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犠牲者が囁きかけてくる言問橋。 [気になるエトセトラ]

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 親父Click!は、わたしが具のほとんど入っていないレトルトカレーを食べていると、心底イヤな顔をしていた。諏訪町Click!に下宿していた学生時代、学校から帰ると賄いとして出されるカレーが、具の入っていないルーだけだったからだ。
 この粉(うどん粉)っぽいルーのみカレーは、配給切符制になった戦時中も、また戦後の食糧難だった時代の下宿でも変わらずにつづいていたらしい。戦災をくぐりぬけた親の世代は、いつかも書いたように花火の音Click!に異常に敏感だったり、上空を大型のプロペラ機が飛んだりすると、ギョッとしたように気にして見あげたりしていたが、食べ物に関わるテーマについてはさらに敏感だった。
 特に、わたしの両親に関していえば、戦中戦後を通じ“代用食”として配給されていた、メリケン粉食品(いわゆる粉料理Click!)とサツマイモClick!には嫌悪感を隠さなかった。もっとも、これらの食品は昔から江戸東京の食文化Click!としても、あまり褒められた“食いもん”でなかったせいもあるのだろう。サツマイモはともかく、わたしがおでんの“ちくわぶ”を喜んで食べるのを見ると、親父が顔をしかめていたのを憶えている。
 連れ合いの義父Click!は、夏にスイカを切っているのを見るのがダメだった。中国戦線での情景を思いだしてしまうのか、あるいは空襲時に負傷者をトラックで下落合の国際聖母病院Click!ピストン輸送Click!する際、頭の割れた遺体でも見かけているのか、パックリ割れたスイカが苦手なのは終生変わらなかった。退役軍人(1941年退役)として、戦争末期には徴用されていた義父もまた、花火の打ちあげ音や大型プロペラ機が上空を飛んでいると、やはり不安げな眼差しであたりを見まわしていたのを思いだす。
 1945年(昭和20)3月10日夜半の東京大空襲Click!で、うちの親父は東日本橋Click!(当時は両国橋の西詰めで西両国Click!)の実家Click!から命からがら東京駅Click!方面へと避難し、義父は翌朝から負傷者を満載した陸軍のトラックを運転して、被災地である(城)下町Click!と下落合とを1日に何度も往復していた。義父は、下落合のわたしの家へ遊びにきて連泊していくと、散歩がてら国際聖母病院Click!の前で立ち止まってはジッと建物を眺めていたが、東京大空襲のあと数日間の惨状を目に浮かべていたのだろう。
 うちの親父は不運としかいいようがなく、高校生(現在の大学教養課程)になってから諏訪町(現・高田馬場1丁目)の下宿で暮らすようになったが、たまたま帰郷していた東日本橋で東京大空襲に遭い、命からがら諏訪町の下宿にもどったところ、今度は同年4月13日夜半Click!5月25日夜半Click!の二度にわたる山手大空襲Click!にも遭遇している。
 親父もそうだが、東京大空襲の3月10日にたまたま(城)下町の実家にもどっていた学生や生徒の数は意外に多い。ちょうど、卒業や学年が変わる時期なので、本来は疎開していたはずの子どもたち、特に高学年の生徒たちがわざわざ卒業式に出席するため、東京の自宅にもどっていたのだ。東京大空襲では、とうに学童疎開Click!していたはずの子どもたちに犠牲者が多いのは、進級や卒業のシーズンと重なっていたためだ。
 先日、隅田川の言問橋の近くを散歩Click!したとき、やはり橋の西詰めにある東京大空襲Click!の慰霊碑へ立ち寄ってしまった。言問橋をわたるとき、この前に立たずにはいられない。1945年(昭和20)3月10日の深夜、本所・向島一帯が火の海になったとき、浅草方面へ逃げようとする膨大な群集が、言問橋を西へわたりはじめた。ところが、浅草も爆撃で大火災が発生していたため、隅田川(浅草川)をわたって本所・向島方面へ避難しようとする群集が、言問橋を東へわたりはじめた。そのとき、橋上の中央付近で群集が衝突し、まったく身動きがとれない状態になった。
 避難する膨大な群集は、言問橋の東西両側から絶えず押し寄せていたため、その圧力は先年の韓国で起きた梨泰院(イテウォン)のハロウィーン事故どころではなかっただろう。このとき、すでに圧死者や負傷者が多数でていたとみられるが、圧力に耐えきれず橋上から隅田川に飛びこんで溺死する人たちも多かったという。言問橋とその周辺が、無数の群集で埋まり身動きがとれなくなったところへ、空襲の大火災で生じた大火流Click!が言問橋を襲った。
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 そのときの様子を、「きかんし」WebサイトClick!に掲載された画家・狩野光男の証言、「川面まで火がなめていく言問橋付近の火焔地獄」から引用してみよう。
  
 隅田川の言問橋のところまで逃げてきたんですが、あまりにも熱いので川に下りる階段の途中まで逃げました。しかし、火は川面をなめていくんですね。そして、川の中にいる人の顔や上半身を焼いていくんです。/炎は川の中央からひどい時は向こう岸まで届いていました。川の中に後から後から人が飛び込んでくるんですが、先に飛び込んだ人が沈んでしまいます。人が何重にもなって、その上にさらに人が乗っかってしまう。/言問橋の上には、橋から見て向島側の人たちは浅草側に向かって、浅草側の人たちは向島側に向かって逃げてきました。そのため、橋の上でぶつかり合って動けなくなってしまいました。だれかの荷物に火がついて、そこから人に火が移りました。橋の上は大火災になりました。下から見ると橋が燃えているように見えるんですが、鉄の橋なので燃えるはずがありません。人が燃えていたんです。欄干に張りついていた人はみんな亡くなりました。飛び降りた人もいましたが、ほぼ亡くなったそうです。
  
 まだ3月なので川の水温は低く、たちどころに低体温症となって意識を失い、大火流で焼かれる前に溺死した人たちもいただろう。ひとたび川に落ちれば流されるので、いったいどれぐらいの遺体が岸辺に打ちあげられず、東京湾まで流されて沈んでしまったのかは不明だ。言問橋の上で焼死した犠牲者は約1,000人といわれているが、隅田川に落ちて(または入って)焼死あるいは窒息死、溺死して流された犠牲者はカウントされていない。
 いつかも書いたけれど、大火事による大火流Click!が発生すると、一帯の酸素が急激に奪われていく。火災を避けるなら川に浸かって、ときにはもぐって炎を避ければいいと考えがちだが、川面を大火流が舐めただけで、空気中から酸素が一瞬のうちに奪われ窒息してしまった犠牲者も少なくなかったとみられる。また、川面を舐める大火流の熱さを避けているうち、水中で溺死してしまった人も多かっただろう。
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 1928年(昭和3)に竣工した言問橋は、現在でもほぼそのままの姿をしているが、橋の四隅に残るネームプレートが嵌められた親柱は、どれもまだら状に黒ずんでいる。これは、単に大火流に焼かれた跡ではなく、犠牲者の血や脂肪が石材の表面に焼きつけられてしまい、長年の風雨にさらされても落ちないのだと聞いた。同様のケースは、表参道の大灯籠でも聞いている。大灯籠の下に盛りあがって焼かれた犠牲者の脂肪や血が、石材の表面に沁みこんでしまい、何度も繰り返し洗浄しても決して取れないのだとか。こういうものを目にするとき、この土地が前世代からそのまま“地つづき”なのを実感する瞬間だ。
 東京大空襲で両親と妹たちを失った画家・狩野光男は、「大混乱の隅田公園」の中で次のように書いている。同サイトより、再び引用してみよう。
  
 その中を逃げて隅田公園に行ったんですが、家の近所や日本堤などから逃げてきた人が殺到して、いっぱいになってしまいました。隅田公園には高射砲陣地があってふだんは入れなかったんですが、緊急事態ですからみんな入ってしまいました。/周りには木もあるし、このまま助かるのかなと思っていたんですが、そのうち火の手が迫ってきました。火の粉がものすごい勢いで突き刺さってきます。それから急激に酸素がなくなってきて、呼吸が困難になりました。/防空頭巾というのはいいようで、危ないものなんです。布でできているので火の粉がつくと、気づかないうちに燃えてしまうんですね。それが着物に移って燃えだして初めて気がつくんですが、その時はすでに遅く、全身が炎に包まれて、そのまま倒れてしまうか、絶叫して走っていく。そんな状況がだんだん周りで起こってきました。
  
 いつか、「大火事の近くには絶対に近づくな」という、親父の言葉とともにご紹介Click!したことがあったが、大火流が起きるような大規模な火災の場合、酸素が急速に奪われるだけではない。衣服が極端に乾燥するため、わずかな火の粉を浴びただけで、一瞬のうちに全身が火だるまになってしまう事例が数多く見られた。著者は防空頭巾のことを書いているが、現在、学校で用意されている地震などに備えた「防災頭巾」も、防空頭巾からまったく進歩していない、燃えやすい布製のままだ。大震災で大火事が起きなければいいが、起きたときの危険性がそのままなのが、かなり以前から気になっている。
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 少し前にも書いたが、地元の自治体では東京大空襲で犠牲になった市民の遺骨や、行方不明になったとみられる犠牲者の捜索Click!を、21世紀の今日までつづけている。戦後78年がすぎ、10万人をゆうに超えるとされる死者・行方不明者だが、一家全滅や隣り近所の街角全滅、ひどいところでは地域一帯が全滅したり、また上記のように川から東京湾へと消えたままになるなど証言者が見つからず、さらに、東京に住まいをもたない季節労働者だったのでカウントされていない人々が、あと何千人何万人いたのか、いまだに見当がつかない。

◆写真上:1992年(平成4)の修理で、東京大空襲慰霊のために保存された言問橋の縁石。
◆写真中上は、花川戸側の隅田公園から写した言問橋。は、大火流による犠牲者の脂肪や血が沁みこんで黒ずむ親柱。は、昭和初期の意匠が残る同橋西詰め。
◆写真中下は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲直後に米軍の偵察機F13によって撮影された隅田川界隈。は、同年3月10日午前10時35分ごろ同機に撮影された言問橋。いまだ火災はつづいており、高度が高くて見えないが言問橋とその周辺は遺体の山だったはずだ。は、画家・狩野光男が描いた『言問橋の火焔地獄』。手前の岸辺では、防空頭巾に火が点いて逃げまい全身が火だるまになっている人物たちが描かれている。
◆写真下は、川に避難した人々もほとんど助からなかった狩野光男『言問橋の惨状』。は、東京大空襲による膨大な遺体を仮埋葬する右岸の隅田公園とその現状。
おまけ
 東京大空襲ではM69集束焼夷弾に加え、1,000~2,000mの低空から250キロ爆弾やガソリンなどがバラ撒かれた。写真は空襲直後に撮影された250キロ爆弾の不発弾だが、いまだに建設工事現場などで、不燃焼の焼夷弾や爆弾の不発弾が見つかることがある。
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