SSブログ

高圧線の鉄塔や鉄道を描く今西中通。 [気になる下落合]

今西中通「風景」1935①.jpg
 Pinkichさんよりいただいた、1985年(昭和60)に三彩社から出版された『今西中通画集』(限定500部)をていねいに見ていると、「これは落合風景ではないか?」と思えるような画面がいくつかある。それらは、だいたい今西中通Click!が上落合851番地に住んでいた1930~1934(昭和5~9)の間に制作されたタブローや素描だ。
 以前にもご紹介している、『落合風景』Click!というような明確なタイトルがふられておらず、暫定的につけられたものだろうか、『風景』Click!というようなタイトルの画面にも、落合地域を連想させる光景が拡がっていたりする。今回は、これまでご紹介してこなかった作品を中心に、今西中通の風景画を改めて観察・検証してみたい。まず、1935年(昭和10)に制作された『風景』(冒頭写真)から眺めてみよう。
 この前年、今西中通は上落合851番地(1932年より上落合2丁目851番地)から、すぐ隣りの中野区江古田1丁目81番地へと転居している。だが、井上哲学堂Click!のすぐ北側に位置する転居先から上落合の旧居までは、直線距離で1.4kmほどしか離れていない。江古田1丁目から上高田の耕地整理が終わったバッケが原Click!を突っきり、妙正寺川沿いをぶらぶら歩いてくれば、おそらく15~20分ほどで旧宅界隈にたどり着けただろう。つまり、江古田1丁目の鶏舎を改造した借家に転居後も、上落合に気になる風景モチーフがあって心残りだったとすれば、いつでも画道具を下げ徒歩ですぐにやってこられたわけだ。
 なぜ、1935年(昭和10)1月制作(サインの横に「1・35」の記載がある)の『風景』が気になるのかといえば、そこに西武電鉄Click!の線路沿いに並んで建てられていた、東京電燈谷村線Click!高圧線鉄塔Click!とみられる建造物が描かれているからだ。いまだ同線が敷設されていなかった大正期、この鉄塔は通常の尖塔型をしており、その姿は上落合725番地に住んでいた林武Click!『下落合風景(仮)』Click!(1924年)に記録している。だが、西武線が敷設されるのとほぼ同時期に、これらの鉄塔は沼袋駅あたりから東京電燈目白変電所Click!へと向かう下落合駅の西武線変電所Click!あたりまで、線路をまたぐ「円」の字のような形状の鉄塔に建てなおされている。
 の画面左上に黒々と描かれているのが、東京電燈谷村線の高圧線が張られた鉄塔だが、この画面全体が実景を写したというよりも、さまざまな建築物を“構成”したコラージュ風の作品のように見えるので、おそらく場所の特定は不可能だろう。同じフォービズムの画家でも、佐伯祐三Click!は非常に実景を尊重したリアルな描き方を、「下落合風景」シリーズClick!では一貫して採用しているので場所の特定は比較的容易だが、今西中通は“構成”に加えてより“暴れる”筆致で情景を捉えているため、ピンポイントで描画位置を特定するのが非常にむずかしい。高圧線鉄塔が描かれた『風景』は、上落合の各所で写生してまわったスケッチブックに残る風景のコラージュなのかもしれない。
 同画集の巻末で、林武は「今西君を憶う」(1948年)と題してこんなことを書いている。
  
 宵闇が迫る街はずれ、鉄道線路が冷く走っている。赤と青のシグナルが神秘なまでに蒼い薄闇の中に怪しく光って居る。赤と青の電気以外は蒼黒く混沌とした灰色で、タッチが惨憺と画面をのたうち廻っていた。/青年今西君は此の頃から人知れず大きな悩みを抱いていたであろう。宵闇の赤・青のシグナルこそ今西君の人生の未解決に対するシンボルであったであろう。彼は考えては考えあぐんで幾度か街のさすらいに、この街はずれの線路にさしかかってはシグナルの先に印象づけられたであろう。/或いは今一歩進んでこの冷い鉄路に頬をあてて見たかも知れない。今西君の仕事はその後色々に進展したが、彼は他の作家の様に器用には進まなかった。
  
林武「下落合風景(仮)」1924頃.jpg
高圧線鉄塔妙正寺川1938.jpg
高圧線中井駅.JPG
 林武が書いた上記の画面描写が、の『風景』(1935年)と同一のものではないが、翌1931年(昭和6)に制作されたタブローには『シグナル』()と題する作品がある。かつて上落合で暮らしていた林武は、その思い出のなかで「街はずれ」の情景がリアルに浮かんでいたのかもしれない。の『シグナル』にも、高圧線の鉄塔らしきものが描かれ、シグナルはその傍らに建っている。複線と思われる線路の向こうには、倉庫か商店、あるいは住宅街が拡がっている、当時の上落合界隈にはありがちな風情だ。
 もうひとつ、1931年(昭和6)の上落合時代に描いた『線路風景』()と題された素描作品も残っている。複線の軌道なのか、これから電車がホームへと入る手前の分岐なのか、線路が手前に2本描かれていて、そこを横断する踏切を描いた情景のようだ。踏切には、トラック(左端)や連なる荷車のようなものが、まるで子どもの絵のようにプリミティブに描かれており、周囲にはやはり高圧線の鉄塔や電柱、背景には住宅街などが描かれている。視点がかなり高いので、駅の階段か跨線橋からでも眺めた風景だろうか。
 このころの画家について、林武と同様に独立美術協会の会員のひとり高畠達四郎が思い出を語っている。同画集に収録された、「今西中通君の事」から引用してみよう。
  
 独立美術協会の初期の会員は、今こそ皆年とっておとなしくなっているが、会合すれば会の事や絵画論で喧嘩が始まり、勇ましいものであった。初期の審査は非常に厳しく、殴り合いの見られるのも珍しくなかった。これを見ていた記者の諸氏は驚いたと今でも語っているが、そうした雰囲気の中で今西や、森有材、熊谷登久平等は育っていった。/その頃擡頭したシュールレアリズムも会の中で尚だんだん盛んになり、会員福沢氏やこの派を守る若い連中がなかなか良い絵を画いていた。今西は何故かシュールを否定していた。今西の見た新興絵画の一部には美の中に入らない物があったにちがいない。独立もシュールが多くなった或る時、それに憤慨した今西や熊谷が、我々が会合していた「そば屋」の二階に酒気を帯びて大声をあげ跳び上って来た。皆びっくりして外に逃げたのを覚えている。
  
今西中通「シグナル」1931②.jpg
今西中通「線路風景」1931頃③.jpg
高圧線鉄塔下落合駅.jpg
 高畠達四郎が証言しているのは、今西中通が上落合で暮らしていた最後の年、1934年(昭和9)に起きた「なぐりこみ事件」のことだ。当時、シュルレアリズムに否定的な今西中通や熊谷登久平Click!たち「独立展改革論者」が、蕎麦屋の2階座敷で開かれていた独立美術協会の幹部会へ、かなり酔っぱらいながら乱入して暴れまわった出来事だ。それが影響していたのかどうかは不明だが、同年に開催された独立展では会員作品のみが展示されただけで、一般公募からの入選作は展示されていない。
 もうひとつ、“乗りもの”ではないが、1930~1932年(昭和5~7)ごろ今西中通の上落合時代に描かれた、『牛』()と題するタブローがあるのだが、これがどうしても牛には見えない。どう見ても馬の体型・骨格であり、上落合周辺に残っていた畑地の農耕馬か荷運び馬を描いたもののように見える。牛と馬の骨格はまったく異なっているので、今西のフォーブの筆でもここまでのデフォルマシオンはありえないのではないか。
 タイトルの『牛』だが、「午(うま)」=Click!と書かれていたものが、いつの間にかタテ棒が上へ突き抜けてしまい、「牛」に化けてしまったのではないだろうか。同時期の1931~1933年(昭和6~8)ごろに描かれた、今西中通の作品に『牛と車』()があるが、こちらは確かに牛の体型・骨格を写しているのが明らかだ。しかし、の『牛』はタイトル文字の読みちがいか、あるいはの作品が残っていたため、それに引きずられて付与された暫定的なタイトルのひとつではないだろうか。
 上落合851番地のあたりは、区画整理が行われ宅地開発が進んでいたとはいえ、いまだ農村の面影が色濃く残っていただろう。田畑を耕す家畜や、街道筋をいく荷運びの牛馬がそれほどめずらしくはなかった時代だ。今西中通のアトリエから南西へ150mほど歩けば、キングミルクClick!の原乳を採取していた牧成社牧場Click!があり、数多くの乳牛が飼われていた。もっとも、当時の牧場の乳牛はホルスタインClick!が主体であり、今西中通がの『牛と車』で描く牛は、より大型の品種である荷運び用の牛だろう。
今西中通「牛」1930-32④.jpg
小川薫アルバム牛.jpg
今西中通「牛と車」1931-33⑤.jpg
 さて、今西中通は代々幡町代々木山谷160番地にあった、1930年協会研究所Click!に通っていた時代がある。1928年(昭和3)から、上落合851番地へと転居してくる直前までの時期で、同研究所では林武Click!や死去寸前の前田寛治Click!などとも交流があったとみられる。当時の様子や、上落合のアトリエ内の様子などを、また機会があればご紹介したい。

◆写真上:上落合から転居後の、江古田時代に制作された今西中通『風景』()。
◆写真中上は、1924年(昭和13)に妙正寺川沿いに建つ東京電燈谷村線の高圧線鉄塔を描いた林武『下落合風景(仮)』。は、1938年(昭和13)の妙正寺川の氾濫時に撮影された同鉄塔。は、目白変電所の廃止まで残っていた中井駅の鉄塔。
◆写真中下は、1931年(昭和6)の上落合時代に制作された今西中通『シグナル』()。は、1931年(昭和6)ごろに制作された同『線路風景』()。は、西武線の線路を跨ぎ下落合駅まで延々とつづいていた「円」字型の高圧線鉄塔群。
◆写真下は、1930~1932年(昭和5~7)ごろに制作された今西中通『牛』()。どうしても牛の体型・骨格には見えず、わたしには午(馬)のように見えてしまうのだが……。は、昭和初期には落合地域でもよく見られた荷運び用の牛(提供:小川薫様Click!) は、同じく1931~1933年(昭和6~8)の上落合時代に制作された同『牛と車』()。
おまけ
小野田製油所Click!が面する目白通り(葛ヶ谷街道Click!)に停車する、ごま油を運ぶ大きな牛と頑丈な荷車(写真上)。目白通りに歩道が設置された、昭和初期ごろの撮影とみられる。また、大正末に撮影された荷馬車(写真下)で、当時は牛馬による輸送がめずらしくなかった。
荷運び牛.jpg
日本心霊荷馬車.jpg

読んだ!(21)  コメント(2) 
共通テーマ:地域

読んだ! 21

コメント 2

pinkich

papaさん 今西中通の記事ありがとうございました。今西中通作品と落合地域との関係の深さを解明した画期的な記事かと思います。落合地域を熟知したpapaさんだからできた偉業だと思います。ありがとうございました。
by pinkich (2023-01-07 13:56) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
まだまだ、落合地域のことを熟知しているとはいえないので、中途半端な記事も多いと思いますが、次は上落合851番地の今西中通アトリエを絞りこんでみたいと思います。
by ChinchikoPapa (2023-01-07 17:03) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。