知らないけど懐かしい目白風景1964。 [気になる下落合]
1964年(昭和39)に文藝春秋新社から出版された、ドイツ文学者で随筆家、また文学評論家の高橋義孝のエッセイに、『わたくしの東京地図』という随筆写真集がある。撮影は出版社のカメラマン・山川進治が担当し、東日本橋出身の木村荘八Click!による挿画がところどころに掲載されている。もちろん、木村荘八Click!は1958年(昭和33)に死去しているので、これらの挿画は高橋義孝が好みで挿入しているのだろう。彼は知ってか知らずか、木村荘八は自由学園Click!の美術教師Click!だったので、目白駅は頻繁に利用していた。
本書の内容は、高橋義孝が東京のいろいろな街並みを散歩し、自身の経験や記憶、想いなどと重ねあわせて紹介するという企画ものだが、「東京地図」として散歩する街のよくある順序というか、街々を歩いて紹介するありがちな順番が、彼ならではの奇抜なプライオリティで面白い。高橋義孝は(城)下町Click!の神田の生まれで、生粋の“神田っ子”だ。だから、「神田」の街を真っ先に紹介するのは当然だけれど、その次の章で紹介するのが「日本橋」ではなく、いきなり「目白」というのがユニークなのだ。「日本橋」の街は、ほぼ同書のトリ(終い)の章で紹介されている。
そう、高橋義孝がこのエッセイを書くずいぶん以前、30歳のときから妻の実家だった豊島区高田町鶉山(現・目白2丁目)の家を自宅にしていた。だから、それ以前から彼は「目白」に馴染んでいたのだろう。もっとも、高橋義孝のいう「目白」は少し範囲が広そうで、旧・高田町(現・目白/雑司ヶ谷)だけの範囲ではないようだ。豊島区ばかりでなく、文京区の目白台Click!や関口台(旧・椿山Click!/目白山Click!)も、昔からつづく地域の概念として含まれているらしい。おそらく、東京15区Click!から35区Click!へと移行する、彼が学生時代のころまで存在した目白崖線沿いの、小石川区目白(台)と豊島区高田町→目白(町)の記憶あるいは印象が、どこかに色濃く残っていたのかもしれない。
わたしもまた、もし本書のような「東京地図」を書くとすれば、最初の章にはまちがいなく「日本橋」をすえるのだろうが、2番目は“神田っ子”の高橋教授と氏神である神田明神Click!には申しわけないけれど、「神田」ではなく「落合」の章をもってきそうだ。もはや、下落合に住みはじめてから長いので、東京の街で特別な思いがこもる日本橋を除けば、もっとも思い出が多く馴染みのある街は、山手線・目白駅の西側、高田馬場駅の北西側に拡がる落合(町)ということになってしまった。
高橋義孝がとらえる「東京地図」の眼差しは、いきなり冒頭で榎本其角が江戸の雷Click!を詠んだ句「稲妻や 昨日は東 今日は西」からはじまる「口上(序)」と、巻末の「あとがき」に集約されている。同書より、少しだけ引用してみよう。
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近年の東京が変って行く有様を見れば、誰だって思わずこういう(其角の)句や言葉を口にしたくなるに違いない。私は殊更に旧を尊ぼうとする者ではないが、東京に生れて東京に育った人間ならば、たとえば今の日本橋の上に佇んでみれば、恐らく誰しも憮然たる想いを懐かざるをえないだろう。/さりとて、ここを去って帰り行くべき故郷(くに)はない。墓は浅草清島町の寺にある。(中略) だから今では、ままよと、この化物じみた東京の片隅に居直った恰好になっている。(カッコ内引用者註)
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なんだか、現代のエッセイとしても通用しそうな表現だが、これが書かれた当時は東京オリンピック1964による防災インフラClick!の食いつぶしや掘割りの埋め立て、公園・緑地・景観つぶし、地域コミュニティの破壊=町殺しClick!が行なわれている真っ最中だった。著者は例として日本橋Click!を挙げているけれど、あの東京じゅうで起きていた大量破壊から60年、橋上のぶざまな高速道路を取っぱらう事業Click!が、ようやく昨年より始動している。
高橋義孝は、わたしの親父よりも10歳以上は年上だが、「目白」の章がはじまるとすぐに新派の『残菊物語』Click!、雑司ヶ谷鬼子母神Click!の舞台写真を挿入している。写っているのは、時期的にみて日本橋浜町にある、わたしも子ども時代にさんざん連れてかれた明治座Click!の舞台で、水谷八重子(初代)Click!のお徳と安井昌二Click!の菊之助だろう。
著者の目白での生活は、それほど幅員のない家の前にある道路を、クルマが頻繁に往来するせいか空気が汚濁し、いつも「薄い靄」みたいなものがかかっているのを嘆いている。オリンピック関連の工事だろうか、ときに大型トラックが通ったりすると家が揺れたようだ。1960年代の半ばから1970年代にかけ、東京の空気や水は汚濁のピークを迎えていた。いまからは想像もつかないだろうが、自動車の排ガス規制がなかったせいか午前10時なのに陽射しが午後3時Click!ごろのように感じられ、遠景がかすんで連日のようにスモッグ注意報が出ていた。また、下水道の未整備から工場排水や生活排水が河川にそのまま流れこみ、主要河川は中性洗剤の泡が飛ぶまるでドブ川Click!のようなありさまだった。
高橋義孝が住んでいた目白の自宅周辺の様子を、同書より少し引用してみよう。
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轟々といえば、秋十月の雑司ヶ谷鬼子母神のお会式の太鼓の音はまさにこれだ。何百、何千という人が手に手に小太鼓(ママ:団扇太鼓)を持って、テンツク、テンツク、テンテン、ツクツクと打ち鳴らしながら、いつ果てるとも知れない列を作って池袋の方から、一隊毎に灯りの入った万燈を先頭に押し寄せてくる。あの音には、本当に「轟々」たるものがあった。あの小太鼓、その一つを打ってみれば、疳高いが可愛らしい音がするのに、それが何百、何千と集まると、ただもう轟々というどよめきになる――ということを知ったのは、昭和十八年に高田の馬場から、この目白へ引越してきてからのことである。一度はその行列について歩いたこともあるが、何かこうつられて、ついつい余程の道のりをテンツクの行列と一緒に歩いてしまった。忌いましかった。(カッコ内引用者註)
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学習院昭和寮Click!の寮生Click!も、毎年秋にはお会式の団扇太鼓Click!に悩まされつづけていたので、出発点は池上本門寺だけでなく万燈行列Click!は東京各地から、雑司ヶ谷鬼子母神めざして集合してきていたのだろう。
文中に「高田の馬場」が出てくるが、これは当時の通称地名としての「たかたのばば」Click!のほうで、山手線・高田馬場(たかだのばば)駅周辺のことではないだろう。現在、高田馬場駅があるのは戸塚町上戸塚あるいは諏訪町であって、「高田の馬場」は徳川幕府の練兵場があった、現在の甘泉園公園の南側にあたる一帯(現・西早稲田3丁目)だ。
内田百閒Click!はどこかの随筆で、お会式の「轟々」とした団扇太鼓の音が聞こえてくると、手もとにおいていた日本刀Click!で万燈行列へ斬りこみたいと書いていたが、高橋義孝のエッセイにもその箇所が引用されて出てくる。また、鬼子母神といえばすすきみみずくClick!だが、著者はそれを土産に高田老松町に住んでいた内田百閒を訪ねたことがあるようだ。つづけて、同書より引用してみよう。
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一度あれ(すすきみみずく)を買って、お土産にして、内田百閒先生のお宅へ伺ったことがあるが、あとで百閒先生の書かれたものを拝見すると、同じく高田老松町に住んでおられた百閒先生は、鬼子母神のお会式の太鼓の音がすると、抜刀して太鼓の行列の中へ斬り込みたくなると書いておられた。薄のみみずくは先生にとって洒落にもならなかったことだろう。/それはとにかく(ママ:ともかく)、お会式の晩は、偶々東京に居合わせると、やはり鬼子母神の境内まで出かけて行って、ずらりと並んだ夜店のアセチレン瓦斯の匂いを嗅いでこずにはいられない。(カッコ内引用者註)
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内田百閒は岡山出身なので、手もとにあった刀剣は備前伝Click!、それも雑司ヶ谷金山Click!にいたかもしれない江戸石堂Click!の守久一派Click!だったとしたら、さらに面白いエピソードになりそうだ。もっとも、実際に斬りこんでたらコトだけれど。
同書には、伝統工芸すすきみみずくの作者である若き日の飯塚喜代子の写真が掲載されている。わたしが義母に頼まれて、鬼子母神裏の工房へ直接すすきみみずくを買いに出かけたのは、いまから思えばこの方ではなく、すでにおばあちゃんになっていた同じ制作者の岡本富見のほうではないかと思われる。21世紀(2005年)に入ってまで、すすきみみずくを制作しつづけていた“名人”は後者のほうだ。
著者は、目白にシジュウカラは見かけるが、ウグイスはこなくなってしまったと嘆いている。この本が出版されてから60年ほどたつが、下落合には毎年ウグイスClick!の鳴き声が界隈に響きわたっている。おそらく、目白地域にも再びやってきているのだろう。
高橋義孝は、下落合にもたびたび足を運んでいるようで、舟橋聖一邸Click!の前にあったゴルフ練習場(のち古河鉱業目白クラブ?)をよく利用している。ほかにも、目白界隈とその周辺についていろいろなことが書かれているが、また機会があれば改めてご紹介したい。
◆写真上:いまでも縁日などには賑わう、雑司ヶ谷鬼子母神の広々とした境内。
◆写真中上:上は、1964年(昭和39)出版の高橋義孝『わたくしの東京地図』(文藝春秋新社/左)と、東京五輪1964であまりの変わりように代々木練兵場Click!跡で呆然と立つ著者(右)。遠景が霞がかかったようで、スモッグがひどかったのかがわかる。中は、雑司ヶ谷鬼子母神のお会式の賑わい。下は、(城)下町と同様に露店の鼈甲(べっこ)飴屋も出ていたらしい。鼈甲飴をこねて細工している、職人の表情がとってもいい。
◆写真中下:上は、東京では駄菓子屋などで“もんじゃ焼き”と同様に子どもたちのオヤツだったどんど焼き(お好み焼き)Click!の露店。こちらでは駄菓子屋Click!の「どんど焼き」が一般名称だったので、高橋義孝はあまり聞きなれない「お好み焼」という“字幕”が張ってあったと、わざわざキャプションで報告している。中は、伝統工芸すすきみみずくづくりの名人・飯塚喜代子。下は、鬼子母神境内で売られている現在のすすきみみずく。
◆写真下:上は、走るクルマの型を除けば現在とほとんど変わらない学習院横の目白通り歩道。中は、学習院大学の正門内から見た目白通り。下は、下落合の舟橋聖一邸の北側にあったゴルフ練習場。1960年(昭和35)になると、古河鉱業目白クラブが建設されている。
下落合の三輪邸で開かれた天ぷら会。 [気になる下落合]
神田川Click!にはアユClick!が泳ぎ、夏休みに下落合と高田、戸塚(現・高田馬場2丁目)の境界あたりの神田川で、子どもたちの遊泳イベントが毎年開催される現状を考えれば、東京湾にクジラが泳いで船舶と衝突しそうになったり、大川(隅田川)でイルカが遊んでいたり、日本橋川にサケが遡上しているなどと聞いても、東京湾に注ぐ河川の水質が40年前と比べてケタちがいに清浄化されたため、それほど驚くことはなかった。だが、台場沖でノリの養殖が再開されたというニュースを聞いたときには、さすがにビックリした。
いまだ海洋政策研究所などが実施する、試験的な養殖事業なのだそうだが、台場や品川あたりでノリが採れること自体、わたしの世代にとっては驚異的な出来事なのだ。祖父母や親の世代には、いまだ江戸期からつづく品川沖でのノリの養殖が行われており、品川の旧・宿場町にはたくさんの海苔屋・海苔問屋が開店していた。日本橋の創業300年をゆうに超える老舗の海苔屋「山本山」や、茶漬けの老舗「永谷園」も、親が若いころまでは江戸前のノリを使っていたのだろう。
江戸初期には、葛西沖で採れた天然もののノリが、もっとも高価で貴重だったという話はよく聞かされた。それを、浅草和紙の製法で紙のように伸ばして乾燥させ、食用に江戸の街のさまざまな料理に使いはじめたのが、いわゆる「浅草海苔」と海苔料理のはじまりだ。しばらくすると、品川沖(現・台場沖を含む)にノリの一大養殖場ができ、江戸の街へ安価になった浅草海苔を大量に供給しはじめている。品川沖で行われていた大規模なノリの養殖場は、世界初となる海産物の養殖プロジェクトだといわれている。
したがって、ノリ自体が江戸前で採れたものではなく、九州の有明産だろうが長崎産だろうがどこの生産地だろうが、浅草和紙のように伸ばして天日に干した江戸生まれの紙のような海苔製品は、すべて「浅草海苔」ということになる。ひょっとすると、それを模倣したらしい「韓国海苔」も、浅草海苔のバリエーションなのかもしれない。
わたしが生れるころからだろうか、高度経済成長にともない河川の汚濁がひどくなり、東京湾も急激に汚染されていった。また、沿岸の埋め立てにより漁民たちの漁業権が次々と奪われ(カネで買われ)、江戸前の魚介類を口にすることは少なくなっていった。20世紀末ぐらいまでは、江戸前の魚介類Click!といえばシャコやアナゴ、アサリぐらいが関の山だった。だから、「東京湾はいまや太平洋から回遊する魚介類の宝庫だ」などといわれても、にわかにはピンとこなかったのだが、どうやらノリの養殖ができるぐらいだから、少なくとも昭和初期の海ぐらいまでには、水質の清浄化が進んでいるのかもしれない。
ノリの養殖に次いで、もうひとつ驚いたのは、東京湾に注ぐ川の河口付近でシラウオ(白魚)Click!が獲れるようになったことだ。ほとんど芝居Click!や浮世絵の中でしか知らない白魚だが、実際に捕獲された多くの個体を見ると、大川河口や東京湾で白魚漁が再開され、江戸東京の風物詩で浅草海苔を載せた「白魚飯(茶漬け)」Click!が食べられるのも、これほど急激な環境変化であればあながち夢の中の話ではないかもしれない。大川端でお嬢吉三の「月も朧に白魚の~篝もかすむ春の空~」というセリフが、ちょうどいまが漁期なので幻影ではなく、リアルに感じられる情景になるのではないだろうか。
大川や江戸前で獲れたての白魚を、活きがいいうちに天ぷらClick!にして食べるのは、もはやかなわぬはかない夢だととっくのとうにあきらめ、他所の地域で獲れた白魚を天ぷらにして口にしていたけれど、どうやら形勢が大きく逆転したようだ。工業廃水や生活排水が駆逐されたため、本来は棲息していた数多くの魚が太平洋(の黒潮・親潮)から続々と湾内にもどりはじめ、漁をするとなにが獲れてもおかしくないのが現状らしい。
天ぷらで思いだすのは、下落合350番地の大きな屋敷に住んでいた東日本橋のミツワ石鹸Click!2代目・三輪善兵衛Click!だ。揚げる油は、江戸東京由来のゴマ油Click!しか受けつけなかった天ぷら通だが、大森沖(現在の大田区沖)で育ったエビ(いわゆる才巻き)の揚げものには目がなかったようで、天ぷらについて語りだすとしばらくは止まらなくなったようだ。衣(ころも)へ入れる卵の黄身の数から、天ぷら鍋のかたち、揚げる油の火加減、つゆの作り方、添える大根おろしまで、とにかくたいへんにうるさい。わたしも、江戸東京の“食いもん”についてはひどく意地きたないので、書きはじめると止まらない。
そんな三輪善兵衛だが、妙なことにタケノコの天ぷらを揚げている。1957年(昭和32年)に龍星閣から出版された、子母澤寛『味覚極楽』Click!(新評社版)から引用してみよう。ちなみに、当時の採れたてのタケノコは、江戸期から有名な目黒産Click!だったかもしれない。
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中でも竹の子のやわらかいところの天ぷらは、うまい上品な味で、清浦(奎吾)子爵などは、「こんなうまい天ぷらはない」とおっしゃっておられた。大河内正敏子爵はたいへん天ぷらがお好きで、私のところで天ぷら会をやった時、えびを三十八おあがりになってみんなにひやかされた。よくこの方の通人は、えびばかりを食べて、それが舌になじんでくると、その間にぽつりと野菜を食べられる。そしてまた、えびへ行く。野菜はあれで実際いい味をもっていることが、天ぷらではよくわかる。(中略) つゆは、まず最初少し薄味であまいくらいにこしらえ、それを、も一度煮詰める。この煮詰めるのが大切で、はじめからちょうどいい味にこしらえては、醤油の味がそのままどこかに残っていていけないものである。おろしは、練馬大根。辛いのやにがいのは、天ぷらにはむかない。
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三輪邸では、しばしば「天ぷら会」が開かれていたようで、登場している大河内正敏や清浦奎吾は、下落合で舌つづみを打っていたのだろう。そこで使われていたのは、目白文化村Click!の北側でいまも営業をつづけている、わたしも好きな江戸期から受け継がれた製法の、小野田製油所Click!のゴマ油★だったかもしれない。
★その後の調査で、ミツワ石鹸もゴマ油を製造していたことが判明している。
わたしも、練馬ダイコン(落合ダイコンClick!ならもっといい)が欲しいのだけれど、現在の練馬ダイコンは地産地消で、なかなかこちらの青物屋やスーパーでは手に入らない。しかたがないので、同じ関東ローム由来(埼玉県が多い)の“練馬ダイコン風”ダイコンを、東都生協で注文しては購入している。
これは、いつかも書いたかもしれないが、関東地方のロームClick!(富士山や箱根連山の火山灰土壌)から湧きでる甘めな水で生活していると、別の地方の水が舌の両側を刺激して苦く感じることがある。子母澤寛も書いているように、口に入るものや水に非常にうるさい食通には、ダイコン(他の野菜もそうかもしれない)にも同じことがいえるのだろうか。「水が合わない」という表現があるけれど、もともとは実際の“水の味”や、それをもとに育つ食べ物の味がちがうことから生まれた言葉なのかもしれない。
子母澤寛の『味覚極楽』にはもうひとり、天ぷらヲタクのインタビューが載っている。呉服町出身の“日本橋っ子”、新劇の俳優だった伊井蓉峰だ。1923年(大正12)に関東大震災Click!が起きてから、復興が大きく遅れた地域の食いもん屋Click!は、このままでは飢え死んでしまうと、こぞって関西地域へ店を移した。深川生まれのおでんが、“関東煮”として西日本に伝わったのもこの時期なのだろう。その中には、天ぷらの店も数多くあった。
伊井蓉峰がいきつけの、上野松坂屋の近くに開店していた「天新」という店も、神戸へ移転して大震災からの営業継続をはかったようだ。伊井蓉峰は、旅行中に神戸へ立ち寄ったので、久しぶりに「天新」の天ぷらを楽しみにしていた。さっそく店に入り、「何年ぶりかでお目にかかったんでべらぼうにうめえうめえ」と食べていると、主人が急に不機嫌になり、妙なことに口もきいてくれなくなった。そのときの様子を、同書より引用してみよう。
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妙な奴だと思いながらその日は帰ったが、翌日また出かけていくと、おかみが私のそばへ来て、「先生きのうは本当においしかったのですか」というのだ。「いや、なにしろ久しぶりだったのでうまかったが、改めてそんなことをきかれると、実は食べた後の舌もちが少しよくなかった」というと、おかみは突然大きな声を出して、「あなた、ほーら御覧なさい、先生はちゃんとわかっていらっしたんですよ」とおやじにいった。おやじも「そうか」とかなんとかいって笑い出したものだ。「先生、天新ももうおしまいですよ。実はここの天ぷらはうまくねえ、あれをうめえなんて食う人には、一生懸命に揚げてやっても張合いがねえんだ。あっしは毎日揚げながらしゃくにさわって仕方がねえんですよ。大阪や神戸の人間にはわからねえのが当り前だが、東京の人に一つこれはうまくねえどうしたッとこういって腹を立ててもらいたくって待っていたんだ」という。
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このあと、伊井蓉峰は具材や油の品質、手早い品まわり(魚介類の流通)がないために購入した冷蔵庫など、主人のグチを延々と聞かされるハメになったようだ。
主人がこぼす「大阪や神戸の人間」にも、天ぷらの味がわかる食通は少なからずいたと思うのだが、本書に登場するような有名な食通でなくても、確かに内海と外洋で獲れる魚の食感や風味のちがいは、わたしにもかろうじてわかるし、ゴマ油も天ぷらに最適な製品がなかなか見つからないとこぼすのも理解できるけれど、せっかく営業がうまくいっているのだから、気短かに店じまいをすることはないだろうに。ある程度の資金をため、大震災からの復興が進んだ東京へもどってくればいいだけの話だが、それでは沽券が許さなかったのだろうか。もしもどれなかったにしても、営業をつづけていれば西の天ぷらの名店として、こちらにまで評判がとどいていたかもしれないのに。
「江戸前」という用語は、大正期に水産庁が東京湾で獲れる魚介類のことだと規定したようだが、本来は「江戸前」Click!=(城)下町Click!のことを指すのだと三田村鳶魚Click!は書いている。それが、大江戸(おえど)で生産された物品や文化・風俗・習慣などの総称となり、より範囲をせばめ魚介類に限定したのが大正期の規定だった。水産庁の規定にならうとすれば、あと何年ぐらい生きていれば、江戸前づくしの天ぷらが食えるようになるだろうか。
◆写真上:たまにむしょうに食べたくなる、小さめなシラウオの天ぷら。
◆写真中上:上は、夏休みになると神田川で遊ぶ子どもたちの姿が目立つ。子どもたちが網で獲っているのは、小魚やトンボのヤゴなどの水生生物。中は、再開されたと聞いて驚いた台場沖のノリの養殖。下は、1877年(明治10)に三代広重が描いた『大日本物産図絵/武蔵国浅草海苔製図』で、浅草海苔の製造プロセスがよくわかる。
◆写真中下:上は、安藤広重Click!が1864年(元治元)制作の『絵本江戸土産/佃白魚網夜景』Click!。中左は、日本橋「山本山」が売る浅草海苔。中右は、日本橋蛎殻町にある創業103年を超える老舗「桃屋」の海苔佃煮Click!。江戸むらさきとは江戸東京のしたじ=濃口醤油(江戸紫)Click!のことだが、それで海苔を甘じょっぱく煮たもの。下は、江戸期の浅草海苔が貴重だった時期には蕎麦にふりかけるだけで料金が倍になった。
◆写真下:上は、生でも食べられそうな採れたての竹の子が東京ではなかなか手に入らないため、あまり食べた記憶がない竹の子の天ぷら。中は、佃島から眺めた雨もよいの大川(隅田川)。下は、いまのところ東京でたやすく手に入るシラウオは茨城県産が多い。
佐伯祐三が描いた陸軍科学研究所長の家。 [気になる下落合]
落合地域には、日本史に登場Click!するような軍人Click!たちが数多く在住していたが、言論弾圧のうえに無謀な戦争をはじめ、1945年(昭和20)に「亡国」状況を招来した大日本帝国の軍隊は大キライなので、これまであまり取りあげていない。
今回は、日本史に登場しない軍人たち、いや1931年(昭和6)の日中戦争がはじまってから敗戦までは、表舞台に華々しく登場してはまずい組織や研究機関に勤務していた、下落合の軍人たちを取りあげてみたい。もっとも、わたしごときが入手できる情報は、国立公文書館に保存された文書や地元の資料、すなわちいまや誰にでも公開されているものばかりで、1930年代の後半から本格化した軍機や極秘の秘匿扱いとなる兵器研究Click!など、陸軍中野学校Click!のヤマClick!などが関与したテーマClick!については、それらの専門書や証言が多数出版されているので別途お読みいただきたい。
下落合の南1.3kmほどのところ、戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)の南側に、山手線の内側から外側にかけ東西に長くつづく陸軍用地の戸山ヶ原Click!があった。山手線の外側(西側)、明治期から陸軍射撃場の“着弾地”と呼ばれた、戸山ヶ原の百人町に面した南側に、陸軍技術本部Click!および陸軍科学研究所Click!が設置されていた。そこに勤務する所員の軍人たちは、通勤に便利なためその周辺域の百人町や西大久保、柏木(現・北新宿)、戸塚(現・高田馬場)、中野、そして落合地域などに住んでいた事例が多い。
彼らは、専門分野をもった技術士官や技術将校がほとんどなので、通常の軍人たちのように部隊異動が頻繁ではないため、研究所の周辺に自宅を建設しているケースも少なくない。いまだ日中戦争がはじまらない1931年(昭和6)の春、下落合には陸軍科学研究所Click!の幹部がふたり住んでいた。ひとりは、陸軍科学研究所の所長で陸軍技術本部の部長だった黒崎延次郎(中将)、もうひとりは同研究所第3部の部長だった久村種樹(少将)だ。
1931年(昭和6)の当時、陸軍科学研究所は本部および第1部~第3部に分かれており、本部は研究所の基幹系業務、第1部は物理的事項研究、第2部は火薬・爆薬研究、第3部は化学兵器・化学防護研究を行っていた。第2部は、1933年(昭和8)に陸軍造兵廠への組織移管となって廃部となり、第1部は、その後1941年(昭和16)に陸軍技術本部第7研究所に改編されている。また第3部は、1933年(昭和8)に第2部の移管・廃部と同時に第2部に変更されている。さらに、1939年(昭和14)には戸山ヶ原の施設から分離独立し、秘密兵器・謀略兵器の研究を中心とする陸軍科学研究所登戸出張所Click!が開設され、1941年(昭和16)には陸軍技術本部第9研究所に改編された。
さて、陸軍科学研究所の所長だった黒崎延次郎は、下落合1449番地に住んでいた。八島さんの前通りClick!に面し、道を隔てた東隣りには第三文化村Click!の下落合667番地の吉田博・ふじをアトリエClick!(旧・大塚邸)が、斜向かいには下落合666番地の納三治邸Click!が、黒崎邸の南には下落合1443番地の木星社Click!および福田久道邸Click!が建っていた。1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」を参照すると、確かに佐伯祐三アトリエClick!の南西80m余の同地番には「黒崎」のネームが採取されている。
黒崎延次郎邸は、佐伯祐三Click!が描く「下落合風景」シリーズClick!の、連作「八島さんの前通り」のどこかに描かれているのではないかと思い、画面を1作ずつチェックしてみると、はたして1927年(昭和2)6月に開催された、1930年協会第2回展Click!への出品用に同年5月ごろの制作とみられる、八島さんの前通りを北から南へ向いて描いた同作Click!に、それらしい大きなレンガ色の屋根にクリーム外壁の大きな屋敷(西洋館)を確認することができる。ちょうど同年の初夏に、竣工間近あるいは竣工したばかりの納三治邸の斜向かい、吉田博・ふじをアトリエ(当時は大塚邸)の道をはさんだ西隣りにあたる敷地だ。
黒崎延次郎が同研究所の所長だった時期は、1924年(大正13)12月から1931年(昭和6)4月ごろまでのおよそ7年間であり、その後、短期的に陸軍技術本部長に就任したようだが、同年8月には退役して予備役に編入されている。陸軍を退役したあとの紹介文になるが、同研究所の所長だった黒崎延次郎について、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」から、その一部を引用してみよう。
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正四位勲二等功五級/陸軍中将/黒崎延次郎 下落合一,四四九
栃木県人黒崎邦三郎氏の二男にして明治十年一月を以て出世(ママ:出生)、同三十年陸軍士官学校を卒業し同三十一年陸軍砲兵少尉に任し昭和二年陸軍中将に累進す 此の間東京帝国大学工科電気科を卒業し大阪砲兵工廠技術課長 陸軍技術本部総務部長 大阪砲兵工廠々員弾丸製造所長 同器材製造所長 陸軍技術本部第一部長 陸軍科学研究所長 同技術本部長に歴補せられ、耿々たる丹心を以て帝国陸軍の為めに貢献すること三十有余年 昭和六年八月予備役被仰付、斯くて徐ろに心身の修養を事とし意気益々健である。(カッコ内引用者註)
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黒崎延次郎は、陸軍士官学校Click!を出たあと東京帝大の工科大学電気科を改めて卒業すると、一貫して陸軍の技術畑を歩いてきたことがわかる。その経歴から類推すると、おもに銃砲兵器・弾丸を扱う技術開発がメインだったのではないだろうか。
わたしが、下落合にあった黒崎延治郎の住所を認識したのは、実は『落合町誌』からではない。国立公文書館で見つけた、陸軍科学研究所に在職する全所員を紹介した「職員表」からだった。この全所員名簿とでもいうべき文書は、1931年(昭和6)4月1日に調査・作成されたもので、特に軍機や極秘の印はなく一般にも公開されていたものだろう。
陸軍科学研究所には技術士官や技術将校ばかりでなく、研究テーマや研究内容の必要に応じて臨時の大学教授や助教授などの「嘱託」所員や、民間企業からの専門技術をもった技師の「御用掛」とされる所員も勤務していた。したがって、同職員表は陸軍内ばかりでなく民間人の彼らにまで配られたとみられる。ところが、この「陸軍科学研究所職員表」は、翌1932年(昭和7)8月8日を最後に作成されなくなる。
1930年代の後半から、陸軍科学研究所や陸軍技術本部の組織状況、あるいは所員の増員(補充)・変更・異動など人事情報の文書には、軍機の印がベタベタと押されるようになる。つまり、どこに敵国や仮想敵国のスパイの目があるかわからないので、研究所に勤務している技術士官・将校の名前はもちろん、嘱託や御用掛になっている民間人の名前さえ秘匿されるようになった。換言すれば、外部に知られてはまずい極秘の研究や最新兵器の技術開発を、同研究所が積極的に進めるようになった時期と符合している。
黒崎延治郎が同研究所の所長時代、第3部の部長をつとめていた久村種樹は、黒崎所長が退役ののち跡を継いで同研究所の所長に就任している。上記の1932年(昭和7)8月8日に作成された最後の職員表は、久村種樹所長時代の全所員名簿だった。久村種樹が住んでいた自宅の住所は、下落合2080番地15号となっている。ごく近くには下落合2080番地の金山平三アトリエClick!があり、蘭搭坂(二ノ坂)Click!上に建っていた大日本獅子吼会Click!のすぐ北側にあたる区画だ。周囲は画家たちの住まいだらけで、一原五常Click!や永地秀太Click!、新海覚雄Click!などのアトリエが建ち並んでいた。
1938年(昭和13)に作成された「火保図」の蘭搭坂(二ノ坂)Click!上を参照すると、同地番の敷地には「久松」という大きな屋敷が採取されている。おそらく、「久松」は「久村」の誤採取だろう。またしても、表札の文字(達筆だったのだろうか)を読みまちがえた、「火保図」作成で雇われた調査員による誤読とみられる。
「火保図」は、家屋の仕様や個々の住民名が採取されていて、街の様子を知りたい調べものなどには貴重かつ便利だが、あちこちに表札の誤読による採取ミスが散見されるので、別の資料などでの“ウラ取り”が不可欠な、要注意の住宅図だ。ちなみに、同図では永地秀太邸(アトリエ)も「水地」と誤採取しているのがわかる。
久村種樹について、『落合町誌』に掲載された紹介文の一部を引用してみよう。
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正五位勲三等功五級/陸軍少将/久村種樹 下落合二,〇八〇
滋賀県士族久村静彌氏の長男として明治十五年四月十六日同県蒲生郡西大路村に於て出生、夙に陸軍に志し陸軍中央幼年学校を経て同三十五年十二月陸軍士官学校を卒業、同三十六年六月陸軍砲兵少尉に任ぜられ爾来頻りに累進して昭和四年十二月陸軍少将に陞る、星霜実に三十年蹇々匪躬の節を放し距然として部内の重望を負へり、其の間東京帝国大学工科大学火薬学科を卒業し、大阪砲兵工廠員 大阪高等工業学校講師 内務省警保局事務取扱 陸軍兵器本廠検査官 東京帝国大学講師等に歴補し昭和三年八月陸軍科学研究所第三部長に補せられ陸軍技術会議員、資源審議会嘱託を兼ね、同七年八月(ママ:同六年八月の誤記とみられる)陸軍化学(ママ:科学)研究所長に親補さる、(カッコ内引用者註)
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久村種樹は、火薬が専門分野だったようだが、陸軍科学研究所では第2部ではなく第3部の化学兵器・化学防護研究の部長をしていた。本人にとっては畑ちがいの仕事だが、第2部の火薬・爆薬研究と連携が必要な兵器の開発でもしていたのかもしれない。
このあと、1930年代後半から1940年代になると、もし陸軍科学研究所の所長宅などをスケッチしている画家がいれば、そしてその画家が特高Click!の調査資料Click!に掲載されるような人物であればすぐに警察へ引っぱられ、あるいは「町誌」などの編纂で陸軍科学研究所の所員宅を不用意に訪れたりすれば、即座に門前払いのあげく警察に通報されかねない閉塞した時代を迎えることになる。軍事に関連する情報はなんでも秘匿し、軍事機密として国民にはいっさい知らせない社会状況は、なにも80年ほど前の昔話ではないだろう。
◆写真上:下落合1449番地の通り沿いにあった、陸軍科学研究所長の黒崎延次郎邸跡(正面アパート)の現状。左手は吉田博アトリエ跡で、背後は納三治邸跡。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる黒崎延次郎邸。中は、2葉とも納三治邸が竣工する1927年(昭和2)5月ごろに制作された佐伯祐三『下落合風景』(部分)で、南を向いてパースをきかせた道路の奥に黒崎邸とみられる大きな屋敷が描かれている。下は、1932年(昭和7)撮影の百人町側に面した陸軍科学研究所の正門。
◆写真中下:上は、1941年(昭和16)撮影の空中写真にみる陸軍科学研究所と陸軍技術本部。上空から東を向いて斜めフカンで撮影されており、同時期には山手線の西側に拡がる戸山ヶ原の大半を同研究所が占めていた。中は、1936年(昭和11)に撮影された陸軍科学研究所の記念写真で、女性の「御用掛」(おそらく本部詰め職員)が8名ほど写っている。下は、同研究所の所長をつとめた黒崎延次郎(左)と久村種樹(右)。
◆写真下:上は、下落合2080番地にあった久村種樹邸跡の現状。ちょうど戦後に開業する、帝銀事件Click!で注目された三菱銀行中井支店Click!の真ん前にあたる。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる久村種樹邸(「久松」と誤採取)。下は、1931年(昭和6)4月と1932年(昭和7)8月に作成された陸軍科学研究所職員表(所員名簿)。
桜餅めざして隅田川を芝居散歩。 [気になるエトセトラ]
ずいぶん前だが、長命寺の桜餅を食べに出かけ、美味そうなので写真を撮るのをすっかり忘れてついペロッと食べてしまい、もぬけのからの容器Click!だけ写した憶えがある。それが魚の小骨のように、どこかにひっかかっていたので久しぶりに元祖・桜餅Click!を食べに……いや、撮影しに長明寺の桜餅(山本屋)界隈を散歩することにした。
でも、長明寺の桜餅だけでは面白くないし、いまでは記事をひとつ書きあげるには明らかにテーマ不足なので、ここは芝居のエピソードだらけの界隈もついでに散歩することにし、ひとつ大川沿いの芝居めぐり散策という趣向で少し書いてみたい。歌舞伎座がガラガラで閑古鳥というニュースも流れるし、ここ数年は外出が少なく芝居がらみの記事をまったく書いてないので、久しぶりにまとめてウサ晴らしといきたい。
ところで、「大川沿い」と書いたけれど、江戸期に大川と呼ばれていたのは、おもに両国橋(大橋)Click!あたりから下流だが、江戸後期になって「大川橋」が新たに架けられ、それが周囲から通称「吾妻橋」と呼ばれるようになってからは、浅草の大川橋から下流のことを大川と呼んでいる。明治以降は正式な名称の大川橋ではなく、なぜか通称だった吾妻橋(まぎらわしかったからだろう)が橋名になっているが、それまでは浅草界隈を流れる隅田川の流域は、「浅草川」ないしは「宮戸川」と呼ばれていた。
さっそく、大川橋(吾妻橋)の西詰めから浅草寺Click!の横を通って川沿いを北上すると、すぐにも花川戸の街並みだ。江戸前期には、この街に幡随院長兵衛(本名:塚本伊太郎→塚本長兵衛)が住んでいたけれど、これもかなり以前になるが、拙記事では『浮世柄比翼稲妻(うきよがら・ひよくのいなづま)』(一幕物は「鈴ヶ森」Click!)の舞台に登場していた。もともとは、肥前唐津藩の藩士の家に生まれたが同僚と喧嘩をして斬り、上州へ逃れたあと江戸へもどってくる実在の人物だ。幡随院と呼ばれるのは、下谷神吉町の幡随院長屋にしばらく身を隠していたからだといわれる。
花川戸を舞台にした芝居では、河竹黙阿弥Click!の『極附幡随長兵衛(きわめつき・ばんずいちょうべえ)』がいちばん知られているだろうか。浅草の顔役になってからの彼は、小頭36人を筆頭に町奴(まちやっこ)3,000人余を抱えていたといわれているが、旗本のドラ息子(旗本奴)たちが結成した「白柄組」と対立し、組の頭領だった牛込見附の水野十郎左衛門に殺され、江戸川(1966年より神田川)に架かる隆慶橋Click!のたもとで死体が発見されたと伝えられている。1650年(慶安3)のことで、長兵衛はまだ38歳の若さだったが、浅草清島町(現・東上野6丁目)にある源空寺の墓所で眠っている。
もうひとつ、「鈴ヶ森」の後日譚として書かれた芝居に、鶴屋南北Click!の一幕物『俎板乃長兵衛(まないたのちょうべえ)』がある。これに対し、黙阿弥の『極附幡随長兵衛』は風呂場で水野のだまし討ちにあうので、以前から通称「湯殿の長兵衛」と呼ばれることが多い。ちなみに、最近は幡随院長兵衛は「ばんずいいんちょうべえ」などと発音あるいは表記する人がいるが、「い」が重なって発音しにくいため、昔から東京の(城)下町Click!では「い」をひとつ省略して「ばんずいんちょうべえ」と発音するのが一般的だ。
少し時代が下った花川戸には、もうひとり有名な侠客がいた。もちろん、みなさんもよく“御存知”の助六だ。歌舞伎十八番の『助六』は通称で、芝居の筋立てによって外題はいろいろに変わる。助六は、浅草で開業していた義侠の米問屋助八がモデルだといわれるが、死後いつの間にか助六に変わったともいわれており、実像はハッキリしない。寛文年間(1661~1673年)ごろ、殺人事件に連座して小伝馬町Click!に入牢したあと、刑期を終えて釈放されたが、ほどなく病死したと伝えられている。山谷の易行院に伝承されている墓の塚名は、実在の「助八」ではなく「助六」とされている。
江戸の元祖・桜餅が目的なので、今回は新吉原Click!(現・千束3~4丁目界隈)には寄らないが、助六が見栄をきる「三浦屋」は、有名な五大楼には含まれていない。五大楼(大籬=おおまがき)は「角海老」「稲本」「尾彦」「品川」「大文字」の五楼なので、三浦屋はもう少しランクが下の楼閣なのだろう。ただし、11代までつづいたとされる高尾太夫も、何代目かは不明な白井権八の恋人・小紫も三浦屋にいたので、主人の三浦四郎左衛門は「絶世の美女」宣伝や、「傾城」プロモーションがうまかったのかもしれない。
東京大空襲Click!のとき、多大な犠牲者がでた言問橋Click!をわたると、桜並木が美しい江戸名所のいわゆる隅田堤がつづき……じゃなくて、現在は無様な高速道路がのしかかっているが、すぐに「お染久松」の三圍稲荷(三囲稲荷:みめぐりいなり)が見えてくる。南北の『道行浮塒鴎(みちゆき・うきねのともどり)』については、すでに記事Click!にしているので詳しくは触れないが、COVID-19禍がつづいたこの3年間、これが大江戸の街ならば町家だけでなく旗本や御家人の武家屋敷も含め、ほぼ全戸に「久松るす」あるいは「お染御免」の札が貼られていたかもしれない。なお、三圍稲荷が登場する演目には、上記の芝居だけでなく白藤源太が登場する『昔形松白藤(むかしがた・まつにしらふじ)』(「身代わりお俊」)があるが、わたしは残念ながら一度も観たことがない。
三圍稲荷のあるあたりの濹東一帯は、かつては小梅町(江戸期は向島・小梅村)といって、江戸の商家や武家の寮(別荘)が建ち並んでいた閑静な街並みだった。いわゆる「向島に寮(亭・別荘)がある」といえば、この界隈がその南端だったろう。明治になってからも、このあたりは閑静なままで別荘や別邸が建ちつづけたが、中でも言問団子Click!のやや北側、隅田川に面した大倉喜八郎の向島別邸Click!は、その目立つ派手な外観からも有名だった。いまでは埋め立てられてしまったが、曳舟のほうから十間川までつながっていた運河があり、その出口あたりは源兵衛堀と呼ばれていた。並木五瓶が書いた『隅田春妓女容性』(すだのはる・げいしゃかたぎ)は、このあたりが舞台だ。
主人公は「梅の由兵衛(よしべえ)」で、女房が小梅、源兵衛堀の源兵衛などが登場するが、この作品もいまや上演される機会が少なく、わたしは芝居本でしか知らず一度も観たことがない。梅の由兵衛は、遊郭に身を沈めている主家筋の娘・小さんと、彼女の恋人である金五郎のためにひと肌ぬぐという筋立てで、原型が大坂(阪)の並木宗輔が書いた浄瑠璃『茜染野中隠井(あかねぞめ・のなかのかくれい)』にあるという。それが要因なのかは知らないが、こちらで舞台にかけられる機会が少ない。
舞台の場面は、序幕が三圍稲荷の土手、そのかえしが向島の大黒屋、二幕目が蔵前の米屋、つづいて大川端、三幕目が小梅町(村)の由兵衛の家、そして隅田川沿いにつづく墨田堤の土手というような展開になっている。作者の並木五瓶は、周囲の名所や風景を書割として芝居の中へたくみに取り入れてうまく活かすのが特徴で、世話物を数多く手がけている。大坂を舞台にした、彼の『五大力恋緘(ごだいりき・こいのふうじめ)』はたいへん有名だが、わたしはこの作品も観ていない。
さて、ようやく長命寺の桜餅「山本屋」にたどり着いた。享保年間からつづく桜餅を、今度はがっつかないで忘れないうちに、ちゃんと写真撮影(冒頭写真)をして……。桜餅(長命寺)は、1717年(享保2)にここで発明された江戸菓子だが、それ以前に開店していた山本屋は柏餅の菓子店(だな)だったというから、創業はさらに古く実際にはゆうに400年近いのかもしれない。柏の葉のかわりに、樽に塩漬けした香りの高いオオシマザクラの葉を使い、餡をくるむ皮を工夫してオリジナルの桜餅が生れた。この長命寺界隈を舞台にした、芝居の通称「桜餅」=『都鳥廓白波(みやこどり・くるわのしらなみ)』は、以前の桜餅記事で取りあげているので省略するが、河竹黙阿弥Click!の出世作となった作品だ。
長命寺の境内には、芭蕉の「いざさらば雪見にころぶところまで」の句碑が建っている。芭蕉の門人だった夕道(せきどう:風月堂孫助)の亭(邸)で詠まれた一句だが、これは向島雪景ではなく名古屋雪景の句だろう。ただし、向島の雪景(雪見の名所)は江戸期からつづく風流で、多くの浮世絵師も描いているモチーフだ。ほかに、境内には幕府の外国奉行をつとめ、明治以降は新聞界で活躍し随筆家としても知られる成島柳北の記念碑や、ネズミを捕るネコならぬイヌの六助塚、古い筆を供養する筆塚などが建っている。
長命寺までくると、上流の白鬚橋(しらひげばし)はもうすぐだが、今回は旧・赤線地帯だった「鳩の街」や永井荷風Click!あるいは高見順Click!の「玉の井」(現・東向島界隈)へ寄りたいので、これ以上の北上はしないことにする。白髭橋の周辺も木母寺(もくぼじ)や梅若公園など、舞台に関連する名所は多い。もっとも、その中心は梅若伝説の謡曲「隅田川」Click!だろうか。梅若公園には、榎本武揚Click!の銅像や移転した梅若塚(跡)があるが、この塚とされる土饅頭は柴崎村(現・大手町)の柴崎古墳Click!(将門首塚伝説Click!)と同様に、既存の小型古墳の上へ梅若伝説をかぶせたものではないか。
梅若伝説は、いわゆる芝居の「隅田川物」と呼ばれる作品群の中核となる物語だが、先の『都鳥廓白波』や奈河七五三助の『隅田川続俤(すみだがわ・ごにちのおもかげ)』(通称:法界坊)が知られている。面白いのは、梅若伝説は江戸芝居のネタによく取りあげられるが、『伊勢物語』の在原業平伝説は、まったくといっていいほど芝居には採用されていない。主人公が京の公家Click!では、おそらく大江戸(おえど)の観客は興味がまったく湧かず、芝居連をほとんど呼べないという、芝居小屋のマーケティングによる“読み”もあったのだろう。
梅若伝説は、清元の『すみだ川』や長唄の『賤機帯』でも知られている。線道Click!をつけられた親父は、『すみだ川』を習っていた可能性が高そうだ。また、木村荘八Click!の「和田堀小唄学校」Click!でも、『すみだ川』や『賤機帯』が唄われていたのかもしれない。それにしても、長命寺の桜餅を食べたあと、そこから50mほどの言問団子は、もう入らない。
◆写真上:桜餅ファンの滝沢馬琴が1824年(文政7)に実施した統計によれば、1年間で売れた桜餅は377,501個、1日平均で1,034個余が売れたことになる。消費された塩漬けのオオシマザクラの葉は、775,000枚(31樽)という膨大な量だった。COVID-19禍対策だろうか伝統的な木箱での提供はやめ、紙にくるむ仕様になっていた桜餅(長命寺)。
◆写真中上:上は、1953年(昭和28)に撮影された花川戸(上)と、整備された助六夢通り側から撮影した花川戸の現状(下)。中は、『俎板の長兵衛』で2代目・市川左団次Click!(左)の幡随長兵衛と7代目・市川中車Click!(右)の寺西閑心。ちなみに9代目・市川中車(TV名:香川照之)は、つまらないTVや芸能マスコミには懲りたろうから、そろそろ“本業”にもどるころだろう。下は、『助六』の舞台で15代目・市村羽左衛門Click!(中央)の助六に初代・中村吉右衛門Click!(右)の門兵衛と7代目・坂東彦三郎Click!(左)の仙平。
◆写真中下:上は、墨田堤側から眺めた三圍稲荷の鳥居だが現在はこちら側からは入れない。中は、1953年(昭和28)に墨田堤から隅田川をはさんで撮影された待乳山Click!(上)と同所の現状(下)。下は、同年に撮影された向島・小梅町の大通り。
◆写真下:上は、『隅田春妓女容性』で梅の由兵衛を演じる初代・中村吉右衛門Click!。中は、1953年(昭和28)に撮影された桜餅・山本屋(上)と現在もあまり変わらない同店(下)。COVID-19禍で、店内はずいぶん模様がえされていた。下は、「すみだ川」の舞台で6代目・中村歌右衛門Click!(右)の狂女と17代目・中村勘三郎Click!の舟人(左)。
甘い落合柿を食べていて想うこと。 [気になる下落合]
昨年の晩秋、近所の方から美味しい落合柿Click!をいただいた。以前、聖母坂Click!に住んでいたころは、段ボールひと箱ほどの落合柿をいただいたこともあるが、最近では柿の木が減少したせいか、いただくのはめずらしい。
落合柿は、土壌のせいだろうか甘くて舌になめらかで、スーパーなどで買う柿よりもかなり美味しい。そう感じるのは、ことさら富士山などによる火山灰土壌の関東ロームClick!に植えられ、その水で育ったせいか果肉や果汁などに味覚がフィットし、違和感をおぼえないせいなのかもしれない。江戸期から大正期にかけ落合柿の人気は高く、市場へ出荷される前に池上本門寺の「お会式」Click!用などの行事に使われるため、江戸東京市街の水菓子屋(果物商)Click!が収穫前に買い占めにやってきたという記録が残っている。
わたしは、子どものころによその家の庭になる柿を採って食べたことはないが(近所の家の庭へドッジボールや軟式野球ボールを投げこみ、ご主人の大切な盆栽をメチャクチャにした憶えは一度や二度ではないが/爆!)、山に登ると生えている柿を見つけてはよく採って食べていた。人里の近くに通う登山道などには、鳥や獣が種を運んだものだろうか、みごとな柿が実をつけていることが少なくない。
そんな、いかにも美味しそうなだいだい色に実った山道の柿を、何度食べたかは憶えていないが、たいがい口じゅうが痛くなるほどのひどい渋柿で、即座に道端へ吐きだすことになる。どれもこれも渋柿ばかりで、わたしは里山や登山道で甘柿に出あえたためしがない。きっと多くの里人たちは、実った柿の実を干し柿にして渋みを抜き、甘味を増してから保存するのが常識だったのだろう。
うちの母親は、やや渋みが残る柿をいただくと、米びつに入れては渋みを抜いていた。米の中に埋めておけば、どれぐらいの期間で渋が抜けるのかは、子どものころのことで憶えていないが、まるで魔法のように甘くなるのには驚いた。やったことはないが、リンゴやバナナも米びつに入れておくと、甘味が増して美味しく食べられるそうだ。
ちょっと余談だけれど、米びつへ無農薬あるいは低農薬の米を入れておくと、ときどき灰黒色のコクゾウムシが発生する。身体の表面が硬い虫なので、爪を立てて力を入れないとつぶせなくて厄介だ。しかも、1匹や2匹でなければ米びつをひっくり返して探さなければならず、手間がかかってたいへん面倒だ。これを短時間で取り除くには、ベランダや庭など陽の当たるところへ紙などを拡げ、米を薄く平らにならしておけばアッという間にコクゾウムシたちは逃げだしていく。この方法を教わったのも、下落合のご近所からだったろうか。米びつの米は、人間やコクゾウムシが食べるだけでなく、モノを熟成させて甘く美味しくする、なにか特別な“力”も備えているようだ。
下落合に柿が少なくなったのは、なにもきのうやきょうの話ではないだろう。おそらく、関東大震災Click!の影響から宅地開発が活発化した、大正中・後期からだと思われる。下落合には、開発当初から西洋館や和洋折衷住宅が多く、その庭園に既存の柿の木はあまり似あわなかったろう。また、箱根土地Click!のように、従来から生えていた樹木をすべて伐採して宅地全体を整地し、改めて植木農園Click!で育てられた庭木(たいがいオシャレなカタカナ名の樹木)が植えられるような宅地販売で、柿の木が選ばれることはまずなかったにちがいない。目白文化村Click!のオシャレな屋敷街に、柿の木はあまり似あわない。
耕地整理が行われ、宅地化が急速に進むにつれ、落合地域の特色のひとつだった落合柿の木も伐られつづけ、おそらく二度の山手空襲Click!で焼け死んでしまった木々もあったにちがいない。それでも、戦後しばらくの間、特に1970年代ぐらいまでは落合地域を散歩すると、あちらの家にもこちらの庭にも柿の木が見られた。ところが、21世紀に入るやいなや柿の木を見かけることが急減している。
つい近ごろも、佐伯祐三アトリエClick!の近くにあったお宅の柿の木が、邸の建て替えとともに伐られてしまったし(このお宅からは毎年、美味しい落合柿をたくさんいただいた)、十三間通り(新目白通り)Click!沿いに残っていた、毎年軒下に干し柿を吊るしていた大正時代の、いかにも下落合らしい風情のある邸も、3~4年ほど前に建て替えられて柿の木が伐採された。いまや、わたしの家の近所では、大正期に建てられたままの和館の庭と、近くの畑の裏に植えられている柿の木、二瓶等アトリエClick!跡にある南側の柿の木、そして佐伯祐三Click!の「下落合風景」Click!にも描かれた、庭木をほとんど残しながらみごとなリニューアルを実現した、例外的な高嶺邸Click!ぐらいでしか目にすることができない。
それでも、もともとの一戸建てだった家屋が、新たな一戸建てとして建てかえられる際は、庭木の1本として柿の木が残される可能性もあるのだが、最近の住宅は建蔽率ギリギリの敷地いっぱいに建てられるケースがほとんどで、樹木を残すほどの庭木スペースさえ十分に確保できないことが多い。
ましてや、大手ディベロッパーによる低層マンションの建設では、そんな期待をするだけムダだ。マンションの開発では、たいがい既存の樹木は根こそぎ斬られてしまい、跡にはなにも残らない。それでも、新たな樹木を植えてくれればいいのだが、利益率をできるだけ高めるために敷地いっぱいで、緑がほとんどゼロの低層マンションのほうが多いのが現状だ。新宿区の緑地減少では、落合地域がいつもトップなのが生活実感として腑に落ちる。
21世紀に入り、落合地域の緑は減少しつづけてきた。たとえば、下落合(現・中落合/中井含む)の東部でもっともショックだったのは、オバケ坂Click!の上のタヌキの森Click!はもちろんだが、国際聖母病院Click!の裏に建っていた小川邸Click!が解体され、邸を囲むように生えていた濃い屋敷林が伐採されたときだ。いかにも昔日の文化村を思わせる風情の西洋館だったが、同邸は第三文化村の南外れへ大正時代に建設されている。また、近衛町の杉邸Click!や学習院昭和寮Click!が解体され、南側に繁っていた樹木がなくなったのも非常に残念だった。特に後者は、バッケ(崖地)Click!自体を大きくえぐり取って崩してしまい、自然の地形まで大きく変えてしまうほどの大規模なマンション建設だった。
また、下落合中部では西坂下の旧・谷千城Click!邸だった敷地の森がすべて伐採され、全体が整地されて大型マンションになったのが記憶に新しい。さらに、目白文化村では振り子坂Click!の途中に建っていた第二文化村の嶺田邸Click!が解体され、樹木を1本も残さずに再開発されたのが残念だった。近々、同所の安東邸Click!も解体されるとうかがっているので、目白文化村の緑は今後ますます減少しつづけるのだろう。
下落合の西部に目を移すと、なんといっても刑部人アトリエClick!の屋敷林と、金山平三アトリエClick!の庭に繁っていた樹木の伐採が記憶に残っている。特に両アトリエとも、目白崖線のバッケ(崖地)に沿って建てられていたため、地下水が豊富で濃い樹林が帯状に形成されていた。その名残は、いまでも林芙美子記念館Click!でかろうじて目にすることができる。また、旧・刑部人アトリエ裏のバッケに繁っている樹林帯も、近々伐採されて低層マンション建設を前提に、再開発される計画があるとうかがっている。
わたしが1970年代半ばに散策した当時の下落合に比べると、おそらく80%を超える樹木が失われていると感じている。緑だらけだった当時の風景が、まるで夢かウソのようだ。緑豊かな住環境を求めるには、もはや落合地域では追いつかず新宿区のはるか西、たとえば世田谷区の国分寺崖線Click!沿いの街あたりClick!まで転居しないと無理なのだろうか。
落合柿について書いていたのに、いつの間にかややグチッぽい記事になってしまったが、20年後(2040年すぎ)の都市部では、マラリアとデング熱が風邪と同様の扱いになるなどという怖い予測がある。すぐにも「地球の温暖化」や「気象変動」など一般論のせいにしがちだが、都市部の「温暖化」をもたらしいてる主因は、まちがいなく樹林の減少であり、東京じゅうの“近所”の再開発で根こそぎ伐採されつづけている樹々のせいだということを、改めて深く意識したい。もっとも、わたしは20年後に生きているとは思えないけれど……。
◆写真上:久しぶりにいただいた甘くて美味しい、わたしの舌によくあう落合柿。
◆写真中上:上は、リニューアル前の高嶺邸の柿だがいまも変わらず実をならせている。中は、十三間通り(新目白通り)沿いにあった干し柿を毎年作っていた大正期の住宅。下は、開発前のオバケ坂上のタヌキの森(左)と開発後の現状(右)。
◆写真中下:いずれも再開発のBefore&Afterで上は、旧・学習院昭和寮Click!(日立目白クラブClick!/左)とその現状(右)。中は、「八島さんの前通り」Click!に建っていた旧小川邸(左)とその現状(右)。下は、旧・谷千城邸跡の敷地(左)とその現状(右)。
◆写真下:上は、第二文化村の旧・嶺田邸(左)とその現状(右)。中は、旧・金山平三アトリエ(左)とその現状(右)。下は、刑部人アトリエ(左)とその現状(右)。刑部人アトリエの再開発はテラスハウス形式の建物で、周辺の樹木がよく残されているほうだ。
★おまけ1
わたしが子どものころ、両親によく連れ歩いてもらった斑鳩(いかるが)の里には柿の木が随所にあり、特に法起寺Click!の遠景と柿のイメージは、切っても切れない印象として脳裡に焼きついている。だが、下落合に建つ大正建築の和館と柿の木も、とてもよく似あう。
★おまけ2
上は、先年に解体された「清風園」だが、周囲の緑地はなんとか残されている。ただし、タヌキの森と同様に裁判沙汰になっているので、今後はどうなるかわからない。中は、2葉とも四ノ坂の低層マンション建設現場で、樹木伐採前の屋敷林の様子(上)とその現状(下)。下は、2葉とも解体直前の第二文化村の安東邸。(空中写真はGoogleより)
いくつになっても古書店めぐり。 [気になる本]
わたしが通っていた大学の周囲には、50~60軒ほど古本屋が店をかまえていた。大学の教科書や、新刊本を扱う大小書店は最寄りの駅まで歩くと6~7軒はあったと思う。大学の出版部が刊行した学術書のみを扱う専門店もあったが、この店はおそらく大学の直営だったのだろう。学生時代には、軒を並べる古書店にずいぶんお世話になった。
大学の講義で使う教科書は、たいがいその教授や講師が著した本を用いるので、講義がスタートする4月には揃えておかなければならない。最初の講義では、「教科書はこれを使うので、成〇堂で手に入れておくように」とかなんとか、実物を手にして書店を指定するのでマジメな学生はちゃんと新刊本を購入していた。わたしは、教科書に3,000円も払うのがもったいないので(そんなおカネがあれば好きな本やレコードが買えるのだ)、畢竟、古書店めぐりをすることになる。
前年に受講した学生が、不要になった教科書を近くの古書店に売るのはめずらしくなかったので、何軒かまわるうちにたいがい見つかる。だが、古本屋の親父のほうでもその需要を見こんでいて、ちょっとボロでも半額ならうれしかったが、定価より2割ほど安いぐらいが関の山だった。毎年、講義で同じ教科書を使う先生ならいいが、中には「今年は、この教科書を使います。出版したばかりだからね、古本屋にいっても置いてないよ」と、年度が変わるごとにちがう教科書を指定する印税稼ぎのセコイ先生もいて、泣く泣く2,500円(LPレコード1枚の値段)だかを払って買った憶えもある。
現在でも、大学の周辺にある主要な古書店は健在のようだが、当時に比べれば店舗数は半減しているように思う。新しくオープンした店は知らないが、いまでも営業をつづけている店は30軒前後だろうか。そういえば、わたしが入学した1970年代の半ばすぎに、古書店を舞台にしたドラマを大学近くの店舗で撮影していた。確かユニオン映画の作品だったと思うが、あちこちでロケをしていたような記憶がある。その古書店を探してみたら、相変わらず健在だったのがうれしい。
この年になってもネットの古書店を巡回することが多いが、できるだけ安く本を手に入れるというよりも、調べものの資料探しという目的がほとんどだ。江戸期から大正中期ぐらいまでの本は、すでに著作権が切れているので国会図書館をはじめ、各種のデジタルデータやアーカイブのサイトで閲覧・ダウンロードすることができるけれど、大正末から昭和にかけての本は、古書店めぐりをしなければ手に入らないし読むことができない。
新刊本の本屋でも古本屋でも、わたしは本屋が大好きだが、初めて書店に入ったのはいつごろだろうか。もっとも古い記憶は、海街Click!に住んでいた子どものころ(幼稚園時代だろう)、駅近くの大型書店(確かサクラ書店とかいった)で、ディズニーの豪華絵本Click!を母親に買ってもらったあたりだ。確か『ぺりとポロ』『シンデレラ』、それに『ダンボ』は憶えているが、男の子がこんな本を喜んで読むはずもなく放置され、少女時代に戦時中の「英米文化排斥」の中で育った母親の欲求充足で終わったにちがいない。
小学生になると、その大型書店が毎月配達してくれる小学館の『少年少女世界の名作文学』全50巻をあてがわれたが、半分も読んでいないのではないだろうか。それでも印象に残っている作品といえば、ヴェルヌ『十五少年漂流記』『海底二万里』『八十日間世界一周』、ルブラン『綺巌城』、ファーブル『昆虫記』、ディケンズ『クリスマス=カロル』、トウェイン『トムソーヤの冒険』、ドイル『シャーロック=ホームズの冒険』、スチーブンソン『宝島』、ポー『こがね虫』『盗まれた手紙』……ぐらいだろうか。そもそも、同全集の第1回配本が第11巻のオルコット『若草物語』だったので、しょっぱなから読む気が失せて眠くなった。小学生の男子に、『若草物語』はどう考えても退屈きわまりない作品だろう。それに、「名作文学」などよりよほど面白いものがあったのだ。
そう、いわずとしれたマンガだ。当時は、カッパ・コミクス(光文社)になっていた『鉄腕アトム』と『鉄人28号』、「少年サンデー」(小学館)や「少年キング」(少年画報社)、「少年マガジン」(講談社)などをむさぼるように読んでいた。これらのマンガ類も、わざわざ書店へ買いにいかずに、配達員がとどけてくれたのを憶えている。そのうち、『おそ松くん』や『オバケのQ太郎』が連載されていた「少年サンデー」をよく読むようになったが、それも小学5~6年生になるころには飽きてしまった。それに代わって、俄然、興味がわいてきたのが推理小説と冒険・オカルト本Click!の類だ。
わたしは、学校の図書室に入りびたりになり、今度は『世にもふしぎな物語』とか『まぼろしの怪獣』、『空とぶ円盤の謎』『幽霊を見た!』『恐怖の幽霊』『ネス湖の怪獣』……などなど、不思議な話や怖い話に惹きつけられた。これらの本は、子どもの本を多く出版していた偕成社や小学館のものが多かったように思う。冒険やSF、オカルトなどがブームになった背景には、怪奇・怪獣ブームに火を点けた円谷プロの「ウルトラQ」や「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」などが流行ったからだろうか。
また、推理小説はご想像のとおりドイルの「ホームズ全集」やルブランの「ルパン全集」を、片っ端から読んでいった。これらの作品は、家にあったのを何度か読み返しているので、学校の図書室から借りだしたのではなく、いつもの書店からとどけてもらっていたように思う。当時は、ハヤカワ・ミステリ文庫やハヤカワ・ポケットミステリ(ともに早川書房)の全盛期で、推理小説ブームでもあったのだろう。中学時代を通じて、推理小説のマイブームはつづくことになる。
推理小説を読んで刺激され、暗号をつくって解読しあう“暗号遊び”も、友だち同士でずいぶん流行った。期末試験が迫って忙しい、オトベ君の家に暗号をこしらえてもっていったら、試験勉強中だったらしく「そんなことしてる時間ないんだよう」と、迷惑顔されたのをいまでも憶えている。わたしは、期末試験でも忙しくないので(要するに学校のお勉強が大キライなので)、フラフラ遊びながら好きな本を読んでは妄想をふくらませていた。おそらく、子ども用に出版されていたドイルやルブランの作品は、すべて読みつくしていると思う。
以前、わたしが初めて書店で買った日本文学の作品は、旺文社文庫版の夏目漱石Click!『吾輩は猫である』Click!と書いたが、どこが面白いのかサッパリわからなかった(いまでもわからない)。推理小説では、東大の安田講堂事件があったころ初めて書店で手にした、創元推理文庫(東京創元社)で改版したての分厚いコリンズの『月長石』だった。確か友人に奨められたと思うのだが、あまりに長すぎて途中で投げだしたのを憶えている。
その後、創元推理文庫はずいぶん読んだけれど、このころには江戸川乱歩Click!など日本の推理・怪奇作家の作品にも目を向けだしていた。近くの本屋さんへいくと、春陽文庫(春陽堂)のピンクも目に鮮やかな「江戸川乱歩名作集」がズラリと並び、少しエロチックで怪しげな装丁にも誘われて全巻を読んだ記憶がある。ついでに、「兄に頼まれたんですけどぉ~」とかなんとかいって、終刊間近な「ボーイズライフ」(小学館)を買って帰ったのも憶えている。金髪でビキニのお姉さんたちが、あちこちに登場する同誌だったが、残念ながら1970年ごろに廃刊になった。もちろん、わたしに兄などいない。
「ボーイズライフ」は、おそらく高校生から少し上ぐらいまでの年齢層をターゲットにした、ハイティーン向けの総合雑誌だったのだろうが、当時の高校生はといえば毎週発刊される「週刊プレイボーイ」(集英社)や「平凡パンチ」(平凡出版)などのほうに流れ、おとなしい「ボーイズライフ」など買わなかったのだろう。確かにビキニのお姉さんよりは、裸のお姉さんのほうがいいに決まっている。ちょうど「少年チャンピオン」(秋田書店)が発刊されたころ、推理小説や冒険・SF小説のほうがよほど面白く感じていたわたしは、荒唐無稽で子どもっぽいマンガにまったく興味を失った。
小学生のとき以来、いまでもマンガはほとんどまったく読まないのだが、いつだったか「なぜ読まないの? 大人が読んでも、読みごたえのある作品はたくさんあるよ」と訊かれ、答えに窮したことがあった。単に「つまんないから」では、ちょっとマンガ好きな相手に対して失礼になるので、「情景が規定されて面白くない」と答えたように思う。
確かに、テキストの世界は想像をどこまでも野放図に拡げられ、物語をベースに自分自身ならではの世界を、頭の中へ自由自在に描きだし構築することができるが、マンガはどうしても描かれたイメージが先行してあらかじめ情景が規定・限定され、好き勝手に場面を想像できる余地が狭いかほとんどないに等しい。つまり、どのようなストーリーであるにせよ、自分で好き勝手に想像できず、舞台や場面を押しつけられるのが「つまんない」要因なのかもしれないな……と、すっかり“テキスト脳”になってしまったわたしは考えている。
書店で単行本が無理なく買えるようになったのは大学生のころからで、それまでは毎月の小遣いの中から捻出して、おもに文庫本を買っていた。高校1年生の夏休み、「倫理社会」の課題図書でパッペンハイムの『近代人の疎外』を買ったことがある。古くから岩波新書に入っている1冊で、このとき初めて新書本を手にしたのだと思う。でも、パッペンハイムさん(および翻訳者さん)には申しわけないが、「つまんない本におカネをつかってしまった、古本屋で買えばよかった」と、むしょうに腹が立って後悔したのを憶えている。(爆!)
◆写真上:古本屋の店先で、平積みの中に思わぬ貴重本が眠っていることもある。
◆写真中上:上は、小学生時代にあてがわれた「少年少女世界の名作文学」(小学館)第1回配本のオルコット『若草物語』。出鼻をくじかれた少女趣味の作品だが、同時に収録されたポーの作品は面白かった。中左は、長すぎて途中で投げだした中学生時代のコリンズ『月長石』(創元推理文庫)。中右は、「兄」に頼まれてたまに買った月刊「ボーイズライフ」(小学館)。下は、懐かしい大学近くにあったかつての古書店街。
◆写真中下:上は、いかにも怪しげな装丁に惹かれた「江戸川乱歩名作集」(春陽文庫)。中は、マンガより面白くなった「少年少女世界のノンフィクション」(偕成社)。下は、いまだに電話番号の局番が3桁の同じく懐かしい古書店街の一画。
◆写真下:上左は、小学生時代の「名探偵ホームズ」全集(偕成社)。上右は、懐かしい同時代の『怪盗ルパン』(講談社)。中左は、高校1年の夏休み課題図書だったパッペンハイム『近代人の疎外』(岩波新書)。いまなら面白く読めるのかもしれないが、当時は「つまんない」本の代表だった。中右は、同じ岩波新書でも面白かった杉浦明平のルポルタージュ『台風13号始末記』。下は、学生時代にドラマのロケをしていた学生街の古書店。いつの間にリニューアルしたのか、当時とは比べものにならないほどキレイな店舗になっている。
昭和初期の山手線めぐりと忘れ物。 [気になる下落合]
駅の構内でほぼ絶滅した設備に、小型で罫線入りの黒板やボードにメッセージを残す「伝言板」がある。駅で待ち合わせをした人同士が、都合が悪くなり約束の時間に落ちあえなくなったり、急用ができて先に出発しなければならなくなったときなどに、ひとこと書き残して相手に伝えることを目的とした、駅ならではの伝言ボードだった。
おそらく携帯電話が普及し、いつでもどこでも音声やSMSで連絡がとれるようになってから、駅の伝言板は人知れず次々に撤去されていったのだろう。たまに、レトロな趣向から伝言板が残されている駅や、なにかイベントなどの特別な趣旨から設置している駅もあるようだが、もはや都心の駅で伝言板を見かけることはほとんどなくなった。
また、伝言板の横あるいは近くには、事務所にとどけられている「本日の忘れ物」リストを掲示して、落としぬしを探す駅も少なくなかったのを憶えている。1929年(昭和4)の「近代生活」6月号に書かれた小説風エッセイに、落合地域かその周辺域に住んでいた新居格Click!の『現代の三頁』がある。その中に、山手線や中央線のターミナルである新宿駅に設置されている構内掲示板に書きとめられた、忘れ物の一覧が記録されている。
昭和初期の忘れ物でいちばん多かったのが、今日と変わらずやはり洋傘(こうもりがさ)だったようだ。以下、同エッセイより1929年(昭和4)のとある春の1日に掲示されていた、新宿駅の忘れ物ボードのリストを見てみよう。
当時は、風呂敷が買い物袋や手軽なバッグがわりに使われており、中身のあるなしにかかわらず忘れ物が目立っている。書物や眼鏡などは「うっかり忘れた」で理解できるが、物指(ものさし)の忘れ物とはどういうことだろう。電車や駅へ、物指を持参する用事とはなんなのだろうか? 昭和初期、新宿駅を起点とした周辺域は新興住宅地が多かったので、大工や指物師、設計士の乗降客もたくさんいたから、それに比例して物指の遺失物が多かった……とでもいうのだろうか。
煙草入は、普及しはじめたシガレットケースのほか、当時はまだ愛用者がたくさんいた根付(ねつけ)の下がるキセル入れも含まれているのだろう。駅のホームや構内でタバコを吸っても、当時はなんとも思われない時代だった。
では、現在のJR東日本(首都圏)に多い忘れ物をリストアップしてみよう。
相変わらず傘の忘れ物が多いが、昭和初期の風呂敷やボール箱、紙包みなどにかわり各種バッグや買い物袋、封筒などが目立っている。また、電車に乗るとほとんどの人がのぞいている、スマートフォンの忘れ物が多いのが不思議だ。ポケットやバッグに入れたつもりが、そのまま座席へすべり落ちてしまうのだろうか。昭和初期のシガレットや刻みのキセルにかわり、電子タバコの遺失物が多いのは現代ならではの特徴だろう。
さて、ちょうど同じころ、1929年(昭和4)に発行された「近代生活」8月号には、山手線を中心に首都圏を走る電車の風情をスケッチした、5人の作家によるオムニバス・エッセイ『省線リレー風景』が掲載されている。中央線を担当した林房雄Click!の「新宿-神田」、山手線を担当した龍膽寺雄Click!の「上野から新宿へ」、同じく山手線の久野豊彦Click!による「新宿より品川まで」、新宿駅のホームから中央線の下りに乗る浅原六朗の「深夜の乗客その他」、そして東京駅から京浜線(現・京浜東北線+根岸線)に乗って新築の横浜駅方面へ向かう川端康成Click!の「桜木町-東京駅」の5編だ。
林房雄Click!の「新宿-神田」には、新宿駅の伝言板のメッセージが記録されている。1989年(平成元)に平凡社から出版された、『モダン東京案内』から引用してみよう。
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新宿――乗る前に掲示板をみること。/『Y子さん、三時迄待ったが帰ります。K』/『六べえ、先に行ってる。やってこい。安夫』/『武蔵野館の二階でまつ。みり子』/『金がないので引き返す。下宿に来い。A』/『H様、一、二等待合室にいます。すみ子』/そこで僕は一二等待合室をのぞいてみる。郊外散歩のいろんな携帯品を、ハンド・バッグや、風呂敷に詰めた若い娘達が、ソファの上に目白押しに並んでいる。
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当時の新宿駅が、郊外散歩の起点になっていた様子がうかがえる。娘たちは、それぞれお弁当や水筒などを持参して、山手線の外側か中央線沿線でハイキングでもするのだろう。当時の郊外の風景は、1932年(昭和7)に日本写真会によって企画され、翌年にかけて撮影された『武蔵野風物写真集』Click!(靖文社/1943年)や、織田一磨Click!によるさまざまな「武蔵野風景」シリーズClick!の画面で観察することができる。
下落合に近接した山手線の目白駅や高田馬場駅を担当しているのは、またしても当時は第三文化村Click!の目白会館文化アパートClick!に自宅があった龍膽寺雄Click!だ。龍膽寺雄は、『省線リレー風景』を執筆するとき、上野駅からまちがえて山手線の赤羽行きClick!に乗ってしまい、あわてて王子駅から田端駅へ引き返そうと車内でソワソワしている。ところが、乗りまちがえたのは彼だけではなかった。
同書の龍膽寺雄「上野から新宿へ」から、引用してみよう。
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(前略) 隣りに並んでかけて居た十八九の、肩の華奢な下町風の娘さんが、不安な眼をアチコチと窓の外へ動かして、/『あの』/と、ためらいがちに、白粉の仄白い顔を僕に向けた。/『目白へ参るのはこれでよろしいんでございましょうか?』/冗、冗談じゃない! 目白はおれの行くとこじゃないか。何とまた気がきかない、間違えた奴が間違えた奴に訊くなんて。――/何ともかともてれ臭くって、眼鏡をいじりながら、それでもしかつめらしく教えたものです。/『や、それじゃ王子で降りて引ッ返したまえ。田端で山手へ乗換えるんです。(後略)』
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娘は王子で降りて乗り換えたが、龍膽寺雄は自分もまちがえて乗ったのを知られるのが恥ずかしく、このままだと娘といっしょに目白駅で下車することになりそうなので、あえて終点の赤羽駅まで乗ったあと田端駅まで引き返している。
ようやく同駅から山手線内回りに乗ると、巣鴨駅から「水兵服」(セーラー服のこと)の女学生たちが乗りこんできた。近くにある、自彊術Click!で有名な文華高等女学校(のち十文字高等女学校)の生徒たちだろうか。彼女たちを観察するうちに、電車は池袋駅をすぎて龍膽寺雄がいつも利用している目白駅へと近づく。同書より、つづけて引用してみよう。
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目白。――川村女学院や自由学院(ママ:自由学園)の女生徒たちが時刻どきで、プラットフォームから溢れている。線路はここから高架線。新宿まで乗り越してやれ。/高田馬場を過ぎると戸山が原。陸軍化学研究所(ママ:陸軍科学研究所)では煙幕の実験。白漠々たる濃煙が丘の背へ尾を曳く。片側は射的場(ママ:射撃場)。コンクリートのトンネルがかまぼこ型に並んで、忽ち巨大な堤の蔭へ消える。(カッコ内引用者註)
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龍膽寺雄は、各駅から乗りこんでくる若い女子たちばかりを観察している。
自由学園Click!や陸軍科学研究所Click!もそうだが、龍膽寺雄のエッセイは施設名の“ウラ取り”(ファクトチェック)が甘いようだ。また、戸山ヶ原Click!の煙幕演習は陸軍科学研究所が実施していたのではなく(開発中の兵器実験は衆目が集まるような場所では行わない)、おそらく塹壕戦演習Click!などが頻繁に行われていた、同研究所の北側に拡がる山手線西側の戸山ヶ原一帯Click!で行われていた、どこかの部隊または陸軍士官学校の煙幕軍事演習だろう。車窓からは、竣工Click!して2年めの大久保射撃場Click!が、すぐに防弾土塁(三角山)Click!の陰に隠れてしまう様子が描写されているが、新大久保駅をすぎればほどなく新宿駅だ。
龍膽寺雄の「上野から新宿へ」を引き継いだのは、久野豊彦のエッセイ「新宿より品川まで」だが、久野は新宿駅の構内で「ワセダの浴衣」を着た「女のファン」たちを見かけている。この日、どこかで東京六大学野球Click!の試合でも行われていたのだろうか。
◆写真上:金久保沢の谷戸を掘削して敷設された、夕暮れの山手線・目白駅。
◆写真中上:上は、いまではすっかり見かけなくなった駅に設置された伝言板。下は、1935年(昭和10)に木村荘八Click!が描いた『新宿駅』の構内風景。
◆写真中下:上は、東京駅の忘れ物承り所。下は、忘れ物でもっとも多い傘。
◆写真下:上は、1922年(大正11)に地上駅から橋上駅Click!化された目白駅舎。中は、龍膽寺雄が利用していた1929年(昭和4)の同駅舎。下は、目白駅と目白橋の現状。