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葛飾北斎のヒーヒー『山満多山』。 [気になるエトセトラ]

水神社.JPG
 本年も、拙サイトをお読みいただきありがとうございました。早いもので16年目に突入していますが、来年もどうぞよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。
  
 これまで落合地域をはじめ、目白崖線沿いにやってきていた江戸期の画家たち、たとえば安藤広重Click!二代広重Click!三代豊国Click!長谷川雪旦Click!などの仕事をこちらでご紹介してきたが、画狂老人こと葛飾北斎もまた、1804年(享和4)ごろに目白崖線の急坂をヒーヒーいいながら上って作品を残している。
 江戸の版元・蔦屋から1804年(享和4)に出版された、葛飾北斎Click!の絵本狂歌『山満多山(山また山)』全3集だ。本所の市街地生まれの北斎にしてみれば、「じゃあだんじゃねえや、ええ? ヒー、山また山ばっかじゃねえか、ヒーヒー、こんちくしょうめ!」と、仕事とはいえ崖線の急坂を上り下りする切ない悲鳴が聞こえてきそうなタイトルだ。当時の画狂老人・北斎は45歳、江戸期の感覚からすればすでに「老人」と呼ばれる年齢に達していた。今日でいえば、60~70歳ぐらいの感触だろうか。
 北斎は、このあとまだ45年も生きて1849年(嘉永2)に90歳で没しているので、結果的にみればいまだ壮年時代ということになるが、当時の人々にしてみればあと5年も生きられれば十分な、まちがいなく老境と呼ぶにふさわしい年齢にさしかかっていた。同書に掲載された、大原亭炭方の跋文から引用してみよう。
  
 あし引の山の手なる景地さぐり画は 北斎老人が例のふんてをふるはし たはれ歌はおのれ炭方便々館せゝうに相槌して これを撰みついに三ツの冊子となせり これや山姥が山めぐりする心ちぞと なつけてもてる斧の柄のくち走りて巻のしりへに志るすになん
  
 大江戸(おえど)郊外の乃手Click!歩きは、「山姥が山めぐり」するような感じだなどと書いているので、ひょっとすると絵本を描いた北斎から、いっぱい「山姥(やまんば)」や「鬼」、「蛇(じゃ)」Click!などが登場するヒーヒーのグチを聞かされたものかもしれない。跋文を寄せている人物も「炭方」と名のるなど、絵になる景勝地を求めて山歩きしたとはいえ、当時の江戸市民が外周の丘陵地をどのように見ていたのかがわかって面白い。
山満多山表紙裏.jpg
 さて、『山満多山』には北斎による32景が収められている。その中で、落合地域に近い風景を描いた画面が7景ほどある。なお、北斎は付近の風景を描いているのではなく、あくまでもそこにいた人物をモチーフの中心にすえているので、「山また山」にしては「山」そのものの風景は意外に少ない。
 ●第1集……高田馬場/小石川関口の瀧/江戸川の蛍
 ●第2集……目白観月/早稲田関口
 ●第3集……雑司ヶ谷鬼子母神/諏訪の池
 まず、第1集の「高田馬場」から観ていこう。物見遊山(ピクニック)に出かけた女の3人連れが、近くの高台に敷物を拡げて弁当を食べ茶を飲んでいる。おそらく、この高台は幕府練兵場・高田馬場(たかたのばば)Click!の北側にある三島山(現・甘泉園公園)、あるいはバッケ下Click!の地名があった崖上(亨朝院)あたりのピークだろう。持参した遠眼鏡(望遠鏡)で、富士山の見える山々や丘下の風景をながめているのだろう。「ねえ、ちょいと、いまの見たかい?」「見たわよう」「富士見茶家Click!あたりで、ふたりの爺いClick!が水茶屋の若い娘を追っかけてるのさ」「もう、おきゃがれClick!てなもんだわ」「……あっ、しょうもないすけべ爺いが、娘に張り倒されてるのさ」「そらごらんな、ざまぁないね」「……あれあれ、バッケから落っこっちまった。いい齢してさ、ありゃ死んでも治らないね」。空を飛んでいるのはホトトギスだと、添えられた狂歌から知れる。
 ほとゝぎす高田にき啼く初声を けふ野遊びの家産にせん
山満多山「高田馬場」.jpg
 次は、「小石川関口の瀧」だ。神田上水Click!が分岐した少し下流には、幕府が設置した大洗堰Click!があった。3人の男が箕を使い、アユClick!でも獲っているのかへっぴり腰が面白い。小僧を連れた、裕福そうな日傘の女がそれを眺め、長煙管で一服タバコを呑んでいる光景のようだ。女が見物しているので、男たちはことさらアユを捕まえていい格好をしたいのか、それとも近くの料理屋の女主人から頼まれて漁をしているのか、一所懸命に川をさらっている。大洗堰の滝口のためか、水が逆巻いて漁がしにくそうだ。水が澄んだ神田上水つづきの江戸川らしい、夏の涼しげな光景だ。
 魚をとる音は太鼓のとんとはし 川は巴に水もさか巻く
山満多山「小石川関口の瀧」.jpg
 つづいて、「江戸川の蛍」を観てみよう。大洗堰の下流、江戸川沿いの土手に舞うホタルを描いたものだ。もともと早稲田田圃から江戸川の大曲(おおまがり)にかけては、中世まで大きな白鳥池Click!があったエリアなので、あちこちに湿地帯が残っていただろう。武家の奥方と娘、それに犬を連れた足軽の家人が描かれ、夏の宵にホタル狩りをしている。享和年間は、いまだ江戸川がホタル狩りの名所だったが、時代が下るにつれて神田上水の面影橋あたりが名所になり、幕末には落合地域のホタル狩りがブームとなっていく。
 らんぐひの栗のくちてや江戸川の 岸に光れる夏虫の影
 以上が、『山満多山』の第1集に描かれたご近所の風景だ。ここまでが夏の情景で、北斎は汗みどろになりながら山また山を越えてきたのだろう。
山満多山「江戸川の蛍」.jpg
 次に、第2集の「目白観月」を観てみよう。おそらく、椿山(目白山)Click!の丘上か中腹あたりに建っていた家の物干し台から、ふたりの女とひとりの子どもが中秋の名月を眺めている絵だ。右手の斜面下に見えている屋根が、どうやら寺院らしいかたちをしているので、目白坂の中途に建立されていた新長谷寺Click!目白不動堂Click!なのかもしれない。椿山に限らず目白崖線は、南側が急峻な崖地になっている地形が多いので遮るものがなく、江戸市街地まで見わたせる最高のロケーションClick!だったろう。
 鳥の名の目白ときゝて秋の夜の よくもさしたるもち月の影
山満多山「目白観月」.jpg
 同じく第2集には、「早稲田関口」が収録されている。大洗堰の上流、神田上水の南側に拡がる早稲田田圃Click!の情景を写したものだ。ふたりの商家の女に、見世の小僧がひとり付き添っている。女たちを追い抜いた鍬をかつぐ若い農夫が、「姉ちゃんよう、きれいだなぁ、どっからきた?」とでも声をかけたのか、女たちはクスクス笑っているようだ。あるいは、「よう、姉ちゃんよう、そこに肥溜あんべ」とかいって、「あれ、くさっ!」と急いで鼻を押さえているのかもしれない。さらには、手鼻をチーンとかんだ品のない農夫に、女たちが「あれま、ちょいと、やだよう」と呆れているの図だろうか……。とにかく、稲刈りも済んだ秋の穏やかな早稲田田圃の風景だ。
 田の面は碁盤とみゑて関口に 中手おくてもかけて干らん
山満多山「関口土手」.jpg
 次に第3集に収録の、「雑司ヶ谷鬼子母神」から観ていこう。鬼子母神(きしもじん)Click!の境内に置かれた石の仁王像を、男が立ちどまってジッと見つめている。うしろには、参詣にきたのだろう若い娘がふたり、背後から男の様子を眺めている。右側の娘は、なぜか右手を頭に添えている。「ねえ、あの男さ、なにかブツブツ仁王様と話してるよ」「おつむが、いかれちまってんじゃないのかい」「まだ若いだろうにさ、かあいそうにねえ」……とかなんとか、娘たちの会話が聞こえてきそうだけれど、またオバカ物語になるといけないのでこれっきり。描かれている境内の樹木は、ケヤキではなくスギだろうか。
 会式はといへば落葉の錦をも 重ねてみせる雑司ヶ谷道
 「会式」とは、池上本門寺で行われる御会式のことで、晩秋になると池上から雑司ヶ谷まで、団扇太鼓をもった信者たちの万灯練行列Click!が明け方までつづいた。この行列Click!は、昭和初期まで行われていたが、市街化とともに騒音の苦情が増えて中止されている。また、ここで書かれた「雑司ヶ谷道」は、目白崖線の下を通る落合地域の雑司ヶ谷道Click!(新井薬師道)ではなく、江戸の市街地方面から南北に貫く旧・鎌倉街道のことだ。
山満多山「雑司ヶ谷鬼子母神」.jpg
 最後に、真冬の風景を描いた「諏訪の池」を観てみよう。あたりはすっかり冬景色になり、池には氷が張っている。船頭が漕ぎだす池の小舟に乗った3人の女が、氷の砕ける様子を見物して遊んでいる。小さな堂とアカマツがある池畔は、諏訪村(現・高田馬場1丁目の一部)に建立された諏訪社Click!や玄国寺近くの溜池のひとつだろう。添えられた狂歌に「神の恵み」とあるので、諏訪社の北側にあった溜池なのかもしれない。
 みすゞかる諏訪の氷はうすからぬ 神の恵みの厚きみわたり
 信州諏訪湖の“御神渡り”とかけた歌だが、女の投げた石ぐらいでは割れない氷も、池に舟を浮かべた時点でこなごなに砕けただろう。いまでも、厳寒の季節になると下落合の池には氷が張るが、子どもが突っつけば簡単に割れてしまうほど薄い。
山満多山「諏訪の池」.jpg
 さて、葛飾北斎は夏の暑い盛りに目白山界隈を描かされ、涼しくなってからのスケッチはかなり楽だったものの、真冬になってからの写生には山の寒さに震えあがって、再びヒーヒーいいながらやってきたのではないだろうか。『山満多山』を企画し、「さて、じゃ、中島さん、冬の三集も頼みましたよ」と仕事をだしてくれた蔦屋重三郎は、北斎にしてみれば「鬼満多鬼っ!」のクライアントに見えていたのかもしれない。

◆写真上:おそらく北斎も立ち寄っているとみられる、駒塚橋上から眺めた関口芭蕉庵Click!西の胸衝坂(胸突坂)をはさんで隣接する神田上水の水神社(すいじんしゃ)。
◆写真下からへ、『山満多山』(蔦屋/1804年)の第3集表紙裏、第1集に収録された「高田馬場」「小石川関口の瀧」「江戸川の蛍」、第2集に収録された「目白観月」「早稲田関口」、第3集に収録された「雑司ヶ谷鬼子母神」「諏訪の池」。

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