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中央線の脇に立つ焦土新宿のピラミッド。 [気になるエトセトラ]

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 空中写真を観察していると、ときどき目が点になり「はぁ??」となることがある。今回も、そんなケースのひとつだ。山手線の外側、百人町の北に位置する戸山ヶ原Click!に建設された、陸軍科学研究所Click!陸軍技術本部Click!のビルや建屋群を観察していたときのことだ。何気なく戸山ヶ原の西、当時の住所でいうと淀橋区柏木5丁目990番地(現・新宿区北新宿4丁目)に目を向けたとたん、アタマが白くなって思考が停止した。
 観察していたのが、戦後1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真で、陸軍科学研究所の敷地に建設されたビル群について、それぞれなんの建物かを観察し規定しようとしていたときだった。周辺の住宅街は焼け野原で、同研究所や技術本部のコンクリートビル群がかろうじて焼け残り、ことさら目立っているような写真だった。そして、同敷地の小滝橋通りをはさんだ西側に目を向けたとき、それは焼けずに残っていた。
 周囲が焼け野原の焦土なので、あたかも火星探査衛星が撮影した地表の写真にありえないものを発見したかのように、なぜだかピラミッドが建っていたのだ。にわかに自分の目が信じられず、一瞬、1960年代に撮影された学習院キャンパスClick!のモノクロ空中写真と、気づかずに取りちがえたのかと疑ったぐらいだ。だが、新宿駅からカーブを描いて伸びる中央線のすぐそば(北側)に、まちがいなくピラミッド状の建築が存在している。このピラミッドの南東側に接して建つビル状の建物は、戦前まで淀橋区役所だったはずだ。
 国家総動員法が敷かれたあと、敗戦までの7~8年は「贅沢は敵だ!」とか「欲しがりません勝つまでは」の時代Click!なので、淀橋区役所が「そろそろ庁舎が古びてきたので、今度造る新庁舎はどこの自治体もマネができない、誰も見たことがない奇抜なピラミッド型にしよう」……などというような、1980年代にありがちなバブル期の地方自治体みたいなことは、思いもよらなかったはずだ。あるいは、「今度、宅で建設しております屋敷は、ライト風はもう古うござますから、ギザのピラミッドを模しましたのよ。オ~ホホホホ……」もありえないだろう。それにしても、このビラミットは淀橋区役所のビルよりもはるかに大きな建造物で、1辺がおよそ70m余はありそうな四角垂型をしている。
 また、陸軍科学研究所の敷地が山手線西側の戸山ヶ原Click!をほとんど覆いつくし、敷地が足りないので西側に拡張して、ピラミッド型のなにやら怪しい研究施設でも建設したのかとも考えた。科学や物量ではどうしても米国に勝てないため、偏西風のジェット気流にのせた文字どおり風まかせの、イチかバチかの情けないバクチ作戦「風船爆弾」Click!を飛ばしたりしていたので、ピラミッドを建設して「宇宙の気」Click!でも集め、「光波のデスバッチ」Click!的念力波動砲で米国を呪詛する神だのみ施設でも「新兵器」として開発し、これは“呪いのピラミッド”なのかなどと妄想は際限なくふくらんだ。
 ところが、せっかく高揚した妄想に水を打(ぶ)っかけてくれたのが、1940年(昭和15)に作成された1/10,000地形図だった。同地図で、当該の敷地を確認すると淀橋区役所の北東側に接して、正方形の建物の形状が採取されており、その傍らに「市場」と記載されている。「な~んだ、いまもある新宿の淀橋市場じゃないか」と、面白くないのでガッカリしたのだけれど、戦時体制下にもかかわらず東京市は、なぜピラミッド型の大規模なビルなど建設しているのか、新たな疑問がわいてきた。
 当時の公設市場Click!は、今日のいわゆる青果類や魚介類の卸売市場だけでなく、一般の消費者を顧客にしたリテールだった。関東大震災の直後から、物価の高騰で苦しむ東京市民のために、特に生活必需品の食糧を中心に適正価格で、あるいは小売商店よりも安く提供するのを目的とした、今日の大型スーパーマーケットのような存在だった。だから、特に売り上げが大きく顧客が多く集まる公設市場Click!は、まるでデパートClick!のような意匠のビル建築もめずらしくなかった。
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 淀橋市場も多くの顧客を抱え、戦時下にもかかわらず東京市が目立つピラミッド状の市場などにしたのも、売上が大きく伸びていたからではないか? そう考えたわたしは、市場の建物がリニューアルされたとみられる1940年(昭和15)前後の東京市の記録を調べてみた。すると、1938年(昭和13)に東京市産業局庶務課が発行した、淀橋市場の史料を見つけた。
 以下、同年3月に発行された『東京市日用品買入先調査書』から引用してみよう。
  
 次に利用の大なのは百貨店で、総消費者の65%以上を占め、之に亜いで小売市場の中公設市場の利用が45.5%を示している。併乍(しかしなが)ら地域的には多少其の傾向を異にし、三味線堀市場を中心とせる方面では市設市場の利用割合が33.5%を示してゐるに反し淀橋市場を中心とせる周囲消費者の当該市場に対する需要は63.7%で百貨店を凌駕してゐる。両市場中心半径五百米の周辺に、前者に在つては上野松坂屋を控へ、後者に於ては新宿二幸、三越、伊勢丹等を擁し百貨店の利用程度は寧ろ淀橋市場方面が大なる事を想ふが、其の位置に於て淀橋市場方面が区域圏外稍々遠方なる事と、又三味線市設市場(ママ)に比し淀橋市場の方が規模及び地理的条件に優位であり、之に加ふるに、勤労階級の支持を受けてゐると謂ふ諸点に起因してゐるものと観察するのが妥当であらう。(カッコ内引用者註)
  
 この文章の中で、「三味線堀市場」と書かれているのは、当時の上野駅近くにあった東京市の大規模な公設市場のことだ。すなわち、添えられた統計資料によれば1935~1936年(昭和10~11)の間、繁華街だった上野の市場よりも淀橋市場のほうが1.5倍から2倍近くの売上のあったことがわかる。東京西部に「勤労階級」、すなわち会社勤めのサラリーマン家庭が急増していた様子がうかがえる。
 たとえば、1935年(昭和10)の三味線堀市場の売上が105万円なのに対し、淀橋市場は185万円を記録している。翌1936年(昭和11)は、前者が107万円に対し後者は153万円の売上となっている。しかも、新宿にある二幸や伊勢丹、三越など並みいるデパートの売上さえ、淀橋市場が凌駕しているような状況だったようだ。
 1日平均の入場者数は、1935年(昭和10)10月の三味線堀市場が1.087人/日に対し淀橋市場は1,607人/日、2年後の1937年(昭和12)では前者が4.767人/日に対して、後者は5,.390人/日と双方ともに急増している。また、1店舗あたりの1日平均売上高は、1935年(昭和10)の時点で前者が26円/日なのに対し後者が31円/日、翌1936年(昭和11)では前者が22円/日に対し後者が26円/日と、淀橋市場が顧客も多くにぎわっていたのがわかる。淀橋市場の建物を、ことさら大規模にリニューアルする理由はここにあったとみられる。
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 1939年(昭和14)から、中央卸売市場法の「東京市第二次分場拡張計画」により、淀橋区(現・新宿区の一部)を中心とした急増する消費人口に対応するため、当時の周辺に林立していた私設市場13カ所を併合し、改めて造られたのが淀橋市場だった。大正期に設立された当初は、リテールオンリーの公設市場だったのが、1939年(昭和14)を境に青果物の卸売市場を兼ねる市場となり、卸売部門は「東京中央卸売市場淀橋分場」となった。戦後は南側の敷地を買収して拡張し、おもに青果物の卸売市場として機能してきている。
 ピラミッド型の大規模な建造物は、1939年(昭和14)の東京市による「第二次分場拡張計画」により進められた建設事業だった。淀橋市場は、小売りの店だけでなく卸売市場を併設することになったので、現在から見ても巨大な建物への大幅な拡張が必要になったのだ。上掲の、東京市が作成した統計資料『東京市日用品買入先調査書』は、そのリニューアルへ向けた下準備のための説明資料だったのだろう。
 現在の淀橋市場は、立体構造化したにもかかわらず再び敷地が手狭になっているようだ。また、卸売市場の性格から早朝にトラックの出入りが多く、近隣の騒音も大きな課題になっているらしい。2019年に発行されたパンフ「淀橋市場の概要」から引用してみよう。
  
 淀橋市場は、新宿区をはじめ中野・杉並・練馬・世田谷等周辺区部や多摩地区の東部・中部を中心に青果物を供給しており、東京都中央卸売市場の青果9市場中で大田市場、豊洲市場に次いで第3番目の取扱実績を保有するなど、生鮮食料品の安定供給に重要な役割を果たしている。/しかし、産地出荷者の大型化に伴う大量・広域輸送の進展により、搬入車両がさらに大型化するとともに、取引方法の多様化(転送・納入等)に伴い、買出人の車両もせり開始時刻(午前6時4 0 分) 以前の深夜早朝から市場に出入りする傾向となってきていることから、様々な問題を抱えている。淀橋市場は敷地が狭隘なうえ、その市場面積に比べ取扱量が多いことから、市場関係車両による騒音と交通渋滞等により、近隣住民や一般通行車両及び通行人に多大な影響を及ぼす状況となっている。
  
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 淀橋市場では、「周辺環境への迷惑を解消することが第一」を基本方針にすえ、さまざまな施設改造計画を立案しているようだ。東側が戸山ヶ原だった戦前ならともかく、確かに周辺は住宅街が広がっている街中なので、夜中から早朝にかけての大型トラックの騒音や振動は周囲へ大きく響くのだろう。せっかく伝統のある新宿の市場なのだから、大久保射撃場Click!近衛騎兵連隊Click!のように「新宿から出ていけ!」といわれないうちに、予算の都合もあるのだろうができるだけ早急に防音・渋滞対策を進めたほうがいいように思う。

◆写真上:1947年(昭和22)の空中写真を見ていて、目が点になった淀橋市場。隣接する陸軍科学研究所のビル群に比べ、同建築がいかに大きかったのかがわかる。
◆写真中上は、1938年(昭和13)ごろの空中写真で淀橋市場のピラミッドは建設されていない。中上は、1940年(昭和15)の1/10,000地形図にみる淀橋市場。中下は、1944年(昭和19)撮影の淀橋市場。は、1947年(昭和22)撮影の空中写真(拡大)。
◆写真中下中上は、1938年(昭和13)に東京市産業局庶務課が発行した『東京市日用品買入先調査書』による統計資料。中下は、1950年代の淀橋市場内部。下左は、『東京市日用品買入先調査書』。下右は、2019年発行のパンフ「淀橋市場の概要」。
◆写真下は、1950年代の淀橋市場で北側に増設された建物が見えている。は、フカンから撮影した1960年代の淀橋市場。は、立体建築化した淀橋市場の現状。

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