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念仏講のお祈り先はご先祖様と太陽神。 [気になる下落合]

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 戦前、葛ヶ谷(現・西落合)で毎月行われていた念仏講の様子が興味深い。付近の住民が集まって念仏を唱える習慣だが、つまるところ地域のコミュニティ集会のようなもので、みんなで食事をしながら情報交換をする社交場のような趣きだった。
 1931年(昭和6)に恋愛のすえ、落合町葛ヶ谷に嫁いできた貫井冨美子Click!という方の証言には、毎月16日になると各家庭の持ちまわりで念仏講が開かれていた様子が語られている。葛ヶ谷地域の念仏講は、エリアによって「東組」「中組」「西組」と3つに分かれており、彼女の家は「中組」に所属していた。念仏講というと、そのままの解釈では仏教信仰のように感じるが、祈願していた対象は先祖霊であり太陽神だったので、江戸期における神仏習合の習慣がそのまま根づきつづいていたのだろう。
 ここで祈られていた太陽神が、大地に恵みをもたらし江戸期には先祖霊とも習合していた田神Click!的な存在なのか、明治以降にことさら賞揚されるようになった伊勢のアマテラスなのかはハッキリしないが、「南無阿弥陀佛」と数珠を連ねて祈るその先にいたのは、農業をつかさどるアニミズム的な概念としての原初的な太陽神だったようにも感じる。そして、豊穣を約束する太陽神に重ねて、農業の神である田神(的なもの)が意識され、それと強く結びついていた先祖霊への崇敬ではなかったろうか。
 これらの風習を、まったく知らなかった麹町三番町の出身で乃手Click!育ちの貫井冨美子という方は、神田っ子のばあやに「村の風習」をいろいろ教えられて、少しずつ葛ヶ谷の生活に慣れていったのだろう。もっとも、神田今川橋で薬屋の内儀だったばあや自身も、新聞広告に応募して葛ヶ谷の旧家へ働きにきた当座は、さまざまな「村の風習」に面食らっていたにちがいない。息子も大きくなり、夫と死に別れたばあやは、まだ若かったので働き口を探したのだろう。「五〇か六〇位のきれいな人で、着物をたくさん持っていました」というから、かなり裕福な暮らしをしていたらしい。頻繁に芝居を観に出かけるのは、神田時代からの習慣だったのだろう。
 葛ヶ谷地域では、毎月16日の夕方になると、大きな平べったい鉦(かね・しょう)が隣り近所に鳴り響き、今月はどこの家で念仏講が開かれるのかを知らせたらしい。この鉦は、月ごとに変わる念仏講の当番の家にまわってきた。その念仏講の様子を、1996年(平成8)に新宿区地域女性史編纂委員会から刊行された『新宿に生きた女性たちⅢ』収録の、貫井冨美子「西落合・葛ヶ谷村界わいの暮らし」から引用してみよう。
  
 お念佛講っていうのは、ただご先祖様を拝んでたんです。特別に信仰っていうのはなくて、ご先祖様、お日様ですわね。みんなで大きな数珠をまわしながら、南無阿弥陀佛からいろいろのお経をあげてたんですの。/お念佛を唱えてからその後に、何か作ったご馳走をゆっくりと食べて、そこで世間話をするっていうのが皆さんの楽しみだったですね。「今日は何のご馳走が出てくるかな」っていう男の人もいましたよ。大概はお煮ものみたいな、がんもどきみたいなものでしたね。御飯は食べないで来なすったでしょうね、後で食べるから。会費なんかはございません、みんな回り持ちですからね。主人も会社から早く帰ってきて出ていました。それがここの社交だったんですの。大事なおつきあいですのよ。そのお念佛講も戦争が始まる前には終わっちゃいました。
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 食事については、「お煮ものみたいな、がんもどきみたいなもの」以外にどのようなメニューがあったのか、興味があるのでもう少し聞きたかった。葛ヶ谷地域の正月雑煮Click!については、男がつくることも含めて以前に書いているけれど、魚屋の棒手振(ぼてふり)がまわってきたというから、集まりには魚料理なども出たのではないか。
 葛ヶ谷では念仏講だけでなく、正月の1月13日になると葛ヶ谷御霊社Click!御備射Click!が開かれ、また同社の祭りも毎年秋には開催されていた。また、秋祭りが終ったあとは、有志が集まり新井薬師への参詣も行われていたらしい。これらの情景は、昭和に入ってからのハイカラな西洋館や大きな和洋折衷館の建ち並んでいた、西落合のイメージが形成されているわたしには、古い時代の西落合(葛ヶ谷)を記録しためずらしい証言の数々だ。
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 貫井家の近所には、さまざまな店舗が並んでいたようだ。彼女へのインタビュー時の住所が、西落合3丁目となっているので、これらの店は目白通り沿いあるいは葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)沿いに開店していたものだろう。小学4年生になる、夫の亡くなった姉の息子におこづかいをあげると、近くの米屋のお婆さんがやっていた通称“米イッチャン”という駄菓子屋から、ばあやといっしょに2銭の水飴を買って帰ったらしい。
 この葛ヶ谷にあった米屋や、先の記事に登場ししている椎名町の交番並びにあった魚屋「ひのや」も、1925年(大正14)に作成された「下落合及長崎一部案内図」Click!(通称「出前地図」)の西部版Click!にも、また1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」または「長崎町西部事情明細図」にも掲載されておらず発見できない。もちろん、“米イッチャン”の駄菓子屋の所在も不明だ。
 貫井家は、もともとは古くからつづく大きな茅葺き屋根の屋敷だったらしいが、大正初期に火事で焼けてしまい、その後は当時の一般的な日本家屋に建てなおしていたようだ。耕地整理前だったせいか、いまだガスは引けておらず炊事や風呂は薪炭でまかなっていた。また、水道については特に触れていないが、目の前に野方配水塔Click!があることから彼女が結婚した当時から、すでに荒玉水道が引けていたのだろう。家内には広い板の間が残っていたというが、彼女は茶畑から収穫したお茶の葉を、加工か製造をする際の作業部屋ではないかと想像している。
 自動車の仕事をする多忙な彼女の夫が、1936年(昭和11)に米国へ技術研究のために出張したあと、改めて自宅を近代的な住宅に建て直している。今度は畳の日本間を全廃し、すべてテーブルとイスの洋風生活をするようになった。夫は早大理工科を出ているので、おそらく自動車の設計業務にたずさわっていたのではないかと思われるが、武蔵野鉄道Click!東長崎駅Click!のすぐ北側、葛ヶ谷の近くにあった長崎町3922番地のダット自動車製造Click!の工場にでも勤務していたのかもしれない。
 やがて、貫井家には子どもたちが生まれるのだが、つづけて同書より引用してみよう。
  
 私たちが結婚いたしましたときに椎名町にあった“桃太郎産婆”っていう方が「お産のときには自分を使ってください」って主人に頼んだそうですけど「お産は大事だから」って主人も申しまして、七人の子どもみんな慶応病院でいたしました。検診に行くときは目白まで人力車で、お産のときは円タクで前もって入院してました。二〇日くらい入ってたかしら。安産でお乳もよく出ましたの。私が病気だったときも慶応病院だったんですけど、先生が「あなたはもうすっかりいいから、結婚すればもっと丈夫になる」っておっしゃいました。本当にその通りでしたね。この辺りは空気もよかったんでしょうしね。
  
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 これまで何度か記事に書いてきたが、ここでいう「椎名町」Click!とは武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の椎名町駅Click!のことではなく、江戸期の清戸道Click!(練馬街道とも:現・目白通り)をはさんで長崎村と下落合村の双方に形成された、明治以降はにぎやかな商店街を中心とする街道筋の街並みClick!のことだ。
 文中の「桃太郎産婆」も、目白通り沿いかそれに近い位置で開業していた産婆なのだろうが、先の「出前地図」や「事業明細図」には多数の産婆宅が採取されており、どれが「桃太郎」なのかわからない。1930年(昭和5)現在、長崎町には51名の産婆(同年の『長崎町政概要』Click!より)がいたというから、その特定は困難だ。また、西落合に近い下落合側の街並みにも、拡大する住宅街に比例して産婆(助産婦)業Click!は多く開業している。
 昭和10年代でさえ、西落合から目白駅までは俥(じんりき)で出かけたというのがめずらしい記録だ。もっとも、目白駅には戦後まで俥屋の島さんClick!がいたけれど、それは駅に着いた客を乗せて走る、あくまでも駅を基点にした近隣交通であって、西落合のような住宅街から俥が通うのはまれな事例だったろう。当時の西落合には住民の便宜を考えて、いまだ明治期あたりからの俥屋が残っていたか、あるいは貫井家で契約していた専属の俥屋でもあったものだろうか。
 さて、この貫井邸の位置だが、彼女が貫井家に嫁いで7年目、1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、西落合1丁目132番地(現・西落合3丁目)に貫井邸が採取されている。ちょうど“妙見山”Click!の南斜面に位置し葛ヶ谷街道も近い、陽当たりのいい広い敷地をもった住宅だ。夫が米国から帰ったあとの時代なので、おそらく大正初期のだだっ広くて古くなった屋敷を解体して、建てなおしたばかりの新邸だろう。
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 戦時中は、葛ヶ谷御霊社境内に集まっては千人針をこしらえたというが、防空演習では貫井家の物置にハシゴを架けて水をかけたらしい。その物置とは、「火保図」に採取された貫井邸の南西に見えている、葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)に面したやや小さめな建物だろうか。担架に乗せて運ばれる病人の役には、「裏の天理教のおばあちゃん」がなったということなので、貫井邸の北側にあった小林家のことなのかもしれない。

◆写真上:戦災をまぬがれた、西落合(旧・葛ヶ谷)に建つ昭和初期の大きな和館。以下のモノクロ写真は、新潟の念仏講写真1点を除き2003年(平成15)にコミュニティ「おちあいあれこれ」が編纂した『おちあいよろず写真館』より。
◆写真中上は、1984年(昭和59)に新潟市で撮影された念仏講。は、昭和初期に撮影された葛ヶ谷御霊社の祭礼。葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)をゆく同社の神輿がとらえられている。は、葛ヶ谷御霊社境内で撮影された祭礼の記念写真。
◆写真中下は、同社祭礼における神輿連の記念写真。は、「葛ヶ谷ばやし」を継承した葛ヶ谷睦会記念写真(戦前)。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる貫井邸。斜面擁壁の南側一帯が、葛ヶ谷の旧家だった貫井家の敷地と思われる。
◆写真下は、“妙見山”の山頂から南の貫井家方面を眺める。は、昭和初期に築かれたとみられる大規模な大谷石の擁壁。は、右手の擁壁下の一帯が貫井邸跡。

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