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「橘」薫る東日本橋の風。 [気になる本]

日本橋バビロン2007.jpg
 2007年に文藝春秋から出版された、小林信彦Click!の『日本橋バビロン』を面白く読んだ。わたしが実際に目撃し、知っている時代は物心がついた1960年代も後半、つまり本書では最終章あたりに登場してくる東日本橋時代なのだが、一度も目にしたことのない戦中や戦前の情景でも、どこか懐かしく感じるのは、親父にさんざん話Click!を聞かされて育ったからだろう。
 すずらん通りClick!の小林家、江戸期からの老舗和菓子店・立花屋さんがなぜ「立花」なのか、本書で初めて知った。同家の家紋が、「橘」だったのだ。「橘」家紋は、「丸に橘」でも「亀甲に橘」でも、また「五瓜の橘」でもなく、シンプルな「橘」そのものだったようだ。本書の上品な濃紺の装丁にも、「橘」が淡いブルーグレイで描かれている。この「橘」家紋では、地域性とからめて面白い現象が見られる。実は、わたしの家の家紋もたどれる限り、江戸期から「丸に橘」なのだ。
 日本橋界隈の寺や、川向こうの本所・深川の墓地を歩くと、やたら「橘」家紋が多いことに気づかれた方はいるだろうか? ただの「橘」もあれば、「丸に橘」「亀甲橘」「向かい橘」「鐶(たまき)橘」「五瓜橘」・・・といろいろなのだけれど、中には「橘」マークだらけの墓地さえある。代々の先祖が眠る、うちの深川の墓地でも「橘」家紋がとても目につく。そして、それらの多くが江戸期から日本橋地域、戦前では日本橋区(現・中央区の一部)と呼ばれた地域で暮らしてきた人々の墓のようだ。江戸時代のどこかで、立花屋さんは享保年間、うちは寛永年間なのだが、下町Click!の間で「橘」紋様を家紋にする大流行があったのではないだろうか?
橘家紋.jpg 柳橋両国橋.jpg
 柳橋Click!の川舟料理屋(井筒屋)で毎年、舟遊び会を開いてきた柳派(落語家の柳家一門Click!)だが、なぜ川が汚れて異臭がたちこめ、「金属がどんどん変色して腐食する」と言われ、大川(隅田川)Click!の汚濁が最悪Click!だった60年代から70年代にかけても、頑固に川遊びをやめなかったのかが本書の記述でわかったような気がする。演芸というと、いまや(というか戦前からだろう)浅草か上野と相場はあらかた決まっていたのに、またわたしもそのような感覚でいたのに、本書には落語家の言葉として「あたしは親父にね、浅草で終っちゃいけねえ、日本橋に出ていかなきゃ駄目だ。と何度も言われたものです」という証言が収録されている。現在では、たいして寄席の数もない地域なのに、落語家にとっての「日本橋」は特別な意味があったのだ。
 親父が話してくれていたエピソードと合致しているのが、パンと牛乳を売る千代田小学校近くの「太田ミルクホール」だ。小学校の弁当など作らなかった祖母Click!は、1日に50銭銀貨Click!(当時としては大金だったろう)を1枚握らせて、これで1日なんとかすごしといで・・・と(遊びに)忙しかった家を追い出した。太田ミルクホールは、「太田牛乳」が経営していた昼食向けにパンを売る店で、健全なミルクホールだ。ところが、親父は違う「ミルクホール」Click!にも出入りしていたらしく、女給さんに宿題を見てもらっていたなどと、のちに不埒なことも証言している。地域のつながりが色濃く、みなどこか顔馴染みで気心が知れていた時代だったから、特別に許されていたことなのだろう。
すずらん通り.jpg 薬研堀不動尊.jpg
両国橋.JPG 料理鳥安.JPG
 小林信彦と下落合が、あちこちで繋がっているのも面白い。すずらん通りの大川寄り角地に建っていたミツワ石鹸Click!社長Click!との交流も興味深いが、小林の父親が入院して亡くなるのが当時の「目白の病院」すなわち聖母病院Click!だったのも、下落合と東日本橋との因縁を感じてしまう。
  
 ----電話をして、目白の病院に向う途上の風景は歪み、歩いている実感が奇妙なほど欠如した彎曲した道を走ると、目まいが続き、両側の家が私めがけて吸い寄せられてくる。(どうして、こんな目に、あわなきゃ、ならないんだ。おやじも、おれたちも、なにも、悪いこと、してないのに!)/深夜の病院に駈け込み、息を弾ませている私を、待ち受けていた初老の医師は興味深げに見た。/「新潟の叔父様からも連絡を貰いました。たまたま、当直で良かった」(中略)/六月二十三日は雨だった。/午前六時五分に父は永眠した。半通夜、告別式は翌日だった。/ミツワ石鹸の社長が足を運んでくれた上に、「あたくし、戦前のおたくの茶通が好きでした」と小声で私に言った。私は涙を浮かべたかも知れない。 (同書「第四部 崩れる」より)
  
 聖母病院の担当だった「初老の医師」は、大磯Click!から通ってくる医者だった。
日本橋本石町.JPG 日本橋通油町.JPG
 わたしは、故郷の東日本橋と現住所の下落合とが直結するラインとして、神田川(水源から大堰のある関口までは御留川=神田上水Click!、関口から飯田橋までは江戸川Click!で、東京オリンピックの翌々年1966年に神田川で正式に統一された)が気になり、「気になる神田川」シリーズとして少しずつ川沿いの風景を拾ってきた。でも、人と人との交流や重なりも、ていねいに拾っていけばもっとたくさんありそうな様子が垣間見える。大江戸を代表する下町の日本橋界隈と、東京の大正期以降では有数な乃手の目白・落合界隈と、今度はどのような物語で結ばれてゆくのか、とても楽しみだ。

■写真上:2007年に出版された、小林信彦『日本橋バビロン』(新潮社)の表紙カバー。
■写真中上は、本書の中表紙に描かれたというよりは、藍で染め抜かれたと表現したほうがピッタリな「橘」家紋。は、神田川の出口に架かる柳橋から眺めた両国橋。
■写真中下上左は、かろうじて残る「すずらん通り」のプレート。上右は、門前でべったら市Click!が立って賑わった薬研堀不動。下左は、両国橋Click!の「地球儀」橋柱。下右は、本書にも登場する「鳥安」Click!で、戦前のわが家は雑煮Click!用の鴨肉は、この料理屋で分けてもらっていた。
■写真下は、三越近くのビル上から日本橋本石町(金座→日本銀行)をのぞいてみる。は、日本橋通油町Click!の商店が少なくなった通りで、左手が長谷川時雨Click!の生家跡。


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縮まらない佐伯像の齟齬やズレ。 [気になる本]

佐伯一家1928.jpg
 光徳寺とは家同士が親しく往来し、中津尋常小学校に入学したときから佐伯祐三Click!と親密にしていた、同窓生たちの貴重な証言が残されている。深谷三治という方は、中学校も佐伯と同じ北野中学校Click!へ進学している。彼はテニス部に入部し、同じ運動部だったせいか野球部Click!に属していた佐伯の様子も、かなり鮮明に憶えていた。1994年9月20日に発行された、北野中学校の同窓会報「六稜会報」No.28から引用してみよう。
  
 彼は高等1年修了後、明治45年北野中学に入学し、僕は翌大正2年に入学した。当時の北野中学は、阪急線を隔てて直線距離200メートル位南にあった。/彼は野球部に、僕はテニス部に入った。彼は、ピッチャーとしては素晴らしい強球(ママ)を投げるかと思うと、時にはホームベースにたたきつけるような暴投もした。バッターとしても大物を飛ばすかと思うと、大きく空振りすることもしばしばあった。(中略)後に聞いたことだが、バッターボックスに立った時、来る球をあれこれとゆっくり考える余裕などはない、ここぞと思った時に全身の力をこめて打つ。絵を描く時も、いろいろ構図を考えた時よりも、急に頭に閃いたインスピレーションにより一気呵成に描いた時の方が快心の作ができたということである。 (深谷三治「佐伯祐三のこと」より)
  
 このような、佐伯の少年時代の逸話や証言、身近にいた人々が記録した資料が出てくるたびに、ある書籍に描かれた「佐伯」像が浮き上がっていく。佐伯について、エピソードの“ウラ取り”や取材をすればするほど、その本の「佐伯」像との齟齬は埋まらないばかりか、ますます広がって乖離していくように感じるのだ。佐伯が東京へ出てきて川端画学校へと通いはじめて以来、東京美術学校からパリで死ぬまで親友だった、洋画家・山田新一Click!の証言を聞いてみよう。1980年(昭和55)に出版された、山田新一『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)からの引用だ。
  
 しかし、こんな彼がまったく運動神経のない学生であったかというと、実はそうではない。殊に佐伯は北野中学校時代「ズボ」という渾名で、絵を熱心に描く以外は、勉強も運動もしない、佐伯が野球の選手であったということは嘘で、絶対にしたことはない、と書かれた書物(その著者は佐伯生存中、大変な親友であったように言っているが、最近会った佐伯の妻、米子の妹は、はっきりパリでも見なかったし、下落合時代の交友は全くなかったと断言していた)もあるが、これは思い違いで、勿論、その頃は昨今のようにプロやアマの野球熱の凄い時代に比べようもなかったが、学生野球は全国的に澎湃として湧き起り、ブームとなっていた。 (同書「野球」より)
  
 「書かれた書物」とは、1970年(昭和45)刊の阪本勝『佐伯祐三』(日動出版)のことだ。山田新一は、『素顔の佐伯祐三』の後半でもパリで佐伯が死ぬ直前の様子やエピソードについて、阪本の同書を名指しで明らかに誤っていると指摘している。山田は、佐伯が死ぬまで当のパリの“現場”で一緒にいたが、阪本は下落合でもパリでも、佐伯の周囲にいた事実をほとんど目撃されてもいなければ、また周囲へ「佐伯の親友」という印象も残していない。
山田新一.jpg 佐伯祐三手紙.jpg
 このほかにも、佐伯の身近にいたいろいろな方の証言や、残された資料類をていねいに見ていくと、阪本の記述はどこかが少しずつズレており、ときにはかなりおかしいと感じる。すでに、このサイトでも触れているClick!けれど、1926~27年(大正15~昭和2)現在の目白・下落合界隈の描写も、まったくこの地域や“現場”を知らないとしか思えない見当はずれな記述を繰り返し、「?」マークだらけになってしまうほどの錯誤が見うけられる。この地域の、基本的な知識さえ持ち合わせているとは思えない阪本が語る『下落合風景』Click!は、当時の実景を見たことのない(写真や資料類でしか知らない)わたしでさえ、大きな違和感を感じる内容となっている。
 阪本勝は、北野中学で佐伯と同期(30期)だった。(確かに同窓会名簿にも掲載されている) 帝大に通っていたときは、ほんの一時的にせよ上落合に「下宿」していたのかもしれない。また、佐伯が下落合にアトリエを建てる際、同期のよしみでその様子を見物に行っているのかもしれない。しかしながら、佐伯の「親友」となったのは、彼がパリで死去したのちのことではないか?
 念のため、阪本勝『佐伯祐三』の初版から引用してみよう。なぜ“初版”かというと、同書は頻繁に改訂が行われ、そのたびに記述や掲載図版が変わっているからだ。
  
 私は東大在学中、転々と下宿をかえたが、一時上落合で自炊生活をしていた。自炊生活といっても男一人でできるものではなく、だれかとの共同生活を必要とした。その相手は、仙台二高の先輩で、現在同志社大学総長の住谷悦治君の実弟、住谷磐根だった。彼は私よりもっと若い画家だったが、人柄のよい人物だったから、仲よく自炊生活をしたものである。ところがわが家の近所に佐伯が家庭をもったときいて驚いた。 (同書「新家庭」より)
  
山田新一「素顔の佐伯祐三」.jpg 坂本勝「佐伯祐三」.jpg
 「東大卒」と「兵庫県知事」、そして「佐伯の親友」をあちこちで連発するこの人物を、佐伯の親友・山田新一が強い違和感やいかがわしさとともにウサン臭く感じたように、下落合で佐伯の足跡をできるだけ丹念にたどろうとしているわたしもまた、まったく同様の感覚をおぼえるのだ。
 次回、記事にする予定でいるけれど、明治末から大正期を通じて関西野球界Click!は、「佐伯」選手だらけだったことがあった。もし、佐伯祐三の近くに身をおいていたとしたら、市岡中学から早稲田大学に進学したもっとも有名な「佐伯」選手(当時、関西の青少年たちにはヒーローだったはずで、戦後は全国高等学校野球大会の会長を長くつとめている)、対戦相手の平安中学にもいた同世代の「佐伯」選手、さらには野球部のキャプテンをつとめた佐伯祐三が卒業したあと、北野中学にさえ登場してくるもうひとりの「佐伯」選手と、この印象的な野球界の状況をまったく知らなかったらしい阪本は、いったいどの位置にいて野球好きな佐伯の「親友」だったというのだろう?

■写真上:カフェ杏奴でカレーを食べる佐伯一家・・・と書いても不自然には感じられない、非常にリアルなスナップ写真。第2次渡仏時にモランのホテルで食事をする佐伯祐三と米子、弥智子。
■写真中は、1980年(昭和55)ごろにパリで撮影されたらしい山田新一。は、山田新一が池袋1125番地に住んだころ、佐伯祐三が大阪中津から書いた手紙。
■写真下は、山田新一が書いた『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版/1980年)。は、佐伯伝としてよく読まれているらしい阪本勝『佐伯祐三』(日動出版/1970年)。下落合で佐伯を追いかけているわたしは、同書が不可解でしかたがない。


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『落合文士村・目白文化村コース』改訂版が出た。 [気になる本]

落合文士村・目白文化村コース.jpg 中村彝ページ.jpg
 以前、尾崎翠の旧居=上落合三輪850番地をめぐり、彼女の全集や書籍など資料類のほとんどが、住居跡を誤って比定し掲載していることを記事Click!にしたことがあった。その記事を読まれた籠谷典子様が、『東京10000歩ウォーキング文学と歴史を巡る/落合文士村・目白文化村コース』(真珠書院/明治書院)の改訂版を、わざわざお送りくださった。上落合と下落合を散歩するには格好のハンドブックなので、改めてこちらでもご紹介したい。本書の目次を見ると、このサイトでおなじみの画家や作家、学者など「文化人」たちの名前がズラリと並んでいる。
 わたしは、この『東京10000歩ウォーキング』シリーズが発売された2003年ごろ、初回に出版された『半蔵門・日比谷コース』や『谷中霊園・三崎坂コース』からの愛読者だ。当初は、編集・発売元が真珠書院のみで、現在のように明治書院はいまだ参画してはいなかった。何年間もの長期にわたるシリーズ本の発行にはつきものだけれど、同書は装丁デザインも数年前から微妙に変化してきている。このハンドブックを手に、親父が愛用していた『東京生活歳時記』Click!(社会思想社/1969年)を参照しながら、わたしにはなじみの薄い地域や街を歩くことも少なくない。
 以下、『落合文士村・目白文化村コース』の目次を掲載しておきたい。価格も840円と安いので、江戸東京の街歩きには最適なハンディ資料といえる。
目次1.jpg
目次2.jpg
目次3.jpg    尾崎翠フォーラム2008.jpg
 ひとつ、わたしもサイトの記事に訂正を加えなければならない。記事の内容ではなく、撮影して掲載した写真のほうだ。以前、三島由紀夫の『宴のあと』Click!にからみ、「近衛町」Click!の有田八郎邸跡としてご紹介した写真がそれだ。大谷石の築垣が残る邸宅を、有田邸跡としてご紹介しているが、実はこの写真の位置は有田邸の東隣りの敷地であって有田邸跡ではない。記事を書いたあと、しばらくしてから気づいていたのだけれど、不精なわたしはそのままにしていた。(爆!)
 本来の有田邸は、この大谷石の垣が残る敷地に接した西隣りの区画で、現在は低層マンションとなっている。写真を撮りなおすのは簡単なのだが、「近衛町」が造成された当初の面影を残した貴重な大谷石の造作なので、「ま、いいか~」と当時の風情を感じさせる風景写真として、外さずに掲載したままだ。この築垣も、いつかは消えてコンクリートになってしまうかもしれないので、もったいなくて消せなかったのだ。写真の説明へ、ひとこと註釈を加えておかなければならない。
T邸before.JPG T邸after.JPG
 『落合文士村・目白文化村コース』の中には、もちろん佐伯祐三Click!『下落合風景』Click!も登場している。その中の1作、1926年(大正15)10月23日の「セメントの坪(ヘイ)」Click!に描かれた邸宅で、唯一いまに残る和館が、最近、往時の姿を残して修復された。古民家再生手法による、傷んだ部材の補修・差し換えと耐震強度を高めるリフォームで、大正期に建築された当時の意匠のままの姿で、久七坂の道筋沿いに甦っている。
「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。

■写真上は、『東京10000歩ウォーキング文学と歴史を巡る/落合文士村・目白文化村コース』(真珠書院/明治書院)の2009年改訂版。は、中村彝アトリエの紹介ページ。
■写真中:落合地域ゆかりの人物たちが紹介された、同書のコンテンツ。下右は、昨年の暮れに拙文「尾崎翠が見ていた落合風景」を書かせていただいた、年刊誌『尾崎翠フォーラムin鳥取2008報告集・No.8』(尾崎翠フォーラム実行委員会刊)。
■写真下:佐伯が「セメントの坪(ヘイ)」に描いた、再生前()と再生後()のT邸。


人がよく死ぬ明治時代。 [気になる本]

大久保百人町躑躅園.jpg
 ずいぶん前に読んだ本なのだが、忘れられない物語があった。いや、正確にいえば女性の日記なので、記録(ドキュメント)と呼んだほうがふさわしいのかもしれない。日記を書いた当の女性が発表したものではなく、小泉八雲Click!(ラフカディオ・ハーン)が序文とあとがきを書いて紹介したものだ。日記といっても非常に短いもので、短編ほどのボリュームしかない。なぜなら、この女性は日記を付けはじめてから、わずか4年半で亡くなっているからだ。
 大久保界隈に住んだとみられる女性の日記は、死後、彼女の裁縫箱の中から発見され、近くに住んでいた小泉八雲のもとへとどけられたらしい。日記の書き出しは、女性が結婚する直前の29歳のとき、1895年(明治28)9月25日の日付けからスタートしており、1900年(明治33)3月13~14日で終わっている。最後の記述からおよそ2週間後、同年3月28日に彼女は34歳で亡くなっている。あまり容姿的にはめぐまれていなかったと八雲は書いているけれど、彼女が結婚した相手とは、妻と死別した下級官吏の後添いとしてであり、月給が10円という貧しい暮らしだった。
 わずか4年半の日記が書かれる間、彼女の周囲では実に多くの人々が死んでいる。結婚後に生まれた、彼女の3人の子供たちをはじめ、姉妹や友人など実にあっけないほど次々と鬼籍に入っていく。女性はそのたびに落ちこむのだけれど、歌を詠み、詩を作り、義太夫を詠じてあきらめ、立ち直りながら生きていこうとする。わずか4年間の結婚生活の中で、あたかも一生ぶんの出来事が起きてしまったような、凝縮された時間が流れていく。
 八雲がプライバシーに関する箇所だけを削っただけで、ほとんどそのままの姿で紹介した『ある女の日記』を、わたしは学生時代に読んだのだが、それがどの作品に収録されていたのか、いままでまったく忘れていた。当時、確か小泉八雲全集の何巻かで読んでいたので、この作品が収められた当初の書籍名を憶えていなかったのだ。タイトルさえウロ憶えかつ曖昧で、それがようやくハッキリしたのはたまたまの偶然からだ。『ある女の日記』は、日記を付けていた女性が亡くなった2年後、1902年(明治35)に出版された小泉八雲の『骨董』の中の1編として収録されている。女性は自分の日記に、「むかしばなし」というタイトルを付けていた。
ちくま文学の森15巻.jpg 小泉八雲旧居跡.JPG
 ほとんど仮名で書かれていたとされる文章は読みづらいけれど、それでもこの女性の頭のよさや文才を充分に感じることができる。ところどころ、会話が交わされる様子もそのまま記されており、彼女がおそらく単に防備緑としてではなく、「むかしばなし」というタイトルからも、この日記をのちに誰か(おそらく子供たち)に読ませるために書いていたのではないかと思わせる、ていねいな記述がなされている。たった1行の日もあれば、数ページを費やして短歌や詩を創作している日もあって、わずか30ページ前後のボリュームであるにもかかわらず、かなり読みでのある内容だ。1行だけの日でも、前後の文脈からさまざまなことを想像させるのは、彼女の才能によるものだろう。
 わたしが驚くのは、明治のこの時代、人々はほんとうにいろいろなところを散歩し、よく出歩いているということだ。当時の庶民の間では、乗物を利用するという習慣がまだなく、江戸時代と同様にほとんどが徒歩による行楽だ。もちろん、馬車や俥(じんりき)、汽車は走っていたが、1日の生活費が27~28銭ほどで暮らさなければならなかった彼女のような家庭では、乗物に乗ることなどできなかった。それでも浅草をはじめ、赤坂、水道橋、向島、上野、神田、秋葉原、高輪、本郷、麹町、近所では早稲田、新宿、大久保と東京じゅうを歩きまわっている。往復するのに20kmの散歩も、決してめずらしくはなかっただろう。
浅草寺.JPG 三崎稲荷.JPG
 最近、この『ある女の日記』が独立して収録されている本を見つけた。筑摩書房が1988年(昭和63)に出版した「ちくま文学の森」シリーズの第15巻『とっておきの話』(安野光雅・編)だ。いま、改めてもう一度読み返してみても、明治に生きた女性の姿が眼前に活きいきと甦ってくるのは、やはり彼女の優れた表現力と的確な筆づかいによるものだろう。その生活感や風景のリアリティは、針箱の中へ日記をひそませた貧しい家庭の主婦として、彼女が亡くなる数年前に病没した、樋口一葉が描くフィクションとしての「明治」よりも、手ざわりが確かなように感じるのだ。
 小泉八雲が、原典にどれだけ手を加えているのかは知らないが、女性が書いたナマの日記をぜひ読んでみたいものだ。それとも、彼女の日記はとうに失われてしまったのだろうか?

■写真上:明治末に撮られた大久保百人町のツツジ園で、東京じゅうから行楽客を集めた。
■写真中は、『ある女の日記』がめずらしく収録された『とっておきの話』(筑摩書房/1988年)。は、西大久保に住んでいた小泉八雲の旧邸跡で、女性の日記はここにとどけられたのだろう。
■写真下:彼女がよくお参りをして家族の無事を祈った、浅草寺()と水道橋の三崎稲荷()。


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下落合で執筆された『虚無への供物』。 [気になる本]

中井英夫旧居跡.JPG 目白2丁目和館.JPG
 アビラ村Click!(芸術村)の目白崖線上に、小説家の中井英夫が住んでいた。中井英夫(塔晶夫)は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』や小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とともに、ミステリーの3大奇書といわれる『虚無への供物』の作者であり、まさに下落合で同作は執筆されている。中井英夫は、『がいこつ亭Vol.35』(2008年4月)の中村惠一著「闇に香る蒼き薔薇」によれば、1958年(昭和33)から1968年(昭和43)まで旧・下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んでおり、そのせいか『虚無への供物』にはあちこちに、目白・下落合界隈の情景が登場している。
 近ごろ、長編小説を読まなくなって久しい。学生時代は、野間宏の『青年の環』でも大西巨人の『神聖喜劇』でも平気で読んでいたのだけれど、最近は辻邦生の『樹の声 海の声』も途中で飽きてしまい放りだす始末だ。でも、『虚無への供物』は最後まで一気に読んでしまった。下落合の近所が登場するので飽きないせいもあるが、ストーリー自体が面白かったからだ。本作は、いちおうミステリーの範疇に分類されることが多いけれど、いわゆる「推理小説」ではない。
 『虚無への供物』は、「純文学」でも「推理小説」でも「風俗小説」でも、「歴史考証小説」でも「科学小説」でも「怪奇小説」でも、はたまた「大衆小説」でもなく、あらかじめカテゴライズされるのを鋭く拒絶するような、そのすべてを兼ね備えた作品という趣きがある。先の『青年の環』のひそみに倣えば、「全体小説」ならぬ「総合小説」とでもいうべき表現となっている。作者自身は本作のことを、ことさらアンチ・ミステリー(反推理小説)と称していたようだ。
 事件が起きる氷沼邸は、学習院のある目白通りの北側、旧・学習院馬場Click!があった裏手の北向き斜面に建っていた設定となっている。『虚無への供物』(講談社版)から引用してみよう。
  
 国電の目白駅を出て、駅前の大通りを千歳橋の方角に向うと、右側には学習院の塀堤が長く続いているばかりだが、左は川村女学院から目白署と並び、その裏手一帯は、遠く池袋駅を頂点に、逆三角形の広い斜面を形づくっている。この斜面だけは運よく戦災にも会わなかったので、戦前の古い住宅がひしめくように建てこみ、その間を狭い路地が前後気ままに入り組んで、古い東京の面影を偲ばせるが、土地慣れぬ者には、まるで迷路へまぎれこんだような錯覚を抱かせるに違いない。(中略)繁り合った樹木が蔽うという具合だが、豊島区目白二丁目千六百**番地の氷沼家は、丁度その自然の迷路の中心に当たる部分に建てられていた。 (同書「序章」より)
  
虚無への供物上.jpg 権兵衛坂.JPG
 また、この事件を「解決」に導く牟礼田の家は、下落合の氷川明神を見おろす目白崖線の中腹、地元では通称「権兵衛山」と呼ばれる斜面に通う、権兵衛坂Click!沿いに建っていたことになっている。先年亡くなったばかりの、十返千鶴子Click!の自宅が建っているあたりだ。
  
 高田馬場の駅前から、交番の横の狭い商店街に車を乗り入れ、橋を渡っていくらも行かぬ小さな神社の前で降り立つと、久生は手をあげて、崖の中腹に見えている白塗りの家を指さした。南に向いて、アトリエ風な大きいガラス窓の部屋がせり出し、辛子色のカーテンの傍に、黒い人影が動いている。/「ここからまた、ぐるっと狭い坂道を廻って上ってゆくの。ねえ、ここでならあの“犯人自身が遠方から殺人行為を目撃する”っていうトリックが出来そうでしょう」 (同書「第二章」より)
  
 書かれている「交番横の狭い商店街」とは1950年代半ばの栄通りのことで、「橋」はその先の目白変電所Click!に面した田島橋Click!、「小さな神社」が下落合の氷川明神社Click!、「崖の中腹」が権兵衛山(または大倉山とも)の斜面、「狭い坂道を廻って」の坂道は権兵衛坂のことだ。十三間通り(新目白通り)は、いまだ計画中で存在していない。
 あまり内容について詳しく書くと、ネタバレになってしまうのでひかえるけれど、作者の広範な知識と取材力とには驚嘆するばかりだ。推理をつづければつづけるほど、どんでん返しで裏切られていくという意外性。東京の下町と乃手Click!が交叉し、「薔薇」に「シャンソン」に「五色不動」に「不思議の国のアリス」、はたまたアイヌ民族のカムイ・ユカルまでが織りこまれ、何重にも張りめぐらされた伏線と綾なす物語の繊維とが重なり合い、息をもつかせずに展開していく。
権兵衛山山頂.JPG 東京都全住宅案内帳1960.jpg
 物語の中で気になったのは、アイヌ民族のトンコリ(五弦琴)が道南の洞爺湖周辺で奏でられていたように書かれているけれど、トンコリはカラプト(樺太)アイヌ独特の楽器であって、渡嶋アイヌとその周辺域には存在しなかっただろう。ちなみに、中井は金田一京助Click!の関連資料を参考にしているようだ。また、江戸の五色不動は、その中のいくつかが当初の建立位置と明治以降とでは大きく異なっており、それらを結ぶレイ・ラインを今日的なポイントで結ぶと、本来の意味とは異なるかたちが形成されてしまう。目白不動Click!を例にとれば、関口にあった本来の位置から金乗院のある西へ1,000m近くも移動している。
 物語のエンディングも、北側の崖線(バッケ)斜面に牟礼田邸が見える下落合の氷川明神だ。この牟礼田の性格が、実はわたしは大の苦手だ。もったいぶった話しぶりと、じれったく思わせぶりな態度とで、読んでいてしきりにイライラさせられる。他の登場人物は、それなりに好ましく描かれているのだけれど、中途から登場するフランス帰りの牟礼田だけが、どうしようもなく野暮で嫌味なヤツなのだ。(ネタバレ注意!) 最後、久生にふられるのは気味(きび)のいい結末。
住宅表示新旧対照案内図1965.jpg 中井英夫.jpg
  
 いつもの神社の前までくると、二人はいっせいに牟礼田の家を見上げた。ガラス戸のところに立って、こちらを見おろしているのは、蒼司だといい切れるほどにはっきりはしないが、確かに牟礼田ではない。それでは蒼司はやはりあの家にいて、いましがたの喪服パーティの模様も、陰できいていたのだろうか。(中略)なんとか見定めようとするうちにその黒い影は、別れをいうように手をのばして、カーテンの飾り紐を引いた。 (同書「終章」より)
  
 「推理小説」(とりあえずこう呼ぼう)で、落ちやネタがわかっているにもかかわらず、もう一度プロローグにもどって読み返したくなる作品は稀有なことにちがいない。1,200枚を超える小説を一気に読み通すというのは、全体のプロットの出来もさることながら、登場人物が魅力的なのも大きな柱だ。わたしが好きなのは、主要人物の中で唯一の女性である久生のキャラクターだ。でも、三島由紀夫が久生ファンだと聞いて、ちょっとガックリきたような気もする。

■写真上は、アビラ村西部の旧・下落合4丁目2123番地の中井英夫邸があったあたり。は、目白通りの北側には空襲による延焼をまぬがれた家々がいまでも点在している。
■写真中上は、もっとも新しい版の『虚無への供物』(講談社)。は、下落合の権兵衛坂。
■写真中下は、権兵衛坂を上りきった権兵衛山の山頂。は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)にみる旧・下落合4丁目2123番地あたりで、「植物園」と記載されているのが中井邸と思われる。父親の影響で園芸好きな彼は、バラ園も造成していただろう。
■写真下は、1965年(昭和40)に作成された「住宅表示新旧対照案内図」にみる中井英夫邸。は、1980年代ごろの中井英夫。戦時中、帝大生だった中井は陸軍の作戦中枢である市ヶ谷の参謀本部へ勤務していたが、そのときの日記を最後に引用したい。
  
 この存在(軍隊)はいつさい無価値であり、「世々天皇のしろしめし給ふところ」の軍隊は、単に一個の軍閥と呼んで何等差支へはないのだ。ましてそれが臭気ふんぷんたる資本主義と手を結び、南方に帝国主義的な進駐を開始するに到つた昭和十六年某日よりの行動は、革命の日もつとも指弾し、全面的に責任を問ふべき醜悪なる事実である。


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