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陸軍科学研究所の「安達部隊」1933。 [気になる本]

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 昨年(2022年)に、従来は「石井部隊」Click!(偽名「東郷部隊」→関東軍防疫(給水部)Click!731部隊Click!)による人体実験と考えられていた、1933~1934年(昭和8~9)の「満洲」における「四平街試験場」(交通中隊内試験場)での出来事は、同部隊ではなく戸山ヶ原Click!の陸軍科学研究所(久村種樹所長時代)から派遣された、「安達部隊」による毒ガス実験であったことが、ふたりの研究者によってほぼ同時に解明されている。
 ふたりの研究者とは、戦後に731部隊の軌跡を徹底して追いつづけている神奈川大学名誉教授の常石敬一と、戸山ヶ原の陸軍軍医学校跡地で発見された人骨の究明に取り組む元・新宿区議の川村一之だ。前者は、高文研から出版された『731部隊全史-石井機関と軍学官産共同体-』(2022年)で、また後者は不二出版から刊行された『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程-』(2022年)で、期せずしてほぼ同時期に陸軍科学研究所の「安達部隊」へとたどり着いている。
 当時の石井部隊は、さまざまな細菌を収集して細菌兵器化へ向けた人体実験をするための準備と、実際に背蔭河へ「五常研究所」を建設し、偽名の「東郷部隊」として進出する準備とに追われていたはずで、「四平街試験場」に駐屯して人体実験をする必然性が感じられない点が、ふたりの研究者に大きな疑問を抱かせたとみられる。しかも、人体実験が細菌ではなく毒ガスだった点も、ことさら研究者たちの注意を引いたのだろう。
 そこで、この課題に対する調査資料となったのが、関東軍参謀本部の遠藤三郎が書いた日記、いわゆる「遠藤日記」を仔細に検討することだった。遠藤三郎は、11歳から91歳まで日々の出来事を記録しつづけており、日記は93冊(約15,000ページ)にまで及んでいる。ふたりの研究者は、ほぼ同時期に「遠藤日記」の記述に注目していた。
 常石敬一の『731部隊全史』から、日記の部分を含めて少し長いが引用してみよう。
  
 それに紛れ込む形で遠藤が安眠できなかった視察についての記載がある。一九三三年一一月一六日の記録だ。記述中の交通中隊が何かは不明だが、同行した安達の経歴が解明の手がかりとなるかもしれない。/(日記引用)一一月一六日(木)快晴 午前八時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き試験の実情を視察す。/第二班、毒瓦斯、毒液の試験、第一班、電気の試験等にわかれ各〇〇匪賊二(人)につき実験す。/ホスゲンによる五分間の瓦斯室試験のものは肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり、青酸一五ミリグラム注射のものは約二〇分間にて意識を失いたり。/二万ボルト電流による電圧は数回実験せると死に至らず、最後に注射により殺し第二人目は五千ボルト電流による試験をまた数回に及ぶも死に至らず。最後に連続数分間の電流通過により焼死せしむ。/午後一時半の列車にて帰京(満洲の新京)す。夜、塚田大佐と午後一一時半まで話し床につきしも安眠し得ず。(日記引用終わり)/安達と立花は陸軍科学研究所(略)の所員で二部の安達十九工兵大佐と一部の立花章一工兵中佐だ。(カッコ内引用者註)
  
 関東軍参謀の遠藤三郎が安眠できなくなるほどの、それは凄惨な人体実験だった。
 ここで、「ホスゲン」という毒ガスの名称が登場しているが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所Click!ではこの時期、さまざまな毒ガスの研究を行っていたとみられる。濱田煕Click!が描く戸山ヶ原Click!記録画Click!で、林立する煙突に独特な形状のフィルターが設置されていた情景が思い浮かぶ。同研究所では、ホスゲンを「あを剤」と呼称していた。
 ほかに、肺気腫から心不全を引き起こして死にいたらしめる毒ガスのジフェニルクロロアルシンを「あか剤」、皮膚や内臓に紊乱を起こすイペリット(マスタード)を「きい剤」、呼吸困難から窒息死させる青酸物質使用ガスを「ちゃ剤」などと呼んでいた。さらに、肺水腫を起こして窒息させる三塩化砒素(ルイサイト)、さらにマスタードと三塩化砒素を組み合わせたマスタード=ルイサイトなどの研究開発を行っている。これらの毒ガスは、のちに毒ガス工場で大量生産され実際の中国戦線へ投入されることになる。
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 陸軍科学研究所Click!の第二部は、もともと陸軍軍医学校の陸軍軍陣衛生学教室(のち化学兵器研究室併設)Click!からスタートしている。陸軍軍医学校の写真で、いちばん奥に見える4階建ての目立つビルがそれだ。その西側に位置する、731部隊の防疫研究室とは道路をはさんだ隣り同士で、アジア系とみられる大量の人骨が見つかったのは、軍陣衛生学教室の南側に建っていた標本図書室のすぐ東側だった。
 川村一之の『七三一部隊1931-1940』から、化学兵器研究について引用してみよう。
  
 もともと日本の化学兵器研究は小泉親彦が陸軍軍医学校で始め、毒ガスの基礎研究は陸軍科学研究所に引き継いでいる。石井四郎の細菌兵器研究の母体が陸軍軍医学校防疫部であり、後の防疫研究室であったのに対し、毒ガス研究は陸軍軍医学校の衛生学教室で始まり、化学兵器研究室が引き継ぎ、防毒マスクなどの研究を行なっていた。そのように考えると、石井四郎が毒ガス研究に関心を持つとは考えられない。/「日本陸軍省化学実験所満洲派遣隊」の名称から、考えられるのは陸軍科学研究所でしかない。日本の化学戦舞台であった関東軍化学部(第516部隊)が編成されるのはもう少し後のことになる。/このことから、陸軍科学研究所の「安達大佐」をキーマンとして調査することにした。
  
 実は、陸軍科学研究所第二部の大佐・安達十九と、第一部の中佐・立花章一は、すでに拙ブログへ登場している。1932年(昭和7)8月8日に作成された、下落合2080番地にいた久村種樹所長時代の陸軍科学研究所職員表Click!に両名とも掲載されている。
 「四平街試験場」(交通中隊内試験場)について、川村一之は憲兵隊の証言記録からも詳細な“ウラ取り”を行なっている。それによれば、「安達試験場長ら24名」を中心に約60名の部隊が派遣され、多種多様な毒ガス実験が繰り返された。だが、1934年(昭和9)にひとりの被験者が脱走したことで、ジュネーブ議定書違反の毒ガス研究が露見するのを怖れた「安達部隊」は、急いで四平街から撤収している。これは、20名前後の被験者が逃亡した東郷部隊(=石井部隊)の、背蔭河における「五条研究所」の撤収と同様だった。
 「四平街試験場」(交通中隊内試験場)からの「安達部隊」撤収は、いっさいの証拠を隠滅して行われ、留置場に監禁されていた残りの中国人被験者を5,000ボルトの電流で殺害あるいは失神させ、焼却炉に投げこんで焼殺している。この四平街における一連の人体実験と、戸山ヶ原の陸軍科学研究所でつづけられた「安達部隊」による研究開発が、既述のさまざまな毒ガス類を大量生産する大久野島の毒ガスプラント建設へと直結していく。
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早乙女勝元・岡田黎子編「毒ガス島」1994草の根出版会.jpg 岡田黎子「絵で語る子どもたちの太平洋戦争」2022(22世紀アート).jpg
 瀬戸内海に浮かぶ広島県大久野島は、現在では「うさぎ島」として知られており、数多くの野生ウサギ(1,000羽前後)が観光客からエサをもらってよくなつき、ヨーロッパやアジアからのインバウンドにも人気が高いスポットだ。大久野島は、陸軍の毒ガス製造工場が建設されると「地図から消された島」となり、以降、敗戦までルイサイトやマスタード=ルイサイト(「死の露」と呼ばれていた)、イペリットなどを製造していた。ジュネーブ議定書に署名(批准は1970年5月)していた日本は、それに違反する毒ガス製造の島全体を「なかったこと」にしてしまったのだ。ちなみに、陸軍科学研究所も昭和10年代には「地図から消され」、あたかも百人町の住宅街のように描かれている。
 以下の証言は、2017年(平成29)8月15日に放送されたNEWS23(TBS)の「私は毒ガスの“死の露”を造った」より、綾瀬はるかClick!の先年亡くなった藤本安馬へのインタビューによる。同工場には、工員になれば「給料をもらいながら学習ができる」という宣伝文句で、学業資金に困っていた多くの少年たちが集められ、また戦争末期には動員された女学生たちが数多く働いていた。工場の操業は24時間体制で、常時7,000人近い工員が勤務していた。だが、敗戦時までに毒ガスの漏えいなどで死亡した工員はのべ約3,700名、敗戦後も慢性気管支炎などの後遺症に苦しんだ人たちは約3,000名に及んだという。
 また、同工場に女学生として動員された岡田黎子は、友人が次々に身体を壊し死んでいくのを見ながら、毒ガスの詰められたドラム缶の運搬に従事していた。戦後、その体験を1994年(平成6)に草の根出版会から早乙女勝元・岡田黎子編『母と子でみる17/毒ガス島』と、2022年に22世紀アートから出版された岡田黎子『絵で語る子どもたちの太平洋戦争-毒ガス島・ヒロシマ・少国民』として出版している。戦後、生き残った女学生たちは、全員が重度の慢性気管支炎を患っていた。
 番組では、大久野島で造られた毒ガスが中国戦線でどのように使われたのか、中国華北省北勝村での毒ガス弾の使用事例を取材している。同村では日本軍が村まで攻めてきた際、戦闘に巻きこまれないよう女性や子どもを中心に退避する地下壕がいくつか造られていたが、地下壕に次々と投げこまれた毒ガス弾によって約1,000名が死亡している。村の古老が指ししめす、膨大な犠牲者の名前が刻まれた石碑をカメラが追いつつ、いまだに日本への憎悪を抱きつづける古老の表情と言葉をとらえている。
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 少年工員として働いていた藤本安馬は、華北省北勝村に出かけて毒ガス製造に加担してしていたことを告白し、村民へ直接謝罪している。綾瀬はるかに現在の感慨を訊かれると、「毒ガスを造った、中国人を殺した、その事実を曲げることはできません」と答えている。

◆写真上:昭和初期のコンクリート片が随所に散らばる、陸軍科学研究所跡の現状。
◆写真中上は、2022年に出版された常石敬一『731部隊全史-石井機関と軍学官産共同体-』(高文研/)と、川村一之『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程-』(不二出版/)。は、1944年(昭和9)に撮影された戸山ヶ原の陸軍科学研究所。戸山ヶ原の名物だった一本松Click!は伐採され、研究所敷地は北側の上戸塚にある天祖社(旧位置)に迫るほどに拡大している。は、1932年(昭和7)8月8日に作成された陸軍科学研究所職員表。第二部と第一部に、安達十九と立花章一の名前が収録されている。
◆写真中下は、濱田煕の記憶画『戸山ヶ原』(1938年/部分)に描かれた袋状の特殊フィルターが設置された陸軍科学研究所の煙突群。毒ガスなどの開発で使用した器材を焼却する際、有毒な煤煙が住宅街へ流れるのを防ぐためだと思われる。は、1970年代半ばに撮影された旧・陸軍軍医学校の軍陣衛生学教室と防疫研究室の建物。は、1994年(平成6)に出版された早乙女勝元・岡田黎子編『毒ガス島』(草の根出版会/)と、2022年に出版された岡田黎子『絵で語る子どもたちの太平洋戦争』(22世紀アート/)。
◆写真下中上は、大久野島に建設された陸軍毒ガス製造工場。中下は、陸軍が各地で実施した毒ガス戦演習。は、2017年(平成29)8月15日放送のNEWS23(TBS)「私は毒ガスの“死の露”を造った」より大久野島の現場で証言する工員だった故・藤本安馬。

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