相変わらず現代までそのまま地元の「怪談」として伝承されている。2010年(平成22)前後の出来事らしいが、男子学生が深夜、タバコを吸いながら自転車を押して吉備塚古墳の横を通りかかった際、吸い終えたタバコの吸い殻を道端の古墳があるあたりへポイ捨てしたところ、いきなり自転車ごと路上に弾き飛ばされたという「怪談」が記録されている。
 奈良市に住む「宮地」という方の証言で、ファーストフード店でたまたま隣りあわせた奈良教育大の女子学生たちの会話を聞いていたようだ。2015年(平成27)にKADOKAWAから出版された黒木あるじ『全国怪談オトリヨセ』収録の「ガールズトーク」によれば、弾き飛ばされたのは「クサカベ君」という男子学生だったようだ。同書より引用してみよう。
  
 ほんで、クサカベ君のカノジョがな……ああ、そうそう二年のあの子、ちょっとケバい。あのコが先生から聞いたらしいんよ。/あそこの丘な、すごい昔の偉い人……名前忘れたわ。とにかく、偉い人のお墓なんやて。ワケ解らんでしょ。なんで学校の敷地に墓あんのって。ほんならな、先生が言うにはな、前もあそこを掘りかえそうとした人たちがおってんけど……全員、死んだんやて。/触ろうとした人はみんな、百パー死んでまうねんて。/せやから私な、タツヤに教えたんよ。/あそこの丘な、昔のお宝が埋まってるらしいよ、って。うん、もちろんウソ。/あいつ、私とミキと二股かけとんねん。気づいてないと本人は思ってるけど、こないだメール見てしもてん。私がバイト入っとる日に、アイツらヤッとんねん。/アホやから信じたんちゃうん。ここ数日、メールしても返信ないもん。
  
 今世紀初頭に同大学が発掘調査をして、6世紀はじめの古墳らしいという報告書まで出しているにもかかわらず、相変わらず地元の女子学生は「偉い人」(吉備真備)の墓だと信じているし、タタリや呪いも以前よりパワーアップしているようだ。
 陸軍の兵営時代に、古墳を崩そうとして病人が出たという経緯だったものが、古墳に触れたら「百パー死んでまうねん」に、タタリのレベルが強化されている。この伝でいくと、発掘に参加し調査に関わった90名近い調査メンバーの全員が、「百パー死んで」ないとおかしなことになる。もっとも、同大学の「先生」が古墳にイタズラしないよう、かなりオーバーに話して学生たちを脅した……ということも十分に考えられるが。
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 民俗学的な視点から見ると、上記のケースは非常に興味深い。タタリ話や呪い譚というものは、時代の経過とともに伝承力が徐々に弱まって人々の記憶から薄れ、ついには忘れ去られていく事例も多々あるだろうが、逆に時代をへるにつれて恐怖が増幅され、なんら根拠がなくなった21世紀の今日まで語り継がれていくケースもある……ということだ。近世に入り、そのような記憶が薄れず反対に禁忌が増幅され、地元に伝承されてきた古墳が盗掘をまぬがれ、また農地化の開墾からも取り残されてきたと考えられる。ところで、彼女に隠れて浮気をする「アホ」な「タツヤ」君が、その後どうなったかはさだかでない。

◆写真上:奈良教育大学キャンパスの道路側から見た、吉備塚古墳の墳丘。
◆写真中上は、旧・陸軍の兵営のまま米軍が接収していた1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる吉備塚古墳。は、大正末か昭和初期の撮影とみられる東大寺の南に拡がる浅茅ヶ原を行進する陸軍歩兵第38連隊。は、奈良学芸大学が奈良教育大学へと改称された翌年の1967年(昭和42)に撮影された空中写真にみる同古墳。
◆写真中下は、1975年(昭和50)に撮影された冬枯れの吉備塚古墳。は、2008年(平成20)撮影の空中写真にみる緑がこんもり繁った夏の同古墳。
◆写真下は、吉備塚古墳の解説碑と墳丘。下左は、2006年(平成18)に奈良教育大学が作成した報告書「吉備塚古墳の調査」。下右は、女子学生たちの「ガールズトーク」を収録した2015年(平成27)出版の黒木あるじ『全国怪談オトリヨセ』(KADOKAWA)。
おまけ1
 ところで、宮内庁に属する皇国史観Click!の御用考古学・古代史学者たちが、大山古墳で発掘されたヨコハケメが入る円筒埴輪Click!を、ついに5世紀後半から6世紀初頭にかけて造られたものだと認めた。それはそうだ、さもなければ古墳期に関して戦後日本が積みあげてきた膨大な学術成果を否定することになってしまう。じゃあ、当然ながら大山古墳も同時代の築造だと想定するのかと思いきや、今度は「仁徳天皇陵」が荒廃してきたので、5世紀後半から6世紀にかけての人々が同古墳を「補修」するために、同時代に一般化していた円筒埴輪を改めて並べた……などといいだしている。人文科学という学術分野を、バカにしてるかおちょくっているとしか思えない、非科学的で非論理的なひどい妄言だ。
 だとすれば、「あそこの古墳が荒廃してきたから、そろそろリフォームしよう」というような具体的な事例が、同時代の古墳期に他のケーススタディとして存在証明されていなければならないし、それが事実だということを学術的に証明(論証)しなければならないが、そんな考古学的事例はかつて見たことも聞いたこともない。これも毛松の『猿図』Click!と同様、源平の対立激化で国内が大混乱していた藤原時代の末期に、「そちらへニホンザルを船便で送るから、絵が描けたらお手数だけど送り返してちょうだい」などと、日本から中国にいる画家・毛松のもとに依頼したと解説する学者たちに対し、前・天皇と徳川義宣Click!が「ありえない」と認識していた妄言と同じレベルの、学術分野とは無縁な不マジメきわまりない空想物語だ。どこまで自国の歴史を歪めておとしめ、自ら墓穴を掘るような言動を繰り返せば薩長政府に由来する皇国史観を止揚できるのだろうか?
 ちなみに、学習院の考古学チームが1923年(大正12)に発掘して持ち帰った、大阪羽曳野市の誉田山古墳Click!(宮内庁が「応仁天皇陵」と空想規定している墳墓)の5世紀に造られた水鳥埴輪などの副葬品は、「なかったこと」「見なかったこと」にされているようだ。
(大山古墳から出土した、5世紀後半以降に制作されたとみられる円筒埴輪群)

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おまけ2

 先日のGWのさなかに、近所の主(ぬし)である2mをゆうに超える美しいアオダイショウが玄関先にきたので、しばらく撫でながら遊んであげた。人に馴れておとなしく、頭に近い部位を触らなければまったく警戒しない。掃除をしていた家とお隣りの女子たちは、「ヒェ~~~ッ!」と叫んでいたけれど……。さすが、楳図かずおのへび女Click!世代なのだ。w
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