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負け犬のシネマレビュー(16) 『リトル・ミス・サンシャイン』 [気になる映像]

身の丈を知るのはつらいけれど、ラクになれる
『リトル・ミス・サンシャイン』(ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ヴァリス監督/2006 年/米国)

 冒頭、人生を勝ち抜くためのプログラムを意気揚々と語るリチャードだが、室内に灯が点くと、狭い会場には数人の聴講者がいるだけ。それもやる気がなさそうな人ばかりだ。そのリチャードの電話を、運転しながら受けるシェリルの行く先は病院である。かれらの息子ドゥエーンはものも言わず自室に引きこもって筋トレに励み、娘のオリーブはまんまる顔にメガネを乗せた幼児体型(そういう歳だからあたりまえだが)ビューティクィーンを夢見ていて、バスルームでヘロインを吸引する祖父がこの孫娘のダンスの先生のようだ。さて病院で車椅子に腰かけたシェリルの兄のフランクは、体よりも内面を病んでいるようす。その兄をともなって帰宅したシェリルが、ごはんですよーと声をかけたテーブルはと見れば、ファストフードが並んでいる。

 誰もが一癖も二癖もありそうなこの家族と食卓に、『おしゃれ魔女ラブ&ベリー』とフレンチフライが大好きな娘の趣味でゲーセンに行った後、マクドナルドでランチが休みの日の定番という友人の一家を思いだし、はっとしたが、映画のファミリーはオリーブちゃんが美少女コンテストに繰り上げ当選して、動きはじめる。
 これがタイトルにもなっているコンテスト「リトル・ミス・サンシャイン」会場は一家が住むアリゾナから遠く離れたカリフォルニア。映画は、この家族とその道中を描いたホームドラマでロードムービーだが、LA批評家協会賞を獲得、アカデミーにもノミネートされたマイケル・アーントの脚本は、これがデビュー作とは思えないほど気負いが感じられない。

 うまく運ばない自分の仕事できりきりしているリチャードが留守録されていた娘のコンテストの通知をなかなか切りださず、他人事ながら子どもの夢はどうなるの? とやきもきさせられるあたりから、ずるいなあと思いながら、物語にぐいぐい引き込まれる。大もめの出発時から見えはじめ、物語が進むにつれて愛すべき人間性があらわになってくる登場人物の描かれ方も皮肉と愛情がほどよくこめられている。
 『東京国際映画祭』では観客賞とともに最優秀監督賞も獲ったジョナサンとヴァレリー夫妻も、劇場映画を手がけるのはこれがはじめてながら、スリリングなのに抑制の効いた演出をしている。家長たるリチャードは口ばかりでたよりないし、その父親は老人ホームに入る歳なのに薬物と女が好きなばりばりのエロじじい。傍からみれば、みなできそこないで欠点だらけだが、かれらの特徴を隠そうとしない母親シェリルの姿勢がいい。またドゥエーンとその伯父フランクが友情で結ばれていく流れも自然で、観ていて気持ちいい。

 映画評的には“ぶっ壊れた家族の再生モノ”と謳わなければならないのだろうが、壊れた家族は壊れたなりにやっていけばいいわけで、ほんの少し一緒に旅をしたからといって持って生まれた性格が変わるとも思えない。ただ言えるのは、この旅行で、家族はそれぞれ自分の身の丈を自覚して、ちょっとラクになったと思う。恐ろしいのは壊れていることにさえ気づかず、他人のモノサシで測ったしあわせの上をたどっている家族だが、そういう人たちはこんな映画、きっと観ないだろうし、一生他人のモノサシで測ったしあわせを信じて生き続けられるならそれはそれでしあわせだろうから、どうでもいいんだけど。

 余談だが、フランク役は当初ビル・マーレイか、ロビン・ウィリアムスを考えていたらしいが、あのふたりのどちらかだったら、過剰な演技が映画自体をぶち壊したかもしれない。『40歳の童貞男』スティーブ・カレルは正解だった。でも子どもに弱い日本でいいところをさらっていくのは、やはり子役。前出の東京国際映画祭で、オリーブ役のアビゲイル・ブレスリンちゃんは主演女優賞を獲得している。最近の傾向として、映画を選ぶ基準は最初に出演者ありきらしいが、あいかわらず作り手で映画を選ぶ昔人間の私は同じ脚本、監督の第2弾を観てみたい。
                                             負け犬

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負け犬のシネマレビュー(15)『いつか読書する日』 [気になる映像]

いつまでも手もとにおきたい珠玉の映画
『いつか読書する日』(緒方明監督/2004年/日本)

 主人公は50歳ぐらいで独身。キャリアウーマンとしてばりばり働いているうちに婚期を逃したわけではなく、少女のころ、ずっとここで生きて行こうと決めた坂の多い町を動かずに暮らしている。化粧っ気もなく、服装も地味なのに、田中裕子が演じる美奈子は透明感のあるきれいな肌と、清潔感のある身だしなみのよさが毅然としていてりりしい。
 実は彼女には秘めたる思いがあって、初恋と言ってしまうと陳腐だがセックスが可能な年齢になって好きになった相手への遂げられなかった思いにこだわっているのだ。その相手=高梨が田中同様、不器用でくそまじめな岸部一徳とくれば、ありえなさそうな高潔なメロドラマもリアルに見える。
 恋愛なんて、タイミングがすべてと言っていいかけひきだ。16、7の小娘やちんぴらがたやすく成就できるはずがない。その年ごろの男の子といえば、女の子にモテたくてギターを覚え、好きな女の子をベッドに引き込むために頭を鍛えながら、いざそういうシチュエーションに持ち込んでも手も足も出ないのがふつうだ。そんな男の子よりさらに早熟な女子はすでに『ボヴァリー夫人』や『愛(ラマン)人』ぐらいは読んでいて、頭のなかは妄想でいっぱい。天井まで本が並ぶ素晴らしい家に住む美奈子なら、まちがいなくそうだろう。でも、こちらも手出しできないのが常である。
 
 だいたいそんな歳で、そんなことをスマートにやってのけるような手練手管なガキなんてろくな大人になりゃしない(と負け犬の私は思う)。その後日談として在る物語はラストが見えてしまうものの、ことごとくタイミングを外す不器用なふたりが愛しくてたまらない。きっと美奈子はこれから折り返す人生を、大切にしてきた蔵書を一冊ずつ読み返して過ごすだろうと想像したら、笑いながら号泣してしまった。
 公開時から見たかったのに、映画館に足を運ばなかった理由は見終わってから、はっきりした。主人公の特別な思いを、ほかの誰とも共有したくなかったのだ。
 きっとこの映画を観た多くの同世代の女性は「いいなあ」と主人公に共感するだろう。すでに親が他界している美奈子にはこの先介護の心配もない。相手が食事中でもおかまいなしにお茶をくれとか言う亭主もいなければ、何を考えているのかわからない居候のような子どももいない。早朝に牛乳を配り、昼間はスーパーでレジを打ち、自分が食べてゆくだけのお金を稼げばいい。24時間すべて自分のために使えるシンプルで静かな暮らしはある意味、この年ごろの女性が1度ならず憧れる“自由”な暮らしだろう。でも、いいなあと言った多くの人はその後「でも……」と続けるに違いない。
 これが物語として成立するのは、いつまでも独りでいる女に思う相手があるからだ。結婚するカップルの4組に1組が再婚である一方、意のままにならない状況にヒステリーを起こした大臣が「女は生む機械だろ」なんて口をすべらせてしまうほど、オタクや引きこもり、ニートといった“反社会的”な独り者は増えている。ひとりで楽しめる娯楽は映画や読書ばかりでなく、こうやって感想を書かせてくれるブログがあり、相手に合わせる必要のない気楽さから今後ますます独り者は増えるに違いない。
 
 でも会社勤めの20代女性は、自分の頭でものを考えたことのない上司から、彼氏いないの? 結婚しないの? と訊かれ、彼氏ができたら、結婚してもらえそう? と訊かれるらしい。30過ぎて独りだと、親や親戚は腫れ物に触るようにその話題を避けるが、未婚のまま40過ぎたら、下卑た想像力と思いこみしかない男からはセクハラを働かれ、男社会で勝ち組になった既婚の女にはなめられる。そして多くの人生の先輩は、美奈子の亡母の旧友でもある渡辺美佐子(この人も田中同様いつまでも妙に色気がある)のように、ひとりでいて何が楽しいの? と訊いてくるのだ。
 きっとそういう人は喜怒哀楽を他人と分かちあうのをしあわせだと思っているのだろうが、うれしいこと楽しいことならともかく、つらい時期そばに誰かがいると却って気を遣うし、楽しくもないことにつきあわされる相手も迷惑だと思ってしまう私などはやはりひとりでいるのがフラットでいい、と思ってしまう。ともあれ美奈子のような女性を主役に、上質の短編小説のような1篇を作ってくれた同世代の監督に、心からお礼を言いたい。
                                          負け犬

『いつか読書する日』公式サイトClick!
2007年2月現在 上映予定なし


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質札さげたシューベルトのうしろ姿。 [気になる映像]

 子供のころ、初めて観た怪獣モノやアニメではない映画を思い出そうとしてたら、映画館ではなく、おそらくNHK教育テレビかどこかで放映された『未完成交響楽』(ウィリー・フォレスト監督/1933年)にたどりついてしまった。子供向けの映画ではもちろんなく、「いっしょに観てもいい」と親から特別に許可された大人の映画なので、ことさら印象に残っているのかもしれない。小学1~2年生、確か低学年のころだった。
 『未完成交響楽』は、フランツ・シューベルトの青春を描いたものだけれど、およそ史実とはかけ離れた内容だったことに気づくのは、しばらくたってからのことだ。それまでは、音楽室に掲げられたシューベルトの肖像と、『未完成交響楽』でシューベルトを演じるハンス・ヤーライが、「ほんとにソックリじゃん!」ということ以外、特に子供の興味を引くストーリーではなかった。
 でも、シューベルトが失恋をして、というか、「失恋」自体がどのようなものか小学生にはわかるはずもなく、彼がどうやら好きだったみたいな貴族のお姉さんとの仲を引き裂かれ、相手にされなくなったとき、こうべをたれて失意に打ちひしがれながら、ハンガリーの広大な田園地帯をトボトボと歩いていく。すると、道端に聖母マリアの素朴な石像を見つけて、ジーッと見つめているうちに、美しいメロディーが泉のごとく湧きあがってくる・・・というシーンだけは、なぜか鮮明に憶えている。それが、もちろん『アヴェ・マリア』なのだが、いまでもこの曲が好きなのは、きっとこの映画に起因するのかもしれないし、交響曲第8番ロ短調(現在は第7番とされることが多い)を気軽に口ずさめるのも、ひょっとしたらこの映画の影響なのかもしれない。
 戦前のこんな古くさい映画を、親父はなぜわたしに見せたのかは知らないが、きっと少年時代に日本橋の映画館で観ていて、ことさら印象に残った作品なのだろう。シューベルトに好意を寄せる質屋の娘から借りた燕尾服を着て、質札をぶらさげたまま宮廷の音楽会へと出かけていくシーンをはじめ、どこかユーモラスで垢抜けないシューベルト像は、スマートでダンディなヒーロー作品の多い当時としては、妙にリアリズム追求型のめずらしい作品だったのかもしれない。恋に絶望したシューベルトが、交響曲第8番の第3楽章楽譜を「この曲が終わらざるが如く、我が恋もまた終わることなし」(逆かな?)と書いて、ビリビリに破いてしまう終盤には、野暮ったかったはずの彼の姿がどこかカッコよく見え始めてしまうのも、監督による計算ずくのねらいだったのだろう。交響曲第8番が、なぜ第2楽章までしかないのかは、シューベルト本人と神のみぞ知る・・・なのだが。
 
 先日、近衛秀麿Click!のディスコグラフィーを調べていたら、現在CDで入手可能なのは読日響との杉並公会堂録音ほか数枚だけ・・・というのを知った。その1枚が、シューベルトのNo.8(現在はNo.7)と、ベートーヴェンNo.5とのゴールデンカップリングだった。両曲とも聴くのは久しぶりなのだが、近衛指揮のシューベルトは、ジュリーニやC.クライバー、スウィトナー、ベームなどを聴いてきた耳には、いかにも地味で中庸でオーソドックスに感じる。だからというべきか、それほど抵抗感も違和感もなくすんなりと聴き終えた。ことさらシブくて、ちゃんとお約束どおりで安心・・・と感じてしまうのは、わたしがそろそろ年を取ったせいだからだろうか?
 第1楽章の冒頭が鳴りはじめると、わたしはいつも質札をさげたハンス・ヤーライのうしろ姿を思い浮かべてしまう。親たちも、同じ情景を想い描いていたのだろうか。女との放蕩に明け暮れ、梅毒の悪化と腸チフスにより31歳で死んだシューベルトの実像は、どうやらこの作品の中にはないけれど、もう少し違う生き方をしていたら、こんなエピソードを抱えた彼の姿もありえたのかな?・・・などと感じさせてしまう、もうひとりのリアルなシューベルト像ではあるのかもしれない。

■写真上:ウィリー・フォレスト監督『未完成交響楽』(ドイツ=オーストリア合作/1933年)。ハンス・ヤーライのシューベルトはそっくりだけれど、人気女優マルタ・エッゲルトによるカロリーネ嬢は実物のほうが美しいと感じてしまうのは、わたしだけだろうか?
■写真下は、近衛秀麿=読売日本交響楽団の『ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調/シューベルト:交響曲第8番ロ短調』(1968年2月21日/PLATZ/PLCC-740)。かろうじて在庫切れになっていない、近衛秀麿CDのうちの1枚。は、映画ではシューベルトの恋人ということにされている、カロリーネ・エステルハージ伯爵令嬢の肖像。恋人だったという裏付けは、どこにも存在しない。


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負け犬のシネマレビュー(14) 『サンキュー・スモーキング』 [気になる映像]

世の中を動かすのは西も東も口の達者なやつ
『サンキュー・スモーキング』(ジェイソン・ライトマン監督/2006年/米国)

 政治家ならいかにも女性票を集めそうな風貌のこの男ニック・ネイラー。タバコ会社の出先機関=タバコ研究アカデミーのスポークスマンである。二十年前ならジェフ・ブリッジスの役だが、アーロン・エッカートに『ラスト・アメリカン・ヒーロー』や『ゴングなき闘い』での葛藤を経た感じはしない。それがよくも悪くも今のアメリカを象徴している。
 飲酒運転で人を轢いたらGM社を訴えるのか、パイロットのミスで旅客機が墜落したらボーイング社を訴えるのか、タバコ会社だけが訴えられるのはおかしいと、ああ言えばこう言う口の達者な男だが、そのテンポが早い、早い。コーヒーが熱すぎて訴えられてたハンバーガーチェーンがあったことなどつい、うっかり忘れてしまう。
 10代の喫煙撲滅キャンペーンに予算5,000万ドルを投じることにOKを出しながら「効果を出すな、顧客が減る」だの、「未成年は金脈」だの、「次の戦争までに、喫煙によって中国の人口は減る」だのと、ボスたちも言いえて妙な言いたい放題。タバコが悪者になるのは『脱出』のころのように粋な喫煙シーンがないからだと、ハリウッドに乗り込むかれらが悪なら、“使えない”非営利団体は思考停止状態のあたりまえの正論しか言わない。善であるはずの議員は隙あらばとニックの失脚を狙い、誘拐まででっちあげるが、これが逆効果になり、どこまでも運がいいのだ、このお調子者と思ったら、あらら、そーんな古い手に乗っちゃったのね、おばかさん、な躓きかたを披露してくれる。
  
 観ているあいだはとにかくおかしい。じっさい資本主義の世の中ってこんなふうに動いてるよなあ、と、くすくす、げらげら笑わせてくれる。が、観終わった後、心に残るものはほとんどない。そこも含めていまのアメリカ的だと思ったが、 アイスバーグ・スリムなんてラッパーみたいな名前の作家が69年に発表した『PIMP』(ピンプ=娼婦の稼ぎをむしり取るヒモだって)という小説では、正義の女神はなぜ目隠しをしているのか? (アメリカの法の正義の象徴は目隠しをして天秤を持った女性) それは目隠しを外せば目ン玉についた$マークが見えるから(浅尾敦典訳)と書かれていて、アメリカンドリームというのは、昔っから口先の専門家の元に成り立っているのだと、つくづく……。
 なにしろタバコ研究アカデミーのPRマンにして喫煙者のはずの主人公がタバコを手にする場面は、ウィークエンド・ファーザーとして息子と過ごしているとき、からになったパックをねじ曲げるところだけ。そう、映画のなかに彼の喫煙シーンはないのだ。自分自身が現代社会で忌み嫌われる喫煙者にして、風邪をひきながらタバコを吸うひねくれ者なので、最初から最後までこの男がいつタバコを手にするかに注目していたのだが、最後までなく、もしかしてこれ、禁煙のPR映画? と詐欺に遭ったような気分もなきしもあらずだが、喫煙者の大半はできたらやめたいと思っているわけで、痛いところを突いてもいる。
 
 ちょうどこの映画を観て帰ったタイミングで、テレビを点けると、『教育改革タウンミーティング』で、教育基本法改正に賛成する質問を“やらせ”だとニュースキャスターが伝えていて、そんなの誰でもやってるでしょうが、と思わずつっこんでしまったが、どんな業界にも業界紙があり、どんな団体にも広報がある。
 景気はよくなってるじゃないかと、首相が大きな声を出せば、その中身が問われることもなく数字だけで景気はいいことになってしまう「いざなぎ景気を超える長期経済成長」だ。これなんか最大のPRによる勝利。日本の政治経済も口先のパフォーマンスで成り立っているのだから、六本木ヒルズとやらにお住まいの方がたも、ただのおっちょこちょいだっていうのはもうバレてんだし、そろそろ芸人らしくサービスしてくれてもよさそうなもんだと思うんだけどね。
                                               負け犬
『サンキュー・スモーキング』公式サイトClick!
日比谷「シャンテ シネ」他で全国ロードショウ公開中


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負け犬のシネマレビュー(13) 『ストロベリーショートケイクス』 [気になる映像]

抱きしめたい女の子たち
『ストロベリーショートケイクス』(矢崎仁司監督/2006年/日本)

 魚喃キリコの原作コミックを、友人の本棚に見つけたのは何年前だったか。強力に勧められて、読み終えた私はその日家に帰って、泣き伏した。 堰を切ったように、という表現が大げさでないほど、涙があとからあとから出てきた。
 そうだったのか・・・ものすごく仕事ができたXSサイズの彼女も、もしかしたら夜ごと便器に顔を突っ込んで吐いていたのかもしれない。群れる女の子に陰口たたかれていたあの子も、誕生日には寂しい思いをしていたのかもしれない。男になど興味なさそうなあの子だって、はしゃがないだけで彼氏がほしかったかもしれない。自信たっぷりに見えた彼女は、思いを寄せる男に好きなそぶりも見せられない内気な子だったのかも・・・報われない思いをしてきたのは自分だけじゃなかったんだ、という涙はほとんどもらい泣きだが、泣くだけ泣いたら、晴れ晴れと気持ちが軽くなった。そして、だから泣ける映画がウケるのか、と思った。 涙はストレスと同じ排泄物だ。たまには外に出してやらないと、身が持たない。
 
 宮台真司によれば、少女マンガは73年以前、清く正しく美しい少女に輝かしい未来が待っているという構図だったが、73年以降は美しくもなく聡明でもなく素直でもない内気な女の子が、でもこのままでいいんだと自己肯定をはじめ、77年になると両親の不和や不倫など、自分を取り巻く複雑で生きにくい現実をそれでもクサらず生きるための構えや知恵を磨くというスタイルになったとか。しかし少女マンガが変貌を遂げる一方、少年マンガの世界はあいかわらず。斉藤美奈子がアニメ、特撮、伝記のヒロイン像を論じた『紅一点論』の帯には「ナイチンゲール」は『ナウシカ』に、「キュリー夫人」は『セーラームーン』に、「ヘレン・ケラー」は『もののけ姫』に、とある。男から救いをもとめられるヒロイン自身はいったい何に、誰に救いをもとめるのか。
 90年代半ば、コギャルと呼ばれた街のスターも、いまや20代後半。高校生のころから他人からなめられないよう武装しつつ、友だちの痛いところを刺激しないやさしさを持つ反面、仲間以外は「関係ないよ」と背景のように割り切ってきた彼女たちの世代は、子ども時代にバブルをかいま見、その後のだらしない大人を目の当たりにもしている。努力すれば報われるなんて絵空事が通用しない世の中で、それでも結果を出すために働き、すべての仕事はサービス業だと身をもって感じている。でも努力は人間の本能。特に、男の子よりも根がまじめな女の子は、下っ端に競争させてなんぼの組織に組み込まれてしまう。そして、そういう子ほど、好きな男に痛々しいほど純情だ。
 
 この映画に出てくる4人のヒロインが素敵なのは、時どき投げやりになるところだ。報われない世の中で、ムダな努力をしているわけではない。ただ流されているわけでもない。見栄もあれば、意地もあり、下心もある。そこが彼女たちに健全な色気を感じさせるところ。友だちにしろ、好きな男にしろ、見栄や意地を張るのは仲間というテリトリーにあるからで、そういう身内的な者に対して一度弱みを見せると、あとはなしくずし的に甘えてしまうのを彼女たちは知っている。友だちだから、ほんとうに苦しいときこそ頼らない。頼れないのである。
 きっとこの子たちはほんとうにお金に困ったとき、友だちにはぜったい借金しないだろうなと思いながら観ていたら『嫌われ松子の一生』を思い出した。中谷美紀が演じたあの映画のヒロイン川尻松子が、いまこの時代に生きていたら“嫌われ”るどころか、映画の冒頭、ぎょっとするようないでたちで登場する池脇千鶴あたりと大の親友になれたかもしれない。
 
 原作者は、友人でもあるこの映画の監督、矢崎仁司に「暗い話を書いちゃったんです」と作品を送ったそうだが、暗くはない。狗飼恭子の脚本でいっそうせつなく、力強くなったリアルな物語だ。見栄張って、意地張って、へとへとに疲れて、気がつけばタバコのパックは3箱目、コーヒーは10杯目。ジャンクフードに胃を荒らし、アルコールに浸ったあげくの寝不足で、肌はぼろぼろ。それでもにこにこ笑って働いたことがあるひとなら、4人のうち誰かにどっぷり感情移入するはず。そして最後には4人全員を好きになるだろう。私は胸の大きな女が出てこないところも大好きだけど。
                                                                                    負け犬
『ストロベリーショートケイクス』公式サイトClick!
渋谷シネ・アミューズ/その他 9月23日(土)~ロードショウ


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