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芸術革命から革命芸術への萩原恭次郎。 [気になる下落合]

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 萩原恭次郎が、下落合1379番地にあった第一文化村Click!テニスコートClick!に建つクラブハウス(管理棟)を、誰から紹介されたのかは不明だ。この家に萩原恭次郎が住んでいると、ほどなく戸田達雄Click!が転がりこみ、萩原や戸田が出たあとは秋山清Click!によれば一時期はときどき小野十三郎Click!も居住していたらしい。そして、そのあとは秋山清Click!がヤギを飼いつつ、ヤギ牧場Click!の構想を抱きながら暮らしていた。
 上記のネームから、すべてが詩人つながりで居住しており、彼らはダダClick!(あるいはマヴォClick!)、未来派、アナキズムといった共通項でくくれそうな一派であることがわかる。(ただし、秋山清は第二文化村沿いの雑貨屋で紹介されたと書いている) したがって萩原恭次郎も、誰か親しい知人(=詩人)を通じて、目白文化村のテニスコートにあった家賃5~8円/月のクラブハウスを紹介されたのかもしれない。ひょっとすると、1918年(大正7)より上落合581番地に住み、萩原が前橋時代に兄事していた川路柳虹Click!が探してくれた物件だったろうか? 豪華な西洋館群や、大屋敷に囲まれたテニスコートにポツンとあるわずか2室の小さな管理棟は、逆に周囲からはことさら目立っていただろう。
 萩原恭次郎Click!が、故郷の前橋市上石倉から東京へとやってきたのは、1922年(大正11)9月のことだ。当初は独立した借家に住まず、駒込千駄木町にあった下宿「松寿館」に逗留している。1924年(大正13)3月には、結婚とほぼ同時に西ヶ原町滝野川に家を借りて住みはじめ、同年7月には「マヴォ」に同人として参加している。そして、1925年(大正14)4月に目白文化村に3つあったテニスコートのうち、第一文化村の下落合1379番地に建っていたクラブハウス(管理棟とみられる)に入居している。あるいは、家賃が安い同棟を紹介してくれたのは、上落合に多く住んでいた「マヴォ」仲間のひとりだったろうか。彼の代表作である『死刑宣告』は、同年10月にこの管理棟で仕上げられている。
 故郷・前橋時代から、萩原恭次郎は川路柳虹が主宰していた「現代詩歌」、つづいて「炬火」などに作品を発表しており、詩人としては早くからその名が知られていた。東京へとやってくる前後には、東京日日新聞に『街上の歓声』を掲載、「種蒔く人」に『白き指よ強き瞳よ』を発表するなど詩人としては無名ではなく、比較的めぐまれたスタートを切っている。また、同時期に小川未明Click!柳瀬正夢Click!、宮地嘉六、壺井繁治Click!、新島栄治などと知りあっている。ちなみに、小説家の宮地嘉六も昭和初期から戦前まで、葛ヶ谷(現・西落合)および下落合に居住している。
 萩原恭次郎が、本格的に活動を開始するのは関東大震災Click!の年、1923年(大正)1月に詩誌「赤と黒」を創刊してからだろう。メンバーは萩原をはじめ、岡本潤Click!や川崎長太郎、壺井繁治、林政雄、小野十三郎Click!たちだった。詩をめぐる当時の文学状況を、1979年(昭和54)に出版された『日本の詩・第13巻/萩原恭次郎・小野十三郎』(集英社)収録の、秋山清『変革とニヒリズム―萩原恭次郎と小野十三郎について―』から引用してみよう。
  
 (前略) デモクラシーを持込んだ民衆詩派が、社会情勢をとらえて詩壇を風靡するかと見えたが、逆にそこでは詩が失われようとした。民衆詩派と<萩原>朔太郎らの近代的な抒情詩が詩壇を形成した時、これらを全否定する形でダダ、あるいは未来派、立体派の詩が大正十年頃から胎動した。高橋新吉(ダダ)、平戸廉吉(未来派)の試みであった。ダダの高橋はすべての芸術的、政治的、社会的なるものを否定するかの如き活動を始め、俄然として存在し、それはたしかに同じくダダといわれた『赤と黒』に魁<さきがけ>たが、それ以後の発展がなかった。平戸は早く死んで僅かな試みと宣言に終った。これらアバンギャルドの徒は未知のものに向けての出発であるから、一人の詩人が生涯のはじめにダダを宣言したとしても、やがて芸術派となり、反動となり、宗教へ、というが如き変貌は宿命的でさえある。/ダダの先進者高橋が文壇詩壇の外側にジャーナリズム的に存在したことは驚くに当らない。『赤と黒』もまた同断である。(< >内引用者註)
  
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 このあと、萩原恭次郎をはじめ「赤と黒」の同人たちは、次の段階としてアナキズムを標榜した。ただし、ダダが政治や社会に存在するあらゆるものの全否定だったにもかかわらず、バクーニンやクロポトキンClick!など既存のアナキズム思想に傾斜したのは“一歩後退”のようにも見える。そこから、同人たちはさらに革命主義的アナキズム(サンディカリズム)とポルシェヴィズムに分岐(厳密には純粋アナキズムとサンディカリズムの対立もあるが)していく。萩原恭次郎は、前者の思想的な傾向が強かったように見え、彼の死後もその位置づけをめぐっては、両派間で評価の“綱引”きがつづいていたように感じる。
 「赤と黒」が大震災後、1924年(大正13)6月の「号外」号で終刊すると、萩原恭次郎は同年7月に村山知義Click!らの「マヴォ」へ同人として参画、さらに同年11月には詩誌「ダムダム」の創刊に参加している。「ダムダム」の発行は創刊号で終わったが、この時期、萩原恭次郎には息子が誕生している。同年暮れに駒込に転居し、岡本潤と同居して生活費稼ぎのために少年少女向けの小説を書きはじめたが、困窮するばかりでまったく売れなかった。そして、翌1925年(大正14)4月に目白文化村に建っていた、下落合1379番地のテニスコート管理棟に転居してくる。
 萩原恭次郎の下落合での仕事は、転居直後の6月に東京朝日新聞へ『朝・昼・夜』を発表、つづいて8月には同郷だった萩原朔太郎Click!の『純情小曲集』へ跋文を提供している。この間、萩原恭次郎の初詩集である『死刑宣告』の執筆が、「マヴォ」の仲間たちによる絵画・オブジェの写真版やリノカット(リノリウム版画)による挿画制作とともに進展していただろう。萩原恭次郎が下落合に引っ越してから、ほどなく困窮した戸田達雄が萩原家へ転がりこんだエピソードはすでに記事に書いた。だが、ちよ夫人と子どもを抱える萩原恭次郎も、戸田の境遇とは大差なかったと思われる。
 萩原恭次郎は、『死刑宣告』に全力投球をしていた。その制作過程は、ページごとの活字からデザイン、装丁などすべてに刮目した念入りのものだったろう。同年10月、同詩集は長隆舎書店から出版され、ほぼ同時に九段画廊で出版記念パーティが開かれている。『死刑宣告』の反響を、前掲書の秋山清『変革とニヒリズム』から引用してみよう。
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 そして大正十四年(一九二五)十月に詩集『死刑宣告』を刊行して、大正のアバンギャルドの活動の頂点に立った。この年河井酔茗五十年誕辰祝賀会に築地小劇場で自作詩を朗読し、かねてからの新興芸術の総合性を主張しかつ藤村幸男と称して創作舞踊を発表するなど、はなやかに大正の、大震災後における各種の新興芸術運動の旗手と目された。だが二十七歳にして生活不如意、妻と子をその郷里の実家におくって、自分は前橋在にかえる程に困窮しながら、郷里と東京における新芸術運動に情熱のはけ口を求めつづけた。同時に前衛芸術のための活動はしだいに沈潜し、すでにアナキスト萩原恭次郎として、プロレタリア詩運動に重き存在となった。
  
 萩原恭次郎が下落合で暮らしていた、わずか9ヶ月足らずの間が、彼の人生ではもっとも華やかな時間だったろう。文中にもあるように、彼は詩作だけでなく舞踊や演劇、絵画などにも関与し、『死刑宣告』では一部挿画も手がけている。
 いってみれば、『死刑宣告』は萩原自身のみならず落合地域に数多く参集していた、大正アヴァンギャルドの芸術家たちによる記念碑的な“総がかり作品”であり(尾形亀之助Click!の姿が見えないのはさびしいが)、「ダダ」や「マヴォ」による全否定の終焉、弁証法的に表現するなら否定の否定、すなわちアナキズムにしろポルシェヴィズムにしろ次のフェーズへと移行する直前の、いわば金字塔的な作品といえるだろうか。見方を変えれば、萩原恭次郎は本人が意識するしないにかかわらず、期せずして本作により大正アヴァンギャルドへ「死刑宣告」=引導をわたしたともいえるかもしれない。
 1926年(大正15)1月、萩原はあまりの生活苦から、ちよ夫人と子どもを茨城県湊町にある実家(植田家)へ一時的に帰し、自身も故郷の上石倉へ“避難”している。同年6月、再び東京へやってきた彼は、駒込千駄木町65番地の溝口稠宅に寄宿して、湊町から妻と子を呼びよせている。同年2月に、壺井繁治や岡本潤、小野十三郎らとともにアナキズム文芸雑誌「文芸解放」を創刊すると、同年5月には世田谷町若林へと転居している。同年9月には、詩誌「バリケード」の創刊するなど精力的な創作活動がつづくが、生活の困窮は相変わらずだった。
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 1928年(昭和3)10月、萩原恭次郎は東京生活に見きりをつけ、家族とともに故郷の上石倉へと帰った。群馬県でも彼は鋭意創作をつづけるが、完全な“プロレタリア詩人”にはならなかったように見える。彼の外面ではなく、内面の芸術観では常に「アナ・ボル対立」の矛盾が起きており、東京ではどちらかの旗色を表明せねば許されないような状況だったが、群馬では表現者としての“孤立”が許されるような環境だったのかもしれない。萩原恭次郎は1938年(昭和13)に39歳で急死するが、「芸術革命から革命芸術へ」のちょうど過渡的な位置で孤独に創作をつづけた人、そんな表現がしっくりくるような詩人のように思える。

◆写真上:1920年(大正9)に、前橋で撮影されたとみられる21歳の萩原恭次郎。
◆写真中上上左は、1923年(大正12)5月発刊の「赤と黒」第4号。上右は、1979年(昭和54)に出版された『日本の詩・第13巻/萩原恭次郎・小野十三郎』(集英社)。は、下落合1379番地の第一文化村テニスコート跡の現状。コートの北側にあった管理棟に萩原恭次郎一家や戸田達雄、小野十三郎らが住んでいた。下左は、1925年(大正14)10月に出版された萩原恭次郎『死刑宣告』(長隆舎書店)。下右は、著者のプロフィール。
◆写真中下は、『死刑宣告』で挿画制作を担当したおもに「マヴォ」の仲間たちリスト。は、『死刑宣告』の中面ページで上から下へ萩原恭次郎、柳瀬正夢Click!村山知義Click!、イワノフ・スミヤヴィッチ(住谷磐根Click!)の挿画作品。
◆写真下は、1936年(昭和11)1月に描かれた萩原恭次郎『自画像』。は、長男の年齢から推定して大正末ごろとみられる萩原恭次郎と家族たち。ひょっとすると、背後に写っている建物が第一文化村のテニスコートにあった管理棟の外観かもしれない。

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