「首塚」や「馬塚」の下には古墳がある。 [気になる下落合]
千代田区の大手町にある将門首塚古墳(柴崎古墳)Click!のほかに、関東には怪談が付随する有名な「首塚」がもうひとつある。群馬県の安中市にある、碓氷川の河岸段丘上に広がる“古墳の巣”のようなエリアで発見された、簗瀬(やなせ)八幡平の「首塚」、考古学的には「梁瀬首塚古墳」または古くから「原市町12号墳」と呼ばれる古墳時代の遺構だ。北東側には、釣り鐘型の周壕域まで含めると全長130mを超える、前方後円墳「梁瀬二子塚古墳」(旧・原市町13号墳)に隣接している。
大手町の将門首塚Click!は、古墳時代に造営された小型の前方後円墳にちなみ、なんらかの禁忌譚Click!が語られつづけ、後世に「将門の首が飛んできて落ちたので葬った」という怪異譚が付会されたとみられるが、同古墳のあった柴崎村の敷地には730年(天平2)ごろ、すでに出雲神のオオナムチ=オオクニヌシを奉った神田明神Click!が造営されており、のちに「首塚」伝説とともに平将門Click!も主柱に祀られることになる。これに対し、梁瀬の首塚はその名のとおり室町期に埋葬されたとみられる、刀傷のある頭蓋骨が墳丘の東側斜面(玄室の外郭地中)から150体分も出土している。
この150体分の頭蓋骨は下顎の骨がないため、以前にどこかに葬られていた遺体の頭骨だけを掘りだし、梁瀬首塚古墳(原市町12号墳)の墳丘東側へ改葬されたものとみられている。頭骨が埋められた上には、1783年(天明3)に噴火した浅間山の火山灰の混じる覆土がのっており、田畑の開墾かなにかにともない江戸時代に改葬されたのが明らかだ。
江戸期以前の改葬(墓地の移転)では、頭骨のみを掘りだして別の場所へ埋葬するのは、特にめずらしくない習慣だった。これらの頭骨は、室町時代に生きた日本人の形質を備えており、なんらかの戦乱による犠牲者ではないかと推測されている。古墳のある場所は、甲斐の武田氏と群馬の安中氏とが激しく争った地域であり、梁瀬首塚古墳の北西側は武田信玄が築いた八幡平陣城跡とされている。
また、墳丘の両側からは中世の板碑Click!が7基がまとめて発掘されており、そのひとつには「建武四年」(1337年)の年紀が刻まれていることから、中世から近世にかけてまで、梁瀬首塚古墳の墳丘が「特別な祭祀場所」であったことがわかる。つまり、拙ブログでは以前から書いてきている「屍家(しんや・しいや)」伝承Click!、あるいは禁忌伝承Click!が語られてきた忌み地Click!であり、そのため隣接する梁瀬二子塚古墳とともに開墾や開拓がなされず、現在まで良好な状態のまま保存が可能だったのだろう。
2003年(平成15)に安中市教育委員会から発行された、『梁瀬二子塚古墳/梁瀬首塚古墳/市史編さん事業及び都市計画道路建設事業に伴う範囲確認調査及び埋蔵文化財発掘調査報告書』(もう少しタイトルの長さがなんとかならなかったものだろうか?)より、直径23m余の円墳・梁瀬首塚古墳についての発掘状況について引用してみよう。ちなみに、同古墳は過去に何度か発掘されており、1931年(昭和6)に近所の小学生が発見した150体分の頭蓋骨は、1952年(昭和27)の東京大学による発掘調査ですでに取り除かれている。
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首塚関連 首塚に関連する遺構・遺物は全く検出されなかった。したがって、首塚は古墳東側(石室の裏込めの外側)のごく限定された部分に頭骨が並べられていたのみであった可能性が高い。近現代馬墓 埋葬馬の検出された墓壙が墳丘北側トレンチで確認された。馬骨の遺存状態は良好であり、生後半年ほどの子馬であることが宮崎重雄氏の鑑定により明らかとなった。覆土には浅間A軽石が混入しており、近現代の馬が埋葬されていた場所と判断される。
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梁瀬首塚古墳には、人間の遺体(古墳の被葬者)ばかりでなく、それが墳墓あるいは屍家と伝えられていた近世にも150体分もの「首」が改葬され、さらに近現代にかけては動物(家畜)の死体までが埋葬されていた。
この事実にピンとこられた方は、拙ブログをていねいに読まれている方だろうか。そう、落合地域にも「馬塚」Click!と呼ばれる墳墓が存在していた。従来は、江戸期に農耕馬や伝馬などの家畜が死ぬと葬られた動物墓と解釈されがちだったが、なぜその場所があえて「墳墓」として選ばれているのかという、より深いベースとなる史的テーマだ。
落合地域の「馬塚」は、1932年(昭和7)に出版された『自性院縁起と葵陰夜話』(自性院)によれば、葛ヶ谷448~449番地(現・西落合1丁目と同2丁目の境界)あたり、いまでは新青梅街道(旧・江戸道)の下になってしまった地点に存在していた。これだけ見るなら、街道(江戸道)を往来する伝馬や荷運馬が倒れて死んだので、街道沿いに葬ったようにとらえられがちだが、「馬塚」の周辺には「丸塚」や「天神山」Click!、「四ツ塚」Click!、「塚田」など古墳地名が随所に散在しているエリアだということに留意したい。
すなわち、もともとは屍家あるいは禁忌地として伝承されてきた場所、つまり田畑に開墾もされず忌み地として放置されていたエリアに、動物の死骸も埋葬しているのではないかという想定が成り立つ。少し前に記事にした、徳川吉宗Click!が輸入したアジアゾウClick!が中野村で病死し、60樽ほどに塩漬けした死骸の肉が腐敗したため、大きな塚が数多く見られた近くの桃園地域に埋葬したのではないか……というエピソードにも直結する課題だ。梁瀬首塚古墳のケースは、まさに古墳をベースにして造られた「首塚」であり「馬塚」だったのだ。
大正期、月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!は、鳥居龍蔵Click!の考古学チームをわざわざ落合地域に招聘して、つごう37基の古墳Click!を確認(一部は発掘調査)している。しかし、このとき調査・発掘してまわったのは上落合のほぼ全域と、下落合の東西につづく目白崖線の急斜面(バッケClick!沿い)が主体であり、下落合の丘上(地形図に採取された正円のニキビ状突起物Click!についても記事にしているが)、および葛ヶ谷(西落合)の全域はまったくの手つかずだったと思われる。
したがって、下落合や葛ヶ谷に伝えられていた丸塚や天神山、四ツ塚、塚田などの地点は、なんの調査や確認・観察もされずに開拓(耕地整理Click!)や道路工事、住宅地造成で消滅してしまった……ということなのだろう。もし、「馬塚」のエリアが中世に入ってなんらかの墓地や改葬場所として利用されていたなら、より強烈かつ印象的な名称がつけられて、梁瀬首塚古墳のように道路計画からも外されて現存していたかもしれない。
梁瀬首塚古墳からの出土品について、同報告書からつづけて引用してみよう。
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(前略) 墳丘・周溝から普通円筒埴輪・朝顔形埴輪・人物・馬・盾・靫が出土している。埴輪の大半は藤岡産埴輪で、特記すべきことは全身立像の部品が出土している。全トレンチから形象・器材形埴輪が出土している。特に石室西側の3・4トレンチから馬が出土している。6世紀後半に造られた古墳である。
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梁瀬首塚古墳からは、形象埴輪や土器片などが発見されたが、それ以前に改変あるいは盗掘されたのか豪華な副葬品は発掘されなかった。だが、隣接する梁瀬二子塚古墳(6世紀初頭の前方後円墳)からは、明治以降に環頭太刀をはじめとする鉄刀類Click!や甲冑類、出雲の碧玉Click!や糸魚川の翡翠Click!、水晶、琥珀、ガラス、金銅など数々の宝玉・宝飾品、土器・須恵器などの豪華で膨大な副葬品が発見され、地主の小森谷家に代々保存されてきている。南武蔵勢力と密接に同盟していたとみられる上毛野(かみつけぬ)勢力が、ヤマトに対抗するためか日本海側の北陸(越:こし)や出雲とも連携していた痕跡が見えてたいへん興味深い。
梁瀬首塚古墳で語られている怪談は、将門首塚古墳で語られつづけ各地に類似伝承が残る、まわりくどいタタリ譚Click!などよりも、もっと直截的であからさまだ。「甲冑を着た落ち武者たちの亡霊を見た」とか、「首のない鎧姿の武士の幽霊を見た」とか、「どの道を選んで走っても、なぜか呼ばれるように首塚の前に出てしまう」とかのありがちな怪異だ。後世に「首塚」と名づけられたがゆえ、「心霊スポット」にされてしまった古墳本来の被葬者にしてみれば、「おまえら、いい加減にしてくれろ」と地下で迷惑がっているだろう。
◆写真上:整備されすぎてしまった、大手町の将門首塚古墳(柴崎古墳)跡。
◆写真中上:上は、1968年(昭和43)に将門塚保存会から出版された『史蹟将門塚の記』の表紙(左)と裏表紙(右)。わが家には初版と4刷(1982年)があるので、初版は神田明神の氏子150万人の家庭へ配布され、4刷は親父が家にあるのを忘れ神田明神で新たに買い求めたものだろうか。中は、柴崎古墳(将門首塚古墳)の後円部前に安置された神田明神の神輿2基で、緑の繁る墳丘が残っていることから関東大震災以前に撮影されたもの。下は、明治初期に描かれた将門首塚古墳(柴崎古墳)の後円部。
◆写真中下:上は、鳥居龍蔵の考古学チームが撮影した関東大震災直後の将門首塚古墳(柴崎古墳)。中は、整備される以前の風情があった将門首塚古墳跡。下は、群馬県安中市の旧・原市町にある梁瀬首塚古墳(八幡平の首塚)。
◆写真下:上は、1932年(昭和7)出版の『自性院縁起と葵陰夜話』に掲載された絵図。中は、梁瀬首塚古墳に隣接する6世紀初頭の梁瀬二子塚古墳。下は、梁瀬首塚古墳と梁瀬二子塚古墳の位置関係で、縦横に描かれた筋は発掘調査(2003年)のトレンチ。
★おまけ
2003年(平成15)に安中市教育委員会が実施した、梁瀬首塚古墳(原市町12号墳)の発掘調査の様子。墳丘へ向けて、5本のトレンチ(調査溝)の掘られている様子がわかる。下は、近代に埋葬されたとみられる出土した仔馬の全身骨格。