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クールなのに落ち着かない詩人・小野十三郎。 [気になる下落合]

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 小野十三郎Click!は東京へきて以来、住居を転々と変えているので研究者でもすべてを追いきれていないようだ。ハッキリしているのは、1920年(大正9)に大阪から東京へやってきたばかりの下宿と、1930年(昭和5)に結婚して家庭をもってからだ。また、1933年(昭和8)に大阪に帰ってからの住所は、すべて判明しているらしい。
 小野十三郎は、大阪の裕福な大型生花店(のち私立銀行)の家に生まれ、1920年(大正9)に天王寺中学校を卒業すると、東京にやってきて代々幡町代々木の下宿に住んでいる。すぐに本郷区白山に下宿を変えているのは、近くにある大学受験のためだろう。翌1921年(大正10)に東洋大学へ入学するが、約8ヶ月で退学している。このあと、しばらくは本郷区内を転々とし、親からの仕送りでそれほど困らない生活をしていたようだ。
 おそらく、この制約のない「高等遊民」的な時代に、白山にあった松岡虎王麿が経営する南天堂書房(1Fは書店で2Fが喫茶店&レストラン)に通いつづけ、多くのタダイストや詩人、アナキストたちと交流していると思われる。萩原恭次郎Click!壺井繁治Click!岡本潤Click!、川崎長太郎らとも南天堂で知りあっている可能性が高い。彼らが1923年(大正12)1月に創刊した詩誌「赤と黒」へ、小野十三郎は関東大震災Click!をはさみ1924年(大正13)6月の「号外」(実質終刊号)にのみ参加している。
 関東大震災のドサクサにまぎれ、憲兵隊に虐殺された大杉栄Click!の本を愛読するようになったのもこのころのことだ。余談だが、ドサクサにまぎれて政府に異を唱えたり体制に反対する人物を虐殺するのは、現代のミャンマー軍政から聞こえてくる情報に近似しており、まるで歴史の焼きなおしを見ているようだ。小野十三郎は同年11月、さらにアナキズム色を強めた詩誌「ダムダム」の創刊に参画するが、創刊号のみで終わっている。
 また、同年7月に大阪の父親が死去したために送金が途絶え、以降、小野十三郎は東京市の内外にある安価な借家をを転々と移り住むようになった。ほとんど住所不定に等しく、およそ日暮里や麻布区、杉並町馬橋、代々幡町代々木、落合町などに住んだことはわかっているが、あまりに転居が頻繁だったため具体的な住所は不明のままらしい。この中で、秋山清Click!の証言から、下落合での住所のひとつはハッキリしている。ただし、これも“落合時代”の一端かもしれず、ほかにもダダイストやアナキストClick!たち多く居住していた上落合や、葛ヶ谷(のち西落合)に住んでいたことがあったかもしれない。
 ヤギClick!を飼いながら、秋山清自身も住んでいた下落合1379番地(のち1373番地)の家、というか箱根土地Click!が1922年(大正11)以来開発しつづけている目白文化村Click!の、第一文化村にあったテニスコートのクラブハウスClick!(管理棟:わずか2室しかなかった)の様子を、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』より、少し長いが引用してみよう。なお、秋山清もまたこの家だけでなく、落合地域を何度か転居しており、すべての住所が判明しているわけではない。
  
 (秋山清が)下落合に住んだのは一九二九年(昭和四)の秋からで、その頃はまだ高田馬場(駅)までの西武新宿線に近いところだった。そのはじめが『黒色戦線』の編集会議に出席した時で、以後国電の東中野駅と西武線の中井、新井薬師前駅を結ぶ地域のあちらこちらと移っての借家住居は、数えてみれば五十年以上に及ぶ。(中略) 今は東京都新宿区となっているが落合という地名は、上と下とに分れ、面白いことに下落合の方が上落合より土地が高く、国電の目白駅付近から西武電車の下落合、中井の二駅を過ぎるまで低い丘がつづき、下落合四丁目は中井駅から北に坂を登り、その当時はまだ物めずらしい土地会社が、その丘陵を拓いて住宅地としてそこを文化村と呼んだが、落合ではなく、上に目白を冠せて目白の文化村と呼んでいた。さすがに敷地をゆったりとって、建物は文化住宅の名で関東大震災後の郊外に建ちはじめた安普請よりは、いくらか良く見えた。その丘のまん中付近に在った小さい家を借り、以後この付近に右往左往する私の生活となった。(カッコ内引用者註)
  
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 秋山清が、文章の前半でも書いているように、小野十三郎もまた同じような時期に、この地域をあちらこちらへ「右往左往」していたひとりなのかもしれない。この目白文化村(第一文化村)の「まん中付近に在った小さい家」が、下落合4丁目1379番地(現・中落合3丁目10番地)のテニスコートに付属した小さなクラブハウス(管理棟)のことだ。
 小野十三郎が、いつごろ落合地域にいたのかは年譜からも、また秋山清の記述からも明確な時期はたどれない。1933年(昭和8)には、東京を離れ大阪へ帰郷しているので、大正末から1930年(昭和5)7月に結婚し、住所がハッキリ判明している渋谷金王町で暮らすようになるまでの、この5年間のどこかで下落合に短期間だが住んでいるとみられる。
 1926年(大正15)の8月、小野十三郎はやはり落合地域かその近くに住んでいた草野心平Click!の詩誌「銅羅」に参加、次いで「銅羅」が廃刊になると、詩誌「学校」「歴程」につづけて作品を発表している。また、同年11月には初めての詩集『半分開いた窓』を、太平洋詩人協会から自費出版している。同書の奥付から、このときの住所は杉並町馬橋355番地だったのがわかる。
 『半分開いた窓』を読むと、当時のダダClick!マヴォClick!、あるいはアナキズムに傾倒していた詩人たちの激情的あるいは爆発的な作品に比べると、驚くほど冷静で“静謐感”さえ漂っているような感触をおぼえる。内面がクールに抑えられ、一歩ひいて対象を細かく観察するような眼差しは、「否定せよ!」「解体せよ!」「対峙せよ!」などと叫んでいるような、同時代の打倒・詩壇(近代的抒情詩)とは明らかに異質な存在だ。そこに、小野十三郎ならではのオリジナリティがあり、同じ視座を揺るがすことなく保ちつづけたまま、1988年(昭和63)に93歳で没するまで詩作をつづけられたゆえんだろうか。
 小野十三郎の詩作について、1979年(昭和54)出版の『日本の詩・第13巻/萩原恭次郎・小野十三郎』(集英社)収録の、秋山清『変革とニヒリズム』が端的に表現している。
  
 世界戦争の終結と大震災がかさなった日本でのすべての価値転換――国家、階級、人種、宗教、生死、生活、文化、このどれにも価値判断の大きな変化が起らざるを得なかった時、若者らがニヒルとなりダダとなってめくら滅法な否定、このはげしさがかつて無かった激烈さの時期に、小野十三郎の詩的出発は遭遇したが、その流行に追随するのではなく、あくまで自己を含めて周辺に渦巻く疾風怒濤を客観的に捉えようとしたところに、彼の詩の出発の個性があった。
  
 この詩作に対する基本姿勢は、戦前戦後を通じて終生変わらなかった。「右顧左眄」して自我をふらつかせた他の詩人たちに比べ、小野十三郎が死ぬまで詩の手法や、その背景となる視座を一貫させたのは「見上げたものである」と秋山清は書いている。
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 1927年(昭和2)1月、小野十三郎は「文芸解放」の同人になり、毎号に作品を掲載している。草野心平から借りて読んだ、米国詩人のC.サンドバーク『シカゴ詩集』に影響を受けたのもこのころのことだ。1931年(昭和6)2月に、秋山清らと詩誌「弾道」を創刊し、7月には熊谷寿枝子と結婚している。「弾道」は、翌1932年(昭和7)5月まで7号を発行している。また、結婚と同時に先述した渋谷金王町で暮らすことになった。
 「弾道」の刊行と同時に、小野十三郎は萩原恭次郎と草野心平との協同翻訳で、弾道社から『アメリカ・プロレタリヤ詩集』を出版している。翌1932年(昭和7)6月、アナキズム文化運動の全国組織「解放文化連盟」を秋山清らとともに結成し、機関誌「解放文化」を創刊した。同誌は、翌1933年(昭和8)6月に廃刊となるが、その廃刊前に小野十三郎は東京に見きりをつけ、大阪へと帰郷してしまう。
 以上のような経緯の小野十三郎だが、落合地域にもっとも接近したのは1927年(昭和2)から1929年(昭和4)あたりまでが可能性の高い時期だろうか。もう一度、小野十三郎や秋山清、萩原恭次郎、戸田達雄Click!らが住んだ目白文化村の「小さい家」について、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』から引用してみよう。
  
 一九二九年(昭和四)の秋には所謂目白の文化村の真中というべきところに独りで住んでいた。そこが下落合の四丁目一三七九番地、西武新宿線の中井駅から北へ上っていったあたりで、その年の初めから十二月いっぱい、中井駅に近い妙正寺川という川を渡るとすぐ『黒色戦線』の発行所があった。この雑誌は『戦旗』や『文芸戦線』がマルクス主義を背負って、文学の世界を揺りうごかしつつあった時期に、アナキズムの旗を立てたものとして記憶されるが、前に述べた、純正アナキズムとサンジカリズム派との対立のなかでは、一年の命しかなかった。その同人会を解散するときまって、外に出て、中井駅前の坂道を登って家にかえると暗い家かげから二人の男が出て来て、早稲田警察署に連れて行かれたが……(後略)
  
 秋山清は、目白文化村の「小さい家」を近くの雑貨屋で紹介されており、小野十三郎つながりで借りているわけではない。それ以前、1925年(大正14)から翌年の1月まで借りていた萩原恭次郎あたりのつてで、小野十三郎は文化村の「小さい家」を知ったのだろうか。
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 大阪へ帰ってからの小野十三郎は、変わらずに詩作をつづけていた。戦時中の1943年(昭和18)2月には、戦争からは“遠い”ところで詩集『風景詩抄』を湯川弘文社より出版している。また、同年夏には勤労動員され、藤永田造船所の労務部で敗戦の日まで勤務している。彼が詩作を本格的に再開するのは、1946年(昭和21)4月に秋山清や岡本潤、金子光晴らと詩誌「コスモス」を創刊してからのことだ。その直後に、関西詩人協会を結成している。

◆写真上:管理棟が建っていた、第一文化村のテニスコート北端の現状。
◆写真中上は、小野十三郎のプロフィール2葉。は、1936年(昭和11)の空中写真にみるテニスコート跡。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同跡。
◆写真中下は、1926年(大正15)に自費出版された小野十三郎『半分開いた窓』の表紙()と奥付()。は、1925年(大正14)に出版された萩原恭次郎『死刑宣告』(長隆舎書店)の中面。は、小野十三郎『半分開いた窓』の中面。萩原恭次郎の表現が激情的かつ扇動的なのに対し、小野十三郎がいかに“静寂”な表現なのかがわかる比較。
◆写真下は、詩誌「弾道」でいっしょだった草野心平()と萩原恭次郎()。中左は、戦時中の1943年(昭和18)に出版された小野十三郎『風景詩抄』(湯川弘文社)。中右は、戦後の出発点となった1946年(昭和21)9月発行の詩誌「コスモス」第3号。は、1967年(昭和42)ごろに撮影された左から右へ秋山清、岡本潤、小野十三郎。

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