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大正期からの丁目表記と字名境界の規定。 [気になる下落合]

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 落合地域の住所に「丁目」表示が採用されたのは、1932年(昭和7)に東京35区制Click!が施行され、淀橋区の成立とともに落合町が下落合・上落合・西落合(旧・葛ヶ谷)の3地域に分けられてからというのが「公式」のお役所記録だが、実はこれが誤りであることは、ずいぶん前にも一度、拙サイトで記事Click!にしている。
 大正期の手紙やハガキには、すでに「丁目」を付加している宛て名書きが存在しており、以前の記事では1926年(大正15)に下落合の西側に住んでいた前田寛治Click!(下落合1560番地Click!)の、「下落合4丁目1560番地」を例に引いて書いた。前田寛治に限らず、大正期に下落合の住所に「丁目」をつける郵便は、ほかにも散見することができる。
 地元の地図類でも1925年(大正14)から、「丁目」表記とその境界線が明確に規定されている。また、翌1926年(大正15)の地図でも、同様に「丁目」表示は引き継がれ、目白通り沿いに東から西へ順番にふられている。だが、それ以前の地図類には「丁目」表記は見あたらない。もちろん、国や自治体が制作する地図類には、1932年(昭和7)まで「丁目」の表記は記載されていない。
 以前の記事では、下落合で“線引き”された「丁目」の境界、または境界近くに郵便局があるケースの多いことから、広い下落合へ複雑にふられた番地を少しでもわかりやすくするため、郵便配達の便宜上、あるいは逓信業務の効率向上のために「丁目」を付加する慣習が、大正期から採用されていたのではないかと推測した。
 新興住宅地には多々見られる傾向だが、住宅が建てられたエリアから住所=番地がふられていくため、当初から先を見こして綿密に計画を立てないと、番地の振り方が不規則になりがちだ。新しい住宅街の開発では、往々にして古い道路を廃止して新道路を拓いたり、従来は田圃や灌漑用水で仕切られていた区画を埋め立てて宅地化するなど、番地のふり方がチグハグになる要素が多々見られる。よほど先を見こした、余裕のある番地計画Click!を立てないかぎり、複雑でわかりにくい番地の割りあてとなってしまう。
 下落合の例を挙げると、たとえば道路を1本隔てただけで200番地台から700番地台へ、600番地台から1400番地台へ飛んだり、1100番地台から住宅の敷地境界の隣りがいきなり1800番地台になるなど、わかりにくい箇所がいくつもある。たいがいの番地(おおむね地番を踏襲している)は、東から西へ昇順に大きな数字になっていくが、800番地台の西側に600~700番地台がきたり、1400番地台の西側に1300番地台が展開したりと、通常の規則性から外れたエリアも多い。
 このわかりにくさを解消するために、地元の郵便局が利便性を考慮して配置したのが、下落合1丁目から4丁目までの表記ではないかと推測したのだが、もうひとつの可能性としては、1924年(大正13)に落合町が成立したのと同時に地元の自治体、すなわち落合町役場が地域住民の利便性を考慮して、暫定的にふっている「丁目」の可能性もありそうだ。ちなみに、大正期からふられていた「丁目」表記は下落合4丁目までで、いまだ葛ヶ谷(のち西落合)の飛び地だった妙正寺川北岸の西端は「(字)御霊下」のままで、のちの下落合5丁目は存在していない。
 では、下落合にふられた「丁目」の境界を見ていこう。参照するのは、1925年(大正14)1月17日に地理図案研究所が発行した「下落合及長崎一部案内図」の東部版だ。同地図は、目白通りの商店街を中心に、当時の住宅街を描いた便利地図のようなつくりになっており、拙サイトでは通称「出前地図」Click!と表記してきたものだ。同地図の東部版では下落合1丁目から4丁目の境界まで、同年4月11日に発行された西部版では下落合4丁目から葛ヶ谷(のち西落合)の東部までがカバーされている。すなわち、江戸期から下落合村と長崎村の境界にあたる、清戸道Click!の街道沿いに発達した「椎名町」Click!(現在の椎名町駅周辺とは位置が異なる)を中心に、構成されているのが歴然としている。
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 まず、「出前地図」に描かれた下落合1丁目は、東側の山手線沿いにある高田町と落合町の境界から西へ七曲坂筋まで、すなわち目白通りでいえば下落合500番地の目白福音教会Click!の敷地と、下落合491番地の田島邸との間に通う道路まで、ということになる。だが、この境界は1932年(昭和7)以降にふられる下落合1丁目とは異なっている。のちの1丁目は、さらに西側の下落合483番地の小林邸と下落合579番地の菓子屋にはさまれた道路であり、丁目境界が七曲坂Click!と合流するのは子安地蔵通りClick!へ交叉してからだ。
 また、下落合2丁目は先の七曲坂筋から、下落合639番地の舛田屋と下落合641番地の田中邸にはさまれた、地元では通称「木村横丁」Click!と呼ばれていた道路までだ。これも、1932年(昭和7)以降の2丁目とは異なる境界だ。なぜなら、大正期の木村横丁から入る道は南へ進むと一面の原っぱになり、当時は青柳ヶ原Click!が拡がっていた。すなわち、のちに国際聖母病院Click!が建設され聖母坂Click!(新・補助45号線)が拓かれるのと同時に、木村横丁全体が消滅してしまったからだ。1932年(昭和7)以降の下落合2丁目境界は、当時の通称「西坂通り」、佐伯祐三Click!の画題を借りれば「八島さんの前通り」Click!(旧・補助45号線)から南へたどる西坂Click!筋が、2丁目の西端境界となっていた。
 ここで、もうひとつの課題がある。目白通りの北側、雑司ヶ谷旭出(現・目白3~4丁目)へ大きく張りだした下落合は、1丁目と2丁目のどちらだったのだろうか。「出前地図」には、目白通り南側のように境界が記載されておらず、1丁目と2丁目の「目」の字のみが地図上に重なって記載されているだけだ。先の行政や逓信の便宜からいえば、「目白通り北の下落合」(500番地台エリア)ですぐに絞りこめて特定できるため、丁目の境界線が曖昧だったか、あるいは「出前地図」の制作者が書き漏らした可能性もありそうだ。
 さて、下落合3丁目は、いまでは消滅してしまった木村横丁から、下落合1497番地の長寿庵と下落合1948番の高田邸にはさまれた道路、そのまま南下すれば落合町役場Click!落合第一小学校Click!へと抜けられる道筋までのエリアだ。この道筋が、南へ下ってどのような経路で下落合3丁目と4丁目の境界を形成しているかは、記載がないのでさだかでない。1925年(大正14)4月11日に地理図案研究所が発行した、「下落合及長崎一部案内図」の西部版Click!を参照しても詳細は不明だ。
 やはり、1932年(昭和7)以降の境界は大正期とは異なり、下落合3丁目は西坂筋(八島さんの前通り)から小野田製油所Click!の手前(東側)、下落合1522番地の八百菊と1523番地の宇田川酒店にはさまれた道路、すなわち第二府営住宅Click!を縦断し第一文化村Click!を縦に分割して、第二文化村から振り子坂Click!をへて寺斉橋Click!へと抜けるラインが、3丁目と4丁目を分ける境界となっている。
 そして、「出前地図」の下落合4丁目は、先述の落合町役場へと抜ける筋から、西側は落合町葛ヶ谷(のち西落合)との境界まで……ということになる。1932年(昭和7)以降は、下落合4丁目の境界がさらに西側へとずれ、淀橋区成立後の新たな地名である西落合との境界までつづいているのは上記のとおりだ。
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 この「丁目」境界は「出前地図」の翌年、1926年(大正15)10月10日に東京市町事情研究所が発行した「下落合事情明細図」でも、基本的に変わらない。あえて「丁目」の境界線は記載されていないが、前年に発行された「出前地図」とほぼ同じエリアの目白通り沿いに、下落合1丁目から4丁目までが記載されている。ただし、心なしか全体的に「丁目」表記が「出前地図」に比べて西寄りに感じられる。
 その原因は、下落合の中部から西部にかけ住宅が急増しており、住宅街は西へ西へと伸びていったため、1925年(大正14)現在の「丁目」境界のままだと、下落合4丁目が広大な地域になってしまう……と懸念されていたせいだろうか。そこで、従来は曖昧で揺れ動いていた字名のエリアを厳密に整理・規定する作業も、大正期には同時に行われていたのではないだろうか。以前、揺れ動く「中井」や「大上」Click!「不動谷」Click!、あるいは消滅してしまった「摺鉢山」Click!などの字名について書いたけれど、字名は名称そのものの変化や消滅とともに、時代ごとにそのエリアも移動し曖昧化している。
 たとえば、明治の初期まで下落合の東端にある字名「丸山」Click!は、氷川明神社Click!のある目白崖線の斜面から下にふられていた字名のはずだった。ところが、明治後期になると丸山は下落合東部の丘上へと移動し(その西側に位置する字名「本村」Click!も同様だ)、丘下の本来の丸山エリアは「(字)東」「(字)南」と呼ばれるようになる。ところが、昭和初期になると丸山の位置は北へ移動したままだが、東と南の字名は「東耕地」「南耕地」へと変化する。字名の移動や名称の変化もそうだが、そのエリア自体も曖昧なケースが多い。「中井」が目白崖線の丘下や丘上を転々としたり、「不動谷」のエリアが本来の位置から西へ大きく移動(拡大)しているのは、すでに何度か記事に書いたとおりだ。
 つまり、関東大震災Click!ののち宅地化が急速に進む落合地域では、字名の名称およびエリアの厳密な規定も、行政上あるいは逓信上で迫られていた課題のひとつだったのだろう。1929年(昭和4)に、川流堂が発行した「東京府豊多摩郡落合町全図」には、この字名の境界が赤い破線で改めてきっちりと規定されている。そして1932年(昭和7)、淀橋区の成立とともに下落合1丁目から4丁目まで規定された境界線も、この字名の境界線に沿ってトレースされたもので、大正期の「丁目」境界とは明らかに異なっている。さらに、葛ヶ谷の飛び地が下落合へ併合されると同時に、妙正寺川の北岸一帯を下落合5丁目としている。
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 大正末から昭和初期にかけての字名エリアの規定は、古くからつづく本来の字名やその位置とはやや異なり、行政上あるいは逓信上、ときにはディベロッパーClick!のご都合主義で規定されたものであり、史的な経緯はあまり重視されていない。換言すれば、曖昧化しつづける字名エリアの課題を解消するために、大正期から試みられていたのが「丁目」の付加だったという見方も可能だろうか。1925年(大正14)の「出前地図」(東部版/西部版)で初出する、下落合の「丁目」表記だが、東から西へと急速に開発が進む住宅地を、できるだけ把握しやすいように工夫した、苦肉の策の地元地図だったのかもしれない。

◆写真上:1925年(大正14)4月11日に発行された、北が下の「下落合及長崎一部案内図」の西部版(地理図案研究所)にみる下落合4丁目。
◆写真中上は、1925年(大正14)1月17日に発行とれた「下落合及長崎一部案内図」の東部版(地理図案研究所)にみる下落合1丁目から下落合4丁目まで。は、1926年(大正15)10月10日に発行された「下落合事情明細図」(東京市町事情研究所)にみる下落合1丁目の表記。同地図には、すでに「丁目」境界は描かれていない。
◆写真中下:「下落合事情明細図」にみる下落合2丁目から4丁目までで、この時点では葛ヶ谷の飛び地である(字)御霊下はいまだ下落合5丁目になっていない。
◆写真下は、1929年(昭和4)に発行された「東京府豊多摩郡落合町全図」(川流堂)。落合地域の字名のエリアが、赤い破線で明確化されている。は、1935年(昭和10)に作成された「淀橋区詳細図」(東京地形社)にみる下落合1丁目から5丁目まで。
おまけ
 もうひとつ、面白い地図が残されている。1927年(昭和2)に作成された、西武線の高田馬場仮駅Click!が描きこまれている「淀橋区其ノ三/第六図落合町」Click!だ。これは地元の地図ではなく、東京府が1932年(昭和7)の35区制Click!を見こして作成した計画図で、そこにはのちの「丁目」表記がすでに赤囲みとともに書きこまれている。同図の存在により、かなり早い時期から落合地域の「丁目」付加が、行政側でも検討されていた様子がうかがえる。
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