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陸軍科学研究所の「安達部隊」1933。 [気になる本]

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 昨年(2022年)に、従来は「石井部隊」Click!(偽名「東郷部隊」→関東軍防疫(給水部)Click!731部隊Click!)による人体実験と考えられていた、1933~1934年(昭和8~9)の「満洲」における「四平街試験場」(交通中隊内試験場)での出来事は、同部隊ではなく戸山ヶ原Click!の陸軍科学研究所(久村種樹所長時代)から派遣された、「安達部隊」による毒ガス実験であったことが、ふたりの研究者によってほぼ同時に解明されている。
 ふたりの研究者とは、戦後に731部隊の軌跡を徹底して追いつづけている神奈川大学名誉教授の常石敬一と、戸山ヶ原の陸軍軍医学校跡地で発見された人骨の究明に取り組む元・新宿区議の川村一之だ。前者は、高文研から出版された『731部隊全史-石井機関と軍学官産共同体-』(2022年)で、また後者は不二出版から刊行された『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程-』(2022年)で、期せずしてほぼ同時期に陸軍科学研究所の「安達部隊」へとたどり着いている。
 当時の石井部隊は、さまざまな細菌を収集して細菌兵器化へ向けた人体実験をするための準備と、実際に背蔭河へ「五常研究所」を建設し、偽名の「東郷部隊」として進出する準備とに追われていたはずで、「四平街試験場」に駐屯して人体実験をする必然性が感じられない点が、ふたりの研究者に大きな疑問を抱かせたとみられる。しかも、人体実験が細菌ではなく毒ガスだった点も、ことさら研究者たちの注意を引いたのだろう。
 そこで、この課題に対する調査資料となったのが、関東軍参謀本部の遠藤三郎が書いた日記、いわゆる「遠藤日記」を仔細に検討することだった。遠藤三郎は、11歳から91歳まで日々の出来事を記録しつづけており、日記は93冊(約15,000ページ)にまで及んでいる。ふたりの研究者は、ほぼ同時期に「遠藤日記」の記述に注目していた。
 常石敬一の『731部隊全史』から、日記の部分を含めて少し長いが引用してみよう。
  
 それに紛れ込む形で遠藤が安眠できなかった視察についての記載がある。一九三三年一一月一六日の記録だ。記述中の交通中隊が何かは不明だが、同行した安達の経歴が解明の手がかりとなるかもしれない。/(日記引用)一一月一六日(木)快晴 午前八時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き試験の実情を視察す。/第二班、毒瓦斯、毒液の試験、第一班、電気の試験等にわかれ各〇〇匪賊二(人)につき実験す。/ホスゲンによる五分間の瓦斯室試験のものは肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり、青酸一五ミリグラム注射のものは約二〇分間にて意識を失いたり。/二万ボルト電流による電圧は数回実験せると死に至らず、最後に注射により殺し第二人目は五千ボルト電流による試験をまた数回に及ぶも死に至らず。最後に連続数分間の電流通過により焼死せしむ。/午後一時半の列車にて帰京(満洲の新京)す。夜、塚田大佐と午後一一時半まで話し床につきしも安眠し得ず。(日記引用終わり)/安達と立花は陸軍科学研究所(略)の所員で二部の安達十九工兵大佐と一部の立花章一工兵中佐だ。(カッコ内引用者註)
  
 関東軍参謀の遠藤三郎が安眠できなくなるほどの、それは凄惨な人体実験だった。
 ここで、「ホスゲン」という毒ガスの名称が登場しているが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所Click!ではこの時期、さまざまな毒ガスの研究を行っていたとみられる。濱田煕Click!が描く戸山ヶ原Click!記録画Click!で、林立する煙突に独特な形状のフィルターが設置されていた情景が思い浮かぶ。同研究所では、ホスゲンを「あを剤」と呼称していた。
 ほかに、肺気腫から心不全を引き起こして死にいたらしめる毒ガスのジフェニルクロロアルシンを「あか剤」、皮膚や内臓に紊乱を起こすイペリット(マスタード)を「きい剤」、呼吸困難から窒息死させる青酸物質使用ガスを「ちゃ剤」などと呼んでいた。さらに、肺水腫を起こして窒息させる三塩化砒素(ルイサイト)、さらにマスタードと三塩化砒素を組み合わせたマスタード=ルイサイトなどの研究開発を行っている。これらの毒ガスは、のちに毒ガス工場で大量生産され実際の中国戦線へ投入されることになる。
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 陸軍科学研究所Click!の第二部は、もともと陸軍軍医学校の陸軍軍陣衛生学教室(のち化学兵器研究室併設)Click!からスタートしている。陸軍軍医学校の写真で、いちばん奥に見える4階建ての目立つビルがそれだ。その西側に位置する、731部隊の防疫研究室とは道路をはさんだ隣り同士で、アジア系とみられる大量の人骨が見つかったのは、軍陣衛生学教室の南側に建っていた標本図書室のすぐ東側だった。
 川村一之の『七三一部隊1931-1940』から、化学兵器研究について引用してみよう。
  
 もともと日本の化学兵器研究は小泉親彦が陸軍軍医学校で始め、毒ガスの基礎研究は陸軍科学研究所に引き継いでいる。石井四郎の細菌兵器研究の母体が陸軍軍医学校防疫部であり、後の防疫研究室であったのに対し、毒ガス研究は陸軍軍医学校の衛生学教室で始まり、化学兵器研究室が引き継ぎ、防毒マスクなどの研究を行なっていた。そのように考えると、石井四郎が毒ガス研究に関心を持つとは考えられない。/「日本陸軍省化学実験所満洲派遣隊」の名称から、考えられるのは陸軍科学研究所でしかない。日本の化学戦舞台であった関東軍化学部(第516部隊)が編成されるのはもう少し後のことになる。/このことから、陸軍科学研究所の「安達大佐」をキーマンとして調査することにした。
  
 実は、陸軍科学研究所第二部の大佐・安達十九と、第一部の中佐・立花章一は、すでに拙ブログへ登場している。1932年(昭和7)8月8日に作成された、下落合2080番地にいた久村種樹所長時代の陸軍科学研究所職員表Click!に両名とも掲載されている。
 「四平街試験場」(交通中隊内試験場)について、川村一之は憲兵隊の証言記録からも詳細な“ウラ取り”を行なっている。それによれば、「安達試験場長ら24名」を中心に約60名の部隊が派遣され、多種多様な毒ガス実験が繰り返された。だが、1934年(昭和9)にひとりの被験者が脱走したことで、ジュネーブ議定書違反の毒ガス研究が露見するのを怖れた「安達部隊」は、急いで四平街から撤収している。これは、20名前後の被験者が逃亡した東郷部隊(=石井部隊)の、背蔭河における「五条研究所」の撤収と同様だった。
 「四平街試験場」(交通中隊内試験場)からの「安達部隊」撤収は、いっさいの証拠を隠滅して行われ、留置場に監禁されていた残りの中国人被験者を5,000ボルトの電流で殺害あるいは失神させ、焼却炉に投げこんで焼殺している。この四平街における一連の人体実験と、戸山ヶ原の陸軍科学研究所でつづけられた「安達部隊」による研究開発が、既述のさまざまな毒ガス類を大量生産する大久野島の毒ガスプラント建設へと直結していく。
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早乙女勝元・岡田黎子編「毒ガス島」1994草の根出版会.jpg 岡田黎子「絵で語る子どもたちの太平洋戦争」2022(22世紀アート).jpg
 瀬戸内海に浮かぶ広島県大久野島は、現在では「うさぎ島」として知られており、数多くの野生ウサギ(1,000羽前後)が観光客からエサをもらってよくなつき、ヨーロッパやアジアからのインバウンドにも人気が高いスポットだ。大久野島は、陸軍の毒ガス製造工場が建設されると「地図から消された島」となり、以降、敗戦までルイサイトやマスタード=ルイサイト(「死の露」と呼ばれていた)、イペリットなどを製造していた。ジュネーブ議定書に署名(批准は1970年5月)していた日本は、それに違反する毒ガス製造の島全体を「なかったこと」にしてしまったのだ。ちなみに、陸軍科学研究所も昭和10年代には「地図から消され」、あたかも百人町の住宅街のように描かれている。
 以下の証言は、2017年(平成29)8月15日に放送されたNEWS23(TBS)の「私は毒ガスの“死の露”を造った」より、綾瀬はるかClick!の先年亡くなった藤本安馬へのインタビューによる。同工場には、工員になれば「給料をもらいながら学習ができる」という宣伝文句で、学業資金に困っていた多くの少年たちが集められ、また戦争末期には動員された女学生たちが数多く働いていた。工場の操業は24時間体制で、常時7,000人近い工員が勤務していた。だが、敗戦時までに毒ガスの漏えいなどで死亡した工員はのべ約3,700名、敗戦後も慢性気管支炎などの後遺症に苦しんだ人たちは約3,000名に及んだという。
 また、同工場に女学生として動員された岡田黎子は、友人が次々に身体を壊し死んでいくのを見ながら、毒ガスの詰められたドラム缶の運搬に従事していた。戦後、その体験を1994年(平成6)に草の根出版会から早乙女勝元・岡田黎子編『母と子でみる17/毒ガス島』と、2022年に22世紀アートから出版された岡田黎子『絵で語る子どもたちの太平洋戦争-毒ガス島・ヒロシマ・少国民』として出版している。戦後、生き残った女学生たちは、全員が重度の慢性気管支炎を患っていた。
 番組では、大久野島で造られた毒ガスが中国戦線でどのように使われたのか、中国華北省北勝村での毒ガス弾の使用事例を取材している。同村では日本軍が村まで攻めてきた際、戦闘に巻きこまれないよう女性や子どもを中心に退避する地下壕がいくつか造られていたが、地下壕に次々と投げこまれた毒ガス弾によって約1,000名が死亡している。村の古老が指ししめす、膨大な犠牲者の名前が刻まれた石碑をカメラが追いつつ、いまだに日本への憎悪を抱きつづける古老の表情と言葉をとらえている。
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 少年工員として働いていた藤本安馬は、華北省北勝村に出かけて毒ガス製造に加担してしていたことを告白し、村民へ直接謝罪している。綾瀬はるかに現在の感慨を訊かれると、「毒ガスを造った、中国人を殺した、その事実を曲げることはできません」と答えている。

◆写真上:昭和初期のコンクリート片が随所に散らばる、陸軍科学研究所跡の現状。
◆写真中上は、2022年に出版された常石敬一『731部隊全史-石井機関と軍学官産共同体-』(高文研/)と、川村一之『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程-』(不二出版/)。は、1944年(昭和9)に撮影された戸山ヶ原の陸軍科学研究所。戸山ヶ原の名物だった一本松Click!は伐採され、研究所敷地は北側の上戸塚にある天祖社(旧位置)に迫るほどに拡大している。は、1932年(昭和7)8月8日に作成された陸軍科学研究所職員表。第二部と第一部に、安達十九と立花章一の名前が収録されている。
◆写真中下は、濱田煕の記憶画『戸山ヶ原』(1938年/部分)に描かれた袋状の特殊フィルターが設置された陸軍科学研究所の煙突群。毒ガスなどの開発で使用した器材を焼却する際、有毒な煤煙が住宅街へ流れるのを防ぐためだと思われる。は、1970年代半ばに撮影された旧・陸軍軍医学校の軍陣衛生学教室と防疫研究室の建物。は、1994年(平成6)に出版された早乙女勝元・岡田黎子編『毒ガス島』(草の根出版会/)と、2022年に出版された岡田黎子『絵で語る子どもたちの太平洋戦争』(22世紀アート/)。
◆写真下中上は、大久野島に建設された陸軍毒ガス製造工場。中下は、陸軍が各地で実施した毒ガス戦演習。は、2017年(平成29)8月15日放送のNEWS23(TBS)「私は毒ガスの“死の露”を造った」より大久野島の現場で証言する工員だった故・藤本安馬。

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ウナギを食べると頭がハキハキする件。 [気になるエトセトラ]

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 その昔、小学校で肝油(かんゆ)というピンク色をしたドロップが、給食時間に配られていたのを憶えている。甘いが独特な臭みがあって、わたしは苦手だった。クジラやサメ、エイなどの脂身から抽出した油脂分でできていたのだと聞いている。わたしの世代はそうでもないが、戦前から戦後にかけて、日本人は動物性の脂肪摂取が絶対的に不足していた。だから、それを補うために小学校で肝油ドロップが配られたのだろう。
 おそらく、1960~1970年代の子どもたちは、すでに動物性脂肪を十分に摂取できていた世代であり、学校での肝油配布は戦前からの名残りが、そのままつづいていたのかもしれない。動物性脂肪が不足すると、肌がカサカサに乾き白い粉を吹いたようになるようだ。また、ヒビやアカギレにもなりやすく、特に戦前の小学生は洋食(動物肉)を食べる機会が現代に比べ圧倒的に少なかったため、油脂分の欠乏によるさまざまな症状に悩まされていたらしい。そのような食生活を補うために、学校で肝油を配りはじめたのだろう。
 少し横道へそれるけれど、肝油ドロップともうひとつ、紫色をしたとてつもなく苦くてまずいうがい薬というのも配られていた。たいてい風邪が流行る秋から冬にかけて、やはり給食の前などにアルミ製の大きな薬缶に入れた紫色の液体を、生徒たちに配ってはうがいをさせていた。この液体がなんだったのかは知るよしもないが、想像を絶するほどのあくどい苦さで、わたしは口に含んでもうがいなどせず、そのまま吐きだしていたのを憶えている。口をよくゆすがないと、あとあとまで苦さが舌の両脇に残った。
 戦前の日本人が、いかに動物性油脂を摂らなかったか、向田邦子Click!子母澤寛Click!の著作を引用しながら、こんなことを書いている。彼女は、子母澤寛Click!の著作を『食味極楽』と紹介しているが、戦前に東京日日新聞の連載時から、1957年(昭和32)に出版された初版のタイトルまで『味覚極楽』Click!(戦後は龍星閣→新評社→中央公論社)だ。向田邦子Click!『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫)に収録の、「男殺油地獄」から引用してみよう。
  
 子母澤寛氏の聞き書きで『食味極楽』という本がある。/絶滅に瀕している昔なつかしい東京ことばが、みごとに書きとめられている名著だが、そのなかで、ある歌舞伎役者が鰻を食べたときのセリフがいい。/「鰻をやりますと、頭がハキハキしてまいります」/といって(ママ)いるのである。/常日頃は、菜っぱの煮びたしだの豆腐、せいぜい焼魚に煮魚くらいだから、たまに鰻を食べると、脳ミソから目玉まで潤滑油が廻ったように思ったのであろう。/うちの祖母なども、すき焼きやトンカツを食べた翌朝は、/「なんだか手がスベスベになったねえ。雑巾しぼってても水弾きがいいような気がするよ」/と言って(ママ)いた。
  
 わたしも、うなぎClick!を食べると「頭がハキハキ」して含まれているビタミンのせいか、一夜明けると視力がよくなるような気もするので大好きだが、最近の天井知らずの非道な値段Click!にはさすがについていけない。子母澤寛がインタビューしている相手は、明治・大正期を通じ名脇役で鳴らした、音羽屋の4代目・尾上松助のことだ。
 文中では、向田邦子の祖母や母が戦前、ごま油やツバキ油を「いまの香水やオーデコロンよりも大切に使っていた」という思い出を語り、うっかり床にこぼしたりすると「勿体ながって手や足の踵に摺り込んでいた」と書いているが、わたしはさすがにそのような情景を見たことがない。わたしが子どものころには、さまざまな種類の油はスーパーにいけばすぐに手に入れることができる商品だったし、母親は親父の好きだった日本橋の老舗Click!もどきの洋食(肉料理)を、料理学校に通いながら毎日のようにつくっていた。
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 子母澤寛『味覚極楽』の4代目・尾上松助へのインタビューは、おそらく数えで「八十五歳」だとみられるので、死去する前年1927年(昭和2)の聞き書きだと思われる。1977年(昭和52)に新評社から出版された同書より、「大鯛のぶつ切り」から引用してみよう。
  
 あっしは他の名題(なだい)役者衆とは違って、子供の時からペエペエの下廻りで、さんざん苦しんできやしたから、自然食べ物が荒(あろ)うがして、この年<八十五歳>になってもうなぎなんざあ一人前(いちにんめえ)ではどうも堪能しねえ。うなぎの蒲焼を一人半前(いちにんはんめえ)やって、それからうなぎ飯を一つはやれる。麻布六本木の「大和田」のうなぎ飯はようがすな。つまりあのうちは「たれ」が良い。うなぎだけ食べてもうまいが、うなぎ飯にしてもらうとなおうまい。通人は白焼(しらやき)というタレ無しのを食べるそうだが、あっしはそんなのどうもうまくない。年寄りがそんなにうなぎを食ったって大して長生きのためにはならねえものだと大倉さん(喜八郎翁)がいってらっしゃいましたが、どうもあいつをやると気のせいかはきはきしてくるように思いやすよ。(カッコ内引用者註)
  
 85歳になっても、蒲焼き「一人半前」とうなぎ飯「一人前」Click!をペロリとたいらげる尾上松助は、明治・大正期の人物としては消化器系が丈夫だったのだろう。そういえば、死ぬ直前までうな重を食べつづけた、田中絹代Click!のエピソードを思い出す。
 文中に、大倉喜八郎Click!のうな重エピソードが紹介されているけれど、向島別邸Click!で昼にうな重を注文しつづける大倉喜八郎を間近で見ていた息子の大倉雄二Click!は、著書『逆光家族』の中でせっかくうな重をとってもほとんど箸をつけず、あれはいつまでも元気な大倉喜八郎が「大倉うな重神話」「大倉健康神話」を創作するための、ムダな演出のひとつではなかったかと書いている。晩年の大倉喜八郎は胃がんをわずらっていたが、それでも昼にはうな重を注文しつづけていた。
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 わたしが小学生のとき、あまり好きではなかった肝油ドロップだが、子どもたちへ一律に配って食べさせていたのはかなり問題だったと思う。脂肪を摂りすぎの健康児(肥満児)Click!まで、せっせと油脂分を“補給”していたのだから、若年性の高血圧やコレステロール過多、糖尿病の予備軍をこしらえていたようなものではないだろうか。1960年代は、いまだ戦後のベビーブームの余波をひきずっており、1学年が250人前後はあたりまえの時代だったから、今日のように個々の児童に合わせた対応など望むべくもなく、なにごともみんな一律で「平等」に実施されるのが普通だった。
 戦前・戦中派には、エーザイが開発した「ハリバ」というサメの肝油が流行っていたようだ。当時の学校では、油脂分が足りない生徒たちへハリバをよく飲ませていたと向田邦子も書いている。従来の肝油は、1日に何粒も飲まなければ効果がなかったが、ハリバは1日1粒飲めば十分に油脂分を摂れたため、多くの学校で採用されていたらしい。
 現在は、洋食が中心の食生活から油脂分の摂取過多といわれて久しいが、そのわりには1970~1980年代のころに比べ、明らかに肥満した人物を見かける光景が少なくなっていると感じる。わたしの子どものころには、クラスに必ずひとりかふたりいた、肥満児を見かける機会もほとんどなくなった。じゃあ、多くの人たちの食生活が貧しくなっているのかといえば、わたしが子どものころよりもよほどいいものを食べている。おそらく、昔の“飽食時代”のように食い意地の張った「ドカ食い」「バカ食い」をする人が減り、摂生やダイエットに気をつける人たちが増えたのだろう。
 1970年代の半ば、『霊長類ヒト科動物図鑑』で向田邦子はこんなことも書いている。
  
 (前略) 石油問題などで余計な心配をしているから、鼻の頭の脂の浮きもいつもより多くなっているような気がする。/いまは文明は油であり脂であるらしい。脂汗を流して働き、働いて得たお金で脂を得、体に取り込んで寿命を縮めている。/近松門左衛門世にありせば、「男殺油地獄」を書き、パルコは西武劇場あたりで大ヒットさせていたに違いない。主演は失礼ながら小林亜星氏あたりにお鉢がまわりそうである。
  
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 そういえば、肥満した人物をよく見かけたのは、1970~1980年代につづいた高度経済成長期だったことに改めて気づく。ということは、経済が低迷したままの現状だから、肥満体を見かけることも少なくなったということか。確かに、不況とインフレが同時進行する、前代未聞の“令和スタグフレーション”の世相では、寺内貫太郎も生きにくいにちがいない。

◆写真上:いまでも肝油はあるが、昔とはかなりちがう風味をしている。
◆写真中上は、4代目・尾上松助()と、1917年(大正6)の山村耕花『四代目尾上松助の蝙蝠安』()。『与話情浮名横櫛(よはわさけ・うきなのよこぐし)』(切られ与三)でおなじみ蝙蝠安(こうもりやす)だ。は、散歩圏内にある「鰻家」のうな重。
◆写真中下は、1984年(昭和59)に出版された向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫版/)と著者の向田邦子()。は、1977年(昭和52)に出版された子母澤寛『味覚極楽』(新評社版/)と著者の子母澤寛()。
◆写真下:戦前・戦中派には懐かしいと思われる、肝油「ハリバ」(上)と媒体広告(右)。

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「不良華族事件」と首相官邸のトンネル工事。 [気になるエトセトラ]

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 少し前に、学習院で結成された「目白会」と日本女子大学校の「五月会」が特高Click!に摘発された「赤化華族事件」Click!について書いたけれど、それとシンクロするようにもうひとつ、ゴシップをまき散らすような華族を摘発した「不良華族事件」というのがあった。赤坂区溜池にあったダンスホール「フロリダ(FLORIDA)」の、舞踏教師(ダンスインストラクター)夫妻の検挙に端を発した華族の醜聞事件だった。
 JAZZが好きな方は、赤坂(溜池)のダンスホール「フロリダ」Click!というネームに、ピンとくるお馴染みの方も多いのではないだろうか。「フロリダ」で演奏された音楽は、単にダンスのBGMとして流れるいわゆるスウィングJAZZだけでなく、本格的なインプロヴィゼーションをともなうビ・バップへとつづく、日本におけるモダンJAZZの先祖的ライブハウスとして有名だ。そこでは、菊池滋弥(p)&フロリダオールスターズをはじめ南里文雄(tp)、山田耕筰Click!(cond)、森山久(tp/森山良子Click!の父親)らが活躍していた。JAZZ批評家として有名な瀬川昌久は、「溜池にあったフロリダは、名門中の名門として、格調の高さ、集まるダンスのパトロン(愛好家)の趣味、出演バンドの演奏内容、すべてにおいて群を抜いていた」と、当時の「フロリダ」について書いている。
 あるいは、田中絹代と岡譲二が主演の小津安二郎Click!『非常線の女』(1933年)の舞台としても、戦前はよく知られていただろうか。同映画のリハーサルや、ダンサーたちのオーディションは同店のフロアで行われており、またちょうど「不良華族事件」が起きた1933年(昭和8)に公開されているので、ことさら話題になった映画でもあった。
 「事件」の端緒は、1933年(昭和8)11月に同店の舞踏教師・小島幸吉が検挙されたことにはじまる。11月15日付けの東京朝日新聞には、「女性群を翻弄して悪魔は踊る」とか「検挙で暴露された情痴地獄」「徹底した色魔」「醜聞なる『愛欲ダンス』」などと、なにやら江戸川乱歩Click!の世界のような活字が嬉々として踊った。この記事を書いた記者のほうが、よほど「情痴大好き色魔」のような気もするが、この「事件」が出入りしていた華族へ飛び火するのに時間はかからなかった。
 その様子を、1991年(平成3)にリブロポートから出版された浅見雅男『公爵家の娘―岩倉靖子とある時代―』から、東京朝日新聞の記事とともに引用してみよう。
  
 「(舞踏教師の検挙で)一群の有閑マダムの醜状が白日下にさらけだされたが、その一人である某伯爵夫人の如きはその著名なる社会的存在を誇り顔にダンスホールにいり浸り、同夫人が多数の婦人達を不良教師等に取りもつた事実も明らかになつた。そこで警視庁不良少年係は同夫人を取調べるべく、十五日夕刻、刑事をその住居にさし向けたが、不在であつたので、十六日午前中に召喚し、情状如何によつては断然身柄を拘束して取調べることになるかもしれぬ形勢である」/さらに十八日付の同紙夕刊には、「踊る伯爵夫人 遂に召喚さる」として、十七日午後に、その女性が警視庁に連れていかれた旨の記事がある。
  
 「踊る伯爵夫人」とは吉井勇Click!の妻・吉井徳子のことで、彼女はダンスホールでの行状はもちろん、日常生活の様子まで率先して刑事に供述したようだ。吉井勇は妻の検挙を知り、「夜ふかく歌も思はず恥多きわが世の秋を思ひけるかも」と詠んだ。
 吉井徳子は、歌人の夫とは性格的に反りがまったく合わなかったようで、吉井勇とはとうに別居しており事実上の離婚状態だった。その供述の中には、作家や画家、出版社の編集者たちとの麻雀や花札などの賭博行為も含まれていたため、作家の里見弴Click!久米正雄Click!夫妻、画家の小穴隆一Click!、文藝春秋の編集者兼作家のちに文藝春秋新社の社長になる佐々木茂索Click!夫妻など、15名が立てつづけに検挙されている。
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 だが、ダンスホールで華族夫人が浮名を流したにしては、あまりに大げさな「事件」化であり報道だと感じるのは、わたしだけではないだろう。それまでも、華族のゴシップはごまんと囁かれていたのであり、華族夫人の“火遊び”どころでなく、殺人に絡むような醜聞さえあったはずだ。ましてや、賭博場を開いていたのならともかく、作家や画家たちの私的な賭け麻雀や花札は、彼らに限らずどこでも行われていた微罪であり、改めて「事件」として大げさに摘発し、大々的に報道されるほどの行為ではない。
 警視庁が、わざわざ大げさに「事件」化した理由としては、1931年(昭和6)の満州事変に端を発した日中戦争の時代背景による、“綱紀粛正”や“規律矯正”を挙げる例が多いようだが、あまりの大さわぎぶりに不可解さや不自然さを感じた人は、当時も多かったにちがいない。下落合のすぐ北側、高田町上屋敷3621番地Click!(現・西池袋2丁目)に住んだ宮崎白蓮Click!も、「事件」に不自然さを嗅ぎとったひとりだった。
 吉井徳子は柳原家の姻戚なので、東京朝日新聞の取材を受けた宮崎白蓮はこう答えている。1933年(昭和8)11月18日付けの同紙を、『公爵家の娘』より孫引きしてみよう。
  
 「今度のダンス・ホール事件は一年以前の古傷だらうと思ひます。ダンス・ホールそのものは、いはば満座の中ですから、いはゆる風紀を乱すやうなことは出来るものではありません。そこで知り合つた方とお茶を一緒に飲みに行くといふやうなこともありませうが、それは私行上の事で大逆事件のやうな犯罪が起れば別ですが、警視庁としては少しやり過ぎではないかと思ひます」
  
 当時は、「私行上」の「古傷」だらけだった宮崎白蓮Click!のコメントなので、それほど説得力があったとは思えないが、彼女が不可解に感じたように「やりすぎ」「騒ぎすぎ」「なんか変だ」と思った人々は確実にいただろう。そう、この「不良華族事件」が摘発され、ダンスホール「フロリダ」に捜査の手が入り、しばらく営業を停止せざるをえなくなったのは、首相官邸で犬養毅Click!が暗殺された1932年(昭和7)5月15日の、いわゆる五一五事件からちょうど1年半後のことだったのだ。
 五一五事件のあと、しばらくしてから首相官邸の庭先では、ひそかに工事がスタートしていたはずだ。その工事とは、もしも首相官邸に武装した勢力が乱入してきても、丘上にある官邸の庭にあった築山の近くから溜池のバッケ(崖地)Click!下へと抜け、山王・赤坂方面へと逃れられる極秘のトンネル掘削工事だった。そして、バッケ下の出口にあたる場所が、ちょうどダンスホール「フロリダ」の真裏にあたる地点だったのだ。
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 麻布の歩兵第一連隊Click!の兵士たちが官邸の庭まで殺到したため、この避難トンネルを利用できなかった岡田啓介Click!の証言を聞いてみよう。もちろん、五一五事件から4年後の1936年(昭和11)2月26日に起きた二二六事件Click!での証言だ。1977年(昭和52)に毎日新聞社から出版された、岡田貞寛・編『岡田啓介回顧録』から少し引用してみよう。
  
 あのころ、すでに首相官邸には庭の裏手から崖下へ抜ける道が出来ていた。五・一五事件で犬養毅首相が殺されたあと、なにかの際に役に立つだろうというので、つくったものらしい。崖っぷちのずっと手前から土をくり抜いて、段々の道になっており、そこを降りて行くと土のかぶさった門がある。土がかぶさった門と思ったのは実は小さいトンネルだったんだが……そこを通ってフロリダとかいうダンスホールの裏に出る。山王方面へ抜ける近道になっていたわけだ。話によると、永田町の官邸には秘密の通路があるとのうわさも世間にはあったそうだが、たぶんこの道のことだろう。/義弟の松尾伝蔵は、とっさの間に、わたしをその抜け道へ連れだそうと考えたらしい。時刻は午前五時ごろだったか。つまり昭和十一年の二月二十六日の朝だ。非常ベルが邸内になりひびいて、その音でわたしは目をさましたんだと思うが、間髪を入れずに、松尾がわたしの寝室にとびこんできた。
  
 なぜ、「不良華族事件」を社会へ大々的に喧伝し、ダンスホール「フロリダ」を警察官が取り囲み一時的に閉鎖する必要があったのかが、岡田啓介の証言により透けて見えてくるようだ。すなわち、「不良華族事件」が起きた1933年(昭和8)の秋、首相官邸の避難トンネル掘削工事は最終フェーズを迎えており、溜池の崖下=「フロリダ」裏へトンネルを貫通させる竣工直前だったのだろう。だが、衆目のある中で崖地に穴を開けるわけにはいかず、いろいろな方策が練られ考えられたはずだ。
 特にバッケ(崖地)の目の前にあるダンスホール「フロリダ」は、デイチケットで昼間から人が集まりやすい目障りな存在であり、工事期間中はなんとしてでも閉鎖に追いこみ、人ばらいをしたい店舗だった。そこで、首相官邸側は内務省に相談し、一時的に「フロリダ」を封鎖できる「事件」を立件できないかとどうか打診したのかもしれない。そこで、警視庁は1年ほど前から「フロリダ」に出入りしている吉井徳子に目をつけた……という経緯ではなかったか。彼女にしてみれば、多かれ少なかれ華族も含めた有閑夫人がやっている“火遊び”なのに、なぜわたしだけが?……と感じていたかもしれない。
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 全長100mほどといわれる首相官邸の避難トンネルは、戦後もそのまま残っており、60年安保の際にはデモ隊に取り囲まれた首相官邸から、官邸内に残された人々を脱出させようとしたが、デモ隊は崖下の溜池側も取り囲んでいたため断念したという証言も残っている。ただし、このトンネルは防空壕とともに戦時中に掘られたとする証言もあるが、その証言のおかしさや不自然さについては、また書く機会があれば、別の物語……。

◆写真上:昭和初期に撮影された、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の広いフロア。
◆写真中上:3葉とも、昭和初期に写真家・濱谷浩が撮影した「フロリダ」のスナップ。
◆写真中下は、1932年(昭和7)に「フロリダ」店内で行われた小津安二郎『非常線の女』のダンサーたちによるカメラテスト。中上は、今和次郎Click!考現学Click!資料から「フロリダ」で発行されていたピンクのデイチケット(左)と紺青のナイトチケット(右)。中下は、「不良華族事件」を伝える1933年(昭和8)11月18日の東京朝日新聞。は、柳原家の叔母と姪の関係になる宮崎白蓮(左)と吉井徳子(右)。
◆写真下は、1929年(昭和4)に下元連(大蔵省)の設計で竣工したライト風の旧・首相官邸(現・首相公邸)。中上は、首相官邸の溜池側=「フロリダ」側に落ちこむバッケ(崖地)。中下は、首相官邸に隣接し徳川家の産土神でもある山王権現(日枝権現)社のバッケ坂階段。は、国立公文書館に保存されている1934年(昭和9)の警視庁資料。「不良華族事件」の翌年には、「フロリダ」にダンサー(女性)が89人もいたことがわかる。

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主亡きあと「惜櫟荘」ですごす安倍能成。 [気になる下落合]

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 下落合1665番地の第二文化村Click!に住んだ安倍能成Click!は、同じ夏目漱石Click!の弟子である松根東洋城Click!が発刊した俳誌「渋柿」(渋柿社)にエッセイを連載している。多くは『下落合より』と題され、日々の生活を通じて雑感をつづった内容だった。この連載は敗戦後も引きつがれ、1966年(昭和41)に死去するまでつづいた。
 1962年(昭和37)に発刊された「渋柿」2月号にも、『下落合より』と題されたエッセイが掲載されている。前年の1961年(昭和36)暮れから翌年の正月にかけ、避寒のために熱海市の伊豆山にある岩波茂雄Click!が建てた別荘「惜櫟荘」ですごした様子が書かれている。このとき、安倍能成は79歳であり冬の寒さが身体にこたえたのだろう。「惜櫟荘」の主である岩波茂雄が死去してから、すでに17年の歳月が流れていた。
 岩波茂雄と熱海の関係は、早大教授・津田左右吉の著作類とそれを出版していた岩波が、特高Click!による弾圧と検事局による出版法違反で起訴されたときからはじまっていると思われる。それまでにも、岩波書店は当局によるさまざまな嫌がらせや出版妨害をうけていた。津田と岩波を起訴にもちこんだ言論抑圧は、慶應義塾をベースとした蓑田胸喜や、原理日本社の三井甲之らが中心となった機関誌「原理日本」の、学術分野に対する“魔女狩り”に等しい狂信的な「摘発」=難クセだった。
 軍国主義の日本政府に対して、「反政府」「反国家」「反天皇」「反軍」だと恣意的にみなした学術書へ、内務省などと一体化して次々に弾圧を加えていくという、学問の自由や独立を学府みずからが踏みにじり否定するに等しい愚挙だった。「原理日本」は、津田左右吉のことを「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」だと、感情的に非難(論理による批判ではない)している。
 蓑田や三井の「原理日本」は、学術分野における民主主義者(大正期からの民本主義者)や自由主義者の臭いがする学者の「摘発」はもちろん、明治時代の自由民権運動をベースとした右翼やナショナリスト、それに近しい汎アジア主義者にいたるまで、資本主義政治思想の「民主」や「自由」の臭いが少しでもする著作や学者、出版社を、特高や憲兵隊と一体化して次々とスケープゴードにしていった。このあたり、現代の中国やロシア、ミャンマーの公安(思想)警察およびその民間摘発(密告)者とそっくりだ。
 それまでにも、京都帝大の瀧川幸辰(瀧川事件)や、岩波とも関連が深い東京帝大の美濃部達吉(天皇機関説事件)、同じく矢内原忠雄(矢内原事件)らへ執拗な攻撃を加え、日本から排除し葬り去ろうとする軍国主義と一体化したような、“学術ファシズム”による狂気じみた「思想」集団だった。「原理日本」グループは、「摘発」した学者が講義をする教室まで押しかけ、さまざまな嫌がらせや授業妨害など物理的な“排除”まで行っている。また、当時のマスコミは問題意識も批判力も失い、「原理日本」と大差ない視線でこれらの「事件」を報道し、社会的に“炎上”させていった。
 そういえば、安倍政権下で日本学術会議のメンバーから排除された、政府の見解や意向とは異なる憲法学や近代史学、政治史学、キリスト教学などの学者が東大や早大、京大などの学術研究者だったのは、あたかも当時の世相の焼き直しを見ているようで、歴史的に見ても非常に示唆的で興味深い。1970年代末より茶本繁正が告発し警告しつづけた、韓国由来の「統一教会=勝共連合=原理研」や「日本会議」と密接な関係にあった、安倍政権下ならではの象徴的な現象であり出来事だろう。加えて昨今では、学術会議メンバーの人選まで干渉しようと圧力をかけつづけている。
 岩波茂雄は、明治天皇の「五箇条のの御誓文」における「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を“盾”に防戦をつづけたが、ついに起訴され津田左右吉とともに投獄の怖れが現実化した。ふたりは、1940年(昭和15)3月8日に検事局へ召喚され、出版法第26条違反で起訴をいいわたされている。このとき、岩波茂雄はなにもかもイヤになり熱海のホテルにこもってしまった。心配になった小林勇Click!が熱海へ迎えにいくことになるのだが、そのときの岩波の様子を、2013年(平成25)に岩波書店から出版された中島岳志『岩波茂雄-リベラル・ナショナリストの肖像』から引用してみよう。
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 岩波は追い詰められた。彼は東京を離れ、熱海のホテルに引きこもった。数日たっても会社に現れなかったことから、小林が心配になって様子を見に行くと、彼は「人に会うのがいや」で、「誰にも会わずに暮らした」と言った(註釈記号略/以下同)。/翌日、岩波は小林を伴って、ホテルに近い分譲地を廻った。そして、その一画で立ち止まり「ここが大変気に入っている」と言った。彼はこの分譲地を「買いたい」と言い、その日のうちに購入申し込みを行った(註略)。ここに建てた別荘が「惜櫟荘」と呼ばれるようになる。
  
 余談だが、早大の津田左右吉Click!曾宮一念Click!が描く風景作品のファンで、これまでもたびたび拙ブログには登場Click!している。
 岩波茂雄は、一高Click!時代に1学年下にいた「人生不可解」の藤村操事件Click!に遭遇している。彼もまた、生きる意味に迷う当時の「煩悶青年」のひとりだった。彼は、浄土真宗大谷派の近角常観が開設した本郷の「求道学舎」に通い、トルストイの作品に没頭するようになる。また、柏木(現・北新宿)の無教会派・内村鑑三Click!が主宰する「聖書研究会」にも、進んで聴講しに出かけている。岩波茂雄が、終生変わらないリベラルな思想基盤を身につけたのはこの時期であり、のちに岩波書店から『トルストイ全集』や『内村鑑三全集』を発刊するのも、「煩悶青年」だったこの時代の経験からだろう。
 岩波は、同郷だった新宿中村屋Click!相馬愛蔵Click!に起業の相談にいき、神田で古書店「岩波書店」を経営するようになる。1914年(大正3)になると、東京帝大で同窓の安倍能成Click!の紹介で夏目漱石Click!と知りあい、東京朝日新聞に連載されていた『こゝろ』の岩波による自費出版を相談している。漱石は快諾し、条件として本の装丁にはわがままをいわせてくれということになった。
 こうして、同年9月に漱石の凝りにこった装丁で、『こゝろ』が岩波書店から刊行されている。以降、漱石は岩波からの出版を希望し、『硝子戸の中』『道草』『明暗』『漱石俳句集』『漱石詩集』と出しては次々に売れ、漱石の死後、1917年(大正6)に『漱石全集』を刊行しはじめたころ、岩波書店の出版事業はようやく軌道に乗っている。
 1921年(大正10)になると、書籍の出版だけでなく阿部次郎や和辻哲郎Click!、安倍能成、石原謙、小宮豊隆らによる雑誌「思想」の刊行がはじまっている。1931年(昭和6)には雑誌「科学」、1933年(昭和8)には「文学」および「教育」と雑誌事業がつづくことになる。また、1927年(昭和2)には誰でも良書を手軽に安く読める日本初の文庫本「岩波文庫」を創刊し、翌1928年(昭和3)には「岩波講座」と「岩波全書」を、1938年(昭和13)には「岩波新書」を創刊している。
 昭和に入り日中戦争が勃発すると、岩波茂雄は「軍部は有史以来の大悪事を働いている」と繰り返しいい、軍部から献金の依頼があると「中国を傷つける行動にビタ一文でも出すことは出来ない」と拒否した。近衛文麿Click!が首相になると、面会する機会をとらえて「(和平交渉に)蒋介石と直接会うべきだ」と提言している。だが、その直後に「近衛は弱くて駄目だねえ」と、軍部に対する弱腰を周囲にこぼしてまわったという。
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 そのような状況の中、津田左右吉と岩波茂雄は起訴され法廷に引きずりだされることになった。岩波のフラストレーションは頂点に達し、当局の弾圧や規制に徹底して反抗しようと考えたものだろうか。だが、出版事業で表だって反抗すれば、たちまち入獄で会社がつぶれ多くの社員が路頭に迷うことになる。そこで、熱海に建設する入手したばかりの分譲地へ、当局の規制を無視した別荘を建てようとしたのかもしれない。
 1962年(昭和37)の「渋柿」2月号より、安倍能成『下落合より』から引用してみよう。
  
 この別荘は戦時中の制限を受け、部屋は女中部屋ともにただ三つで、外に浴室があるだけだが、この浴室の壁がわざわざ岐阜県から取り寄せた大理石であつたり、瓦が京都の最上製だつたり、応接室の椅子に禁制の鞣皮を張つたり、狭い芝生の庭に貴舟石一つを置いたり、松葉の溜るのを嫌つて樋をやめ、雨水を受ける独特の溝を工夫したり、応接室の障子、硝子戸、網戸、雨戸の為に、三筋の溝を作つて合せて十二の溝を通る戸を納め、部屋に一ぱい太平洋の風を容れるやうにしたり、岩波の凝り性を傾けて、戦時下に可能もしくは不可能な贅を尽くしたものであつて、人によつて好みはあらうが、確に岩波の遺愛の傑作といへる。/私は岩波の如く入浴を嗜むたちではないが、それでも朝起きると、湯殿の硝子戸をあけ放して、温泉につかりながら太平洋から吹いて来る風を呑吐する爽快には、実に何といへぬ幸福感を与へられ、応接間の岩波の写真の前に香をたいて、思はず有りがたうとつぶやいた。
  
 岩波茂雄はこの別荘で、相模湾の潮風が当たる温泉にゆっくり浸かりながら、常日ごろのストレスや鬱憤を晴らしていた様子がうかがえる。安倍能成によれば、岩波はすでに入獄を覚悟し、その試練に耐えうるためには身体を養っておかなければならないというのが、「惜櫟荘」を建てた大きな理由だったと話している。また、戦時中の物資が欠乏していた時代にもかかわらず、目の前が相模湾Click!だからできたのだろう、いろいろと“うまいもん”を手に入れてはご馳走を作っていた。
 津田左右吉は、自身と岩波の裁判を「学会全体の死活問題」と位置づけ、公判での弁護などで南原繁Click!や和辻哲郎らの支援を得られたが、1942年(昭和17)5月、津田左右吉に禁固3ヶ月と岩波に禁固2ヶ月で、それぞれ執行猶予2年がつく判決が下されている。検察側も被告側も、これを不服としてすぐに控訴した。だが、戦争の激化で徐々に公判が開かれなくなり、1944年(昭和19)11月には時効が成立している。
 1945年(昭和20)8月の敗戦直後から、安倍能成と岩波茂雄は総合雑誌の創刊を構想しはじめた。敗戦からわずか4ヶ月後、1946年(昭和21)1月1日に雑誌「世界」を創刊している。だが、岩波茂雄は10年以上にわたる弾圧により心身ともに疲労が蓄積していたのだろう、同年4月20日に熱海の「惜櫟荘」で脳溢血を発症し、ほどなく死去している。上掲の安倍能成『下落合より』は、岩波の死から17年後に書かれた文章だ。
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 「原理日本」の蓑田胸喜は、自身こそが「亡国」の先棒担ぎだったのを恥じたのか、敗戦直後に故郷の熊本で自裁している。また三井甲之は、別に恫喝や拷問、獄死の脅迫など受けていないにもかかわらず、にわか「民主主義者」へと「転向」し、戦後は『手のひら療治』などという書籍を出版している。まさに、「手のひら」を返したような「転向」だった。

◆写真上:1941年(昭和16)に建設された、熱海市伊豆山にある岩波別荘「惜櫟荘」。
◆写真中上は、岩波茂雄()と安井曾太郎Click!が下落合のアトリエで描いた『安倍能成氏像』Click!(1944年/)。は、近角常観が本郷に設立した「求道学舎」外観と内観。は、岩波茂雄の思想に影響を与えた近角常観()と内村鑑三()。
◆写真中下は、1908年(明治41)に撮影された淀橋町柏木436番地(現・北新宿1丁目)の内村鑑三邸(左2階家)。は、1910年(明治43)撮影の戸山ヶ原Click!を散歩する内村鑑三。下左は、1962年(昭和37)発刊の「渋柿」2月号(渋柿社)。下右は、2013年(平成25)出版の中島岳志『岩波茂雄-リベラル・ナショナリストの肖像』(岩波書店)。
◆写真下は、北軽井沢の津田別荘付近を散歩する岩波茂雄(左)と津田左右吉(右)で、奥は「瀧川事件」に学生の立場から抵抗した久野収。は、伊豆山の「惜櫟荘」で沖に見えるのは初島。は、現在でも発刊がつづく2023年4月号の雑誌「思想」と「世界」。

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佐伯祐三『かしの木のある家』と格闘する。 [気になる下落合]

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 佐伯祐三Click!をはじめ、落合地域の画家が描いた風景画Click!については、その描画ポイントを特定するために多彩な方法を用いてきた。そのベースになったのは、1974年(昭和49)から歩きつづけて、わたしが実際に目にした風景=実景だった。
 1980年代のバブル経済以前、落合地域には山手大空襲Click!から焼け残った、大正期から昭和初期に建てられた住宅建築があちこちに現存していた。それに加え、各地を歩きまわった地形的な風情の視覚的な把握、あるいは土地の起伏による肉体的な感触、すなわち土地勘のようなものも非常に役立ったと感じている。そのほか、当時の写真類や各時代の地図類、明治期から昭和期にかけての膨大な史料類、そして時代ごとの作品に描かれた風景作品も、画家たちがイーゼルを立てた地点の特定にはかなり有効だった。中には、画家が描いた風景から、別の画家が描いた画面の場所までを類推することができた事例もある。
 上記の例は、あくまでも演繹的(下向法的)な手法、すなわち「この風景は、この地形や風情は、どこかで見たことがある、実際に歩いたことがある」という土地勘から出発し、裏づけのために想定場所の写真や古地図、史料類などで深掘りしていくと、「やっぱり、まちがいなくあそこの光景だった」と特定できたケースが多い。また、その場所の当時の風景が明らかになったことで、それに近接する別の画家が描いた風景に思いあたることもあった。たとえば、実景を見たこともなくあまりに変わり果てているので、「わかるはずがない」と考えていた佐伯祐三の『戸山ヶ原風景』Click!も、その後、多種多様な史料や他の絵画作品から、ようやく描画ポイントClick!を推定することができた。
 以上のような方法は、昔に見た実景あるいは風情、地形などによる場所の推定(=仮説)を起点に、多彩な写真・地図・史料類による裏づけする(=証明)という道筋をたどっていることになる。ところが、このような手法がぜんぜん通用しない作品、描かれた風景の場所が思いあたらず、まったく想定できない風景画面というのがある。現在では、宅地開発が進捗しすぎて、そもそもの地形からして大きく改造されているような場所、あるいは本来は宅地だったところに幹線道路が貫通し、敷地全体が消滅してしまっているような場所では、わたしの既視感や土地勘はまったく働かない。
 また、特異な例としては、たとえば西落合1丁目208番地(現・西落合3丁目)にアトリエをかまえていた、大内田茂士Click!『落合の街角』Click!(1986年)のようなケースもある。どこかで見たことのあるような風景だが、現実にはわたしの既視感や土地勘に憶えがなく、地勢的にも思いあたる場所を想定することができないという事例だ。同作は、落合地域のさまざまな街角をあらかじめスケッチし、それを画室でコラージュさせた風景作品だったことが、のちにご子孫の方からの証言で明らかになっている。
 しかし、まちがいなく実景であるにもかかわらず、描画場所を想定できないという作品例もたまにある。佐伯祐三の「下落合風景シリーズ」Click!の1作で、おそらく「制作メモ」Click!から『かしの木のある家』Click!ではないかとみられる画面がそれだ。(冒頭写真) さすがに目標物がほとんどなく、また道路も描かれていないので、いままでどこの風景を描いたものか皆目見当がつかなかった。このようなケースは、めんどうだが帰納的(上向法的)な方法で少しずつ絞って考えざるをえない。つまり、可能性のない風景や場所を、ひとつひとつ除外・排除して場所を徐々に限定していく消去法だ。
 『かしの木のある家』について意識し考えはじめてから、すでに16年の歳月が流れているが、この間、落合地域のさまざまな風景とその変貌が各時代を通じて蓄積・記憶されており、16年前とは比較にならないほど「見えやすい、考えやすい」ようになっている。したがって、保留しつづけた『かしの木のある家』も以前とは異なり、消去法を用いてたどれば描画場所を特定できるのではないか?……と考え、久しぶりに同作が描かれた前後の地図類や写真、史料類と格闘してみる気になった。
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 改めて、画面を仔細に観察してみよう。まず、光線は明らかに左手前あるいは左手の上空から射しており、画面の左手が南側または南に近い方角だと想定することができる。地形は、右手から左手にかけてやや傾斜している緩斜面だ。描かれている家々は、明治期から見られる典型的な日本家屋で、東京郊外によく建てられていた古くからの農家(あるいは地主)の屋敷のような意匠をしている。カシの木(ドングリ)は、武蔵野原生林に多く自生しているめずらしくない樹木だが、それを庭先に残しているのは、やはり古くから落合地域で暮らす旧家の屋敷をうかがわせる。下落合では、カシの大木を神木Click!にしていた大倉山(権兵衛山)Click!の、十返邸Click!の事例が思い浮かぶ。
 描かれた電柱(電力線・電燈線Click!)は、その背の高さが半分ほどしか見えていないので、やはり手前がやや低めな土地であるのがわかる。カシの木も、幹の下の部分が隠れているように思える。電柱やカシの木の見え方からすると、これら3棟の家々が実は1階部分が隠れた2階建てで、2階部のみが見えている可能性を否定できない。家々の背後には電柱が並んでおり、また並木らしい木々の連なりも見えるので、おそらく右手から左手へと緩慢に下る道路が通っているとみられる。また、左手の手前にある電柱2本は、描かれた3棟の住宅あるいはその手前にある空き地、すなわちもともとは農地だったとみられる造成された宅地へ、電燈線を引きこむために建てられたものなのだろう。
 手前の空き地には雑草が生い繁り、造成されたばかりの敷地には見えない。画面の右側から、3棟の家々に向けて伸びる黒い影のような描写がある。背の低い生垣のような繁みか、丈のある草むらがつづくような表現は、この敷地の境界(縁石が置かれた端)だろうか。その向こう側には新たに拓かれた宅地道路が通っていそうだが、3棟の家々が建つ敷地を道路が突きぬけているようには見えず、手前で行き止まりのように描かれている。
 以上のような推測を前提に、さまざまな地図や写真、史料類を参照しながら、この風景に当てはまらない場所を次々に消去していくと、最後に残るのがまたしても第二文化村Click!の西外れだ。描かれている3棟の家々は、同一敷地内に建つ落合地域でも旧家(大農家)のひとつ、下落合1674番地の宇田川邸だろう。親子兄弟の別に、独立した家庭を営むために広い敷地へ3棟の住宅を建設しているとみられる。当時の地番でいえば、下落合1663番地から同1674番地(現・中落合4丁目)の一帯を眺めた風景だろう。
 先述したように、緩斜面の下部(下落合1663番地の端)から宇田川邸を見上げるように描いているので、電柱の高さが半分ほどしか見えておらず、したがってもう少し高い斜面上の位置まで移動すれば、宇田川邸の3棟も下部の1階部分や、カシの木も含めて敷地を囲む腰高の屋根つき土塀が見えてくるのではないだろうか。
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 さて、宇田川邸の背後には緩傾斜の坂道が、右から左へゆるゆると蛇行しながら下っており、佐伯祐三はその道で2点の作品、すなわち富永醫院Click!『看板のある道』Click!とカーブする坂道の『道』Click!をタブローに仕上げている。すなわち、佐伯は『看板のある道』で三間道路に面した宇田川邸の表側、門と腰高の土塀も描いていることになる。画面手前の空き地は、箱根土地Click!がすでに販売済みの敷地だが、1926年(大正15)の時点で住宅が未建設の北島邸建設予定地(奥)、磯林邸建設予定地(手前)、そして生垣のような低木が描かれている小野田邸敷地(手前右下)ということになりそうだ。
 もちろん、描かれた3棟の宇田川邸は第二文化村に接する外側(北側)にあり、箱根土地へ周辺の農地を売った地主のひとりだ。手前の空き地に右から左へ途中まで描かれた、道路が通っているような生垣沿いの影は、現在でも旧・宇田川邸敷地の手前で行き止まりになっている、第二文化村の最西端に通う三間道路の終端だろう。また、『かしの木のある家』の描画ポイントの左手、原っぱを西南西へ70mほど歩いたところに、佐伯の描く『原』Click!の描画ポイントが位置している。ただし、第二文化村と原っぱとの間には、緩傾斜を修正して宅地を水平に保つため、大谷石による150cmほどの擁壁が築かれている。画面でいうと、左手の枠外ということになる。
 「制作メモ」を参照すると、このあたりの風景を描いた佐伯祐三の足取りが見えてくる。まず、1926年(大正15)9月18日に『原』(20号)を描き、翌9月19日にも再び『原』(15号)を重ねて描き、つづいて同日にごく近くの『道』(20号)を仕上げている。この『原』×2点のうち、現存しているカラーで観られる『原』の画面は、9月18日の作品(20号)のほうだろうか。そして、しばらく間をおき9月24日に佐伯は再び第二文化村の外れを訪れ、『かしの木のある家』(15号)を描いている。さらに、佐伯は2ヶ月後、秋も深まった11月以降の雲が多めな晴れた日に、宇田川邸の門前に通う三間道路、すなわち『道』の180度背後の風景、『看板のある道』(8号)を制作している。
 第二文化村の北辺に通う、北東から南西へと緩慢に下りながら西落合へと抜ける三間道路、現在の「旭通り」が佐伯にはことのほかお気に入りだったようで、いまだ発見されていない「下落合風景」にも、同通り沿いを描いた作品がありそうだ。
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 描かれている宇田川家は、残念ながら1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)では紹介されていない。また、1936年(昭和11)の空中写真では、屋敷林が繁りすぎてハッキリとした家々のかたちを視認することができない。1941年(昭和15)の空中写真では、同年より第二文化村の西隣り、佐伯が『原』を描いたまさにその場所で、勝巳商店地所部Click!による昭和期の「目白文化村」(第五文化村?)Click!が開発・販売されるので、宇田川邸は両文化村にはさまれるような敷地になってしまった。さらに、1945年(昭和20)の空襲直前に撮影された空中写真では、まったく異なる住宅が建ち並んでいるようなので、昭和初期のどこかで自邸を建て替えるか、それ以前にいずれかへ転居しているのかもしれない。

◆写真上:1926年(大正15)9月24日に描かれたとみられる、佐伯祐三の『下落合風景』の1作『かしの木のある家』と想定できる作品。同作は個人蔵なのか、あるいは戦災などで失われたものか、カラーの画面をかつて一度も観たことがない。
◆写真中上は、草原に生えるカシ(いわゆるドングリ)の木。は、1926年(大正15)作成の1/10,000修正地形図(1921年作成/1925年修正)にみる下落合1674番地の宇田川邸×3棟敷地。修正図なので、いまだ第二文化村は描かれていない。は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる宇田川邸。同邸の南に接した第二文化村敷地に、住宅が未建設(北島邸/磯林邸建設用地)なのがわかる。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる宇田川邸。屋敷林が繁り、建物の屋根を規定できない。は、宇田川邸と周辺における佐伯祐三「下落合風景」の描画ポイント。は、第二文化村の西端に通う三間道路の現状。突きあたりは行き止まりで、宅地を道路と水平にし車庫を設置するために、当初の高い盛り土はすべて撤去されている。現在では住宅が建っているため、佐伯の描画ポイントには立てない。
◆写真下は、1926年(大正15)9月18~19日制作の佐伯祐三『原』。は、同年9月19日制作の同『道』。は、同年の晩秋ごろ制作の同『看板のある道』。
おまけ1
 第二文化村の西端には、北東から南西に下る緩斜面の宅地を水平に修正するため、箱根土地が当初(1923年)築いた大谷石による150cmほどの擁壁が現存している。1940年(昭和15)に勝巳商店の地所部が開発した昭和期の「目白文化村」から、東側の第二文化村に建つ家々(2階部分)を眺めたところ。現在でも、当時の緩斜面の様子が顕著に残っている。
第二文化村西端の擁壁1.jpg
第二文化村西端の擁壁2.JPG
おまけ2
 山田五郎様(「山田教授」)による「オトナの教養講座」の講義で、拙サイトの佐伯祐三や「下落合風景」などについてご紹介いただいだ。励みになって、とてもうれしい。(↓Click!)
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近衛師団の演習適地だった明治の落合地域。 [気になる下落合]

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 かなり以前になるが、落合村下落合391番地に土地を所有し、柵で囲って材木置き場に使用していた笹間博という人が、明治末に陸軍省の演習に猛抗議していた事件Click!を記事にしたことがある。おそらく、戸山ヶ原Click!近衛騎兵連隊Click!とみられる兵士たちが、落合遊園地Click!(のち林泉園Click!)で大休止をとり、軍馬に給水して弁当を食べていた際、馬が敷地の囲い柵を約18mにわたって引き倒してしまったにもかかわらず、兵士たちはそのまま放置して逃げだしたバックレ事件だった。
 陸軍省では、このような抗議をしばしば受けていたため、落合地域を演習地にしていそうな近衛師団(特に騎兵連隊)と第一師団に、かなり強い調子で執拗に確認・照会している。部隊内の規律の乱れを気にしてのこともあるだろうが、陸軍省では落合地域ばかりでなく、演習地として使用している東京市の西北郊外の各村々から、頻繁に「器物破損」や「田畑損壊」などの抗議書がとどいていたからだ。
 陸軍省では、繰り返される抗議にウンザリしていたのだろう、「演習ニ際シ地方人民ニ迷惑ヲ蒙ラシメサル様 注意スヘキ件ニ関シテハ従来屡々御訓示相成居候処」、つまり「何度注意すりゃわかるんだよ!」と、ややキレ気味に照会状をまわしているのを見ても、演習のたびに各村々からなんらかの抗議がとどいていた様子がうかがえる。
 陸軍が、東京市の西北近郊を演習地にしていたのは、明治のかなり早い時期からだった。それは、尾張徳川家Click!下屋敷跡Click!だった戸山ヶ原Click!に、射撃場Click!を含む練兵場が設置されたという要因もあるのだろうが、東京の西北郊外は起伏に富んだ武蔵野の丘陵地がつづき、人馬の演習には地形的にも適地だと判断されたのだろう。
 落合村のみに限っていえば、国立公文書館に保存されている陸軍文書の中で、もっとも早い演習は1882年(明治15)7月14日に行われた近衛師団のものだ。このときは落合村ではなく、いまだ江戸期からつづく下落合村として記載されている。保存された文書は、かなり達筆すぎて解読がむずかしいが、おおよそ次のような内容だった。
  
 明十四日午前第九時〇〇〇騎兵中隊ニ付下 堀之内村 和泉村辺ニ於テ隠密偵察勤務兼火入演習施行 同日は歩兵第二連隊第一大隊 巣鴨村 下落合村 王子村 新井村地方へ 同軍之空包使用〇〇届出〇〇〇〇相成度此段及御通牒候也(〇は不明字)
  
 同日の演習は、現在の杉並区にあたる堀之内や和泉周辺で、敵に見つからないようひそかに敵情を探索する「隠密偵察」=斥候演習が行われ、そのあと草木が繁った演習場で「火入れ」が実施されている。「火入れ」とは野焼きのことで、ある一定範囲の演習場を確保するために、1年に一度行われる陸軍の定例行事だ。現在では、陸上自衛隊の北富士演習場での「火入れ」が知られている。
 このとき、下落合村を含む周辺の村々では、近衛師団歩兵第二連隊による「空包(空砲)」を用いた軍事演習が行われている。田畑で草取りをしている農民たちのかたわらで、原っぱを匍匐前進しながら空砲を撃つ兵士たちを見て、「うるせえな!」と思っていたかもしれない。あるいは、ときどき戸山ヶ原の射撃場Click!から飛んでくる流れ弾Click!に比べれば、「まだ安全でマシだな」とでも感じていただろうか。
近衛師団演習188207.jpg 近衛騎兵連隊正門.jpg
陸軍秋の大演習1899(M32).jpg
演習18870131.jpg
 次に記録されているのは、1887年(明治20)2月3日~4日に行われた近衛師団歩兵第二連隊第一大隊による大規模な軍事演習だ。陸軍の近衛師団文書より、引用してみよう。
  
 近衛歩兵第二連隊修業兵来月三日府下南豊嶋郡代々木村近傍 同第一大隊ハ中隊各個ニテ来ル四日 左記之地方ニ於テ各々空包発光演習施行致候間此段申進候也 逐而修業兵ハ当日雨天ナレハ野砲当日等雨天之節ハ取止メ 第一大隊ハ即日雨天之時ハ是又取止メ候間此段申添候也 (中略) 北豊嶋郡雑司ヶ谷近傍 第一中隊/南豊嶋郡上下落合村近傍 第二中隊/南豊嶋郡〇〇学校近傍 第三中隊/南豊嶋郡青山募地近傍 第四中隊(〇は不明字)
  
 このときは、上落合村と下落合村の両村が、近衛師団第二連隊の第一大隊第二中隊の演習予定地に指定されている。やはり空包(空砲)を用いた戦闘訓練であり、両村の村民はかなりの騒音に悩まされただろう。なお、「修業兵」とは徴兵されたあと4年間の兵役終了を間近にひかえた兵士たちのことで、代々木村の近くでは退役が予定されている兵士たちの、「卒業演習」とでもいうべき訓練が行われている。
 ただし、当時の陸軍演習は、かなり「ゆるい」環境で実施されていたようで、雨が降った場合は日を改めて実施する延期ではなく、しかたがないから即座に中止という、小中学校の「運動会」のような実施計画だった。「戦場なら雨の日だってあるだろ!」というような、のちの昭和期の戦時体制下における緊迫した雰囲気はほとんど感じられず、どこか牧歌的でノンビリした様子が明治期の陸軍文書からは伝わってくる。
 この文書は、1887年(明治20)1月31日に近衛師団参謀長から、同師団総務局次長あてに提出された演習の計画書だが、その後、演習の報告書が見あたらないので、ひょっとすると2月3日~4日はほんとうに雨天で中止だったのかもしれない。
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防弾土塁.JPG
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 次に落合村が登場するのは、1911年(明治44)2月15日~18日の4日間にわたって行われた演習だ。この演習を最後に、落合地域とその周辺で行われた、大規模な演習に関する文書は発見できないが、戸山ヶ原Click!にある近衛騎兵連隊Click!による小規模な演習は、随時引きつづき周辺で行われていたのだろう。
 ただし、大正期に入ると東京市の西北近郊における住宅街の形成が急ピッチで進み、同時に演習に対する住民たちのクレームや抗議が比例して急増したため、陸軍はより遠い郊外へと演習地を移動せざるをえなくなる。では、かなり具体的な計画書である、1911年(明治44)2月13日の陸軍文書から引用してみよう。
  
 近衛師団連合演習ニ関スル通牒/陸軍省副官 竹嶋音次郎/別紙想定並ニ左記ノ計画ニ依リ当師団連合演習ヲ施行相成候条此段及通牒候也/左記/一、演習施行日 二月十五日ヨリ同十八日建四日間/二、演習統監 近衛歩兵第一旅団長陸軍少将 林太一郎/三、第一日(二月十五日)ノ集合地及集合時刻/1.南軍ハ午前十時迄ニ下落合(高田西方)西北方約二千米二条実線路ノ三又点(二万分一地図-下落合-下赤塚道ト千川用水ニ沿フタル道路ノ交又点)附近ニ集合/2.北軍ハ右時刻(午前十時)迄ニ田無町東方約一里青梅街道ト千田用水トノ交又点附近ニ集合/四、予定演習地/1.第一日(二月十五日)中新井村(下落合西北方)ト田中村トノ中間ニテ遭過戦/2.第二日(二月十六日)扇町屋附近ニテ北軍ハ防禦南軍ハ之ヲ攻撃ス(以下略)
  
 かなり具体的な遭遇戦の計画書だが、「南軍」が集合した下落合の西北2,000mの「二条実線路ノ三又点」とは、いったいどこのことだろうか。
 「二条実線路」は鉄道のことではなく、2本の実線で記載された1/20,000地形図上の道路のことで、それが三叉路を形成している地点ということになる。下落合から2km北西というと、ちょうど現在の西武池袋線・江古田駅の手前あたりに相当する。
 「下赤塚道」とは、板橋の下赤塚村から南東の練馬方面へと下る道路で、現在の栄町本通りのことだ。また、「千川用水ニ沿フタル道路」は目白文化村Click!周辺の住民たちには買い物でお馴染みの練馬街道Click!(長崎バス通りClick!)のことだ。南軍は、清戸道Click!(目白通り)を椎名町Click!(江戸期に長崎村と下落合村に形成された街道町Click!)あたりまでくると、現在のトキワ荘マンガミュージアムのある南長崎通りを北西へ進み、すでに創業していた籾山牧場Click!を左手に見ながら、小竹富士Click!(現・江古田富士=茅原浅間古墳)が北に見える、千川上水沿いの練馬街道と下赤塚道の三叉路に集合したのだろう。
 この三叉路は、上板橋村と下板橋村、そして中荒井(中新井)村にはさまれた村境を形成する古い街道筋だった。現在は、江古田駅のすぐ南側にある「江古田駅南口」交差点のことで、戦後は道路が五叉路に改造されてクルマの往来が激しい。現住所でいえば、南軍の大部隊は練馬区旭丘1丁目界隈へ集合したことになる。
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三叉路集合地点.jpg
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 さて、大正後期になると、このような陸軍の演習は宅地化が進む落合地域では行われなくなるが、それに代わって問題化したのが、戸山ヶ原の大久保射撃場Click!からの流弾被害だった。同射撃場の周辺では、住宅に流弾が飛びこんでの死亡例や、特に外で遊ぶ子どもの死亡事故が発生しており、周辺の自治体が結束して抗議をつづけていたが、陸軍はなんら改善策を提示しなかった。そのため、怒った周辺の自治体が帝国議会を巻きこみ、ついに「近衛騎兵連隊と射撃場は出ていけ」運動を展開したのは、すでに記事Click!にしたとおりだ。

◆写真上:1910年(明治43)に、三重県千種村で実施された陸軍演習。
◆写真中上上左は、1982年(明治15)7月に近衛騎兵連隊と近衛歩兵第二連隊により下落合村とその周辺域で実施された演習文書。上右は、戸山ヶ原にあった近衛騎兵連隊の正門。は、1899年(明治32)の秋に実施された大演習の様子。は、1887年(明治20)2月に実施された近衛歩兵第二連隊第二中隊による落合地域での演習文書。
◆写真中下は、1908年(明治41)に実施された陸軍特別大演習の記念絵はがき。は、現在も戸山ヶ原に残る防弾土塁(三角山)Click!の一部。は、1911年(明治44)2に実施された近衛師団による南軍と北軍に分かれての大規模な会戦演習文書。
◆写真下は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる同演習における南軍集合地点までの道程。は、1880年(明治13)作成の1/20,000地形図にみる南軍が集合した三叉路附近の様子。は、三叉路があった「江古田駅南口」交差点の現状。(GoogleEarthより)

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女の子たちが遊べない街づくり。 [気になるエトセトラ]

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 この前、なぜだか“縁の下”の話になって、会話がおかしなことになってしまった。いまの若い子は、“縁の下”の意味がわからないかもしれないが、家の床下に掘られた食品や漬け物などを貯蔵する保冷庫のようなもので、昔の家にはたいてい備わっていた。わたしの家にも、設計時からふたつの縁の下を設置するよう図面に描き入れてもらっている。もっとも、いまの縁の下はむき出しの地面にコンクリートや簀の子を敷いたりはせず、ちゃんと衛生的な「床下収納ユニット」という既成製品があるのだが。
 その縁の下について、「うちのだいどこにもあるよ」といったら、相手が「エッ?」という顔をした。どうやら、「だいどこ」の意味がわからなかったようなのだ。「大床」すなわち和室の大きな床の間の下にでも、縁の下を掘ったのか「ウッソ~、信じられない!」と驚いたのかもしれない。台所は「だいどこ」「おだいどこ」(女性言葉)で、「だいどころ」と呼ばないのは東京方言、あるいは関東方言のひとつなのかもしれない。
 いつかも書いた、幕末や明治に起きた学校の教科書でも習う「打ち壊し」Click!を、子どもが「うちこわし」などと読んでいたので、「なにいってんだ。何もかもがうちこわしじゃ、おかしいだろ?」と訂正したことがある。「打ち壊し」は「ぶちこわし/ぶっこわし」、「打ち殺す」は「ぶちころす/ぶっころす」、「打ちのめす」は「ぶちのめす」、「打ちかます」は「ぶちかます」(こんな用語を子どもに教えてどうする?)が、江戸東京地方(おそらく関東地方も)では正解だ。そういえば、農村をまわっていた「箕作り」Click!の別名「箕打ち」は、「みうち」ではなく「みぶち」と呼ばれていた。
 最近、あまり使われなくなった東京方言に「引むく」というのがある。「引」は「ひん」と発音し、「あいつの面の皮を引(ひん)むいてやる」というような具合につかう。男子がイタズラして女子のスカートを「引(ひん)めくる」とか、親が子に「今度こんなことをしたら引(ひん)なぐるぞ」とか、重たい荷物を「引背負って(ひしょって)」苦労しながら山登りClick!したとか、親の世代では「引」という接頭語(強調)はさまざまな場面で、いくつかの発音に分かれてつかわれていた。そういえば、「背負って」「背負う」も「しょって」「しょう」であって「せおって」「せおう」とは発音しない。うぬぼれて天狗になった相手に、「あなた、せおってるわね」とはいわないだろう。
 なんだか、東京地方の方言をめぐる記事になるのは避けたいのだけれど、つい書きたくなってしまうのだ。もうひとつ、非常に引っかかって耳障り気障りな表現がある。「打」「引」と同じく、接頭語(強調)の「真」についてだが、「事件は、東京銀座のド真中で起きました」とかいう言葉を聞くと、つい「はぁ?」とTVのアナウンサーの顔をまじまじと見てしまう。「ド真中」ってなんだ? どこの言葉だい、「真々中(まんまんなか)」だろ?……と、ついTVに話しかけたくなってしまうから、もう歳なのだろう。
 ほんとうにリアルで「マジ」Click!なことは、古い言葉だが「真々事(まんまごと)」であって「ド真事」とはいわない。きれいな正円は「真丸(まんまる)」であって「ド丸」とはいわない、すぐ前のことは「真前(まんまえ)」であって「ド前」とはいわない。もっとも、TVのアナウンサーは「標準語」Click!教育を受けているのだろうから、薩長政府がデッチ上げた「標準語」Click!でそのような接頭語には「ド」が正しいと習うのであれば、この東京(関東)地方の言葉と対立しても、いたしかたないのかもしれない。
 地域方言に限らず、1964年(昭和39)の東京五輪をきっかけに“町殺し”Click!や、大震災で設置された防災インフラの食いつぶしや破壊・埋め立てなど、壊されつづけた(城)下町Click!については拙サイトでも繰り返し記事にしてきたけれど、そんな(城)下町から目白へ避難してきた“神田っ子”の高橋義孝Click!は、開き直ってこんなことを書いている。1964年(昭和39)に文藝春秋新社から出版された、『わたくしの東京地図』から引用してみよう。
わたくしの東京地図函.jpg わたくしの東京地図奥付.jpg
代々木八幡宮女の子.JPG
  
 東京目白の百坪ばかりの土地とその上に乗っている家屋が私の一切である。私が帰り行くべき故郷は現在ではそこしかない。しかしそんなものが果して「故郷」といわれようか。/そこまで考えてきて私はこんなことも思ってみる。成程、現在の神田は昔の神田ではなく、昔の、自分が生れ育った神田は、過ぎ去った時間同様に、もう永遠に失われてしまった。また現在の目白の家屋敷にしたところが今書いたようなわけである。普通の意味での故郷は私にはない。その代りこの東京という大きな化物みたいな都会の全体が私の故郷なのだ。錦糸堀にいようと谷中にいようと、東京の中でなら、どこにいようと私は「故郷」にいるのである。だからわざわざ銀座へ出かけて行ったり、新宿をほっつき歩いたりすることは要らないわけだ。目白の陋屋裡に仏頂面をして坐っていれば、すなわち私は故郷に安坐しているのである。
  
 高橋義孝は、関東大震災Click!戦災Click!の二度にわたる、壊滅的なダメージを故郷・神田に受けているわけだから、東京都あるいはもう少し範囲を狭めてみれば23区(の東側)が、自身の「故郷」だと割り切って開き直れるのかもしれない。
 でも、わたしは東京五輪1964をきっかけに、その後もつづいた“破壊”しか見ていないし、それ以前のいまだ東京の街らしい風情や人々の生活(人情)が残っていた光景を、子どもながら目の当たりにしているわけだから、「23区」が故郷とはどうしても開き直れない。わたしの見た風景は、「もう永遠に失われて」はいないので、いさぎよく諦めきれないのだ。ぐちぐちと、日本橋Click!の上に架かる高速道路の打っ壊し(ぶっこわし)を、「最長2041年ではなく、もっと早くできないの?」と応援し催促していたりする。
 うちの子どもたちは、もちろん東京新宿の下落合が故郷で“落合っ子”になるのだろうが、わたしは「故郷はどちら?」と訊かれたら、いつでも迷わず「日本橋です」と答えるだろう。高橋義孝のように、故郷の神田をどっかへうっちゃって、東京23区(の東側)に敷衍して気をまぎらわせることなど、とても考えられない。他の街よりもかなり広い東京の「町っ子」(ちなみに得体の知れない「江戸っ子」Click!などではない)のイメージや意識が、親たちによってイヤというほど教育され、頭の中に刷りこまれているせいだろう。
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 話はガラリと変わるが、高橋義孝は戦時中に目白の鶉山(現・目白2丁目)にある「陋屋裡」へ帰る途中、面白い光景に出くわしている。テキヤが商売(バイ)でつかう啖呵の売言葉Click!で、渥美清Click!がよく真似をしていた「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ち小便」を地でいくような、目白界隈ではちょっと見られそうもない変わった光景だった。つづけて、同書より引用してみよう。
  
 戦時中はよく歩いた。友人の近藤圭一君の旧宅は牛込の矢来下にあった。家を改造したら、手打ちの四角な釘が出てきたというほどの古い家に住んでいた。この近藤家でしたたかに酒を喰らって、目白坂を上って雑司ヶ谷(ママ:目白町)の鶉山の私の家まで深夜の道を歩いて帰る。人にも車にも出会うことがない。/ある夜、例の如く酔って歩道をのろのろと目白の家へ向って歩いていると、一軒の家の表のガラス戸が開いて、いきなり水が外へ迸(ほとばし)り出た。驚いて、とびのき、よく見ると、そこのうちのお上さんが戸口にしゃがんで小便をしているのであった。自分のうちの戸口から外の歩道へ小便をする女がいるとは驚いた。今でもそのうちの前を通ると、必ずあの深夜の小便のことを思い出させられる。(カッコ内引用者註)
  
 立ち小便ではないが、歩道に向けて放尿する「粋な姐ちゃん」ならぬお上さんClick!が、戦時中は目白界隈にもいたらしい。真夜中なので、誰も見ていないと思ったのだろうが、大学(旧制高等学校)のセンセにしっかり見られてしまった。渥美清の啖呵調でいうなら、「チャラチャラ流れる御茶ノ水、目白の奥さま闇小便」てなことになりそうだ。
 戦前・戦中には、こういう気の置けないというか、(城)下町風のざっかけないような街の雰囲気や気配も、いまではオツにすます目白の街には残っていたのだろう。そういえば、着ているものを洗いたくなると、なぜか次々に脱いで真っ裸になりながら、人目もはばからず洗濯機をまわしているお上さんClick!も、目白駅近くのどこかに住んでいたっけ。こういうつまらない、というか飾らない(というかしょうもない)光景の中に、妙な緊張をせず安心して気のゆるせる“白黒清濁”あわせもつような生活や、変に気どらずトゲトゲしさのない穏やかな街が形成されていくのかもしれない。
 東京の街角を散歩していて、わたしが子どものころと大きくちがうなと感じるのは、小学生ぐらいの女の子たちがそこらへんで遊んでいないことだ。男の子たちはそこそこ見かけるのだけれど、女の子たちの姿がまるで見えない。少子化のせいといってしまえばそれまでだし、防犯のためといえばそうなのだろうし、街のコミュニティが希薄なので室内でゲームをしてくれてたほうが安心なのかもしれないが、子どものころ親に連れられて故郷のあたりを歩くと、街中でわがもの顔に遊び闊歩する女の子たちの姿をあちこちで見かけた。
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 つまり高橋義孝の「故郷の神田」や、小林信彦Click!“町殺し”Click!とは、早い話が街の真々中(まんまんなか)で女の子たちが安心して遊べない街づくり、気の抜けた行儀の悪いどこかのお上さんが、深夜にガラス戸を開けて「はばかりさま」と用足しするのを許さない(爆!)ような街づくりをいうのかもしれないな……などとぼんやり考えていたら、どこからか高橋教授の「女の子のことなんぞ書いてない!」と、お叱りの声が聞こえてきそうだ。

◆写真上:近くの雑司ヶ谷鬼子母神で、おめかしした女の子たちを見かけた。
◆写真中は、1964年(昭和39)に出版された高橋義孝『わたくしの東京地図』(文藝春秋新社)の函()と奥付()。は、代々木八幡宮の境内にて。
◆写真下:写真随筆集の『わたくしの東京地図』には、東京の(城)下町でわがもの顔に遊ぶ、たくさんの女の子たちの姿がとらえられていて愛おしい。掲載のモノクロ画像は、同書のためにカメラマン・山川進治が1964年(昭和39)の街中へ繰りだして撮影したもの。

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ディーゼルエンジン開発に邁進した安達堅造。 [気になる下落合]

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 落合地域には、自動車の開発・製造に関連し、メーカーを創業した人物たちも何人か住んでいた。地元でもっとも有名なのは、下落合2丁目594番地(現・下落合4丁目の下落合公園が設置されている敷地)から、工藤邸→松平邸跡Click!の西落合1丁目281番地(現・西落合4丁目)に住んだ本田宗一郎Click!だろう。
 もうひとり、戦後の自動車業界とは切っても切れない人物がいた。陸軍で航空機の研究をスタートし、陸軍を辞したあとは航空産業界で活動して、下落合801番地の自邸内に「通俗航空知識研究所」を開設。同時に、ディーゼルエンジンの研究に注力しつつ、1935年(昭和10)に「日本デイゼル工業」を創業した安達堅造だ。その苦難の連続だった地道な開発は、安達の死後、敗戦後になって大きく花開くことになる。今日の、UDトラックス(旧・鐘ヶ淵デイゼル→日産ディーゼル→日本ボルボ)の創業者だ。
 安達堅造は、陸軍にいて航空機の研究・開発にたずさわったあと、1927年(昭和2)に逓信省および帝国飛行協会の嘱託として、ヨーロッパへ視察旅行に出かけている。その訪問先であるドイツで感銘を受け、強く印象に残ったのは自身の専門である航空機の技術ではなく、大型の自動車用に開発された最先端のディーゼルエンジンだった。クルップ社とユンカース社が開発・製造していた、世界初の上下対向ピストン式2サイクルディーゼルエンジンを見学して、「ディーゼルエンジンはガソリンエンジンよりも優れている」と実感し、その先見性と将来へ拡がる可能性を強く感じたのだろう。
 彼は帰国後、日本におけるディーゼルエンジン開発の可能性を探りつつ、出資者を募って1935年(昭和10)に日本デイゼル工業を設立することになる。その3年前に記録された、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 正五位勲四等/民間航空業者 安達堅造  下落合八〇一
 東京府安達重固氏の二男として明治十四年六月を以て出生、高等師範学校附属中学校を経て明治三十五年陸軍士官学校を卒業す、同年陸軍歩兵少尉に任じ爾来累進して大正十二年歩兵中佐に陞(のぼ)り同十四年航空兵中佐に転科す、此間航空第二大隊附陸軍航空本部員、関東戒厳司令部航空課長に歴任し後民間航空事業に(ママ:を)志し 昭和二年逓信省及帝国飛行協会の嘱託に依り欧州各国を飛行歴訪し 航空事業の実際を観察研究し 帰朝後航空輸送会社設立準備調査委員会幹事となり、現に帝国飛行協会嘱託及同審査員、報知新聞社嘱託たり、世界航空の現勢航空公私法研究等航空に関する著作数多あり、又自宅に通俗航空知識研究所を設置し、中等学校教職員の為めに蘊蓄を傾注しつゝある。(カッコ内引用者註)
  
 まず、安達堅造の住所が興味深い。下落合800番地台といえば、大正期から洋画家たちのアトリエが林立していた、薬王院の森の西側にあたる一画だ。
 彼の自邸がある周囲は、下落合800番地の有岡一郎Click!鈴木良三Click!鈴木金平Click!が住み、関東大震災Click!の直後には鈴木良三アトリエでは中村彝Click!も避難生活をしている。また、下落合803番地には柏原敬弘Click!が、下落合804番地には鶴田吾郎Click!服部不二彦Click!がアトリエをかまえていた。
 すなわち、夏目利政Click!が設計したアトリエ開発が盛んだったとみられる、下落合の「アトリエ村」Click!とでもいうべき一画に安達堅造は住んでいた。1926年(大正15)に作成された「落合事情明細図」を参照すると、名前が「安達堅三(堅造)」と誤採取されているが、下落合800番台の角地にある大きな屋敷に住んでいたのがわかる。
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 上記の紹介文を見ると、一貫して航空機畑を歩いてきた人物のように思えるが、1932年(昭和7)に『落合町誌』が執筆されたころには、すでに航空機よりも自動車のディーゼルエンジン開発計画のほうへ注力していたと思われる。このとき、安達堅造は出資者を集めてドイツから日本におけるディーゼルエンジンの特許権を購入し、専門会社の設立とともに国産化への準備を進めていたものだろう。
 陸軍を退職し、軍用機の研究・開発からはいったん離れたものの、軍用にも利用できる大型自動車の開発を手がけるため、古巣の陸軍にも出資を呼びかけていたにちがいない。事実、彼が創立した日本デイゼル工業会社の製造情報は、陸軍と共有していたことでも明らかだ。それは技術情報の共有ばかりでなく、役員人事にいたるまで陸軍に報告されており、兵器ではなく民生品なので「国策会社」とまではいかないまでも、常に陸軍の需要を意識したアライアンス体制だった様子をうかがわせるものだ。
 日本デイゼル工業は1936年(昭和11)、ドイツと同じ仕様で日本初となる上下対向ピストン式2サイクルディーゼルエンジンの実用化をめざし、本格的な開発をスタートしている。同エンジンを実際に自動車へ搭載するために、翌1937年(昭和12)にはドイツのクルップ社からディーゼルエンジンが装備された大型バスを輸入している。開発当初から普通乗用車ではなく、燃費がよく馬力が強いディーゼルエンジンは、民生のトラックやバスなど大型車両への導入が計画されていた様子がわかる。
 UDトラックスのWebサイトから、創業時の様子を少し引用してみよう。
  
 ディーゼル車は、1920年代に欧州で発達した。創業者の安達堅造(1880-1942)は、1927年に欧州の産業界を視察した際、このディーゼル車に注目した。安達は「ディーゼルエンジンは、馬力、燃料消費量など多くの点でガソリンエンジンに優れている」と記録に残している。(中略)  安達は「自らの力でディーゼルトラックをつくりたい」と考え、ドイツのクルップ社と特許権の許諾交渉を始めた。同時に会社づくりに取り組み、1935年12月、日本デイゼル工業(現 UDトラックス)を設立した。 翌年、川口工場の建設を進めた。一方、技術の修得のために技術者を欧州に派遣し、ドイツから2人の技師を招いた。最新の加工機械も輸入して、1937年からいよいよディーゼルエンジンの製造に取り組んだ。 2年にわたって製造技術とともに品質に対する基本的な考え方を学んだことで、高品質で耐久性の高い部品を製造できるようになった。/当社初のディーゼルトラックとして「LD1型貨物自動車」を完成させる。
  
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UDトラック2.jpg
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 「LD1型貨物自動車」とは、1938年(昭和13)に直列2気筒60psのディーゼルエンジン(ND1)を搭載した、2.5tトラック1号車のことだ。この間、日本デイゼル工業の経営は苦しかったようで、借入金を返済するために陸軍からトラックにはまったく関係のない、航空機や砲弾など部品加工の仕事を下請けして倒産の危機をしのいでいたらしい。
 1939年(昭和14)12月末に、安達堅造は日本デイゼル工業の代表取締役を下りているが、経営不振の責任をとったかたちではあるものの、無理を重ねて身体を壊していたのではないだろうか。安達堅造は、太平洋戦争がはじまる直前の1941年(昭和16)に死去しているが、その前年1940年(昭和15)2月に陸軍はようやく社長交代の人事を承認している。それから、わずか1年で死去しているところをみると、なんらかの健康上の理由で日本デイゼル工業の経営から身を引いた可能性がある。
 その後の同社の経緯は、UDトラックスのWebサイトなどを参照していただきたいが、下落合801番地の安達堅造は日本デイゼル工業を創業するとともに、同住所から転居しているとみられる。上掲の紹介文にもあるように、創業の翌年1936年(昭和11)に埼玉県川口へディーゼルエンジン製造工場を建設しているが、同社の本社機能は東京にあり川口へは移転していないのだろう。そこで、落合地域の地図を片っぱしから調べたが、残念ながら「日本デイゼル工業」のネームを発見することはできなかった。
 ただし、下落合801番地から転居した、新たな安達堅造邸を発見することができた。1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、下落合1丁目476番地に同邸が採取されている。七曲坂Click!筋を北へ進み、目白通りへと抜ける少し手前の左手(西側)の路地を入った突きあたりの大きな屋敷だ。南西側の斜向かいには、機関紙「科学と宗教」を発行していた下落合482番地の特異なキリスト者・佐藤定吉が経営する佐藤化学研究所Click!が建っていた。ひょっとすると、新たに建設したモルタル・スレート葺き仕様とみられる下落合の安達邸が、日本デイゼル工業の本社機能を兼ねていたのかもしれない。
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 わたしは、どこかで同社の系譜であるディーゼルエンジンを搭載したバスや列車、フェリー、クルーザーなどへ、それと知らずに乗っているのかもしれない。ガソリン車に比べ、大型の専用車両や船舶に搭載されたエンジンなので目立たないが、燃料の排ガスに含まれるNOxやCOxの課題を解決しない限り、2050年までは生き残れないのではないだろうか。

◆写真上:日本デイゼル工業が開発した、2.5tトラックの「LD1型貨物自動車」。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合801番地の安達堅造邸だがネーム採取をまちがえている。は、道の突きあたりが同地番の安達堅造邸跡。は、1936年(昭和11)建設の日本デイゼル工業川口工場。
◆写真中下は、日本デイゼル工業が製造したトラックと安達堅造。は、開発中のトラックをテストする同社の社員たち。下左は、晩年の安達堅造。下右は、陸軍省へ社長交代を認可申請する1939年(昭和14)12月27日の日本デイゼル工業の文書。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合1丁目476番地の安達堅造邸。日本デイゼル工業本社は、同所に置かれていたのかもしれない。は、突きあたり左手一帯が同邸跡。は、1940年(昭和15)2月12日の陸軍省による社長交代の承認書。承認に1ヶ月半もかかったのは、安達堅造本人の意思を確認している可能性が高い。

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「日本心霊学会」のスムーズな転身。 [気になる本]

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 以前、上落合にある(財)日本心霊科学協会Click!について記事にしたことがある。大正時代の中期から後期にかけ、日本は「心霊」ブームのさなかにあった。それは、今日のようにオカルト的な視点からの「心霊」現象ばかりでなく、目に見えない存在あるいは目に見えない力に対する、自然科学や人文科学の視座からのアプローチによるもので、あくまでも不思議な現象をさまざまな仮説を立てて、科学的に検証しようとした時代だった。
 この点をよく念頭に置き、当時の「心霊」関連の団体や活動を見ないと足もとをすくわれることになる。先にご紹介した上落合の日本心霊科学協会は、おもに「霊界(幽霊)」の存在を肯定する立場からの活動だったが、同時期に京都で産声をあげた今回ご紹介する「日本心霊学会」の「心霊」は、その唯心論的な立場からおもに「霊力」、すなわち未知の「精神力」「治癒力」「自然力」の存在について科学的に究明する団体だった。
 だから、現在の精神分析医が用いる催眠術も、当時は「心霊」による効果(精神・治療力)現象としてとらえられており、パラサイコロジー(超心理学)分野のテーマであって、今日のオカルティズムやスピリチュアリズムとはかなり趣きが異なる点を考慮しないと、大きな勘ちがいを生じることになる。すでに原子や電子(素粒子)の存在は知られており、目に見えないそれらの「運動(力)」によってあらゆる世界や宇宙が存在・成立しているということは、人間の内部にも目に見えない力=「心霊(力)」Click!が存在している可能性が高い……と仮定した、科学的な追究であり証明へのプロセス(頓挫するが)だった。
 そう考えてくると、下落合356番地Click!に住んだ岡田虎二郎Click!「静坐法」Click!も、また下落合617番地に住んでいた「光波のデスバッチ」Click!で患者を治す劇作家の松居松翁Click!も、今日の目から見ればたいへん奇異に映るが、当時ははるかに社会へ説得力をもって受け入れられていたのだろうし、また本人たちも大マジメで治療あるいは施術を行なっていたのだろう。「病は気から」であり、身体の「元気」や「気力」が弱まれば「病気」がとりついて身体がむしばまれていくという考え方が、現在よりははるかに科学的な仮説やテーマとして語られていた時代だった。
 たとえば、「真怪」Click!(科学的に説明不能な現象)以外の幽霊話・妖怪譚・迷信などを全否定する、落合地域の西隣りに接する井上哲学堂Click!井上円了Click!は、ことさら催眠術や異常心理学に興味をしめしつづけたが、「病は気から」や「元気の素」など古来からいわれている有神論的な精神主義を、科学的な「心理療法」のなせるわざとして研究しつづけた人物でもあった。つまり、当時の言葉でいえば科学的な「心霊(精神)」力をもってすれば、病気の治療Click!には心理学的にたいへん有効かも……ということになる。
 ちょっと余談だけれど、井上円了Click!は英国のテーブルターニング理論を応用して、日本の「こっくりさん」を徹底して調査・研究し、生理的あるいは心理的な作用による現象のひとつだと解明(『妖怪玄談』など論文多数)していたはずだが、いまでは彼の科学的理論などとうに忘れ去られ、相変わらず「こっくりさん」や「ウィジャボード」は子どもたちを中心に好かれ、21世紀の今日でさえ「不思議」で「不可解」なおキツネさん現象などとして素直に受け入れられている。
 科学的な解明が、とうに行なわれているようなテーマであっても、人がそれを「受け入れたくない」「分かりたくない」あるいは「不思議大好き」というような心理が大きく働けば、科学がいかに“無力”であり「心霊」=精神の力が大きく作用するかの見本のような“遊び”だろう。つまり、目に見えない原子や電子が宇宙規模で存在して法則的な運動をしているのなら、いまだ科学的に解明されていないだけで、目に見えない「心霊」力=精神力を構成する微小物体の法則だっていつか見つかるはずだというのが、大正後期から昭和初期までつづく「心霊」ブームを支えていた共通認識であり、科学的な仮定にもとづく「一般論=世界観」だったのだ。この文脈を押さえないで、「ほんとにあった怖い話」とか「呪いの心霊ビデオ」の「心霊」と同一視すると、大きな勘ちがいをおかすことになる……ということだ。
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 だからこそ、岡田虎二郎の静坐法や藤田霊齋の息心調和法、松居松翁の光波のデスバッチなどが、それほどマユツバでウサン臭く見られもせず、むしろ知識人や芸術家、実業家、官僚、教育者など論理的な思考回路を備えているはずの人々に案外たやすく浸透し、数多くの信奉者(あるいは信者)を獲得できていったとみられる。すなわち、宗教の教理や礼拝環境もまた「心理療法」の一種だととらえれば、あながちマト外れではないのだろう。古くから治療のことを「手当て」というが、患部に手を当てただけで痛みが緩和する「気」がする、その「気」(心霊)について研究していたのが京都に本部を置く日本心霊学会だった。
 2022年に人文書院から出版された栗田英彦・編『「日本心霊学会」研究』から、渡邊藤交による日本心霊学会の創立時の様子について引用してみよう。
  
 渡邊藤交(久吉)は明治四〇年前後に精神療法を学び、「心霊治療」を掲げて日本心霊学会を創始した。(中略) 当時、多数出現した霊術団体の中でも特に大規模な団体として知られていた。東京帝国大学心理学助教授で千里眼実験Click!や心霊研究で知られる福来友吉Click!、福来の協力者でもあった京都帝国大学精神科初代教授の今村新吉、日本の推理小説文壇の成立に貢献した医学者の小酒井不木などとも交流があり、仏教僧侶を中心に会員を増やしていった。大正期には「心霊」が社会を風靡した時代であり、文芸への影響も大きなものがあったが、その一角を担っていたのが、この日本心霊学会だったのである。
  
 また、大正期は民俗学の創生プロセスとも重なっており、日本心霊学会出版部の機関誌「日本心霊」には柳田國男Click!折口信夫Click!、西田直二郎らの研究も少なからず紹介されている。つまり、「心霊」治療を標榜する団体ではあっても、常にアカデミズムの自然科学や人文科学の諸分野とも結びつき、基盤のところで科学的な研究姿勢を崩さなかった側面が、同学会を大きく成長させた要因なのだろう。
 さらに、京都という地域の利をいかして薩長政府による廃仏毀釈以来、経営や事業に四苦八苦Click!しつづけていた仏教寺院の坊主Click!たちを、檀家や信徒たちに対する「心霊」治療の施術者として、全国的に取りこんでいった点にも、渡邊藤交をはじめ同学会出版部のターゲット設定とともに、優れたマーケティング戦略を感じる。
 1927年(昭和2)になると突然、日本心霊学会出版部は社名を変更している。この社名変更について、警視庁が隆盛をきわめた「心霊術」を取り締まる「療術講ニ関スル取締規則」を公布したからだとされているようだが、同規則の公布は1930年(昭和5)であって直接的には関係がないものと思われる。むしろ、大学を中心としたよりアカデミックな学術分野と結びつくためには、出版社の社名が「日本心霊学会」ではかなりマズイと考えたからだろう。
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 日本心霊学会の病気患者に対する治療術について、同書より少し引用してみよう。
  
 まず、活元呼吸という特殊な呼吸法をおこなって「丹田に八分の程度で気力を湛えると、一種の波動的震動を起す」。「これが光波震動である。この震動と共に病気を治してやろうとする目的観念を旺盛たらしめねばならぬ。目的観念とは予め構成したる腹案を念想する、つまり一念を凝せば腹案は遂に力としての観念となるものである。而して此観念が術者の全身に伝わり指頭を通じて弱者、即ち病人の疾患部に光波として放射集注するのである。之が終って又呼気を新たにし光波震動を起し病者の心身に光波感応する。此刹那の感応が人心光波の交感である。福来博士の所謂観念力一跳の境である、心霊学者の所謂交霊であり心電感応の現象である」。
  
 なにをいっているのか、意味不明のチンプンカンプンで思考を停止せざるをえないが、この施術で檀家や信者からいくばくかの謝礼をもらえるとすれば、檀家の少ない寺や墓をもたない寺には、副収入のいいアルバイトぐらいにはなっただろう。
 さて、拙ブログをお読みの方々は、どこかで日本心霊学会の本をすでに読まれているのではないかと思う。哲学や思想関連でいえば、版権独占のサルトルあるいはボーヴォワールの全集や著作集は、この出版社からしか前世紀には刊行されていなかったし、さまざまな専門諸分野の書籍や文芸書、少しかためな学術書や研究書などで同出版社はおなじみだ。大学の教科書や必読書、参考資料に指定されることも少なくなく、わたしは学生時代にサルトルの『自由への道』や『嘔吐』、ボーヴォワールの『第二の性』などを読んでいる。そう、日本心霊学会の出版部は、そのままイコール人文書院だったのだ。
 日本心霊学会の機関誌「日本心霊」は、1915年(大正4)から1939年(昭和14)まで発行されているので、同誌を編集し発行していたのは人文書院ということになる。人文書院では、「心霊」ブームが下火になることを見こしてか、昭和期に入ると学術書や文芸書を積極的に出版していくことになる。戦前に執筆している人物には、既出の心霊学者たちはもちろん、拙サイトへ登場している人物だけでも佐々木信綱Click!金田一京助Click!中河與一Click!岸田国士Click!前田夕暮Click!岡本かの子Click!円地文子Click!相馬御風Click!古畑種基Click!太宰治Click!若林つやClick!室生犀星Click!真杉静枝Click!舟橋聖一Click!などなど、いちいち挙げきれないほどの人々が執筆している。
 人文書院が自ら出版した『「日本心霊学会」研究』(2022年)だが、掲載あるいは挿入されている出版書籍の広告にサルトルの『嘔吐』やS.アーメッドの『フェミニスト・キルジョイ』、W.ブラウン『新自由主義の廃墟で』、B.エリオ『中島敦文学論』、野村真理『ガリツィアのユダヤ人』、C.ブリー『レイシズム運動を理解する』などが紹介されているのに、思わず噴きだしてしまった。同書は、日本心霊学会について真摯な研究論文としてまとめ、テーマや課題別に整然と掲載しているのだけれど、真摯でマジメに論じれば論じるほど、どこかユーモラスな雰囲気がにじみ出てくるような気がしないでもない。
野村瑞城「霊の神秘力と病気」1924.jpg 野村瑞城「霊の活用と治病」1925.jpg
日本心霊学会編「『病は気から』の新研究」1926.jpg 小酒井不木「慢性病治療術」1927.jpg
サルトル「自由への道」1978.jpg 人文書院『「日本心霊学会」研究』2022.jpg
 日本心霊学会は、スマートかつ見事に学術専門のアカデミックな出版社へと脱皮し、戦後も順調に事業を継承してきた。それは、『漱石全集』を出すことで神田の古書店から学術出版社へと変貌した、岩波書店のように鮮やかだ。でも、日本心霊学会=人文書院と聞いてもいまだに消化しきれず、「ほんまに、たいがいにおしやす」の部分が残るのだけれど。w

◆写真上:病気の患者を心霊治療中の、日本心霊学会に所属する施術師。
◆写真中上は、日本心霊学会のバイブルだった1925年(大正14)出版の渡邊藤交『心霊治療秘書』()と渡邊藤交()。は、機関紙「日本心霊」の膨大な封入作業。は、壁一面に積み上げられた機関誌「日本心霊」の入った封筒。
◆写真中下は、荷馬車による機関誌「日本心霊」の郵便発送作業。中左は、1918年(大正7)に出版された日本心霊学会編『現在及将来の心霊研究』。中右は、1925年(大正14)出版の今村新吉『神経衰弱に就て』。は、1925年(大正14)に出版された福来友吉『観念は生物なり』()と、1926年(大正15)出版の同『精神統一の心理』()。
◆写真下は、1925年(大正13)に出版された野村瑞城『霊の神秘力と病気』()と、1925年(大正14)に出版された同『霊の活用と治病』()。中左は、1926年(大正15)に出版された日本心霊学会・編『「病は気から」の新研究』。中右は、1927年(昭和2)に出版された小酒井不木『慢性病治療術』。下左は、1978年(昭和53)に人文書院から出版されたサルトル『自由への道 第一部/分別ざかり』。下右は、2022年に人文書院から出版された栗田英彦・編『「日本心霊学会」研究―霊術団体から学術出版への道―』。

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子どものころから使いつづけるモノ。 [気になるエトセトラ]

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 子どものころから、いまでも現役で使いつづけている文房具は、線引きと1本の万年筆Click!を除けば、ただのひとつも手もとにない。それほど、文房具の機能的な進化はこの50年でめざましいものがあったのだろう。考えてみれば、古い文房具や小物を整理したのは、学生を卒業した1980年代に入ってからのような気がする。中には、引っ越しをするうちに廃棄されたものも多かったろう。また、「消費は美徳だ」などといわれていた時代、多くのメーカーは耐久性の高い長もちする製品を生産するはずもなかった。
 初めて文房具と接したのは、幼児期のクレヨンやクレパス、色鉛筆、画用紙なのだろうが、文房具が勉強するための道具だと認識したのは、もちろん小学生に入学してからだと思う。鉛筆に筆箱、消しゴム、下敷きなどを親が買ってくれ、鉛筆は学校へ毎日削ってもっていくようになった。鉛筆削りは、親が手動式のものを早くから買ってくれた憶えがあるが、鉛筆自体をグルグルまわして削る、いろいろなデザインのオモチャのようなミニ鉛筆削りや、筆箱に入る剃刀の刃をつけた折りたたみ式の薄くて小さな鉛筆削りも売られていて、やたら欲しくなったのを憶えている。
 また、分度器やコンパス、ノート、線引き、絵筆、絵の具、画用紙、半紙、毛筆、墨などを買いに文房具屋Click!へ通う機会が増え、そこでは目移りするようなさまざまな文房具が、店内の独特な「文具の匂い」とともに売られていた。当時、自宅近くの文房具屋には、子どものころのことなので漢字は思いだせないが「シンキ堂」や「スズ屋」、「サクラ文具店」といった店が営業していたが、もちろんいまでは1軒も残ってはいない。
 わたしが使っていた鉛筆は、小学生のときはおもにスタンダードな三菱鉛筆Click!だったが(トンボやコーリンにはあまり縁がなかった)、中学生のころから三菱Hi-uniやuniと名づけられた、芯の減りが少なくが長持ちする高級鉛筆を使うことが許された。当時は、普通の鉛筆が1本10~20円だったのに対し、高級鉛筆は1本100円(Hi-uni)もした。また、鉛筆を削るたびにいい匂いのする「香水鉛筆」や、やたらスリムでパールピンクやパールブルーの鉛筆も出まわり、女子たちに人気でよく筆箱に入れては級友たちと“比べっこ”(自慢のしあい?)していたのを憶えている。こんな鉛筆を、なぜかたまに男子が筆箱に入れていたりすると、「おまえオンナか? 気持ち悪り~」などとバカにされていた。
 これらの鉛筆は、HBの硬さを使っていたけれど、いまなら手や指に負担の少ない、ゆるい筆圧でも書けるBか2Bぐらいの柔らかいものを選ぶだろう。もっとも、当時の柔らかい鉛筆は芯が折れやすく、Bや2Bだと不経済だったのかもしれないが……。高校時代からは、いちいち芯を削る必要のないシャープペンシルを愛用していた。鉛筆よりもやや重たいが、芯はHBではなくBや2BのHi-uni・0.5mmを選んで使っていたが、急に芯がなくなったり、芯がどこかに詰まってシャーペン自体が使えなくなると、特にテストのときなど困るので、常に予備のシャーペンや芯を筆箱の中に入れていた。
 筆箱といえば、小学校へ入学するとき初めて親が買ってくれた筆箱は、プラスチックかセルロイド製のスマートな箱型の製品だったと思うのだが、落としたりするとすぐに欠けたりヒビがはいったりするので、ファスナーつきのビニールでできた折りたたみ式の筆箱が欲しくなり、親にねだって買ってもらった。だが、男子が筆箱をていねいに扱うはずもなく、中学生になるころまで何度か買いなおした記憶がある。でも、不思議なことに中身の文具類はけっこう憶えているのに、筆箱の意匠やカラーの記憶が曖昧なのは、筆記用具に比べてあまりデザインや仕様に興味が湧かなかったからだろう。
 子どものころの文房具について、故郷が同じの大空望Click!は、2017年(平成29)に文藝春秋企画出版部から刊行された『昭和あのころ』の中で、こんなことを書いている。彼は、わたしより10歳余も年上だと思うので、物価の記憶が異なるが少し引用してみよう。
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 他には三菱のユニがあったが、トンボやコーリンが僅か十円の時代、ユニは五十円だった。三菱の自信の程が窺える。当時、盛り掛け蕎麦が二十五円、拉麺が三十円、カレーライスや炒飯が四十円であった。五六年に矢ノ倉にトンカツ屋ができるが、お昼のサービス定食は四十円だった。(中略) こちらと来たらセルロイドの筆箱は落して割ってしまったのでポリエチレンの丈夫な物(正しくゾウが乗っても壊れない)。鉛筆は予備合わせて三本だ。鉛筆削りは肥後守の一生物。消しゴムはワシ印の一番安い十円物だ。私等からしたら回転式より肥後守の方が使い易い。しかし、横山町人種の鉛筆削りに付いている万年暦を見ると複雑な気持ちにさせられる。こちらは正面黒板の右下に書かれた月日と曜日で時の観念を刻んでいるのだ。
  
 「横山町人種」とは、東日本橋の西隣り、日本橋馬喰町の南東に位置する日本橋横山町のことで、大阪の船場と同じように昔から繊維問屋が建ち並んでいた、おカネ持ちの家々にいる子どもたちのことだ。おそらく、そこそこの中堅企業の社長よりも、はるかに所得が多かった家庭の子どもたちなので、かなり贅沢な暮らしをしていたのだろう。
 そういえば、子どものころにはよくTVから、文房具のCMも流れていた。文中の「ゾウが乗っても……」とか「スギカキスラノ ハッパフミフミ」、「折れないシャーペン芯」などさまざまなCMが思い浮かぶ。消しゴムの想い出は少ないが、わたしの世代ではかなり濃い筆記でも「たちどころに消せる」、砂入り消しゴムというのが流行った記憶がある。鉛筆に限らず、ボールペンや万年筆の筆記も消せるということでブームになったのではないだろうか。また、「消しゴム」と呼ぶが、わたしの時代ではプラスチック製の製品が普及してきて、中学や高校ではすでに使ってたように思う。
 小学校の高学年になったとき、親が万年筆と腕時計を買ってくれた。万年筆はパイロットで、腕時計は当時流行っていた自動巻きの「セイコー5」だった。万年筆は、別に学校では用がないので、たまに手紙やはがきを書くとき、あるいは年賀状のあて名書きに使っていたように思う。つづいて、親父が海外出張のお土産にパーカーの#75(スターリングシルバー)万年筆をくれた。これは書き味が気に入って、いまでも現役(あちこちガタがきて引退寸前だが)で手もとにあり、なんとか生存している。中学時代には、なにかの懸賞で当選したスワン万年筆も使っていた。この地味な国産万年筆も、思いのほか使いやすかったのだが、数年で軸にヒビが入ってダメになった。
 なお、ボールペンにはあまり縁がないのか、わたしは使った記憶がほとんどない。むしろ、ボールペンは大人になってからのほうが、仕事で多用していたように思う。
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 大空望も、わたしと同じような環境だったようだ。同書より、つづけて引用しよう。
  
 中学に入ると祖母が万年筆(パイロット)、腕時計(セイコー)、大型の回転式鉛筆削り、ペン立て、坐り机を贈ってくれたが、中学生が万年筆等は使わないし。腕時計はステンレスに気触(かぶ)れる体質なので、これはパス。第一、学校では玄関口を始め職員室にも各教室にも時計があるから必要ない。時計の発条(ぜんまい)巻き当番さえいるのである。鉛筆削りは芯をパスして削れるので、これにマッチ箱の内サイドに紙鑢を貼って気に入った角度に仕上げた。ペン立ては中学では使わなかったが高校に行ってから短歌と読書随想(略)を始めており、その清書用に漬けペンを用いたので大いに重宝した。中学時代はレポート用紙は使わなかったが、高校に入って大いに利用した。
  
 わたしも中学に入ると、祖父が新しい文房具Click!一式を贈ってくれたのを憶えている。だが、プレゼントされた鉛筆類が大手メーカーの製品ではなく、当時はまだ街中で製造していた中小鉛筆メーカーの町工場製Click!のものだったらしく、芯がやたら折れやすくて辟易したのを憶えている。祖父には悪かったけれど、贈られた鉛筆や文具類を学校で使った憶えがない。このプレゼントから1年ほどの正月に、祖父は「お獅子がくる」Click!といって死んでしまったので、そのときの達筆な手紙は大切に保存してあるが……。
 文中に時計の「発条巻き当番」の記述があるが、わたしの時代には学内の時計はみな電気・電池式で、しかも各教室には時計などなかったから、生徒たちの腕時計は必須アイテムだった。小学生のときにもらった、初期型の「セイコー5」(自動巻き)は50年余が経過したいまでも現役で動いており、先日リストバンドの調整でもちこんだ近くの時計店の主人に、「まだ動いてるんですねえ!」とビックリされた。わたしが中学生のとき、ヨーロッパに出張した親父からオメガの自動巻きをお土産にもらったが、こちらは防水機構が脆弱だったせいで学生時代に壊れたため、8年ともたなかったのではないか。
 いつまでも、子ども時代の「セイコー5」をしているわけにもいかず、以降、国内外のさまざまな時計メーカーの製品を試してみたが、保守メンテナンスにほとんど手間がかからず、山でも海でもどこで使っても頑丈で、落としてもぶつけても叩いても壊れない製品は、時計専業メーカーの日本とスイスの2社のみだった。製造プロセスの品質管理や、昔ながらの職人技がしっかりと継承されているのだろうが、ほかの腕時計はどこかに脆弱性があって10年以内に壊れるか、不具合を起こして動きが不精確になった。ちなみに、電池がなければ動かないクォーツ式は嫌いなので、わたしは使っていない。
 同書では、「文房具もそうだが、道具の類はいい物を買って置くに限る。たとえ高価でも一年限りで駄目になる物より十年は使える物を買うべきだ」と結んでいるが、わたしもまったくそのとおりだと思う。近ごろの傾向として、外国製(最近は中国製が多いだろうか?)の安くて見栄えのいいモノに目が移りがちだが、1年で壊れるモノよりは10年使えるモノ、10年で使えなくなるモノよりも50年はもつモノを選びたい。別にメーカーの宣伝をするつもりはさらさらないが、モノづくりメーカーの矜持と職人の厳格な技、技術やノウハウの蓄積、そして品質管理が徹底している信頼できるモノを選ぶこと、これにつきると思うのだ。
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 でも、これら文房具や小物を使う機会がだんだん減ってきて、特に筆記用具に関していえばキーボードをたたくよりも、はるかに利用シーンが少なくなっている。40代までは確実にあった、中指の固いペンダコも、いつのまにか柔らかくなってほとんど消えてしまった。だからといって、親指にゲームダコができるほど、子どものころからICTデバイスに馴れているわけでもない。のちの世代から見れば、わたしたちはきっと社会がアナログからDXへの過渡的な人々、まるで文明開化を目のあたりにして右往左往していた人々と同様に、“急加速する社会”を苦労し疲弊しながら生きた人々……などと記憶されるのかもしれない。

◆写真上:鉛筆はダースで買うより、少し高価なものを1本選んで買うのが好きだった。
◆写真中上は、鉛筆のスタンダードだった三菱鉛筆。1887年(明治20)に、内藤町(現・新宿区)で創業した日本で最古の本格的な鉛筆メーカーだが、いまだに旧・三菱財閥のグループ企業だと勘ちがいしている方が多い。のちに起業する旧・三菱財閥は、現代なら名称や商標権の侵害で告訴されるだろう。は、1本100円もするあこがれだった「Hi-uni」。は、削るといい匂いがした香水鉛筆はこんな感じのデザインだった。
◆写真中下は、携帯用のミニ鉛筆削り。は、よく使った剃刀の折りたたみ鉛筆削り。は、わたしの世代ではもはや使わなかった肥後守(ひごのかみ)。
◆写真下は、衝撃ですぐに割れたセルロイド筆箱。は、ファスナーつきの折りたたみ式筆箱でよく使った仕様モデル。は、小学生の時から動きつづけるセイコー5。オーバーホールは一度しかしていないが、日本のモノづくりを支えた技術者たちの誇りを感じる。
おまけ
 本文とは関係ないが、こんなケーキを作れる職人がいまだ健在なのがうれしい。チョコでコーティングされた中身がバタークリームなのも、子ども時代と変わらずそのままだ。
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