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大正末に連続した高田町の大火。 [気になるエトセトラ]

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 落合地域とその周辺域で、火災事件の史料を調べていると二度にわたる山手空襲Click!関東大震災Click!、落合第二小学校の失火による校舎焼失Click!、ピクニックにやってきたハイカーたちの火の不始末による西坂・徳川邸Click!周辺の草木火災Click!相馬孟胤邸Click!神楽殿炎上事件Click!などが印象に残る。戦争や大地震による大規模な火災はともかく、なにごともない平常時に町内の一画がすべて延焼してしまうような大火事は、少なくとも落合地域では確認できない。
 ところが、下落合の北東側に隣接している豊島郡高田町Click!では、地域全体が焼失してしまう大火事が連続して二度、大正末に記録されている。この大火事については、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)の記述で読んでいたはずだが、それほど印象には残らなかった。それが、想像以上の大きな火事だったのに改めて気づいたのは、まったく地域ちがいの資料に高田町大火について触れている記録を、何度か目にしてからだ。同大火は、どうやら東京市街の各地から遠望されていたようだ。
 特に、1926年(大正15)3月15日夜間の火災はことさら大きかったらしく、わたしがまったく地域の異なる浅草や向島の地域資料に目をとおしていたときにも、高田町大火の記述を見つけて驚いた。その記述では、著者が眺めていたのは麻布区(現・港区)の永坂町からだったが、郊外の高田町とは8km近くも離れている。それが麻布区からはっきり視認できるほど、ひとつの町内域が全焼してしまうほどの大火だったようだ。
 この大火を眺めていたのは、もともと向島の長命寺桜餅Click!言問団子Click!の少し北側、大学対抗レガッタのゴール近くに建っていた、大倉喜八郎Click!の別邸に住んだ息子の大倉雄二だ。大火の当時は、向島から麻布へ一時的に転居して住んでいたことから、たまたま目撃することになった。1985年(昭和60)に文藝春秋から出版された大倉雄二『逆光家族―父・大倉喜八郎と私―』から、麻布時代の証言の一部を引用してみよう。
  
 永坂上という芝、赤羽から品川の方まで見渡せる場所がら、そのころ多かった仮建築の火災をいくつか見ていたのだろう。ある寒い夜、北の空がほんのり小さく紅く、それがだんだん拡がって来ると暗い坂の下から野次馬が登って来て騒いでいる。/間もなく町会の老人が火事を知らせる太鼓を打ちながら、「火事は巣鴨」とわざわざ闇を選んでくぐもった声で触れて歩き、濃い闇の中へ消えてゆく。そのころの新聞を調べてみると、豊島郡高田町(当時巣鴨に接していた)で六百戸焼ける大火の記事が見えている。それならば大正十五年三月ということになるはずである。だから寒いと云っても外に出て見ていることが出来たのであろう。
  
 文中の「仮建築」とは、関東大震災で倒壊あるいは延焼してしまった建物のうち、本格的な復興建築を建てる前に、過渡的な用途として建設された建物=バラック建築のことだ。このときの大火では、豊島郡高田町(大字)雑司ヶ谷(字)水久保(のち日出町2丁目)の一帯を焼きつくしており、焼失家屋は600戸以上で罹災者は2,000人を超えていた。しかし、幸運にも死傷者はでておらず、罹災者は近くの高田第四尋常小学校へ避難している。
 1978年(昭和53)に豊島区立図書館から発行された『豊島の歳時記』(豊島区郷土シリーズ/第3集)によれば、1926年(大正15)3月15日の夜間に雑司ヶ谷水久保地域から出火し、最終的に鎮火したのは翌16日の昼ごろになってからのことだった。したがって、翌朝になってからも麻布の永坂町にある坂上からは、高田町方面から上がる濃い煙が見えていたのではないだろうか。この大火を契機として、高田町では消防車両としてポンプ自動車を消防第一部に配置し、消火用の貯水池を新たにいくつか町内に設置している。
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 だが、上記の高田町雑司ヶ谷水久保で起きた大火は二度めであり、前々年の1924年(大正13)3月26日にも同じような大火が発生している。1933年(昭和8)の『高田町史』(高田町教育会)から、火災の様子を引用してみよう。ただし、『高田町史』Click!では二度めの火災と消防ポンプ車の配置の年度を1年ズレて誤記しており、『豊島の歳時記』(豊島区立図書館)や大倉雄二(『逆光家族』)の記憶と当時の新聞記事、あるいはのちに高田町町長へ就任する海老澤了之介Click!の記憶のほうが正しいと思われる。
  
 同十三年(大正13年)一月十七日、警視庁令丙第五号を以て、組織を部制に改められたので、従来の公設消防組を第一部とし、更に私設消防組砂楽連を第二部、保久会消防部を第三部、高田町青年団第六分団消防部を第四部とし、定員百五十四名となつた。折りから同年三月二十六日、水久保二百三番地の火災にて六百三十四戸を焼失し、其の損害七十九万四百円に及び、翌年(ママ:翌々年)三月同地に六百余戸の火災あり引続き火災多き故、施設の完全を期するの必要を痛感し、大正十四年(ママ:大正15年)十二月、第一部に自動車ポンプを備へ且貯水池数ケ所新設 (カッコ内引用者註)
  
 この記述によれば、1926年(大正15)の大火よりも、2年前の1924年(大正13)のほうが規模や被害が大きかったような印象を受ける。二度の大火とも3月に起きているのは、春先に多い強風が吹いていたせいで、新設の消防部隊が消火に手間どったものだろうか。春先は、西南から吹きつける風が多いので、ひょっとすると水久保から水久保新田(のち日出町1丁目)のほうまで延焼しているのかもしれない。
 水久保地域には大地主が数人おり、お互いが競いあうように棟割長屋を建てては住民に貸していた。関東大震災の被害で、家を失った市街地の住民が大挙して東京郊外へ押し寄せており、高田町も新住民の急増で住宅不足が深刻だった。そのニーズに目をつけた地主たちが、数多くの棟割長屋を建てては低賃料で貸しだしていた。
 棟割長屋同士の間隔は、わずか1~2mほどの路地空間しか設けず、できるだけ多くの家族を収容できるよう密に設計した建築だった。だから、ひとたび出火すればすぐに隣りの棟へと燃え移るような環境で、またたく間に大火となったものだろう。
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 水久保地域に多かった棟割長屋について、1954年(昭和29)に出版された海老澤了之介『追憶』(私家版/非売品)から引用してみよう。
  
 水久保一帯は小さな、余り上等でない長屋が沢山立ち(ママ:建ち)並んで居た。この長屋を人々は呼んで、汽車長屋と云つた。間口二間位の家が、一棟五戸七戸続いて居つて、丁度汽車がつながつて居る様に見える。又人呼んで烏長屋とも云つた。屋根は古トタンで、その上にコールター(ママ:コールタール)が塗られてある。見るからに真つ黒であるから、烏長屋と云はれたのであらう。この町の開発者は木村栄太郎氏で、氏はどこからか古家を買つて来ては長屋を作る。こうして幾十幾百の長屋を所有した。西巣鴨の原定良君等もこうした長屋を所有して居た。(カッコ内引用者註)
  
 また、同地域は「久保」Click!という地名が示すとおり谷状の地形をしており、1913年(大正2)と1919年(大正8)の二度にわたり、大雨による床上浸水や洪水の被害にもみまわれている。海老澤了之介の記憶によれば、上記の洪水被害のときは水久保地域に舟を浮かべて、高田町役場が用意した炊きだしの握り飯を各戸に配ったという。
 このような街並みだったので、1軒が火をだせばたちまち街全体に拡がり、ひとたまりもなかったのだろう。現在の地下鉄や高速道路が走り、サンシャインシティの南側に展開する豊島区役所をはじめ高層ビルが林立する同地域(現・東池袋)の風情からは、まったく想像もできない当時の光景だ。ただ、丹念に街を歩いていると、昔の細い路地が残り大谷石の築垣や階段、古い黒ずんだコンクリートの縁石や塀を発見することができるが、洪水や大火の痕跡はもはやどこにも存在しない。
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 目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!は、高田町雑司ヶ谷の水久保245番地に自邸Click!があった。ときどき、同僚の英語教師で親しかった金田一京助Click!を誘い、雑司ヶ谷墓地Click!を抜けて水久保の家までいっしょに帰っている。清水七太郎が日記を残していれば、大正末の二度にわたる大火について、なにか書き残している可能性が高い。ひょっとすると、雑司ヶ谷墓地が近かった自邸も、なんらかの被害を受けているのかもしれない。

◆写真上:東池袋に残る、昭和初期ごろと思われる狭い路地のひとつ。
◆写真中上は、1921年(大正10)と1932年(昭和7)の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷水久保地域。後者の地形図は、豊島区の成立とともに町名変更が行われている最中のもの。は、同地域に残る大谷石の古い築垣と階段。
◆写真中下上左は、1985年(昭和60)に出版された大倉雄二『逆光家族―父・大倉喜八郎と私―』(文藝春秋)。上右は、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)。は、清水七太郎の旧邸跡(旧・水久保245番地)あたりから眺めた水久保地域の現状。は、首都高速道路や都電、地下鉄などが走る現在の同地域。
◆写真下は、同地域に建つ豊島区役所(としまエコミューゼタウン)が入ったブリリアタワー池袋。は、1924年(大正13)3月26日の大火で火元となった水久保203番地の現状。は、水久保203番地の跡地へ立とうとすると高層ビルの谷間になってしまう。

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読んだ! 23

コメント 2

pinkich

papaさん いつも楽しみに拝見しております。高田町の昔の大火の記事興味深く拝見しました。高田町といえば、乳房榎ゆかりの弘法大師のお寺(南蔵院?)から池袋方面に抜ける急勾配の登り坂にいつも辟易しております。それにしても、papaさんは落合地域以外の町の資料も読み漁っておられるようで、博識ですね。
by pinkich (2023-01-20 21:07) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
南蔵院の筋から登る坂は、いまの宿坂ですね。もともと江戸期には血洗池の東側、学習院のキャンパス内にあったといわれていますが、どちらの坂も急峻な坂道で息切れしそうですね。
ぜんぜん関係のない地域を調べていますと、唐突に落合やその周辺の地域の事蹟やエピソードにぶつかることがあります。今回も、浅草・向島界隈の資料を参照していたら、急に麻布から望見する高田大火の情景が描かれていてビックリしました。
by ChinchikoPapa (2023-01-20 21:36) 

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