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岸田劉生がベタ褒めの千家元麿。 [気になる下落合]

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 1929年(昭和4)から、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)で暮らした詩人の千家元麿Click!は、同じ白樺派などからの影響を受けた歌人・土屋文明Click!とは異なり、自己の理想や思想性について現実社会の「矛盾」や「限界」にはほとんど頓着せず、どこまでも限りなく自身の世界へ引きこもる姿勢を保ちつづけた。
 そういう、“浮世離れ”した作品が本格的に評価されるのが、彼が生きた同時代ではなく戦後の危機的な(破滅的な)状況が去り、まがりなりにも平和な時代を迎えてからだったことも、彼の詩が人生や生活に“余裕”のある時代にこそ輝きを増して、読み継がれていくものだという気が強くする。千家元麿の作品は、その多くが理想を語り美を愛で愛情深い眼差しにあふれているが、昭和初期から1945年(昭和20)8月の敗戦まで、それらのテーマは軍靴に踏みにじられるか、表現することさえはばかられるような社会に陥っていた。
 落合に住んでいたころ、またはその少しあとの時代の作品に、『蒼海詩集』(文学案内社/1936年)の中に収められた「冬の日」と題する詩がある。一部を引用してみよう。
 (前略)群集の中にゐるのを嫌つて/市井を脱れて野へ来る時/孤独を見出したよろこび/野は蕭殺と変つた姿や/華やかに夏の日を憶ひ/花もなく放縦の趣きが消えて/素朴な冬となつた/閑寂に心惹かれる。
 この詩に対して、1969年(昭和44)に中央公論社から出版された、『日本の詩歌』第13巻の編集委員である伊藤信吉は、「冬の日」について次のように書いている。
  
 長らく自己の世界に安住してぬくぬくと惰眠をむさぼっていた形の詩人が、プロレタリア文学の勃興などで窮地に追いつめられて、ふるい立って荒涼とした冬景色に対し、われとわが身に鞭をあてている悲壮な姿が見える。こういう態度から新しい境地がひらけ、社会にも積極的に立ち向かうようになり、多くの意欲的な長い詩を書くことになったが、この方向では千家の特色は発揮されにくかった。彼は素朴な単純な、そして瞬時の感動に身をひたして直感的に歌い上げることに特色をもつ詩人だったからだ。
  
 千家元麿は、大正末から昭和初期にかけて、練馬や池袋、長崎、そして落合町葛ヶ谷と当時は東京近郊の田園地帯エリアを転々としているが、彼が住んだ当時の葛ヶ谷(現・西落合)の冬景色は、第二文化村Click!宮本恒平Click!が上高田の耳野卯三郎アトリエを描いた、『画兄のアトリエ』Click!に見られる雪景色のような風情だったろう。
 そもそも、千家元麿が最初の詩集『自分は見た』を出版したのは1918年(大正7)、第1次世界大戦のただ中で巷間ではスペイン風邪Click!が流行していたが、それまでの日本では経験したことのない大正デモクラシーと呼ばれた、自由で闊達な雰囲気が横溢しはじめていた時代だ。そのような時代の端緒に、千家元麿は処女詩集を発表しているのであり、やがて1928年(昭和3)の大規模な思想弾圧Click!にはじまり満州事変を経たあと、1932年(昭和7)の海軍将校による犬養毅首相暗殺による政党政治の実質的な終焉にいたる時代まで、千家元麿の主要な詩集は出版されている。
 『自分は見た』(玄文社)の出版に際し、その装丁をまかされた岸田劉生Click!は、持ち前の“感激屋”サービス精神を発揮して、序文に次のようなことを書いている。
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千家元麿「自分は見た」(玄文社)1918.jpg 千家元麿「自分は見た」内扉.jpg
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 (前略)自分は千家の最初の本の序文をかく喜びを与えてくれた本屋に感謝する。千家も喜んでくれた。自分は日本の今の詩壇からは門外漢かも知れない。しかし本当の詩には自分は門外漢ではない。自分はもう自分の確信を語るのに遠慮はしない。そして自分は千家の詩を褒めるのに躊躇はしない。自分は日本に真の詩人がいるかと聞かれた時に、自分は「いる」と答える光栄を有している。そして自分は今の日本の詩人で誰を一番尊敬しているかと云われても、自分は即座に答えることが出来る。そして今の日本で最もよき詩集はなんだと聞かれても自分はたちどころに答えることが出来る。その詩人は千家であって、その詩集はこの本である。
  
 かなりオーバートーク気味な岸田劉生Click!の文章だが、確かにそれまでの明治文学と白樺派に代表される大正期のそれとは、「私」「自分」「おれ」「ボク」と表現される一人称の主体、すなわち「近代人の自我」と呼ばれるものの深まりには隔世の感があった。千家元麿の出現は、単に白樺派の詩人としての範疇のみならず、限りなく内向的とはいえ深い自我を備えた新しい詩人群の登場の一端だったのだろう。
 千家元麿が死去したとき、武者小路実篤は追悼文で「彼はまた自然をいつも讃嘆していた。また哀れな者、貧しき者、よく働くものの味方だった。彼は或る時自分のことを楽園詩人と呼んでいたが、たしかに現代のどん底生活の内に楽園の夢を見ることが出来た稀有な男だ。僕は多くのよき友人を持つが、その内でも千家は思想的に僕に一番近かった」(1948年)と書いている。だが、彼の作品に登場する「哀れな者、貧しき者、よく働くもの」たちが抱える課題や矛盾に対して、それを解決し変革しようとする意志には向かわず、詩人の意識は自身の内側へ深くふかく沈潜していったようだ。
 同じ白樺派の仲間だった長与善郎Click!は、千家元麿について「時には野獣の如く脱線もする、が或る時には天使の涙をこぼす尊い人格。華族の子として生れながら半年以上を陋巷に過ごし貧窮の中に暮して常に天楽を改めなかった彼」と書いている。千家の「野獣の如く脱線」は、あくまでも生活上におけるハメを外したエピソードであって、その思想性から「野獣の如く脱線」することはなかった。
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 千家元麿は、1888年(明治21)に麹町区三番町で生まれている。彼の父親は、以前こちらでも東京府知事をつとめたときのエピソードとともにご紹介Click!しているが、出雲王朝Click!の末裔である千家尊福(たかとみ)だ。彼は長男として生まれたが、早くから「不良少年」化して家出事件を繰り返し、実家との関係はほぼ絶縁同然だったようだ。武者小路実篤とは、フュウザン会の岸田劉生Click!木村荘八Click!の紹介で知り合っている。
 処女詩集『自分は見た』には、生れたばかりの子どもを題材にした詩作が多い。だが、その慈しみ大事に育てた長男は戦争にとられ、あえなく戦死している。晩年の『遺稿から』収録の「小感」で、千家元麿は人生に開き直るような作品を残している。
 私が社会国家のために/何も貢献せず/安逸に自然の中を美し快感に飽腹して/空しく時間を費したとて/わるい事ではあるまい/私はこの大地を愛し/自ら畑は作らないでも見て歩いて/感激して暮らしたとて/空しい事とは思はないのだ
 確かに「わるい事ではあるまい」で、白樺派的な個人主義により自由かつ勝手だとは思うが、わたしが自分の息子を無理やり戦争にとられて喪ったりしたら、とてもその怒りから社会的・国家的に無関心でいられることなどありえないだろう。
 『日本の詩歌』第13巻の「解説」で、伊藤信吉はこう書いて結んでいる。
  
 千家元麿の人間的な愛や生活者に寄せる愛は、一転して認識の弱さ狭さに転化する。「おお」の感嘆詞は千家元麿の精神と肉体が、一種純粋な「感動体」であったことをしめすと同時に、その感動によって、認識の弱さ脆さをしばしば招来した。/感動は平凡な対象に虹の光彩を投げかけ、平凡な対象にいきいきとした生命を吹きこむ。千家元麿は感動で対象を包むことのできる詩人だったが、同時に感動によって認識を遮断した。人間性の文学、人生的・人道的詩人としての積極性と限界性がそこにあった。
  
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千家元麿詩集(一燈書房)1949.jpg 千家元麿詩集(岩波)1951.jpg
 落合に住んでいた1929年(昭和4)ごろ、千家元麿は九州を周遊している。全集本ブームClick!だった当時の出版界では、改造社版の現代日本文学全集『現代日本詩集』と新潮社版『現代詩人全集』、そして金星堂版『現代詩高座』に彼の作品が収録されている。

◆写真上:落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)の千家元麿邸跡。
◆写真中上は、若き日の千家元麿()と岸田劉生()。は、1918年(大正7)出版の岸田劉生装丁による詩集『自分は見た』(玄文社/復刻版)の表紙・内扉・見返し。
◆写真中下は、晩年の千家元麿()と父親の千家尊福()。は、島根県出雲市大社町の出雲大社の境内にある千家邸(現・千家国造館)。
◆写真下は、岸田劉生『劉生日記』Click!に描かれた“劉生漫画”の長与善郎()と千家元麿()。長与善郎のいい加減な描き方が、あまりといえばあんまりだ。は、戦後に出版された千家元麿の代表的な詩集で、1949年(昭和24)に出版された一燈書房版の『千家元麿詩集』()と、1951年(昭和26)に出版された岩波文庫版の『千家元麿詩集』()。

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