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タイは序の口の魚通・食通がたくさんいた。 [気になるエトセトラ]

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 太平洋が目の前にある海街Click!で育つと、日々のおかずにイヤでも魚が多くなる。これは昔の江戸東京や横浜でも事情はまったく同じで、海の魚にはめっぽううるさいことをいう、いわゆる「魚好き」「魚通」と呼ばれる食通たちが身近には大勢いた。
 いつだったか、日本橋浜町育ちの曾宮一念Click!「ダメだな」Click!といってほとんど箸をつけなかった料理は、別に彼がことさら神経質なわけではなく“食いもん”、特に魚にはうるさかったからだろう。いまでも新鮮な魚がふんだんに手に入る太平洋や日本海の海辺には、「きのうの魚なんぞ食えるか」……という人たちがいるにちがいない。
 わたしは、子どものころから相模湾で獲れるアジ(特にムロアジ)やサバ(三浦沖の金サバ=いまでは別のブランド名?)が好きだった。それを刺身にしたり、一夜干しにして食べると潮の香りが強くうま味が増し、身体が海と直接つながって一体化しているような風味に魅了された。たまにタイなどを食べると、あまりにも淡泊かつ頼りなさすぎて、物足りなく感じて箸が止まった。いまでも、正月や祝いごとなどに出されるタイの塩焼きや刺し身は、進んで食べようという気が起こらない。そう、この江戸東京地方とその周辺域では、昔からタイのプライオリティは思いのほか低いのだ。
 子どものころ、いつだったか母方の祖父Click!が家に遊びにきていて、海岸で地曳きClick!を手伝ったりしていたころだから、わたしが小学校の低学年ぐらいのときだろうか、祖父から「魚では、なにが好きなんだい?」と訊ねられたことがあった。わたしは、常日ごろから食べ慣れているありきたりな、いつもの魚名を挙げるのはなんとなく恥ずかしく、「な~んだ」と軽んじられそうな気がしたので、思いきって気どりながら祝い魚の「タイ」と答えたら、「な~んだ、まだ魚の序の口(初心者)だな」とバカにされた。
 そうなのだ、ほんとうに魚の味を識る魚好きや魚通・食通の前で「タイが好き」などと答えたら、この地方では話の接ぎ穂がなくなってしまうほどに情けないことなのだと知ったのは、祖父が死んでしばらくしてからのことだ。祖父の先代は、明治維新のときに食いっぱぐれた絵師だったようで、横浜にきては輸出用のなにかに絵付けをしては糊口をしのいでいたような人物らしいので、横浜でも子安の浜に上がる新鮮な太平洋の魚に馴染んでいたのだろう。その息子である祖父もまた、魚にはめっぽううるさかったとみえる。
 なにかの会合で、わたしは親父とその友人たち(親戚だったかも)に連れられて、東京の寿司屋(たぶん日本橋)に入ったことがある。「なに食べる?」と親父に訊かれたので、わたしは食べ慣れている「アジ」と答えたら、親父の友人(だか親戚)のヲジサンに、「おや、通だね」といわれた。わたしが不思議そうな顔をしたのか、そのヲジサンは「魚では青身がいちばん美味いよな」といいながら、「オレはコハダ」と注文していた。
 な~んだ、いつも目の前の海で獲れて、母親に「歯が丈夫になるから」などと毎日いわれながら食べさせられつづけている、そのころはちょっと食傷気味な魚を好きだと答えるのが「序の口」ではないってことなんだと、そのとき初めて知ったしだいだ。母方の祖父にしてみれば、魚好きや魚通が垂涎の黒潮流れる相模湾沖で獲れる、新鮮な青身のアジやサバ、スズキ、カツオ、イワシ、カンパチ、ブリ、コハダなどを目の前にして、「この子は、いったいなにいってんだい?」という感覚だったのだろう。
 江戸東京に、こんな小咄(こばなし)がある。おそらく落語『芝浜』Click!のバリエーションではないかと思われるが、長屋の熊さんが芝沖(現・港区の沖)へ釣りにいって、カネのいっぱい詰まった財布を釣りあげ、意気揚々と長屋に帰ってくる。それを見た隣りの八つぁんも、芝沖に舟を出して釣り糸をたれるが、針にかかったのは大きなタイだった。八つぁんは腹を立てて「ええい、忌々(いめいめ)しい、てめえじゃねえやな!」と怒鳴るとタイを海へ放り投げ、それを見ていた船頭が呆気にとられる……というような下らない噺だ。
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 ここでは、カネの詰まった財布がめあての八つぁんなので、大きなタイが釣れても惜しげもなく棄ててしまうところが面白いのだろうが、もうひとつ、江戸東京では祝いごとなどには欠かせない魚のタイではあるものの、それほど食通や魚通には、ことさら魅力的に映らない魚だったという地域的な趣味(食文化)も、小咄の裏には“隠し味”として添えられているような気がするのだ。タイは棄てても、おそらくこれがカツオやカンパチ、ブリなどが釣れていたら、棄てないで取っといたのかもしんねえなぁ?……と、ちょっと思わせるところにも、この江戸小咄の仕掛けや面白さがあるようだ。
 薩長軍と戦うために、わざわざ江戸から函館まで出かけていった家庭の息子である子母澤寛Click!は、その著書『味覚極楽』Click!でこんなことを書いている。1977年(昭和52)に20年ぶりに復刻・出版された、新評社版の「キザはごめん」から引用してみよう。
  
 小笠原壱岐守長行(長生翁の父君)という大名はいわしだの、鯖だのが大好物で、ある屋敷で招待して、わざわざ本場から取り寄せた鯛の見事な料理を出したら「これは大名の食うものだ。御馳走するならもっとうまいものを食わせよ」といって箸をつけなかったという話がある。御老中にもこんなのがいたが、柳沢さん<柳沢保恵>はこれに比べると味覚の方は本来あくが少し強かったのかも知れない。/ところが驚きました。この大名好みが今日もなお東京にある。あるところで、さしみを注文した。こっちはたった二人というのに、直径一尺七、八分<50cm前後>もあろうかという大皿(図は忘れました)の真ん中に大きな椿が置いてある。花が一輪ついている。これを中心に程よくさしみを配置する。渦巻のごときあり、そぎ身のごときあり。これがたった二人前だからなんのことはない皿を喰わされているようなものであった。(< >内引用者註)
  
 子母澤寛が自身で注文しているので、ツバキの花が載せられた大皿の刺身は、まずタイではないと思われるのだが、確かにキザ(気障り)で野暮な趣向だ。その料理に驚いて、それっきり「二度と行かない」店になったようだ。
 この一文で面白いのは、江戸住まいが長くなり幕府の老中を勤めるような武家の中にも、魚好きあるいは魚通とみられる食通が登場していたことだろう。しかも、この人物は地元の旗本や御家人ではない。おそらく、小笠原長行は若いころから育った江戸の街中で、太平洋の多彩な魚を食べつけていたのだろう、タイを美味い「御馳走」だとは考えていないのは、ひょっとするとタイを棄てた八つぁんと、同じ味覚をしていたのかもしれない。
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 太平洋(あるいは黒潮・親潮)と直接つながるような青身の魚を、わたしはいまでも大好きだが、特にムロアジ派のわたしとしては困ったことに、マアジなどに比べて値段がウナギClick!と同様に天井知らずClick!なことだ。東京にある魚屋の店頭に並ぶことなどまずないし、相模湾の地元へ遊びにいっても40cm前後の一夜干しの開きに、5,000円近くの値札がついているのでのけぞってしまう。週に数日、うんざりするほど食べさせられていたムロアジは、いつからこんな高級魚になってしまったのだろうか?
 同じ海街に住みながら、魚が大キライで匂いを嗅いだだけでムカムカするという人物もいた。つづけて、子母澤寛の『味覚道楽』から引用してみよう。
  
 魚を食った奴が、そばへ来ると、わしは胸がむかむかしてくる。煙草をのんだ奴も困るし、酒をのんだ奴も困る。魚を食った奴は、同じ部屋へ入ってくるとすぐにおうもんじゃ。先年病気をして清川病院というところへ入院した。院長が洋行した男でハイカラじゃから、どうしても病気のために牛乳をのめの魚を食えのというんじゃ。食えといって食えるもんか。わしゃ閉口してとうとうそっとその病院を逃げ出して寺へ帰って寝ておった。/わしは白いコメの粥を、梅干しをお菜にして、ふうふういって食べるのがうまい。うまい、うまいというもんじゃから、よく俗家の人達が「梅びしお」(ママ:梅びしょ)をこしらえて持ってきてくれる。あれは砂糖がはいるとうまくないが、生のままのやつを、お粥の上へ少しばかりとろりとかけて食べるのは格別だな。(カッコ内引用者註)
  
 話しているのは、鎌倉の円覚寺管長だった古川堯道だ。いまの堕落した生臭坊主Click!に、聞かせてやりたい仏教とはなにかの話をしているが、ふだんから重病人食Click!である白米の粥ばかり食べているのはいかがなものだろう。魚や肉は、殺生を禁ずる仏教の宗旨からして論外としても、せめてタンパク質の摂れる玄米Click!にゴマ塩ぐらいかけて食べていたら、いまでもある鎌倉の清川病院へ入院するほどの病気にはならずに済んだかもしれない。
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 売れない書家・画家だった祖父は、わたしが中学2年の正月Click!に死んだが、いま「魚では、なにが好きなんだい?」と訊かれて「ムロアジ!」と答えたら、少しは褒めてくれるだろうか? 「アジか、まだ小結だな」とでもいいかねないほど口が奢っていた人だった。

◆写真上:熊さんが財布を釣り、八つぁんがタイを釣って棄てた芝沖の現状。ここで獲れるシバエビ(芝海老)も、かき揚げなどの天ぷらには欠かせなかった。
◆写真中上は、いまや下水道が一部不備な湘南海岸よりも水質がきれいかもしれない品川の海水浴場。は、子どものころから食べつづけたが、いまでも食べたいムロアジの美味な干物。は、芝沖で八つぁんに惜しげもなく棄てられたマダイ。
◆写真中下は、1957年(昭和32)に龍星閣から出版された子母澤寛『味覚極楽』の函()と表紙()。は、幕府老中なのに魚通だったらしい小笠原長行の青年時代()と晩年()。若いころは、江戸の“美味いもん”をあちこち食べ歩いたのだろう。は、休日になると釣り客でごったがえす大磯港の岸壁。相模湾の遠景に平塚沖の潮流観測所と茅ヶ崎沖の烏帽子岩、鵠沼沖の江ノ島、三浦半島などが重なって見える面白いスポット。
◆写真下は、三浦半島が連なる相模湾の東側。は、伊豆半島が連なる相模湾の西側。わたしが昔から好きな魚が、ごまんと棲息している海だ。は、貝もよく採れたという子安の砂浜はさすがに消滅してしまったが、相変わらず健在な横浜の子安浜漁港。子安の浜のアサリ売りは、戦前まで横浜の街では名物だったと母方の祖父からよく聞かされた。

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