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首相官邸のトンネル「溜池ルート」について。 [気になるエトセトラ]

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 永田町1丁目にある首相官邸(現・首相公邸)の、南西側に落ちこんだバッケ(崖地)Click!が連なる高い築垣には、一見、防災用品などを備蓄収納したような「倉庫」のような外観に見える、コンクリートで固められ鉄製のドアが付属する“穴施設”が穿たれている。ときに、鉄製のドアの前には機動隊員がよく手にする、ジュラルミンの盾が立てかけられていることもある。以前、「不良華族事件」Click!の記事をアップした際、その崖地をとらえた写真の右隅にも、“穴施設”のコンクリート壁がとらえられている。
 この施設は、20mほどのゆるい坂道(緩斜面)に面しており、短い坂のちょうど正面が、溜池ダンスホール「フロリダ」があった跡地の裏手にあたる。二二六事件Click!の際、首相の岡田啓介Click!をともない庭の築山へ出ようとした義弟の松尾伝蔵は、すでに兵士たちが庭園に多数入りこんでいるのを見て断念している。もう一度、1977年(昭和52)に毎日新聞社から出版された、岡田貞寛・編『岡田啓介回顧録』から引用してみよう。
  
 あのころ、すでに首相官邸には庭の裏手から崖下へ抜ける道が出来ていた。五・一五事件で犬養毅首相が殺されたあと、なにかの際に役に立つだろうというので、つくったものらしい。崖っぷちのずっと手前から土をくり抜いて、段々の道になっており、そこを降りて行くと土のかぶさった門がある。土がかぶさった門と思ったのは実は小さいトンネルだったんだが……そこを通ってフロリダとかいうダンスホールの裏に出る。山王方面へ抜ける近道になっていたわけだ。話によると、永田町の官邸には秘密の通路があるとのうわさも世間にはあったそうだが、たぶんこの道のことだろう。
  
 わたしは、家の氏神であり江戸東京総鎮守の神田明神社Click!ほどではないにせよ、江戸東京を二分する天下祭りClick!の社(やしろ)、徳川家の産土神である日枝権現社(山王権現社)Click!を何度か訪れたことがある。ちょっと余談だが、日枝権現社には則宗や国綱、長光など徳川家ゆかりの名刀類Click!が収蔵されているので、それらを観賞しにいくのが楽しみだった。同時に、付近を散策する機会も多かった。その際、日枝権現社つづきのバッケ(崖地)にあたる、首相官邸の南側にある築垣界隈を散歩することも多かった。
 すると、なぜか上記の「防災倉庫」の前で、警官に出会う確率が高かったのを憶えている。警官は、「防災倉庫」の横や前、あるいは20mほどの短いダラダラ坂付近に立っていることが多く、坂を下りきるとレコードレーベル・東芝EMIビルの裏手に出た。当時は、首相官邸の裏側なので、いちおう首相が在邸しているときは警官を配置していたのだろう……ぐらいに考えていたのだが、「防災倉庫」の前というのが不可解に感じられた。まるで、「防災倉庫」を警備しているような雰囲気だったからだ。
 2002年(平成14)4月に、新たな首相官邸が敷地の北側に竣工し、旧・首相官邸が首相公邸になってから、この場所で警官の姿を見ることは少ないけれど、それでもときどき警官が「防災倉庫」を警備している様子を知ることができる。わたしがうっかりカメラを向けたりすると、とたんに不審訊問に遭いかねないので、こういうときに役立つのが、定期的に街角をクルマで撮影してまわっているGoogleのStreetViewだ。
 「防災倉庫」の前あるいは横に警官が立つ姿が、2016年、2017年、2018年、2019年……とほぼ毎年連続して見てとれる。1年に一度、それほど頻繁に撮影していないにもかかわらず、StreetViewのカメラに写るということは、かなりの頻度でいまだ警官が立っていることになる。StreetViewの撮影車を、警官たちが不審そうに見送る姿が印象的だ。もうお気づきだと思うが、「防災倉庫」前の短い緩斜面の下に建っていた東芝EMIビル(赤坂2丁目2番地)が、規模の大きかった溜池ダンスホール「フロリダ」の跡地ということになる。
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 ところが、溜池へ抜けるトンネルは東條英機Click!が首相だった戦時中に、防空壕とともに造られた2本のトンネルのうちの1本だとする資料がある。つまり、岡田啓介は戦時中に造られたトンネルを、戦後になって二二六事件の当時からあったと勘ちがいしているのでは?……という懐疑的な見方だ。1995年(平成7)に朝日ソノラマから出版された、毎日新聞記者の大須賀瑞夫『首相官邸・今昔物語』から戦時中の様子を引用してみよう。
  
 トンネルの入り口は官邸の小食堂わきと公邸近くにあった。このトンネルは防空壕につながっており、そこから溜池方面と特許庁方面へ通じる二本のトンネルがあった。/赤坂・溜池に通じるトンネルは長さ百メートルもあり、出口付近は爆弾が落ちても爆風のショックを和らげるためにジクザグ通路になっていた。(中略) これ(『岡田啓介回顧録』)によれば、戦時中に防空壕とトンネルを掘った時、すでに官邸からの抜け道ができていたというのだが、佐藤朝生や佐藤嘉右エ門ら当時の官邸関係者は、/「防空壕のトンネルとは別に抜け道があったなんてことは全く聞いたことがない」/と否定的だ。/岡田の回顧録は戦後になってまとめられたものであり、あるいは東条(ママ)内閣当時のトンネルと混同している可能性もあるが、今となっては確かめようがない。(カッコ内引用者註)
  
 東條内閣のとき、首相官邸の南庭に2本のトンネルと防空壕を建設したのは、官邸の建設業者と同じく清水組(現・清水建設)だった。文中に登場している佐藤というふたりの人物は、その工事を眺めていた官邸事務方の関係者だ。
 この証言と、上掲の『岡田啓介回顧録』の証言とを照らし合わせると、すぐにもおかしいことに気がつくだろう。東條英機が官邸の地下にトンネルと防空壕を造らせたときには、とうにダンスホール「フロリダ」など存在していなかったからだ。換言すれば、岡田啓介は非常脱出用のトンネルと「フロリダとかいうダンスホールの裏」をセットで記憶していたのであり、戦後になって東條が造らせた防空壕トンネルと存在しない「フロリダ」とが重なるのは、あまりに不自然な記憶ということになる。
 もう一度、「フロリダ」の営業経緯について整理してみよう。この店は、1929年(昭和4)8月に当初は「溜池ダンスホール」という名称でオープンしている。すぐに「フロリダ」という店名が追加され、1932年(昭和7)8月6日に火元の不始末から建物が全焼。その直前、同年5月15日には「フロリダ」のすぐ上にある首相官邸付属の「日本間」=和館(戦災で焼失)で、犬養毅首相が暗殺(五一五事件)された。そして、同年10月早々に「フロリダ」は再建され営業を再開するが、焼失前よりもかなり大規模で豪華なダンスホールとして生まれかわり、東京市内でも最大クラスで人気No.1のダンスホールとなった。
 1933年(昭和8)11月、「フロリダ」を中心とした「不良華族事件」が摘発され、経営の柱だった舞踏教師(ダンスインストラクター)夫妻の検挙により、「フロリダ」はしばらく営業停止を余儀なくされている。首相官邸の五一五事件から、1年半ほどたったのちのことだ。さらに、1936年(昭和11)2月16日に麻布歩兵第一連隊(第一師団)の下士官兵300名以上が首相官邸を襲撃(二二六事件)し、岡田啓介の義弟・松尾伝蔵を首相とまちがえて殺害している。そして、1940年(昭和15)には第二次近衛文麿Click!内閣のもと、10月12日に大政翼賛会が結成され、10月31日には奢侈禁止によりダンスホール「フロリダ」は閉鎖されている。
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 この一連の流れの中で、当時は東京市内のどこのダンスホールでも見られたような「醜聞」や、作家たちの私的な賭け事(麻雀や花札)にもかかわらず、なぜ1933年(昭和8)11月に「フロリダ」は大規模な摘発・手入れを受け、15名以上もの検挙者を出さなければならなかったのか?……、しばらく営業を停止・閉鎖せざるを得なかったのか?……という点が、わたしにはどうしても不自然に思えて引っかかるのだ。
 前年からつづく脱出用のトンネル工事が竣工間近であり、溜池側への“出口”を設置する際、デイチケットで昼間から混雑していた「フロリダ」とその周辺から、人々を遠ざける必要があったというのがわたしの推測だ。そして、宮崎白蓮Click!も感じたように、あまりにも不自然な「不良華族事件」とダンスホール「フロリダ」のネームは、二二六事件以前から岡田啓介の脳裏にも強い印象となって焼きついたにちがいない。だからこそ、トンネルと「フロリダとかいうダンスホールの裏」とを重ねて記憶していたのだろう。
 東條内閣時に造られた官邸の防空壕と2本のトンネルは、官邸事務方の記憶によればわずか数ヶ月で竣工したという。確かに、防空壕とトンネルの特許庁ルートは新たに建設されたかもしれないが、溜池ルートは既存のトンネルをリフォームしただけではないか。だからこそ、建設リードタイムがかなり短くて済んだのではないかという気がするのだ。
 1945年(昭和20)8月15日の未明、このトンネルを通って避難した人物の証言が残っている。1964年(昭和39)に恒文社から出版された、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長だった迫水久常『機関銃下の首相官邸』から証言を聞いてみよう。このときは、ポツダム宣言受諾を承知せず、「徹底抗戦」を叫ぶ陸軍士官の襲撃から逃れようとしていたときだ。
  
 実弟と警護の警視庁巡査を伴っていったん防空壕内の書記官長室に入り、非常用出口の方を偵察せしめ、兵隊のいないことを確かめて特許庁に近い道路に出た。特許庁の角を目がけて三人で走ったが、後ろから狙撃されるかもしれないと思った。飯倉の親友の家に着き、ここで警視庁へ電話、徒歩で警視庁へ行き、総監室では町村総監に会った。
  
 このとき、迫水は特許庁ルートを通じて避難しているのがわかる。特許庁ルートは戦後、現在の六本木通りが拓かれ首都高が建設された際、官邸のバッケ(崖地)とともに消滅しているのは確実だ。では、溜池ルートのほうはどうなったのだろうか?
 戦後しばらくして、防空壕や2本のトンネルは埋め立てられたとされている。だが、1992年(平成4)に溜池ルートを途中まで探検した人物がふたりいる。宮澤喜一内閣で、官房長官と副官房長官だった加藤紘一と石原信雄だ。ふたりは、同年9月5日に懐中電灯をもって溜池ルートのトンネルを50mほど進んでいる。だが、坂状になったトンネルを下りる途中で息苦しくなり、酸欠を怖れたふたりは階段が下へとつづくトンネルを途中で引き返している。
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 おそらく、さらに進むと途中には頑丈に施錠された鉄扉があり、奥には「防災倉庫」のように見える、東芝EMI(「フロリダ」跡)の裏へ抜けられる“出口”にたどり着いたのではないだろうか。だからこそ、いまでも“出口”で頻繁に警官の姿を見かけるのではないだろうか。

◆写真上:左手の「肉」看板の先にある青っぽいビルが、ダンスホール「フロリダ」跡。
◆写真中上は、StreetViewより2016年の「防災倉庫」前。は、2017年と2018年の撮影。は、2017年の撮影。いずれも、警官が撮影車を不審そうに見ている。
◆写真中下は、火事で焼失した1932年(昭和7)以降の大規模化した「フロリダ」内部。は、戦後に撮影された溜池ルートのトンネル起点となったといわれる首相官邸の南庭にある築山と、清水組が建設した首相官邸地下の防空壕の一部。
◆写真下からへ、それぞれ1936年(昭和11)、1940年(昭和15)ごろ、1948年(昭和23)撮影の空中写真にみる首相官邸とその周辺。下左は、1995年(平成7)出版の『首相官邸・今昔物語』(朝日ソノラマ)。下右は、1964年(昭和39)出版の『機関銃下の首相官邸』(恒文社)。文中では触れなかったが、首相官邸のトンネルについて記録した本には、敗戦間もない1946年(昭和21)に出版された中村正吾『永田町一番地』(ニュース社)がある。
おまけ
 1947年(昭和22)の空中写真にみるフロリダ跡で、溜池を埋め立てたあと明治以降も残った2本の濠筋を、さらに埋め立てた新地の上に建っていた。戦後、ビルの前には車列の写っていることが多いので、GHQの将校クラブなどに接収されていたのかもしれない。
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