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下落合を描いた画家たち・鳥居敏文。 [気になる下落合]

鳥居敏文「下落合駅」19470831.jpg
 鳥居敏文は1931年(昭和6)に、東京外国語学校(現・東京外語大学)のドイツ語科を卒業すると、翌年にはヨーロッパにわたっている。ドイツやオランダ、ソ連、イタリア、ギリシャ、スペイン、イギリスなどを周遊したあと、1932年(昭和7)にはパリに定住している。そして、グランド・ショーミエールClick!の教室で油絵を習い、つづいてパリに滞在中だった林武Click!のアトリエに通って師事している。
 外語学校を卒業したのに、画家をめざした異色の鳥居敏文だが、絵の勉強は早くからはじめていたようで、1925年(大正14)の秋に行われた三科の第2回展に、村山知義Click!松山文雄Click!柳瀬正夢Click!矢部友衛Click!岡本唐貴Click!らの名前とともに、鳥居敏文の名前を見つけることができる。三科へは、故郷が同じ新潟県岩船郡村上町の大先輩だった、矢部友衛に誘われて参加しているとみられる。
 鳥居敏文は、1935年(昭和10)にパリから帰国すると、林武Click!のいる独立美術協会Click!へ接近すると同時に、プロレタリア美術運動にも参画している。前者は、フォービズムやシュルレアリズムが主流の芸術至上主義的な団体だったのに対し、後者はもちろん左翼的なリアリズムが中心なのだが、鳥居敏文は両者の表現を研究することで自身のオリジナリティを獲得し、また同時に広い留学の視野から反戦の意思表示をしようとしたものだろうか。当時としてはめずらしい経歴の画家だが、事実、彼の戦後の作品には、これらの表現が消化され混然一体となったような画面も見られる。
 当時のプロレタリア美術について、1967年(昭和42)に造形社から出版された岡本唐貴・松山文雄『日本プロレタリア美術史』から引用してみよう。
  
 (1930年代出版物の特徴には)いわゆる漫画専門家だけでなく、一般油絵画家の間からも多数参加しているという点にもあらわれている。(中略) 犠牲者救援のための絵葉書集等には、岡本唐貴、高森健三、鳥居敏文、喜入巌、寄本司麟、小野沢亘、竹本賢三、村田悥、新井光子その他の顔ぶれが見える。そしてこれらの人々の作品が、専門漫画家のある形にはまった作品にくらべて、とらわれない自由さがあり、絵画性も強いというわけで、プロレタリア漫画をいちじるしく多彩なものにする役割りをした。(カッコ内引用者註)
  
 鳥居敏文は、1931年(昭和6)11月28日から12月13日まで、上野の東京自治会館で開かれた第4回プロレタリア美術大展覧会Click!に、『通信労働者は立った』という作品を出展している。このあと、特高Click!から徹底した弾圧を受けたことは想像に難くないが、この間の事情は本人もあまり語りたがらなかったのか具体的な記録が見あたらない。
 ただし、戦後になると「美術家平和会議」の結成に参画して平和美術展へ毎年出品したり、「『九条の会』アピールを広げる美術の会」などへ加わるなど、反戦・平和運動へ積極的に参加しているのを見ると、思想的には昭和初期からそれほど大きくは変わっていないのではないかと思われる。それは、5年間にわたってヨーロッパ各地をめぐり留学していた広い見分や、当地での経験などから得られた視座なのだろう。戦後の広範にわたる活躍は、画集や図録などを参照していただきたい。
 その後、1937年(昭和12)に開かれた独立美術協会の第7回展へ、『ロバに乗る少年』を出品して入選。以降、独立展には毎年入選する常連となり、翌1938年(昭和13)には独立展の出品者が4人集まり、「惟軌会」を結成して展覧会を開いている。戦争をはさみ、敗戦直後の1946年(昭和21)には、独立美術協会の会員に推挙されている。
 1942年(昭和17)の時点で、鳥居敏文のアトリエは豊島区長崎1丁目1番地にあった。椎名町駅Click!から、線路沿いに東へ300mほど歩いた区画だ。谷端川沿いの台形のようなかたちをしたこの地番は、二度にわたる山手大空襲Click!からも焼け残っている。東側を谷端川に、北側を空き地に、南側を武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)に、西側を緑の多い屋敷林に囲まれていたおかげで、奇跡的に延焼をまぬがれたのだろう。おそらく鳥居敏文は、この長崎1丁目1番地のアトリエから下落合にやってきているのだろう。
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楢原健三・鳥居敏文展1996.jpg 日本プロレタリア美術史1963.jpg
 1947年(昭和22)、毎日新聞社の主催で美術団体連合展へ出品したこの年に、鳥居敏文のスケッチブックには西武新宿線Click!下落合駅Click!が描かれている。(冒頭写真) また、このスケッチブックの同じ綴じの反対側には、同日に描かれた野方駅が描かれている。長崎のアトリエから、なぜ下落合駅や野方駅へ出かけているのかは不明だが、独立美術協会に所属する画友のアトリエを訪ねているのかもしれない。
 あるいは、同年に発表されている『駅の人々』(1947年)から推察すると、駅へ集う群像を描きに周辺の駅をスケッチしてまわっていたとも考えられる。鳥居敏文の作品には、駅や鉄道とそれを利用する人々を描いた作品が何点かあり、同作のほか満州旅行の際に駅の構内で写生したとみられる『家族の旅』(1943年)や、列車に乗って職場に向かう『鉱山の娘達』(1943年)などがある。この時期、鉄道駅に集まる人々の群像に惹かれ、モチーフを求めて近くの駅を訪ね歩いていたものだろうか。
 1947年(昭和22)8月31日に描かれた、『下落合駅』の画面を詳しく観てみよう。空襲で焼けた敗戦直後なので、改札口を覆う建物は再築されているが駅舎はまだ存在せず、切符売り場の背後にはバラックのような仮駅舎が見えている。駅名表示には、「西武電車/下落合駅」と書かれ、占領下なので「SHIMOOCHIAI STATION」と英語が併記されている。
 右手には、「たばこ」の看板が下がる売店があり、駅の手前には郵便ポストが設置されている。ちなみに、この郵便ポストは1960年代までこの位置にあり、右手の売店横へと移動するのは1970年代に入ってからのことだ。駅の上には、目白変電所Click!へとつづく旧・東京電燈谷村線Click!高圧線鉄塔Click!が見えており、画面にはそこから分かれて下落合駅の南に設置された変電所Click!へと向かう電力ケーブルが描かれている。
 鳥居敏文は、現在の大きな「牛」Click!のいる「加勢牧場」の店先あたりから、南東側を向いてスケッチしていることになる。ポストの背後に描かれた、上部が太くて下部が細い独特なデザインの柱は、1960年代までは残っていたのが写真で確認できるが、1970年代には同じような形状だがもう少し厚みの薄い柱に改修されているようだ。また、画面では切符売り場の窓口が東側で、改札口が南側に配置されているが、1980年(昭和55)前後に跨線橋が建設されてから、切符売り場が南側になり上り線ホームおよび跨線橋の階段へとつづくスロープが設置されたように記憶している。
 画面には人物が4人ほど描かれているが、ふたりは切符を買っている男性と女性のようで、ひとりが駅員のいる改札を抜けていく様子がとらえられている。電車は描かれていないが、この時期の西武新宿線は2~3両の編成の車両Click!が運行していたのだろう。『下落合駅』が描かれたのと同年、1947年(昭和22)の空中写真を眺めてみると、駅の北側の下落合側は住宅街がほぼそのまま焼け残っているが、南側の戸塚地域と上落合地域はいまだ一面の焼け野原が拡がっているような風景だった。
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西武鉄道モハ311形(昭和20年代).jpg
鳥居敏文「下落合駅」部分.jpg
 同じ8月31日にスケッチされた『野方駅』のほうには、子どもたちを含めた6人の人物が描かれており、しかも野方駅とその周辺の住宅街は空襲を受けていないため、駅舎も含め戦前からつづく風景がそのまま残ったせいか、殺伐とした『下落合駅』に比べ人物たちが心なしか生きいきと描かれている。ただ、両駅とも鳥居博文のモチーフとしては物足りなく感じたものか、これらのスケッチがタブローに仕上げられることはなかったようだ。同年に制作された『駅の人々』(1947年)には、どこの駅だろうかもっと広い構内が描かれ、大きな荷物をもって地方へ移動する、あるいは買い出しに出かける人々や、いまだ戦時中の防空頭巾Click!をかぶった少女などが描かれている。
 戦後、『日本プロレタリア美術史』を刊行するにあたり、岡本唐貴からアンケートを受けとった鳥居敏文は、次のような回答を寄せている。同書より、引用してみよう。
  
 小生の場合は、矢部友衛氏が郷里の先輩であったということで、いつの間にかその運動に加わったという形です。自主性は余りなかったように思います。/漫画(?)のようなものを時に描きました。/走り使いのようなことをしました。プリントを切ったり、ニュースや機関誌、美術新聞の編集をしたり、小さな論文(?)のまねごとのようなものを書いたり、翻訳を少々やりました。その他海外からの通信、連絡をとりました。/今から考えると、政治的偏向が強すぎたように思います。大きい意味の政治性よりも、その時々の運動に引きまわされすぎたように思います(佐野学をもちあげたり、大山郁夫をひどくやっつけたり、そういった誤りが沢山あったように思います) 前衛党の行き方ばかりにこだわって、その底をなす大きな国民感情の上に立って運動をすすめなかったのではないでしょうか。
  
 おそらく、このような感慨は同書が出版された1967年(昭和42)時点のものではなく、戦前にプロレタリア美術運動から離脱して、独立美術協会に専念するようになったころからのものだろう。『下落合駅』が描かれたのと同年に、権力や資本から美術の独立をめざして制作する日本アンデパンダン展へ出品し、1952年(昭和27)には美術家平和会議の結成に参画して平和美術展へ作品を出展しているのを見ても、戦前からの彼ならではの思想性や世界観、社会観が継承されていることをうかがわせる。
 1991年(平成3)に出版された『鳥居敏文画集』(鳥居敏文画集刊行会)で、林紀一郎は「鳥居敏文の絵画-寓意と象徴の意味するもの-」と題して次のように書いている。
  
 芸術家と称する種族の中には、自分以外の世界の激動など全く無関心で、アトリエに籠り、自己顕示を満たす制作のみに専念する者も少なくない。鳥居敏文は、そうした傾向の中にあって、つねに世界の今日的な変革や社会の現実相に画家としてだけでなく、あくまで一人の人間としての眼差しを向け、芸術とヒューマニズムの問題意識を強くしてきた画家の一人である。
  
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 昭和初期にパリからもどった鳥居敏文は、出発点からこのような眼差しをもつ画家だったように感じるが、破滅的な戦争をへた1945年(昭和20)8月の敗戦後、反戦・平和をテーマにその思想性がますます強固になっていった経緯を、のちのあまたの作品群に見ることができる。ちなみに、鳥居敏文は1956年(昭和41)にアトリエを練馬区南田中1058番地へと移し、つづいて石神井公園近くの同区石神井町1丁目13番地にアトリエを建設している。

◆写真上:1947年(昭和22)8月31日に描かれた鳥居敏文のスケッチ『下落合駅』。スケッチブックには同日の『野方駅』もあるので、機会があったら取りあげたい。
◆写真中上は、『下落合駅』が描かれたのと同年の空中写真に写る下落合駅で、ちょうど上下線のプラットホームには2両編成の電車が停車している。中上は、現在の下落合駅から「牛」のいる画家の描画ポイントあたりを眺めたところ。中下は、1960年(昭和35)前後に撮影された下落合駅。駅のプレートや柱、ポストなどは『下落合駅』の画面当時のままだが、新たにオレンジ色の瓦を葺いた三角屋根の駅舎が建設されている。下左は、1996年(平成8)に練馬区立美術館で開かれた「楢原健三・鳥居敏文展」図録。下右は、1967年(昭和42)に出版された岡本唐貴・松山文雄『日本プロレタリア美術史』(造形社)。
◆写真中下は、1960年代とみられる下落合駅の切符売り場。中上は、1974年(昭和49)撮影のわたしも利用した下落合駅。中下は、1950年(昭和25)前後に撮影された西武新宿線のモハ311形車両。は、『下落合駅』画面の部分拡大。
◆写真下は、1943年(昭和18)に旅先の満州で描かれた鳥居敏文『家族の旅』。中上は、スケッチ『下落合駅』と同年の1947年(昭和22)に制作された同『駅の人々』。中下は、1960年(昭和35)制作の同『牛と男(A)』。は、1990年(平成2)ごろの鳥居敏文。

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pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。下落合駅のスケッチはよく特徴を捉えた作品ですね。駅舎を描いた画家と言えば、松本竣介の水道橋の駅を描いた特徴的なブルーが印象的な油彩が好きですね。一見、無機質で殺風景にしか見えない駅舎をあんなに詩情豊かに描けるのは、やはり画家の感性と才能によるものではないかと思うしだいです。
by pinkich (2022-03-26 15:15) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
鳥居敏文のスケッチブックには、ほかに人物像などもあるのですが、モチーフをとらえる筆が的確でデッサンのしっかりした、非常にオーソドックスな描き方をしています。とてもマジメで、几帳面な性格の方だったように感じます。
そういえば、松本竣介も駅そのものや駅の付近をよく書いてますね。鳥居敏文による駅舎も、スケッチではなくタブローで見てみたいですが、松本のブルーに対して鳥居は茶系の色を多用しそうな気がします。もっとも、「下落合駅」は敗戦直後ですので、どうしても「焼け跡色」のイメージから茶系が選ばれてしまいそうですが。
by ChinchikoPapa (2022-03-26 17:49) 

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