聖母坂沿いで空襲から焼け残った家々。 [気になる下落合]
戦後、爆撃効果の測定Click!用に米軍の偵察機F13Click!が住吉町あたり(現・東中野)の上空から撮影した空中写真を見ると、画面の右すみに下落合の聖母坂Click!沿いで焼け残った住宅街がとらえられている。空中写真のレンズ特性から、画面の端にあたる地上の風景にはひずみが生じるので、斜めフカンからとらえられたのと同じ見え方となって、当時の住宅群を立体で観察することができる。きょうは、かろうじて戦災をまぬがれた下落合の、聖母坂沿いの建物群を詳しく観察してみたい。
まず、最初に目につくのは、コンクリートの厚さが60cmと陸軍の要塞か、戦艦のバルジなみ(舷側の喫水線一帯に設置された対魚雷用の防御で、大和型戦艦Click!には厚さ60cm前後のコンクリートが充填されていた)の「装甲」Click!が施されていた国際聖母病院Click!だ。空襲の際に、同病院は焼夷弾の雨にみまわれたが、医師や職員たちによる必死の消火活動Click!が功を奏して、施設の一部を焼失するだけで済んでいる。また、敗戦の直前には特に同病院を意図的にねらった戦爆機が、250キロ爆弾をフィンデル本館の屋上めがけて投下しているが、先述の分厚いコンクリート構造のため、屋上のすみにコンクリートの凹みClick!をつくるだけではね返し、院内はほとんど無事だった。
国際聖母病院の周囲、特に東・西・北側は焼け野原だったが、南側は諏訪谷Click!と不動谷(西ノ谷)Click!で斜面の陰になっており、また樹林が豊富に残っていたため延焼をまぬがれている。聖母病院の北側が、一面の焼け野原だったにもかかわらず、佐伯祐三Click!のアトリエClick!がかろうじて焼け残ったのは、濃い屋敷林に囲まれていたからだろう。
さて、焼け残った住宅街でまず目につくのは、静観園Click!やバラ園Click!などの庭園が畑になっているとみられる西坂の徳川義恕邸Click!だ。写っている大きな西洋館は、昭和初期に位置を南へずらして建設された新邸で、旧邸Click!や旧・静観園のあった敷地にはすでに家々が建ち並んでいる。その北側には、「八島さんの前通り」Click!沿いに南原繁邸Click!や笠原吉太郎アトリエClick!、小川邸などが焼けずに残っているのが確認できる。
さらに、その上(北側)の第三文化村Click!に建つ屋敷群も無事で、斜めフカンからだと建物の形状までがわかり、その多くが西洋館だったことがわかる。目白通りに近い、第三文化村の家々や目白会館・文化アパートClick!は、隣接する落合第一および第二府営住宅Click!とともに空襲でほぼ全滅状態だったが、谷間につづく第三文化村の南部、および南へと傾斜して下っている緑の多い斜面は、ほとんど延焼をまぬがれている。
めずらしいところでは、不動谷(西ノ谷)にあった湧水の小流れ沿いに、1935年(昭和10)ごろから開業していたとみられる釣り堀Click!を確認することができる。また、徳川邸のバッケ(崖地)Click!下には、いまだ庭園池が残っていたのがとらえられている。その徳川邸の南側へ目を向けると、川村景敏邸Click!や安井邸Click!、日米開戦の直前に開業したホテル山楽Click!などは無事だが、佐々木久二邸Click!とその周辺は空襲で焼失している。
聖母坂の東側に目を移すと、関東バスClick!の聖母坂営業所(車庫)の北側に、下落合2丁目721~722番地の「火保図」(1938年)によれば「グリン・スタディオ・アパート」Click!が斜めフカンでとらえられている。ところが、またしても「火保図」は、このアパートの名前採取をまちがえていることが判明した。火災保険料の料率計算に直結する地図なので、建物の構造や意匠には注意をはらって採取しているようだが、住民名や施設名などにはいい加減なケースがまま見られる。
「グリン・スタディオ・アパート」(火保図)の名称は、「グリーンコート・スタヂオ・アパートメント」というのが正式名称だ。同アパートのネームプレートには、英文で「GREEN COURT STUDIO APARTMENTS」と書かれていたため、火保図の採取者は判読できる英文字だけをひろって記録したのではないか。戦前戦後を通じたフカン写真や、「火保図」などからではわからなかったが、同アパートの聖母坂の上部は地上2階建てで、聖母坂の下部が地上3階建てだったように見える。特に3階部分は、ペントハウス風の部屋が南西に向けて斜めに並んでおり、建築当時としてはオシャレでモダンなアパートだった様子がうかがえる。
今回は聖母坂に建っていた、当時としては最先端の設備を備えた同アパートに焦点を当ててみよう。1938年(昭和13)に発行された「アパート案内」(アパート案内社)の爽涼青空号から、グリーンコート・スタヂオ・アパートについて引用してみよう。
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本館は現代人の簡易生活の基本を尊敬し、同時に諸設備の完全を計つた本邦最初のスタヂオアパートメントで近代建築の粋を一堂に集中した観がある。/大東京の中心より約三十分の閑静なる高級住宅地の下落合高台に有り、世界的に有名なる徳川侯邸の牡丹園をながめ本邦随一の評ある聖母病院に相対して居る。附近一帯は四季を通じて緑の色深くグリンコートの名に相応しい。/本館前を通ずる、関東バスの便は新宿へ七分、省線高田馬場駅へ徒歩八分、目白駅へ十二分、西武電車下落合駅へ二分の交通網、丸ビル街へは小滝橋より早稲田を経て市営バスにて二十三分、尚又諸官庁、新橋方面へは日比谷バスの直行の便等あり。通学に目白学習院、日本女子大学、川村女学校、自由学園、早稲田大学等至便の地。
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不動産業者のコピーなのでオーバートーク気味だが、「近代建築の粋を一堂に集中」したのと、「四季を通じて緑の色深」かったのは事実だ。また、この時期には静観園は徳川邸の東側斜面に移動しており、同アパートの上階からはよく見えたのだろう。でも、東京駅から同アパートまで30分ではとても着かないし、関東バスで新宿駅へは現代の車両スピードでも10分以上はかかる。省線高田馬場駅までは、十三間通り(新目白通り)Click!が存在しなかった当時、走らないかぎり8分では絶対にたどり着けない。わたしの足でさえ、速足で10分以上はかかるだろう。目白駅まで12分も無理で、速めに歩いてもやはり15分はたっぷりかかる。下落合駅へ2分は、十三間通りでの信号待ちがない当時としては、下り坂を小走りでいけばリアルな数値だろうか。
「近代建築の粋を一堂に集中」しただけあって、館内は最新の設備が整えられている。設計は鷲塚誠一で、作りつけのモダンな家具調度やオーブンレンジ、ガスレンジ、給湯器、ダブルベッド、スチーム暖房などの設備があらかじめ装備されており、地下室は住民たちの倉庫(不使用品収納)が用意されていた。この地下室の廃墟は、1990年代の終わりごろまで残っていて、当時は廃材置き場に使われていたのを憶えている。
また、地上の構造物はとうに解体されていたが、わたしが初めて下落合に足を踏み入れた高校時代から、ずっと駐車場として使われていた。つまり、グリーンコート・スタヂオ・アパートの地下廃墟の上、本来ならアパートの1階部分にあたる平面(ひょっとすると坂の途中の建築なので中2階のフロアかもしれない)が駐車場にされていたわけで、聖母坂を歩くたびにその異様な光景に目をうばわれていた。
地下室はコンクリートと一部は大谷石で構築されており、同アパートの基礎も兼ねていたのだろう。1938年(昭和13)の「火保図」によれば、地上の建物はコンクリート建築ではなく、木造モルタル建築として採取されている。また、「火保図」にも描かれているとおり、中庭には睡蓮プール(蓮池)が設置され、ほとんどの部屋から見下ろすことができた。
同アパートは、大正末から昭和初期に多く見られた三角屋根(主棟)をかぶせた意匠ではなく、今日のコンクリート・アパートと同様に屋上も含めて四角い形状をしている。(ただし、北側は道路の関係から△状のデザイン) また、3階の部屋は建物の向きとは異なり、できるだけ窓を南側に向けようと斜めずらして構築されていたのが見てとれる。
「スタヂオ・アパート」とは、いまの用語でいうとワンルームのことだが、内部の居間+ダイニング+寝室も含めたワンルームなのでかなり広い。スタジオや工房を開業できるほどワンルームの面積が広いということから、「スタヂオ・アパート」と呼ばれたのだろう。同アパートで一番大きな部屋は、22畳サイズを上まわる洋間だった。このワンルームとは別にバスやトイレ、キッチンなどの設備が付属するわけで、今日のワンルームマンションのイメージとはまったく異なる。つづけて、「アパート案内」から引用してみよう。
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本館は専門家の建築士鷲塚誠一氏の設計監督によるもので、同氏の在米十七年間の生活及びアパート研究の結果が各所に容易に見られる。表玄関より水蓮プールのある中庭を通じて各スタヂオアパートの独立玄関に通じる。玄関入口の扉は北欧地方のダツチドアーを採用し、住居各位の保健上各室内は最大限度の大硝子窓フロワーマステイツク(ママ)床、防湿押入、タイル貼台所、便浴室、タイル浴槽、就中台所は現代主婦の誇にたるケツチン(ママ)で天火付ガスレンヂ、理研アルマイト洗濯、器具入ガラス戸棚等の諸設備。/温水暖房、水洗便所、メデイシンカビネツト、公衆洗濯室の湯、アイロン台、地階には住居各位の不用品保管室(保険付)等設備あり、二階には家具付ホテルサービスの短期貸室あり。
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設計師の鷲塚誠一は、米国で17年間も暮していたそうだが、関東大震災Click!を経験しているのかいないのかで、米国のアパートをマネたらしい22畳サイズを超える広さのワンルームの構造が気になる。すべてが地階と同じ鉄筋コンクリート構造ならともかく、木造モルタル造りではかなりの強度不足ではなかったろうか。
部屋数は20戸で、18畳サイズの洋間が55円から、22畳超の洋間が最高で70円とかなり高額な賃料だった。おそらく見晴らしのいい南西の部屋だろう、20畳サイズでダブルベッドが設置された部屋は75円もした。ちなみに、1937年(昭和12)における大卒公務員の初任給が75円という時代だった。数が少ないが和室(8~10畳)もあり、台所やベッドなどは付属していたが浴室がなかったので、館内には共同浴場も備わっていた。管理人による清掃サービスがあり、室内に敷かれたフローリングの定期的なワックスがけサービスも行われていた。
◆写真上:聖母坂に面した、グリーンコート・スタヂオ・アパート跡(中央のマンション)。
◆写真中上:上は、1948年(昭和23)の空中写真にみる聖母坂沿いの延焼をまぬがれた住宅街。この坂道の両側だけはなんとか延焼をまぬがれているが、周囲はいまだ焼け跡とバラックだらけだ。下は、写真にとらえられた住宅などの特定。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみるグリーンコート・スタヂオ・アパートだが、またしてもネームを誤採取している。中は、1979年(昭和54)の空中写真にみる同アパート跡。下は、1990年代に撮影した同アパートの地下廃墟。
◆写真下:上は、当時を思いだして描いたグリーンコート・スタヂオ・アパートの地下廃墟で上は駐車場になっていた。中は、聖母坂からの同アパートへと入るエントランス。下左は、同アパートの階段でロビーの一画には当時大流行していたバウハウス風のパイプ椅子が置かれている。下右は、全体が白いタイル貼りのトイレと洗面所、そして浴室。
★おまけ
第1次山手空襲の直前、1945年(昭和20)4月2日に撮影されたグリーンコート・スタヂオ・アパートと、同年5月17日に撮影された第2次山手空襲(5月25日)直前の同アパート。